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わがふるさと 大正から昭和の川崎 死線を越えて

2017-12-28 10:57:23 | わがふるさと


 私の母は七十九歳で亡くなったが、昭和二十八年七十歳のときに風をひいて寝こんだ。自分ではもう寿命がきたと考えたのか、私を枕もとに呼んで、紙と筆を持ってきてくれ、というので遺言でも書くのかと思ったら、
「あたしが死んだら誰もこの秘法をやる者がいないから書き残しておきたい」
と言いだしたのである。
「なんのことなの」
「雨乞いの呪文だよ」
「もう小田には田や畑はどこにもないのに」
私が呆れた顔をしても、
「雨を降らせるオマジナイだよ。誰にも言うでないぞよ。お前がおぼえておいて、日照りで困っている農家があったら雨を降らしてやりな。大事な呪文だから」
と真顔でいうのである。
 私はいつも川崎を視点にものを考えていたが、戦後は平塚に移り住んでいた。家から一歩外に出ると一面の甘藷畑である。そしてその先は相模平野を埋めつくして稲田が展望された。
 この時点での昨年の夏は強い日照りが続いた。黒い雲が西のほうに出るときもあったから夕立がくるかと思ったが、雨はなく砂地に焼けた藷は葉を巻いて生気がなくなっていた。
 そこで母は雨乞いの呪文をやりだしたら、あーら不思議や今まで晴れていた空は一天俄かに掻きくもり、雷鳴がとどろいたと見るまに篠つくように雨が降りだした、と母は言うのである。
 これは、夕立がそろそろ来そうな気象条件と母の呪文が偶然一致した結果だろうと思うのだが、つまり平塚はそのころまでは広重の描いた五十三次の街道図絵と大して変わっていない田園風景であった。
 母の呪文の対象は平塚の現住地に向けられていたのだ。つまり、私は川崎に目が向いていたから、雨乞いなぞ時代錯誤だ、と判断したのであった。
 昔の橘樹郡田島村小田は、毎年のように夏になると集落総出で雨乞いの行事をやったそうである。
 白い装束の何人かが海に入り大声で呪文を唱え、海岸では火を焚く。もちろん大正以前の話だから、その海には日本鋼管、富士電機、昭和電工などの工場はない。
 大正六年に横須賀沖で大観鑑式があった。このときでも子供の私は爺さまにつれられて小田村の海岸から望んだことがあり、この海の沖に遠く軍艦が整列しているのが見えたのである。
 今はどこにも雨乞いの習俗はないだろう。母は誰から呪文を伝承されたのか知らないが、そのときにはもう私の母しか知る者はいなかった。
 民族の生き証人として、私に伝え残したいと考えたのであろう。不肖にも私は母を迷妄のたわ言として一笑に付してしまった。
 私は這い這いの幼児のときに煮えたぎった大きな味噌汁鍋に半身を突っ込んで大ヤケドをした。今でも腕や胸にケロイドの傷痕が残っている。
 腕の皮がツルリとむけた。母は仰天して火のつくように泣く赤児を抱えてヤケド婆さんのところへ駆け込んだ。
 村には祈祷師で素人治療をする婆さんがいたのである。この婆さんが呪文を唱えて小児の患部にフウフウと吹くと、(あーら不思議や、と母がいうのである)いままで泣いていた私がピタリと泣きやんだ。
 こうして一ヵ月通って薬を塗ってホウタイを巻く治療をしているうちに治った。そこで母は目を見張って感嘆したあげくに
「ねぇお婆さん、あんたも年だし、倅さんはあの通りだし(オツムの弱い息子との二人暮らしだった)こんないい秘法がありながら、あなたが死んだら、この世から人助けが消えちまうんだよ。ねッ、私は金儲けのためにその秘伝を盗もうというんじゃないよ。世の中のために教えておくれ」
と伝授をたのんだが、婆さんはウロン臭い目をしただけで返事もしなかった。
 ところがその翌年の同じ月日に私はまた、同じように味噌汁鍋で大ヤケドをしたのである。
 二度目は前よりも重く、悲鳴を最初にあげただけでグッタリして死んだようになった。こんどは戸板にのせられて、爺さまと母とで再び婆さんのところへ運び込まれた。
 婆さんは、
「これは荒神さまの祟りだ。可哀想に助からないかも知れないよ」
と言う。母も観念した。
 それが運よく三ヵ月かかったが助かったのである。それと引換えのように婆さんは脳溢血で死んだ。
 婆さんは晩酌三合を欠かさず、酒屋への借金をチビリチビリ返していたそうだ。母は地団太をふんで口惜しがった。
「呪文を教えてくれりゃあ酒屋の借金ぐらい返してやったのに、惜しいことをした」
という話になって、
「だから、雨乞いの呪文をお前に残そうと思って書き留める気になった」と、いうことになったのである。
 さて、愚にもつかない話をはじめたようだが、実は昔は親の不注意で二度も幼児に大ヤケドを負わしたのを杜撰な育児だと嗤われても、貧しかった農家では朝早く一家は野良に出ていた。
 炊事をするのは婆さまだ。煮たった鍋を居間に運んで窯場に引返している間に、まだ寝ていると思った幼児が這いだすのに気づく筈がない。
 二度目のときは二歳だから、もうモノがわかっているだろう、という婆さまの油断があったのである。
 幸いにして私は生き残ったが、こうした事故やハシカ、疫痢、栄養不良などによって、昭和十五年以前までは日本の乳幼児死亡率は出生千人に九十人と高かったのである。(現在出生千人に五・五人)。少年期になると遊び友だちが、水死や日射病に何人かが取られた。

 総務庁が昭和六十二年九月に発表した高齢者統計によると、「敬老の日」現在、六十五歳以上の老年人口は千三百三十一万人、総人口の一〇・9%を占めていると発表した。
 つまり国民の一割が高齢者だ。また、百歳以上の長寿者は昭和六十二年に初めて二千人を越え、それ以降もふえ続けよう、と厚生省では言っている。
 長寿者番付が初めて発表されたのは昭和三十八年だが、当時は百五十人であったから、十五倍の増加だ。
 人生八十歳時代となった現在、長寿を迎えた人たちは多かれ少なかれ私のような難関を運よく越えて昭和時代に入った。この私たちが青春を謳歌するときに二つの死の門が待っていた。
 結核と戦争である。昭和七年の結核死亡数は十七万九千百九十六人であって、これは人口一万人につき十八・〇%にあたった。(この年のがん死亡数は四万五千二百五十八人である)戦争による犠牲者は昭和二十四年に発表した経済安定本部のものでは、陸海軍ともで三百三十万三百八十六人である。
 戦争は銃後でも被害をうけていて空襲による死亡、行方不明、重傷は四十六万七千五百三十八に及ぶ。艦砲射撃などでは死亡、重傷、行方不明が四十六万九千七百二十三人と多い。なおこれには広島、長崎の原爆による被災者や沖縄の犠牲者は含まれていないのである。
 昭和三十三年に宮本町町内会事務所の二階を借りて、三十年ぶりに私たちのクラスだけの同窓会をやった。
 魚屋の太郎君が肴を見つくろい、酒屋の江添君がビールとジュースを運び入れ、建具屋の大野君が弁当を手配する、というような簡素なものだったが、クラス四十二人のうち二十数名が参集したのは盛会だった。
 この集まりでわかったことは、戦争によった死亡したのは三人だが、結核で亡くなった友は十一人にも及んでいた。
 私は妹三人を年頃になると次々に結核で失っているが、小学校同窓会で親しくしていた友人が次々に欠けていくのも大きな痛手だった。
 日蓄工場(コロンビア)で働いていた巴君は、分家を建ててもらって嫁を迎える時期になって工場を休むようになる。軽い咳をしながら日焼けするほど、運動をしなければ、と街を歩きまわった。
 私が見舞いに行くとムギワラ帽子を冠って縁側で日光浴をしていた。手で輪を作って、それを腕に通し、肩のツケ根までスルスルと持っていき、「こんなに痩せてしまったよ」と淋しく笑った。
 東京の玉子屋に奉公して途中から東京電気(東芝)に勤めだした中山君はもう妻子を抱えていた。近郊の温泉地に湯治に出かけたりして、逢いにいくと日焼けした顔色で元気だったのである。
 盛岡工業校に入っていた佐々木君は結核で川崎に帰ってきた。そして茅ヶ崎に転地し、カルシュウムを摂るためにイナゴを食べている、という便りをよこした。イナゴが食用になることを知らなかった私を驚かせた。
 彼の症状もはかばかしくなく、前途をはかなんで家出をし行方不明となって、今でも手懸りがない。
 信武君も勤めを休んでブラブラしだした。「気をつけてくれよ」と街で出逢ったとき私は声をかけた。そしてこれが最後の見納めとなったのである。
 笹本君は手製の寝台の上で動かなかった。彼は小田原の田辺一雄という人が発行していた『自然療法』という雑誌を読んでいた。一貫して田辺氏は安静療法を説いていて、彼は忠実にそれを守っていたのである。
 食物は何度もよく咀嚼してムダのないようにしていたので、彼のアゴの筋肉はタンコブのように盛上がっていた。しかし骨と皮になっている体がベッドの上に浮いているのを見ると、私は諦めざるを得なかったのである。
 私は結婚して生活が変わったので彼のことを忘れていた。妻は一年後に亡くなり、悲嘆に暮れているところに、彼は回復して通夜に来た。私は吃驚して思わずバンザイと叫んでいた。

 【著者略歴】明治四十五年、神奈川県橘樹郡田島村小田(現・川崎市川崎区小田)に生まれる。祖父は没落農家、父は意志職人。小学校を終えると家業の石工を仕込まれる。昭和六年、一人前の職人となったが、世は変わって失業。板金工をやったが果たせず、苦闘をまぎらすため漫画を描いているうちに本職となる。
(森 比呂志著『わがふるさと~大正から昭和の川崎~』1995年、多摩川新聞社刊)



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