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次期総裁? 安倍晋三の『美しい国へ』の家族観

2006年09月13日 04時32分16秒 | セクシュアリティ雑感
 安倍晋三の『美しい国へ』を読みました。

 彼の家族観を取り出してみます。

 この本の214ページあたりから、「大草原の小さな家」の家族をレーガンがアメリカの理想的な家族として称揚したことを下敷きに、日本の教育では家族のモデルを提示していないことを問題にします。 アメリカでは『大草原の小さな家』をモデルにしたため、少子化がストップしたのだそうです(ホント?)。
 
「家庭科の教科書などは、「典型的な家族のモデル」を示さず、「家族には多様なかたちがあっていい」と説明する。生まれついた性によってワクをはめてはならないという考えからだ」と現状を説明します。
 その上で、山谷えり子議員らとの調査の結果、教科書に「「祖母は孫を家族と考えていても、孫は祖母を家族と考えない場合もあるだろう」、そして「犬や猫のペットを大切な家族の一員と考える人もある」といった記述があった」ということを問題にします。
その上で、「同棲、離婚家庭、シングルマザー、同性愛のカップル、そして犬と暮らす人……どれも家族だ、と教科書は教える。そこでは、父と母がいて子どもがいる、ごくふつうの家族は、いろいろあるパターンのなかのひとつにすぎないのだ。
 たしかに家族にはさまざまなかたちがあるのが現実だし、あっていい。しかし、子どもたちにしっかりした家族のモデルを示すのは、教育の使命ではないだろうか。」といいます。

 つまり、さまざまな家族を容認しながら、その上で、伝統的(といえるかどうか、少なくとも核家族以上の家族)を称揚する。

 こうした感覚は、実は、同性愛者も持っているんじゃないかと思うんですよね。子どもが欲しいと思う同性愛者もたくさんいるわけです。本当は子どもが欲しいけど、なんらかの理由でできない人が、「子どもができない形の家族」はしかたがないけど、そういう人たちが「これこそ本当の家族」と思っていないところもある。
 一方で、深刻な少子化が進んでいますので、財政上の理由もあるわけで、子どもを作る家族をまずモデルとして提示するというのは、そちらの面からも重要なことのような気がします。
 
 これが単純化というか、過激化して、「子どもがいる家庭=一流市民、子どもがいない家庭=二流市民」というような差別の構造ができるとまずいですが、たとえば「社会全体で子育てを支援しよう」ということで、子どもがいる家庭では税制上優遇措置を取ったりすることは、まああってもいいのかな、と思います。
 その上で、多様な家族の形態も市民としては同等の権利を得られるような方向で考えないと、いけないんじゃないかと思ったんです。
 ここで問題なのは、「たしかに家族にはさまざまなかたちがあるのが現実だし、あっていい」というからには、ちゃんと権利保障をしてくれるんですか?ってこと。同性愛者の権利にしろ、非摘出子の権利にしろ、母子家庭の保護にしろ、実際にそうなってしまって困っている人はたくさんいるわけですから、そちらをちゃんとしてくれるのか? それとも「たしかに家族にはさまざまなかたちがあるのが現実だし、あっていい。しかしそんなのは安倍晋三あるいは日本国政府は感知しない」といいたいのか? 

 このあたりをきちんと突いているのが、『論座』に載ってる船曳健夫東大院教授の批判です。
 船曳さんも「実は、安倍さんが繰り返し述べる「『家族、このすばらしきもの』という価値観」に、私は何の反対もない」として自分の立場を表明しながら、この「正論」の恐ろしさに思いを至らせます。そのなかで「安倍さんがいろいろな家族があるなかでも両親と子どもに祖父母がいる家族がいちばん、と「正論」に話を落とすところである」といい、次のようにきめてくれます。

「政治家なら、そういう家族が一番であっても、そんな構成は実際に減っているのだから、その現状をかくかくしかじかで解決する、と逆の順で語ってほしいのだ」

この議論について、ぼくは船曳さんに賛成です。「たしかに家族にはさまざまなかたちがあるのが現実だし、あっていい」というからには、何をしてくれるの?っていうのはまったく出てこないのは、いったいどういうことなんでしょうかね。。

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