玉子王子の社長室

玉子王子社長は熱狂的な北海道日本ハムファイターズファン。ファン活動をしながらも零細企業の社長として働く汗と涙の物語。

田中幸雄が史上35人目の2000本安打達成!

2007-05-17 20:16:28 | 北海道日本ハムファイターズ
祝!
2000本安打達成!
“ミスターファイターズ”が快挙達成!
第2打席にライト前安打を放ち、プロ野球史上35人目の通算2000本安打を達成した。

記録達成!おめでとう!




都城高等学校では2年生の春夏に連続して甲子園に出場。1985年のドラフト3位で日本ハムに入団した。同期に「KK」こと、PL学園の清原和博、桑田真澄らがいる。

1年目から一軍で活躍し、プロ入り2打席目で本塁打を放った。1988年にはファン投票1位でオールスターに出場し、シーズンでも好成績を残しベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。以降、堅実なプレーと毎年コンスタントに20本塁打以上を放ち続ける長打力で、遊撃手のレギュラーと不動の4番に座り1991年まで4年連続全試合出場を達成した。オールスターにも4年連続ショート部門ファン投票1位で出場した。

1992年は故障に泣き、6月には「上腕骨頭後部軟骨はく離」の診断で手術を受ける。結局、開幕戦に代走として1試合出場しただけで、打席ゼロ・安打ゼロと1年を棒に振る。

1993年から再びレギュラーとして復活を遂げ、リーグ最多の32本の二塁打を放ち、自己最多の63打点を記録するなど、中距離打者として安定した成績を残した。

1994年から3年連続で全試合出場かつ3年連続で140安打・20本塁打・80打点を記録するなど故障前よりレベルアップした打撃で更なるチームの看板プレーヤーとなる。またこの年に記録した87打点はリーグ2位で、自己最高の記録。

1995年にはイチロー、初芝清と並ぶ80打点で念願の個人タイトル・打点王を獲得する(日本球界の歴代遊撃手で打点王を獲得したのは田中のみである)。更に本塁打もトップの小久保裕紀に3本差の25本を記録。打率も自己最高を記録し、年俸も当時チーム野手最高の2億5000万円に到達。

1996年はシーズン中にクロスプレーで膝を痛めたものの、22本塁打・82打点とチーム2位の成績に貢献。また同年オフには痛めた膝を手術した。

1997年8月12日に全打順本塁打を達成。チームが誇る、球界屈指の最強打線・ビッグバン打線の4番も務めた。

1998年はヒジ痛に苦しみながらも一時はホームランダービーのトップに立つなど24本塁打で2年ぶりの20本以上を記録した。

1999年も23本塁打・74打点と最低ラインの数字はクリアしたものの両リーグワーストの132三振を喫するなど不満の残る1年であった。だが同年7月8日にパリーグ記念の通算35000号を放った。

2000年にはシドニーオリンピック野球日本代表に選出され、チーム最年長選手として存在感を見せた。シドニー五輪では2本塁打を含む31打数10安打、打率.323と活躍。

2001年は1試合に欠場したのみで、2年ぶりの20本塁打と規定打席到達を果たし健在ぶりをアピール。また、通算250号本塁打を達成。

2002年は本塁打・打点こそダウンしたが自己4番目の打率.278を残し、9年ぶりの30二塁打と自己2番目の4三塁打も記録した。またこの年を境に大島監督が解雇され、若手・中堅を重視するヒルマン監督が就任したために出場機会が激減していく。

2003年から加齢と打撃不振により、遊撃のレギュラーを剥奪される。更に持病の右ヒジ痛以外にも脇腹や股関節を痛めて2度も登録抹消される苦戦のシーズンとなった。打率こそ.275とまずまずだったが66安打止まりで連続二桁本塁打も10年でストップした。現在は一塁手・指名打者か、代打での出場がほとんどである。

2005年は8月27日の福岡ソフトバンクホークス戦では通算1000打点となるサヨナラ安打を記録。また左投手の時にはスタメン出場するなど、3年ぶりに故障なく一軍生活を送った。6月までは打率.314と好調だったが、7月以降は.176と息切れ。トータルでも.237と87年以来の低打率に終わったが、46安打を上積みして2000本安打にいよいよあと33本と迫った。

2006年5月9日の中日ドラゴンズ戦(交流戦、札幌ドーム)ではプロ入り初となる代打サヨナラ安打を放つ。だがシーズン全体では58試合出場で、86打数15安打、打率.174に終わるなどルーキー以来最低の成績に終わる。「この年は体調管理が甘かった」と本人も振り返っている。

2006年10月12日にはプレーオフで福岡ソフトバンクホークスを破り、リーグ優勝。10月26日には日本シリーズ第5戦目で4対1で中日に勝利し、プロ生活21年目にして初めてリーグ優勝と日本一を経験し、胴上げも経験した。ちなみにリーグ優勝時の胴上げの際は当初遠慮していた。

2007年、4月28日の対東北楽天ゴールデンイーグルス7回戦(フルキャストスタジアム宮城)で2年振りの本塁打(6年振りの満塁本塁打)を放った(代打での満塁本塁打は自身初)。5月5日(対オリックス・バファローズ8回戦)には、札幌ドームで自身初となる本塁打を左中間スタンドに叩き込み球場別本塁打を33球場とし、金本知憲を抜いて現役1位、通算でも山本浩二、衣笠祥雄、門田博光を抜いて単独2位となった(通算1位は山内一弘の39球場)。

球界きっての人格者としても知られており、新庄剛志や稲葉篤紀は困ったことがあるとまず田中幸に相談し、金村曉は「優勝してコユキさんを胴上げしたい」と語り、更にファン・マスコミからも「ミスター・ファイターズ」と呼ばれるなど、人格者、そして生え抜きのベテランとしてチーム内外から親しまれている。ホームゲームで名前がコールされたときの歓声の大きさはかつてチームが誇ったスター選手、小笠原道大や新庄剛志にも引けを取らなかった。大のファイターズファンとして知られるコラムニストのえのきどいちろうは、北海道新聞に連載されているコラムの第一回で、ファイターズを象徴する存在として田中に関するコラムを執筆した。

なお、元チームメイトの松浦宏明とは義兄弟であった。田中の妻と松浦の元妻が双子の姉妹であるため。

また、好調な年ほどケガをしてしまうジンクスがある(主に1998年・2000年などである)。それがなければとっくに300本塁打と2000本安打、400二塁打は達成している計算である。しかし、それらのケガと1992年度を除けば、入団翌年から2002年まで殆んどの試合に出場している。また、入団以降ホームグラウンドは足腰に負担の掛かる人工芝でありながら、息の長い現役生活を送っていることから、その強靭な肉体と自己管理も称賛に値するといえる。

今シーズンは、小笠原が移籍した事によってファーストが空き出場機会が増えた事に加え、4月下旬からチャンスで打てない打線を奮起するかのようにヒットを重ね、4月28日の先述の代打満塁弾を機にレギュラーを再奪取、2000本安打への道が一気に近づいた。さらにこの頃からチーム自体も絶不調から脱して上り調子となった。

2007年5月15日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(東京ドーム)で田中将大から、かつての本拠地東京ドームで久々の本塁打を放つ。

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