な~んて、記事はもうすでに大勢の方々が書かれていて、時期を逃した感がありますね。ともかく、レズビアン&ゲイ・パレードは盛大に開催され、直前のすさまじい雷雨もギリギリであがって、「オカマパワーすげぇよ!」みたいな雰囲気に後押しされて祝祭的なムード満点で、必要のない夏の暑さは適度に緩和され、素晴らしいものとなったと思います。
いや~、やっぱり日ごろ個々にいろいろ対立したり、何の関係もなくすごしたり、極めてまれに仲がいい人がいたりするという状況を超えて、とりあえずゲイとして集まって、みんな同様に祝祭的な雰囲気を享受するってのは、極めて楽しいものなのです。
つまりレズビアン&ゲイ・パレードには、まずゲイ&レズビアン&その他賛同する皆様の<祝祭>という面があります。日々の暮らしの中では、当たり前のことながらゲイであるから同一の意見を持つわけでもなく、「ゲイという枠組みでなにかを考えるなんてのは、所詮不可能なことなのではないか……」という諦観に、どうも支配されそうになっちゃうわけですが、これだけ楽しいレズビアン&ゲイ・パレードをやるとどこか「仲間」的な意識もわいてきたりもする。こういう祝祭でもって、共同性を確認することはとても大切なことなんですよね。2000年の復活パレードで砂川さんが言った「あんたも嫌い、あんたも嫌い、あんたも嫌い。でも今日は一緒に歩こう」というメッセージの切実さは、ますます大きくなってきているような気がします。
ともかくお祭りであることを認識していないと、訳の分からないパレード批判が出てきてしまう。ノンケだってお神楽を舞ったり、フンドシ一丁でおみこしをかついだり、中には本当に全裸の若者が地区を走るお祭りがあったりする。それぞれに通過儀礼だったり、「ケ」の間に染み付いた穢れを落とす「ハレ」だったりするわけです。ゲイ的な文化称揚の場でもあるゲイ・パレード。この日ばかりは日ごろゲイであることを隠して生きている人も、自分の属性を確認しつつ、それを祝う。そんな場にもなっているんですよね。
というわけで、レズビアン&ゲイ・パレードで「おかしな」格好をする人を非難する人もいますが(たとえば、「マチダタイムス」の記事およびコメントを見よ!)、まあ最低限隠すところを隠していれば、あとは自由に自分たちの表現なり、文化なりを表明できる<ハレ>の場であって欲しいと思います。
みんな灰色のスーツとかきちゃってジミ~~~な格好をしているパレードなんてつまんないよね(もちろんスーツを着たい人がスーツを着て参加してるのはOK! それを強制されるってなると困るだけよ)。
一方で、沿道からの応援もあわせて4000人弱程度というのは、日本の1億2千万人の人口のなかで極めてマイナーな存在であるというのも、重々承知できます。
マイノリティはマイノリティであるため、地域ごとのパレードを行うのが難しいという点があり勢い母集団が多い都会でのイベントが多くなります(でも、そういう困難を克服して行っている札幌のレインボウ・マーチやら、名古屋のNLGRやらもありますが、それでも政令指定都市)。そうなると遠方からはなかなか行けない。また、お盆の時期でも働いている人も大勢います。祭りへの全員参加を強制する形でコミュニティが成立している土着コミュニティとは、事情が違う。
さらに、「知り合いに顔を見られたら困る」などの心配が足を会場に向けるのを妨げているという面もあるでしょう。まだ、差別はなくなったわけではなく、周囲の人が発する差別的な言動に敏感な人は、保身を考えて、いまでも足を向けられないという現実もあるでしょう。
もちろん一度来て見たら大勢のゲイに紛れて自分がそんなに目立たない状況になることはすぐに分かると思います。そして沿道から応援してるだけでもいい、ともかく一度は参加してみてほしいなあ~、楽しいよー。でも、心配が心に沸き起こってくるとどうしようもない。そういった心配が出てこない社会を目指したい(同性愛に関して、ノンケの皆さんは自分が同性とセックスをするシーンを思い浮かべて「キモい!」と思ったりするので、そういう感情をなくすことは無理だと思いますが・・・)。
しかし、同性愛者の権利保障がまったく進まないという現状もこうしたところに原因があるのかもしれない。同性愛者の側の盛り上がりの欠如と、それに伴う行政側の意識の低さ。このあたりを当事者でもない、社民党の保坂展人議員が心配をしてくださっています。
レズビアンの大阪府議会議員尾辻かな子さんもブログで参加報告をしてくださっています。しかし、依然としてマイナーな存在であることは否めない。
そうした現状を考えると、性的少数者だけの力で、独自に社会への訴求力を発揮するのは難しいという現実があります。ニューヨーク在住のジャーナリスト北丸雄二さんが、海外でのアクティビズムの現状を見るに、性的少数者の権利問題をマスコミが無視することに対して、声を上げようというネット署名活動を始めています。パレードを一年に一回だけ、しかもある時間に渋谷でだけ行われる「行事」としてだけではなく、ブログを通して、マスメディアを通して、繰り返し利用していくことが大切だと思います。出版物としては、ポット出版が書籍『パレード』あるいは『クィア・ジャパン・リターンズ Vol.1』で綿密に取り上げてくださっています。今年はじめてパレードに参加した方も、こういう本を改めて読むと歴史が感じられますよ。
ともかく、このパレードという資産を繰り返し活用することこそが実行委員の方々の労をねぎらうことにもなるのではないかと思います。
パレードに参加された方は、今からでも遅くない、チャンスを見つけてはアピールをしていってもらいたいと思います。
いや~、やっぱり日ごろ個々にいろいろ対立したり、何の関係もなくすごしたり、極めてまれに仲がいい人がいたりするという状況を超えて、とりあえずゲイとして集まって、みんな同様に祝祭的な雰囲気を享受するってのは、極めて楽しいものなのです。
つまりレズビアン&ゲイ・パレードには、まずゲイ&レズビアン&その他賛同する皆様の<祝祭>という面があります。日々の暮らしの中では、当たり前のことながらゲイであるから同一の意見を持つわけでもなく、「ゲイという枠組みでなにかを考えるなんてのは、所詮不可能なことなのではないか……」という諦観に、どうも支配されそうになっちゃうわけですが、これだけ楽しいレズビアン&ゲイ・パレードをやるとどこか「仲間」的な意識もわいてきたりもする。こういう祝祭でもって、共同性を確認することはとても大切なことなんですよね。2000年の復活パレードで砂川さんが言った「あんたも嫌い、あんたも嫌い、あんたも嫌い。でも今日は一緒に歩こう」というメッセージの切実さは、ますます大きくなってきているような気がします。
ともかくお祭りであることを認識していないと、訳の分からないパレード批判が出てきてしまう。ノンケだってお神楽を舞ったり、フンドシ一丁でおみこしをかついだり、中には本当に全裸の若者が地区を走るお祭りがあったりする。それぞれに通過儀礼だったり、「ケ」の間に染み付いた穢れを落とす「ハレ」だったりするわけです。ゲイ的な文化称揚の場でもあるゲイ・パレード。この日ばかりは日ごろゲイであることを隠して生きている人も、自分の属性を確認しつつ、それを祝う。そんな場にもなっているんですよね。
というわけで、レズビアン&ゲイ・パレードで「おかしな」格好をする人を非難する人もいますが(たとえば、「マチダタイムス」の記事およびコメントを見よ!)、まあ最低限隠すところを隠していれば、あとは自由に自分たちの表現なり、文化なりを表明できる<ハレ>の場であって欲しいと思います。
みんな灰色のスーツとかきちゃってジミ~~~な格好をしているパレードなんてつまんないよね(もちろんスーツを着たい人がスーツを着て参加してるのはOK! それを強制されるってなると困るだけよ)。
一方で、沿道からの応援もあわせて4000人弱程度というのは、日本の1億2千万人の人口のなかで極めてマイナーな存在であるというのも、重々承知できます。
マイノリティはマイノリティであるため、地域ごとのパレードを行うのが難しいという点があり勢い母集団が多い都会でのイベントが多くなります(でも、そういう困難を克服して行っている札幌のレインボウ・マーチやら、名古屋のNLGRやらもありますが、それでも政令指定都市)。そうなると遠方からはなかなか行けない。また、お盆の時期でも働いている人も大勢います。祭りへの全員参加を強制する形でコミュニティが成立している土着コミュニティとは、事情が違う。
さらに、「知り合いに顔を見られたら困る」などの心配が足を会場に向けるのを妨げているという面もあるでしょう。まだ、差別はなくなったわけではなく、周囲の人が発する差別的な言動に敏感な人は、保身を考えて、いまでも足を向けられないという現実もあるでしょう。
もちろん一度来て見たら大勢のゲイに紛れて自分がそんなに目立たない状況になることはすぐに分かると思います。そして沿道から応援してるだけでもいい、ともかく一度は参加してみてほしいなあ~、楽しいよー。でも、心配が心に沸き起こってくるとどうしようもない。そういった心配が出てこない社会を目指したい(同性愛に関して、ノンケの皆さんは自分が同性とセックスをするシーンを思い浮かべて「キモい!」と思ったりするので、そういう感情をなくすことは無理だと思いますが・・・)。
しかし、同性愛者の権利保障がまったく進まないという現状もこうしたところに原因があるのかもしれない。同性愛者の側の盛り上がりの欠如と、それに伴う行政側の意識の低さ。このあたりを当事者でもない、社民党の保坂展人議員が心配をしてくださっています。
レズビアンの大阪府議会議員尾辻かな子さんもブログで参加報告をしてくださっています。しかし、依然としてマイナーな存在であることは否めない。
そうした現状を考えると、性的少数者だけの力で、独自に社会への訴求力を発揮するのは難しいという現実があります。ニューヨーク在住のジャーナリスト北丸雄二さんが、海外でのアクティビズムの現状を見るに、性的少数者の権利問題をマスコミが無視することに対して、声を上げようというネット署名活動を始めています。パレードを一年に一回だけ、しかもある時間に渋谷でだけ行われる「行事」としてだけではなく、ブログを通して、マスメディアを通して、繰り返し利用していくことが大切だと思います。出版物としては、ポット出版が書籍『パレード』あるいは『クィア・ジャパン・リターンズ Vol.1』で綿密に取り上げてくださっています。今年はじめてパレードに参加した方も、こういう本を改めて読むと歴史が感じられますよ。
ともかく、このパレードという資産を繰り返し活用することこそが実行委員の方々の労をねぎらうことにもなるのではないかと思います。
パレードに参加された方は、今からでも遅くない、チャンスを見つけてはアピールをしていってもらいたいと思います。
ゲイプライドはやはり何かしらの主張をこめて行われるべきではないでしょうか。
例えばアメリカやオーストラリアのゲイプライドの場合、職業上でのゲイ差別を考えてもらうためにユニフォームを着て参加していたり、ゲイポルノ文化を理解してもらい、エイズの拡散を防ぐ目的があって露出をしてアピールするというような動きがあります。
では、日本ではどういう意図があって露出で参加するのでしょうか。
このエントリーを読む限り、自分たちがはじけるためであったり、一部の特殊なファッションを認めてもらいたいという主張しか見えません。
その様なギャップから、衣装に関するバッシングがあると思いませんか。
また、そのように指摘されている露出を、例えば、伝統的な衣装である褌や、裸祭りの様子と比べるのは、違うと思います。
マチダタイムスではその辺りを指摘していると思います。
リンク先の主張はデモとは意味の無いマッキーフロートや主張が何も無い出版社のフロート、それに追随するテーマの無い露出で、何を伝えようとしているのかを考えてもらいたいと思っているということではないでしょうか。
年に一度のはじける日という誤ったテーマを広めることのために批判するのはどうでしょうね。
パレードに協力してくれた方、パレードの意図に賛同し出資してくれた団体を正面から裏切っていると思います。
玉野さんもきっと東京へいらっしゃるのではないかと
思っていましたが、
たぶん、お知り合いの方との予定などで忙しいかと思い、
遠慮していたのですが、
もし、いつかお時間に余裕があるときは、
東京でも名古屋でもどちらかでお会いしたいものです。
自分も参加させてもらいましたが、
ゲイバーで飲んだり二丁目で騒ぐといった楽しさとは、
まったく次元の違う楽しさですね。
俺も、傍観者であった数年前は、
実は派手な衣装、ドラァグクイーンみたいなのと
一緒にされては…とか思っていましたが、
なんつーかな、深い所で繋がっているんですよね。
あるがままを、社会に対して示すということ。
全てをひっくるめて、僕らであること。
「とにかく歩きたい」
それだけが、僕を動かしていたような気がします。
そして、歩いてみて、はじめて、
ロシアのゲイパレードの深刻さだとか、
尾辻氏が必死になって行動したことが、
やっと理解できるわけです。
玉野さんは反応がないことを嘆いていらっしゃいましたが、
俺もそうであるように、GBrでのTLGPへの感想が
去年、今年と徐々に変わっていくのに呼応して、
みんなに行動が伴なうのではないでしょうか。
ごめんなさい、長文になってしまいましたね。
来年は名古屋行きたいです。
「社会に対して主張をする人だけが歩いても良い」とか、なにも言わなくてもそれが共有されているところとは違います。
宗教的にも、法律的にも、あからさまな「差別」は日本にはない。そのせいで、運動のありかた自体がアメリカ的な「対社会」という風にはならないのですよ。
それはアメリカにいる人は、しばしば「アクティビズムの遅れ」という文脈で語るし、たしかにそういう面もあるんだろうけど、単に「違う」ということでもある。
日本には、日本のアクティビズムが求められる。
だいたいそういう政治的主張を前面に出して、3800人の人が集まると思いますか? 「同性愛者の権利を求めて380人が行進」なんて記事が出たって、どうも説得力がない。そりゃあ、3800人だって訴求力にはかけるだろうけど、それでもこれだけの人が全国から集結するということにまずは日本でのパレードの意義があります。
それだけの人が、日ごろ抑圧されがちなセクシュアリティを白日の下に「表明」できる。それを<ハレ>と呼ばずして何と呼べばいいのか?
そこから徐々にでも、共同性が生まれてくるといいなということを願いながら、主催者はそう言ってこなかったわけです。
それから政治的な主張をするにしても、アメリカと日本では受け入れられる好みが違うかもしれません。アメリカのCMなんかで、他社製品との比較ばかりするようなのと、日本的に製品のイメージを伝えようとするのとやり方はいろいろあるわけです。
そのあたりは去年までの流れで、どういうことなのかをスポンサーのみなさんもよくご存知だと思いますよ。
そのあたり想像力を働かせてくださいね。
みんなの心は一気に変わったりはしない。
たとえばさ、「フツーのGAY」であるakaboshiさんなんて、このところ激変ですよw
リブに対して否定的に言及をする時点で、意識はそっちを向いているんだから、実は近かったりするわけですw
まずは多くの人が「楽しかった~!」って感じられる場を作っていただいて、本当によかった。みんなが「楽しかった」ことを表明するって大切なことですよねー。
ぼくは大して友達もおらず実は暇をしていたわけですが(笑)、お気遣いいただいてありがとうございます。
今度、東京にいくときには連絡さしあげますね。
>みんな灰色のスーツとかきちゃってジミ~~~な格好
しか思いつかない想像力のなさにがっかりしました。渋谷の町の普通の格好は「灰色のスーツ」だけ?あなたはいつの時代の人ですか?
それにノンケの褌とゲイの褌ではその意味するものが全く違う。ゲイの文化とは確かにパロディの文化でもあるわけだけど、元ねたを知って自覚的にやるパロディと真似の真似で、人に引きずられてやるものでは全く違う、などということを申し上げても、不勉強(?)でお分かりにならないかもしれません。
尾辻さんは実にありがたい宣伝ウーマンですが、そもそも大量の政治家がいる東京でのパレードでわざわざ大阪の尾辻さんを呼び出さなきゃいけないほど、「まともな政治家」はあのパレードを歩きたいと思ってないということですよ。それは格好じゃなくてパレード自体にしそうがないからだと思います
私は参加したことないですけど、札幌パレードに北海道知事と札幌市長が祝辞を寄せてるのに驚きました。この差はなんでしょう?
スポンサーのためにあなたは歩いてるんですか?そりゃ「ゲイのイメージを売り物にしてる」だけですよ。事務局がスポンサー様第一でやってるとしたらその姿勢を疑います。
あなたの記事を見て、ああ、事務局が馬鹿なんだろうなーと残念ながら再認識いたしました。
日本からです。
> ゲイがなんらかの共同性を持ちうるということすら、幻影のように消えたり点いたりを繰り返しているのが日本の現状。
それを変えるためのパレードであったはずですが。
> 「社会に対して主張をする人だけが歩いても良い」とか、なにも言わなくてもそれが共有されているところとは違います。
パレードは「祭り」ではなく、デモの意味合いを含んでいて、日本人ゲイジャーナリストもそのことを主張し、行動を起こしています。
参加者は「我々が差別に邪魔されて隠れ続ける事などなく、どのように生きていくかを自らが選択できる権利」を主張しながら歩いているはずではなかったでしょうか。
> 宗教的にも、法律的にも、あからさまな「差別」は日本にはない。
沢山あります。
差別の他にも同性婚やそれに関する権利や保障もありません。
雇用、社会保障、老後の問題など、今から意識していないと大変苦労する様な問題も山積みです。
ゲイだと会社や学校で虐められる傾向がありますし、今後、差別が酷くなる傾向があります。
> そのせいで、運動のありかた自体がアメリカ的な「対社会」という風にはならないのですよ。
TLGPに寄せられた、各国のゲイ理解者たちの言葉を完全に否定する発言ですね。
「対社会」にならないということは、誰に向けたパレードなのでしょうか?
> それはアメリカにいる人は、しばしば「アクティビズムの遅れ」という文脈で語るし、たしかにそういう面もあるんだろうけど、単に「違う」ということでもある。
アメリカ人に言ってください。
> 日本には、日本のアクティビズムが求められる。
一体何が日本のアクティビズムなのでしょうか。
また、それを考えると、「パレード」っという形でなくても良いのではないかと思われます。
> だいたいそういう政治的主張を前面に出して、3800人の人が集まると思いますか?
思います。
では、政治的主張を一切含まずに一日限りのイベントに3,800人が集ったことにどんな意味があるのでしょうか。
そもそも、政治的=地味というのは、玉野さんの偏見でしょう。
> 「同性愛者の権利を求めて380人が行進」なんて記事が出たって、どうも説得力がない。
いや、ありますよ。
今年のパレードは記事すら出ていませんね。
取材に来たのに報道されていないのです。
380人と言う数字がどこから飛んできたのかは分かりませんが、3,800人が皆、お祭りのために集ったと考えるのも間違っているでしょう。
> そりゃあ、3800人だって訴求力にはかけるだろうけど、それでもこれだけの人が全国から集結するということにまずは日本でのパレードの意義があります。
それであれば、ゲイナイトで十分じゃないでしょうか。
「楽しかった」という感想は、日本社会ではなくて、ゲイに向いていますし、先ほどから、その傾向を肯定する主張が続いています。
その内輪の盛り上がりを示すために、交通や騒音など、ノンケの生活の便を犠牲にする必要があったのでしょうか。
このことは、ますますゲイに対する偏見と差別を助長していると思いませんか?
> それだけの人が、日ごろ抑圧されがちなセクシュアリティを白日の下に「表明」できる。それを<ハレ>と呼ばずして何と呼べばいいのか?
ですから、パレードは祭りではありません。
祭りは祭りで別な場所に用意されていたはずです。
また、どうしてその抑圧から逃れ、大勢の目の前でセクシャリティを晒す日が必要なのでしょうか。
そもそも玉野さんはどうしてパレードに参加したいと考えたのでしょうか。
> そこから徐々にでも、共同性が生まれてくるといいなということを願いながら、主催者はそう言ってこなかったわけです。
玉野さんが主張する共同性が一体何の意味をなすのでしょうか。
なあなあなパレードを肯定し、守ってもらうためでしょうか。
> それから政治的な主張をするにしても、アメリカと日本では受け入れられる好みが違うかもしれません。
だから、やり方をもう少し考えるべきだと主張しているのです。
今の状況は海外のパレードの模倣です。
> アメリカのCMなんかで、他社製品との比較ばかりするようなのと、日本的に製品のイメージを伝えようとするのとやり方はいろいろあるわけです。
イメージを大事にするのであればこそ、露出や過度な女装などの、好奇の目を煽る衣装をまとっての参加について考えるべきではないでしょうか。
> そのあたりは去年までの流れで、どういうことなのかをスポンサーのみなさんもよくご存知だと思いますよ。
あたかもスポンサーが簡単に協力してくれたと考えている様な発言ですね。
スポンサー関係を結ぶために努力してきたボランティア、または運営スタッフの苦労を蔑ろにした主張でしょう。
タワーレコードなどがTLGPに協力的なのは、その文化背景や主張に賛同しているからで、これはだいぶ前(4,5年くらい前)のパレード参加時にリリースされていたと思います。
札幌のパレードに協賛したことがあるサントリーの話を聞くと、ゲイカルチャーが潤うことで、自分たちが所属する業界も潤い、それが社会の発展や幸せに繋がると考えての協賛だそうです。
少なくとも、お祭り気分で、その場しのぎなゲイの意図を汲み取っての協賛では無いでしょう。
> そのあたり想像力を働かせてくださいね。
想像が一体何の役に立つのでしょうか。
玉野さんの想像は、実社会に即しているとは全く思えません。
ともかく、できるかぎり人数を集めて、街に集結し、目に見える形でLGBTの可視化を図るというのは、十分に政治的です。そこに集まっている人が、楽しめるっていうのは大切なことで(そうじゃないと集まるわけがないじゃない)、みんながずぶ濡れになりながらも「楽しかった」といっているのは、本当に素晴らしいこと。
現状の中で、政治的意図と祝祭的な盛り上がりをちゃんと両立しているんですよ。思想がないわけでも、その場しのぎでもない。
お二方は、早く「内なるホモフォビア病」「内なるオネエフォビア病」を治されたほうが良かろうかと思います。
>現状の中で、政治的意図と祝祭的な盛り上がりをちゃんと両立しているんですよ。思想がないわけでも、その場しのぎでもない。
本当に、その通りですね。
今、aktaでやっている展示企画「性的マイノリティの30年とパレードの歴史」
http://akta.typepad.com/akta/2006/08/30_6.html
を見ると、2000年のTLGP復活で、それまでの政治vs祝祭のような未熟な対立を乗り越えて、まさに現在私たちが現実的に可能な形を実現しようと、いろんな人が尽力されてたのが見て取れます。そして、その思いは今も受け継がれているわけですね。
感じたことを表明するのはいいけれど、こうした歴史と現状認識を共有して、建設的にどこへ向かうべきかを議論していきたいですね。
仮想空間での議論のための議論じゃなく、リアルな近未来のためのコミュニケーションを深めましょう。
さすがこの業界長いだけのことはありますね。
でも、ほら、あたしたちのようにババアになってくるとアイデアは枯渇していくので、若い人がどんどん新しいアイデアを持ち込んでくれるのはたいへんよろしいことですよね。
今回のパレードでは政治性がないのがダメだと思われたみなさんで、来年はリブリブなフロートをだして、キャッチーに政治的課題を社会に対して提案していけるといいんじゃないかなあ?
公権力の一翼を担う政治家の名前を出してマスコミに圧力をかけ、報道内容に介入しようだなんて。どうみても憲法21条で保障された「編集権」の侵害でしょう。
政治家がやっていいのは、マスコミが間違った報道をしたときに、訂正を求めるまで。報道してないものを報道しろ、というのは明らかに行き過ぎ。
これじゃ、NHKの「従軍慰安婦」番組に介入しようとした安倍や中川を笑えません。
少なくとも政治家の名前は削除すべきですね。
それにしても一般人ならともかく、マスコミにいたこともある北丸氏がこんなことに気づかないとは、その幼稚さに呆れます。