多摩川新聞ブログ

川崎の地域情報を提供する「多摩川新聞」の連動ブログです。

根岸 円墳群と祝い唄の伝承

2017-10-25 00:12:53 | 川崎地名遊歩道

 東生田緑地の竹林を通り抜けると、根岸(ねぎし)稲荷の赤い二重の鳥居が見えてくる。この根岸稲荷から歩道橋をはさんで根岸古墳群が広がっている。
 「根岸」は、多摩川が桝形の丘陵のふもと近くに沿って流れていたころ、ここで五反田川が合流していたところである。その流れが丘陵の根方にあたることから、地名が生まれていたといわれている。
 根岸古墳群は、標高五十六㍍ある丘陵の尾根にあり、竹林のなかに五基の古墳が盛り上がって見える。
 丘陵東端の斜面に築かれている第一号墳は、直径十一・五㍍で高さが一・六㍍の円墳である。その西側には同じ規模の第二号円墳がある。
 この二基の古墳から離れて丘陵の南斜面には三基まとまって円墳が見られる。この中の第三号墳は、自然の地形を巧みに利用した楕円形の円墳である。その北側に接する第四号墳は、古墳群の中では最大のもので東西径が十八・五㍍に南北十九メートルあり、高さが二・二㍍の円錐である。
 いずれも七世紀後半から八世紀にかけて築かれており、古墳時代終末期のものといわれている。
 古墳時代は、それ以前の弥生時代後期からの稲作の生産が広がり、朝鮮半島から伝えられた須恵器づくりが始まっている。根岸古墳群でも、昭和四十六年(一九七一)に二基の古墳を発掘調査したとき、副葬品として須恵器をはじめ直刀の破片や玉類などが発見された。
 古墳の内部構造は、木棺を納めた部分が小石を敷きつめた床になっており、規模が小さいところから高い権力者のものではなく、豪族の墓と見られている。
 古墳は単なる墳墓ではなくて、大和政権が全国的な支配をすすめるために、各地の支配者(首長)に地域の支配権と祭祀権をあたえた象徴であった。それと同時に支配者としての権威を、後継者に引きつぐための儀式の場でもあったと推測されている(『神奈川の遺跡』)。
 多摩川と五反田川の合流点だった根岸は、主要地方道の世田谷町田線と生田横浜線が交差する交通の要にもなっている。生田根岸誇線橋の真下には、小田急電鉄が走り五反田川が流れている。
 五反田川は、川崎市麻生区細山から小田急線に沿って蛇行しながら生田大橋を抜け、根岸橋を通って二ケ領本川を結ぶ四・七㌔㍍の山地性急流河川である。迂回し曲折した流路であるため、その流れ勾配も急竣で台風などの大雨に見舞われると、下流部の橋がネックとなって水害を引き起こしてきた。
 しかし水量の少ないときには、水がきれいに澄んで橋の上からは魚影ではなく種類がわかるくらいの清流だった。水車小屋も昭和二十年(一九四五)ごろまで八個もあり、米つきは小麦粉・そば粉などを挽いていたのだった。
 五反田川の流域には、高石や細山の祭り囃子、養蚕にかかる唄、農作業の労働唄など伝統芸能が生まれ、古民謡の『五反田節』はいまも地元保存会の人びとによって唄いつがれている。

 これほどの旅のつかれを 五反田の酒屋で忘れたか
 忘れがたなや五反田の 酒屋の小娘子
 鳥なれば巣もなかけたや 五反田の 境のあの榎
 榎にゃ蔦がからまる  娘にゃ殿御がからまる

 「これさま(ちらさま)」という祝い唄があるが、五反田節はその替え歌である。素朴で人情豊かな人びとの貴重な祝い唄の伝承である。
(前川清治著『かわさき地名遊歩道』1992年、多摩川新聞社刊)
ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
« かわさきジャズ2017 MUS... | トップ | 市長選とダブル選挙 9月1日... »
最近の画像もっと見る

川崎地名遊歩道」カテゴリの最新記事