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『友達の詩』 BY 中村中……について

2006年11月09日 03時55分58秒 | 音楽いろいろ
このごろ大ブレーク中ですね。

手をつなぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人は友達くらいがいい

  今日、ヤマザキデイリーストアにいったら「当店でアルバイトをしたい人がいたら、お気軽にお店にスタッフに声をかけてくださいね!」とかいうアナウンスが流れる合間にサビだけリピートしていたわけです。そこでふと思ったんですが、うっかり街角でサビだけ聞こえてくると、めっちゃ純潔教育推進の歌に聞こえますね。
 性教育のなかには、おおまかに「包括的性教育」と「純潔教育」の対立があります。アメリカでも、そういう対立はあるのですが、ブッシュ政権になってから保守化が進んでいますので、純潔教育が幅を利かせています。日本でも、そのあとを追うように自民党の山谷えり子議員らによる「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクト」によって、やはり包括的性教育は劣勢に立たされています。
 大雑把な話をすると、「包括的性教育」とは性に関するさまざまな情報を子どもにあたえて自己選択できる判断力を養おうとする方向で、「純潔教育」はセックスなど子どもがやらなくてもいいことは教えないようにする方向です。HIVの感染拡大も懸念される中、予防啓発に関与している人たちは、純潔教育が広がると、HIVを含む性病に関する知識も含めて教えられなくなってしまうので、時代に逆行していると見ています。一方、アメリカにおける純潔教育は、アメリカ的な原理主義キリスト教を背骨としていますが、日本では宗教的な背景はとくに重要視されず、「包括的性教育」がセックスまで含めて子どもに教えていた実態を明かして、「密室の虐待」と言って扇情的なプロパガンダを繰り広げました。
 そういう保守層にとっては、『友達の詩』は耳に優しい歌詞です。若者が「ブルセラ」だの「援助交際」だのと突っ走っていた時代の「倫理性の欠如」が気に入らない人たちですから、この歌詞のように恋愛のときに抑制された行動選択をすることは好ましい。

 バブル期くらいから女性が性への欲望をちょっと前にはドラマで女性が「エッチしよ」ていうことが、女性の性への解放が良しとされた時代だったわけです。女子高生たちは、ブルセラから援助交際へと走っていく。そういう時代に、こんな歌をリリースしても、「は?」で終わるわけです。 それは古臭い、進歩的ではない、姿勢だというわけです。
 そういう時代を経て、いま、この歌がヒットするのはなぜかと考えてみる。一つには、大きな勢力となってきている保守層の耳に入っても特に問題になりません。そうなれば、プロダクションも安心して売りに出せる。こういうところには表現者のしたたかさというか、プロデューサーの商魂というか、なにかそのようなものを感じますね。
 また一方でLGBTにとってみれば、ノンケに恋をした経験の一度や二度は多くの人が持っていますので、それに重ね合わせて見ることが出来る。そうなれば、LGBTを中心とする、恋愛などについて個人の自由を重視するリベラル層にも訴えます。
 かくして、なんと思想信条はまったく相容れないはずの、両方の層を取り込めることになります。
 たとえば初期のマッキーは「君」を、男と捕らえるか女と捉えるかという多義性によって、ゲイ男子とヘテロ女子両方の支持を取り付けていったわけです。中村中の場合には、さらなる荒業によって、保守、リベラルのどちらも取り込めたわけです。本人は、単に自分の経験から歌を作っているでしょうから、そんな意識はないはずですけれどね。
 
 さて、こうした表現はゲイも応用できるはずです。
 中村中のような才能がある人が、ノンケに恋をするゲイの青年の物語などをつむぐこともできるかもしれない。今という時代において、極めて巧みな「粉飾」をしながらも、リアルな表現をできる人は現れうるのだという意味で、元気付けてくれる人材の登場を祝福しよう。

さて保守オヤジも安心させておいて、若い世代にセクシュアル・マイノリティのメッセージを伝えられるかなぁ?

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