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『性教育の暴走』を読む 〈その1〉

2007年12月12日 21時47分47秒 | セクシュアリティ雑感
 性を子どもたちにどういうタイミングで、どのように教えるのが妥当なのか?って難しい。個人的な経験や信仰や信念があからさまに対立するからなんだろう。イデオロギーの対立っぽくなっちゃうところがどうしてもある。あるイデオロギーを声高に唱えるのも時には必要なのかもしれないが、どうもぼくの性分じゃない。
 一方で客観的にどのような教育が、将来より多くの子どもたちが性によって自分や他人を傷つけないでいられるのかを評価するのも、教育的な実験の様相を示すことになり危険だよね。教育は少なくとも与えている側は、ある程度のコンセンサスの上で「善き事」を教えているという確信を持っていなければならない。また現実的に純潔教育をされて育ったコホートと、包括的性教育をされて育ったコホートのどちらがより若いうちに性のぬかるみに足を取られる可能性が低いのか? これを追跡調査するのは容易ではないし、その他の社会環境をそろえるのも難しいため、実証の積み重ねから議論を起こすのも難しい。
 ただ、やっぱりまずは正しい知識をもとに判断をしているかどうかは大切だと思う。そして正しい知識を伝えるのも、大人の役割だ。そこから妥当なイデオロギーを取り出せればいいだろう。

 本書の「第一章・学校では今」を読むと、「まんがで読む・ひとびとの生と性」「おちんちんのえほん」「せっくすのえほん」「おかあさんとみる性の本」などが槍玉にあげられる。ようは性を教えるための本はどれもこれもひどいというものだ。
 私の感覚では自分の体のしくみや、生命を引き継ぐしくみを教えることにはなんの問題もないと思う。現状の教育課程では自分の体についてきちんと教えられていない。どうして足は伸びたり曲がったりするのか、どうして首はまわるのか、どうして目が見えるのか、食べたものはどうやってウンチになるのかなどなどと同列に、どうしておちんちんは時々硬くなるのかだって教えたほうがいいだろう。あとはその時期の問題だけである。この本のレポートによると、多少、フライングはあったようだが、そのこと自体はどうせいつかは話さなければいけないことだ。
 「ペニスは全体を薄い皮膚で覆われています」とか「男子が性的に興奮すると、やわらかいペニスに、ふだんの5倍もの血液が集まってきます」とか「男子が初めて射精をすることを精通といいます」とか体の仕組みとして大切なことだと思う。そしてこれは精通前に知っておくべきことだろう。そうなると当然昔よりも早めに教えておかなければならない。この程度のことで「大人もしらないような性の情報があふれている」というのは、大人もちゃんと教育しなければならないことを示すだけのことだ。
 性教育推進派に落ち度があるのは、小学生でも「自己決定」により性を享受してもよいとしていることなんだろう。それが本当だとすると(原典を読んでいないけど、多分そういうことは言ってるはず)、相手を傷つけたとき、子供ができたときに責任能力のない子どもたちを、さまざまな欲望が渦巻き、性の情報が蔓延するネットや街に遊ばせるのは、それこそ危険地帯に丸腰で送り出すようなものだろう。それは子どもたちにも酷なことだ。

 そもそもなんで性を教えるだの、教えないだの、いつ教えるべきだだので議論をしないといけないのかというのは、生物学的な要因が関わっている。人間は性成熟年齢と社会的成熟年齢が著しく離れた動物なのだ。そして普通、動物なら性成熟をしたら生殖行動を取るようにできている。人間はそこのところは本能が壊れていて、衝動だけが突き上げてきてどういう行動を取ればいいのか学習しないと分からない。学習材料は学校でなくとも、街やネット空間にいくらでも転がっている。友達同士だって重要な情報源だ。本能が壊れているくせに、都合のいい情報だけは勝手に入ってくるので、きちんとした性教育が必要なんだろう。街は正しい知識を教えてくれないし、人は情報を自分に都合よくねじ曲げて頭に入れてしまうものだ。日本では、そういう状況の中ではじめて大規模に性教育を行おうとしたらさまざまな失敗も出てきたということかもしれない。失敗といっても、大人のイデオロギーの対立というだけなら大した失敗ではない。それを恐れていてもコンセンサスには向かわないだろう。逆に失敗を放置してもダメだろう。常に修正をしながら適当なところを模索するほかないのだ。そのときに大切なのは、一義的には自分や相手、さらに性に関する場合には生まれてくる子どもの身を守れるかということなんじゃないだろうか。それからどうやって良いセックスをするかという点に移ってくるが、こちらは放っておいてもいろいろな媒体から人は情報を吸収する。エロビで妄想たくましくした大学生が、精子は相手の顔にかけるもんだと思い込んで、始めてのセックスでそれを実行して嫌われたという、カワイイ話があったりもするが、これだってある種の学習のせいである。そのくらいなら、実践のなかで試行錯誤していただけばいいが、性感染症や妊娠の問題はできる限りトラブルとならないようにしてあげたほうがいい。

 さて医学的な問題としては、性成熟年齢のさらなる低下だろう。思春期早発症も増加傾向だそうだ。栄養状態がよくなってきて体格がよくなったためというのもあるだろうが、夜遅くまで起きているためメラトニンの分泌量が十分ではない、牛に脂肪を付けるために打たれる合成女性ホルモン剤が残留しているなどの要因もあるかもしれない。そちらの調査も推進したほうがいい。

 性を教えることを必要以上に恐れたり、非難するのではなく、正しい知識は学校でしか教えられないのだから教えたほうがよい。それで自分や相手を守ることができる人間を育てていかなければならないのだ。
 その観点からすると、『写真集 交尾』っていうのがあって、動物の交尾が45連発で載っているそうなのだが、さすがにそれは一面的かなという気もするが、動物が取る行動も進化の中で洗練されてきているもので合理的だということを知るきっかけにもなる。著者は人間以外の動物のほうが人間より劣っていると思っているようだけど、とんだ思い上がりだ。生物学が動物を理解すればするほど、彼らの行動は理にかなっているものだ。人間が20世紀までかかって、進化ゲーム理論を生み出してやっと理解できた合理的な行動を、彼らはもう何十万年も続けているのだ。そういう素晴らしさを見せてあげるのも教師の役割だろう。ぼくも高校生にサルの社会構造から見て人間の場合はどうなのかって話とか、性感染症の話も時々するもんね。かなりウケるよ。
 「人には守るべきモラルがあり、公序良俗があり、ルールがある。それが他の動物との違いだ。それをあえて無視して、人間を動物と同じ次元で「性交」へのハードルを下げて、子供たちを誘導しているのではないだろうか」と著者が言うとき、明らかに間違っているのは、おおむね動物のほうが「性交」へのハードルは高いということだ。発情期も決まっているし、場合によっては「性交」のために命を落とすなんてことも珍しいことではない。モラルだの公序良俗だの言わないと社会構造を守れない人間と一緒にされたらかわいそうなのである。

 結局、第一章を読んでみて、著者が挙げる問題点のどこがどの程度問題なのかよく分からない。鳴り物入りで登場する近親相姦の物語絵本も、そうした行為自体がいけないことは間違いないが、文学的表現ゆえそこからどういう風に掘り下げるかは教師の腕にかかっているところである。著者の憶断や偏見を随所に入れながら、「寝た子を起こすな」純潔イデオロギーに合わないからダメという論調では説得力を持たないだろう。大人が子どもたちとどう向き合うのか、より多くの子どもが必要以上に傷つかないように、逆に必要程度には傷つけあいながらお互いに包摂できる視点はどこなのかを議論したいものである。


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