久々のカミングアウト論です。
要点は以前ほぼ出していると思います。
その理論的枠組みは伏見憲明氏の『欲望問題』への書評で大雑把には描いています。
「低能流「ゲイ」文章計画」の円山ノテルさんが、この問題に関連する話題をアップしてくださっています。
こちらからご覧ください。
要点は、「罪の意識ではなく、ゲイだなんてバレちゃったら恥ずかしい、みんなからバカにされる、除け者あつかいにされる、その淋しさが恐ろしい、だからゲイであることをひた隠しにしようとしているのではないのか」という言葉に表現されています。おそらくこの分析は正しいでしょう。
しかし、それゆえ「こちらが恥じの意識を捨てればゲイに対するイジメはなくなるだろう」という分析は、おそらく幾分か楽観的であるように思います。
恥じの意識を払拭するのと、恥じの意識を織り込みつつ世間を渡るのとどっちが楽かという問題にすぐさま直面するからです。
イジメといっても、相撲協会やら滝川高校やらの例もあるように、犯罪的な領域にはいることも珍しくありません。あれは閉鎖された特殊な空間であるがゆえにエスカレートした側面があるにちがいありません。しかし、たとえばリストラ候補社員への風当たりのように、「合法」の範囲内でも陰湿なイジメはありうる。
一般の会社員は、そうなったときに対処できるだけのセーフティーネットを持ち合わせていない。一旦、社会のしくみから追い出されたら、復活が非常に厳しい社会に今の日本はなっています。
そういう状況下では、今いる位置をなんとか守ろうと人々は汲々とするわけです。
そうなると、「カミングアウトをすることに一体何の利得があるのか?」ということになります。実際にはカミングアウトをしてみたらさして抵抗も無く受け入れられることが多いのが現状でしょうが、とはいえ万が一の可能性でも排除されるかもしれないのならば、そういう不利益をもたらすことはしない選択をする人が大部分だと思います。
そういう心境の中で、カミングアウトの実効性を疑問に感じている人たちに、選挙メッセージは遠く届かなかったというのが、今年の教訓でしょう。
カミングアウトをできるならば、したほうがゲイ全体の利益につながることは間違いないとしても、そのために自分の利得を捨てさせることはできません。
アクティビズムは、どうやってアクティビズムにのれない人をも包摂するのか?
そこが少しずつでもクリアされないと厳しい状況は続くように思います。
そのためにも、社会の中で生きているゲイたちの実感を汲み取る必要があります。「世間体を捨ててカミングアウトを取れ!」とかなんとかのアクティビズム的な発言をしていると、それに乗れる人間しか身の回りに現れません。そういう人間関係が一定の広がりを得ていくと、主観的には、そういった言説が広がりを持っていっているような錯覚をしてしまう。そうすると、自分の言説が承認を得たかのような気分になってしまいます。井の中の蛙ですね。
この点には、幾重にも注意が必要でしょう。
結局のところ、丸山さんの提案は間違いではないとしても、それをどうやって実行していくのかというところで、行き詰まってしまうように思います。
せっかくの貴重な提案ですので、実効性のある方法はどういうものなのか、1人でも大勢の人で考えていければいいんじゃないかと思います。
要点は以前ほぼ出していると思います。
その理論的枠組みは伏見憲明氏の『欲望問題』への書評で大雑把には描いています。
「低能流「ゲイ」文章計画」の円山ノテルさんが、この問題に関連する話題をアップしてくださっています。
こちらからご覧ください。
要点は、「罪の意識ではなく、ゲイだなんてバレちゃったら恥ずかしい、みんなからバカにされる、除け者あつかいにされる、その淋しさが恐ろしい、だからゲイであることをひた隠しにしようとしているのではないのか」という言葉に表現されています。おそらくこの分析は正しいでしょう。
しかし、それゆえ「こちらが恥じの意識を捨てればゲイに対するイジメはなくなるだろう」という分析は、おそらく幾分か楽観的であるように思います。
恥じの意識を払拭するのと、恥じの意識を織り込みつつ世間を渡るのとどっちが楽かという問題にすぐさま直面するからです。
イジメといっても、相撲協会やら滝川高校やらの例もあるように、犯罪的な領域にはいることも珍しくありません。あれは閉鎖された特殊な空間であるがゆえにエスカレートした側面があるにちがいありません。しかし、たとえばリストラ候補社員への風当たりのように、「合法」の範囲内でも陰湿なイジメはありうる。
一般の会社員は、そうなったときに対処できるだけのセーフティーネットを持ち合わせていない。一旦、社会のしくみから追い出されたら、復活が非常に厳しい社会に今の日本はなっています。
そういう状況下では、今いる位置をなんとか守ろうと人々は汲々とするわけです。
そうなると、「カミングアウトをすることに一体何の利得があるのか?」ということになります。実際にはカミングアウトをしてみたらさして抵抗も無く受け入れられることが多いのが現状でしょうが、とはいえ万が一の可能性でも排除されるかもしれないのならば、そういう不利益をもたらすことはしない選択をする人が大部分だと思います。
そういう心境の中で、カミングアウトの実効性を疑問に感じている人たちに、選挙メッセージは遠く届かなかったというのが、今年の教訓でしょう。
カミングアウトをできるならば、したほうがゲイ全体の利益につながることは間違いないとしても、そのために自分の利得を捨てさせることはできません。
アクティビズムは、どうやってアクティビズムにのれない人をも包摂するのか?
そこが少しずつでもクリアされないと厳しい状況は続くように思います。
そのためにも、社会の中で生きているゲイたちの実感を汲み取る必要があります。「世間体を捨ててカミングアウトを取れ!」とかなんとかのアクティビズム的な発言をしていると、それに乗れる人間しか身の回りに現れません。そういう人間関係が一定の広がりを得ていくと、主観的には、そういった言説が広がりを持っていっているような錯覚をしてしまう。そうすると、自分の言説が承認を得たかのような気分になってしまいます。井の中の蛙ですね。
この点には、幾重にも注意が必要でしょう。
結局のところ、丸山さんの提案は間違いではないとしても、それをどうやって実行していくのかというところで、行き詰まってしまうように思います。
せっかくの貴重な提案ですので、実効性のある方法はどういうものなのか、1人でも大勢の人で考えていければいいんじゃないかと思います。
どうしても、ゲイ当事者の勇気や決断に負うところが大きいでしょう。しかし、カミングアウト絶対主義ではありませんから、勇気や決断を強制するものではありません。カミングアウトのできる人から……の原則に従いたいところです。
それが可能な人は、腹を括って、恥と誤解されているゲイネスなど、恥じるべきものではなく、いっぽう、特別なものでもないとの意識を、僅かずつでも地道に、この広い世の中に植え付けてゆく―――と、それしかほかに道はないように思うのです。
日本の場合、一神教世界とは異なり、罪の意識でゲイネスを捉えていない以上、少しも恥じることではないとの信念が、世間体原理主義を変えてゆくのではないかと、期待しています。
現に、こうした意想は大都市からのみではなく、地方の小都市からも少しずつ湧いているように感じます。
地方でも、こうして頑張っているのだとの実直なアピールを続けている友人がいるからです。
彼の思いは、きっと、ほかの小都市にも伝播するものと信じます。
何だか、信念とか期待とか、精神論に陥ってしまいますね。
でも、如何でしょう。
何か、目の覚めるような革新的アイデアがあったら、どなたでも結構ですから、是非うかがいたいと思います。
小難しい思想を百遍議論するよりも、気軽くゲイネスを明かしてノホホンとできる新しい精神をシンプルに拡げてゆく作業が、けっきょく重要になってくるのではないでしょうか。
ゲイであることなど、恥でもなければ、特別なことでもなく、ごくごく、どこにでも転がっている有り触れた事象であることは、僕らゲイ自身が一番よく知っていることではないでしょうか。
日本にゲイネスが罪であるとの規範が無い以上は、この当たり前に転がっている有り触れた事象を、可能な部位から、ひょいひょいと露わにしてゆくことができれば、それだけで大きな前進になりはしませんでしょうか。
楽観的に過ぎるのかなあ……。(^o^)
楽観的に考えることが、むしろ必要なことではないのかなあ……。
失礼いたしました。
しかし、地方ではまだきつい。
たぶん、これは骨の髄までしみ込んでいる思考パターンなんで、解除は難しいと思います。
世間体原理主義があるものだという前提で、その社会をよりよく生きる方策を考えたほうが、現実的じゃないかと思うんですよ。
ご指摘も、併せて感謝申し上げます。
まず以て僕は、カミングアウト絶対主義者ではありません。
つねづね、カミングアウトは、
「できる人から、できる相手に、できるタイミングで」と繰り返し申しておりまして、斯く申す僕もまた、そのような部分的・段階的カミングアウトを実践しています。
年齢のせいもあるのか(45歳)、幸いにして、これまでのところ大きなトラブルもなく、円満にことは推移しております。ラッキーなのだと思います。
世間さまの顔色ばかりを窺うのは、カミングアウトされた側にもあると想われ、僕の意想ですと、そんなに恥ずかしがるこっちゃないのよ―――と言いたいところなのですが、これも慌ててはならないと思っています。
とにかく、カミングアウトできないならできないで構いません。それぞれ自分自身のメリットを優先するのは、当然のことですものね。
あくまで、できる人から、できる相手に、そして、できるタイミングで、みんなへの良い波及効果を広い視野で展望しながら、少しでも世間体に惑わされないゲイ環境を作るため、同感できる人たちには、追々ゆっくりと、挑戦して欲しいなっ! ―――と、考えている次第です。