多摩川新聞ブログ

川崎の地域情報を提供する「多摩川新聞」の連動ブログです。

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川崎の歴史あれこれ 「縄文時代の生活を垣間見るタイムカプセル」

2016-07-23 01:24:23 | 川崎の歴史あれこれ
 今からおよそ一万五千年前ごろになると、日本列島では縄文土器が登場し、豊かな森林や内湾の資源をフル活用した生活が営まれるようになります。
 土器を使うことで、煮炊きやアク抜きができるようになり、加熱消毒をしたり、生食には不向きな食材を食べることができるようになりました。そして、食料の貯蔵や保存加工などの新しい技術が発展をはじめます。
 青森県の三内丸山遺跡の発掘調査では、通常の遺跡では腐敗して残らない木製品や漆器、花粉や植物の種子が泥炭層に守られて発見され、従来の縄文時代の生活に対する考え方が大きく変わりました。
 これまでの縄文時代の研究で行われてきた貝塚で出土する貝殻や魚骨、獣骨の分析に加え、近年は各地で低湿地や水辺の遺跡の調査が行われるようになり、新たな知見が得られています。
それは、遺跡が水漬けになっているために、有機質の道具や食材が保存されており、そこから縄文人の豊かな食生活が復元できるからです。
 川崎市内の多摩区宿河原縄文時代低地遺跡は、多摩川左岸の河川敷にあり、二ケ領宿河原堰の改築工事に伴い、河川敷内の低位段丘縁辺部の浸食がすすんだことで発見されました。 
この遺跡からは、縄文時代草創期後半から早期にかけての土器とともに、木の実などを潰す際に使ったと考えられるスタンプ状石器や敲石(たたきいし)、石皿、磨石(すりいし)などが出土しており、水際で行われた植物性食料の加工の痕跡を示す、神奈川県内では最も古い事例です。
 さらに、縄文時代の後期のトチの実やクリが木製品とともに大量に見つかっており、木の実を水にさらしてアク抜きをする場所であったことが分かっています。
 縄文人はシカやイノシシ、魚介類など狩りや漁を行う一方で、総カロリーの八〇パーセントは、ドングリ・クリ・シイやトチといった木の実のデンプンから賄っていたことが遺跡から出土する動植物の分析からわかっています。
木の実は貯蔵穴などで長期間保存され、四季を通じて安定した生活を送る大きな原動力でもありました。
 このように、貝塚や水辺の遺跡は、大昔の人の生活を覗い知ることのできるタイムカプセルなのです。
(川崎市教育委員会事務局文化財課 小柳津 貴子)



現在の宿河原縄文時代低湿地遺跡(左側の護岸画面奥)

川崎の歴史あれこれ 「二ケ領用水と水争い」

2016-05-26 07:38:55 | 川崎の歴史あれこれ
 小田原北条氏の滅亡後、関東入国を契機に徳川家康は戦国時代に荒廃した地域を復興させ、今後を見据えた地域開発をすすめました。その一環として行われたのが、洪水のたびに流路を変える暴れ川であった多摩川の治水と、多摩川から導水し両岸の田畑を潤した二ケ領、六郷、世田谷、大丸の用水の開削でした。
 これらの用水は、幾つかの幹線から小さな水路に分かれ、毛細血管の様に村々の隅々までを潤しました。川崎市内を流れる二ケ領用水が潤す村は六十カ村、幹線延長は約三十二キロメートルにもおよびます。
 この長い用水で、領内の隅々まで公平に水を分配することは並大抵のことではありません。村々では用水組合を結成し、用水の維持管理や水の配分を巡る争いの調整を担わせました。また、物理的にも公平に水を配分するため、分量樋を設置し、下流の水田面積に比例した樋の内法の大小によって水量を決定する方法がとられていました。
 しかし、日照りが続けば農民にとっては死活問題に直結するため、用水をめぐる争いは多数記録されています。
 一八二一(文政四)年は、春から雨が少なく、二ケ領用水下流の村々では深刻な水不足で、飲み水にも困るほどだったと言います。  
 旧暦五月には、下流の村の名主たちが、幕府の役人に窮状を訴え下流に水を流すよう掛け合いましたが、上流の溝口・久地両村の農民たちの妨害にあって、下流に水を流すことができませんでした。たびたび抗議をしても、両村の農民の妨害はやむことが無く、業を煮やした下流の農民たちが、七月、川崎宿久根崎の医王寺の鐘を合図に溝口村へ向かい、名主宅を打ちこわす騒動に発展しました。
 打ちこわしの被害者からの訴えで、下流の村々の名主らは首謀者として江戸の代官所内の牢に収容され、取り調べを受けました。村からは、牢内へ差し入れを繰り返し行い、「年貢の納入手続きに差し支える」と代官所へ名主たちの早期解放を求める訴えを出すなど、事件当事者たちの記録が多数残されています。
このほか、この事件を伝え聞いた近隣の村々でも顛末を伝える記録が残されています。
用水の配分は農民にとって、その年の豊凶を決める大きな関心事だったことがここからも覗えます。
(川崎市教育委員会事務局文化財課 小柳津 貴子)



久地分量樋に変わって置かれた二ケ領用水円筒分水(国登録有形文化財)

川崎の歴史あれこれ 「泉福寺の泥中出現薬師と絵馬」

2016-02-21 22:33:44 | 川崎の歴史あれこれ
 江戸時代中期以降、街道などの交通網が整い、また庶民の生活が安定したことで、庶民が講を組織して大山や伊勢に参詣したり、近郊へ物見遊山にさかんに出かけるようになります。 
江戸に近い川崎市域でも、物見遊山の人々が多く訪れるようになりました。川崎大師平間寺には徳川家斉の参詣後、参詣者が急増したことはよく知られています。
一方で、江戸市中にも信濃善光寺や甲斐身延山久遠寺などが本尊や寺宝の出開帳を行うようになるなど、宗教的な活動がますます活発化していきます。
 こうした活発な宗教的な活動は大寺社のみならず、都市部を中心に小さな祠や寺でも盛んになりました。
突然に何らかの現世利益が噂されて、急速な流行を遂げる「流行神(はやりがみ)」が現れるのも、その一つの表れでした。
 馬絹の泉福寺にはこうした「流行神」の姿を映し出す文化財が残されています。
 現在、泉福寺の三仏堂に安置される木造薬師如来立像は、像高三〇センチに満たない像ですが、ドラマチックな伝説をもっています。
 それは、「江戸時代の末、嘉永年間に田植えの準備をしていた村人が水路をさらっていたところ、泥の中から芳香が漂い、仏像を発見した。その仏像を泉福寺で懇ろに祀り、斎戒沐浴して祈念したところ、住職の夢に仏像が現れ、境内の銀杏の根本に泉が湧き出し、その水を汲んで飲むと諸々の病気が治ると伝えた」というものです。
 根本に霊水が湧きだしたという大銀杏は現在も境内に堂々と枝をひろげており、お寺が薬師如来の利益を伝え参詣を促した広告である「泥中薬師如来略縁起」の版木が現在も大切に保管されています。
 また、現在川崎市重要歴史記念物に指定されている「泉福寺薬師会図絵馬」には、薬師如来を発見した村人たちが驚く様子や、薬師如来の霊験を慕って参詣に詰めかけた人々の様子がいきいきと描かれています。縦七十八センチ、横百十センチ余りの大きな絵馬で、画面からは江戸末期の人々の息遣いが伝わってきます。
 私たちに馴染みが深い絵馬は、願い事を書いて神社に奉納する小絵馬ですが、江戸時代には寺社を荘厳する幅一メートルに及ぶ大絵馬も奉納されました。泉福寺の大絵馬も、寺の繁栄を願う地元の人々によって奉納された貴重な文化財です。       
(川崎市教育委員会文化財課 小柳津 貴子)


『板面着色絵馬泉福寺薬師会図』

川崎の歴史あれこれ 「御幸梅林と明治天皇」

2016-01-09 14:41:37 | 川崎の歴史あれこれ
 正月の松が取れ、いよいよ寒さが本格的になると、可憐な梅の花の開花が待ち遠しくなります。
その面影はわずかにしか残っていませんが、成島柳北により「東京新橋を距(へだつ)ること僅か十余町にして一大香世界有り 梅樹鬱然として林を成す 其の数幾千萬株成るを知らず…」と表現された梅林が、現在の幸区小向には広がっていました。
『新編武蔵風土記稿』によれば、小向の梅は江戸時代寛文(一六六一~一六七二)年間に植え始められ、江戸市中に食用として盛んに出荷されていました。
しかし、観梅の名所として人気を博すようになったのは明治時代になってからのことでした。鉄道が開通し川崎駅が開業したことで、川崎大師や多摩川一帯への日帰り行楽客が増えるなか、明治十三年に成島柳北が『朝野新聞』に「小向村探梅記」を執筆したことがきっかけとなり、多くの人が観梅に訪れるようになりました。明治十七年三月十九日には、その評判により、明治天皇が観梅に御幸されました。御幸とは、天皇(上皇・法皇・女院を含む場合も)の外出を意味する言葉です。  
地元では明治天皇が観梅に訪れたことがとても誇らしく受け止められ、明治二十二年の市制・町制の施行の際に、南河原、戸手、小向、古川、塚越、下平間の六ケ村と上平間村、中丸子村が合併してひとつの町となると、天皇の御幸を記念して「御幸(みゆき)村」と名付けられました。
後には田山花袋も小向の梅林について、「六郷川に添った形がちょっと他の梅林にみることのできない風致があった。(中略)川の大きく折れ曲がっているさまも趣致がある。白帆と梅林との調和も面白い。」と記しています。
その梅林も、明治の末頃には枯死などによって衰微著しくなります。それを惜しんだ横浜の実業家・原三渓により、三渓園に移植され、現在でも三渓園の来園者の目を楽しませています。
小向の梅は、多摩川大洪水により壊滅状態に陥りますが、昭和になると明治天皇の御幸を記念した碑が地元の有力者たちによって建てられ、梅林の記憶を留める一助になっています。
現在、幸区役所では市制百周年をめざし、御幸公園の梅林の保全や活用に向けて、御幸公園梅香(うめかおる)事業を進めています。              
(川崎市教育委員会文化財課 小柳津 貴子)


御幸公園の明治天皇臨幸御観梅跡碑

タイ・ラオス経済ミッション 参加者募集

2014-11-02 16:00:38 | 川崎の歴史あれこれ
 川崎市と川崎商工会議所は、11月16日から21日まで、タイ・バンコクとラオス・ヴィエンチャンへの経済ミッションを行うが現座、参加者を募っている。
 メコン地域の中心地であるタイは、政治面の不安要素はあるものの依然として投資先としての大きな魅力を持っている。また、ラオスは、物流上の利点や安価な労働力、靍い経済成長率などから、新たな投資先として注目されている。

 このたび、市内企業のタイ、ラオスでの新たなビジネス活動の一助となることを目的に、タイ、ラオスで現地政府機関などと進出サポートに係る覚書を締結するほか、現地工業団地の状況や日系企業の動向、インフラ整備状況の視察をなどを行う「川崎タイ・ラオス経済ミッション団」への参加者を募集している。団長は福田紀彦川崎市長、山田長満川崎商工会議所会頭。訪問地はタイ・バンコク、ラオス・ヴィエンチャン。定員30人。
 主な活動予定は、タイでは、川崎市とタイ工業省との経済連携促進に係る覚書の締結。川崎商工会議所とタイ商業会議所との協力協定書の締結。製造業関係展示会視察など。ラオスでは、ラオス副首相への表敬。川崎市とラオス計画投資省とのラオス進出支援に係る覚書の締結。川崎市とヴィエンチャン特別市との経済交流に係る覚書の締結。ヴィエンチャン近郊経済特区、日系企業視察。ラオス商工会議所との企業ビジネス交流会のかいさいなど。
 問い合わせ・申込先は市経済労働局国際経済推進室☎044(200)2336、FAX044(200)3920へ。



夜空に華麗な花火大会

2014-10-16 12:40:01 | 川崎の歴史あれこれ
 川崎市制90周年記念「多摩川花火大会」が8月23日夜、高津区の多摩川河川敷で開催された。約6千発の花火が夜空を焦がし、約30万人(主催者発表)を魅了。
 市制90周年のロゴマークを表現した仕掛け花火も。東京側の「世田谷たまがわ花火大会」と同時開催され、約6千発が打ち上げられた
(細田昌嗣写す)

ナタリー・コールがやってくる モントルー・ジャズ・フェスティバル 11月21日~30日 5会場で

2014-10-16 12:37:39 | 川崎の歴史あれこれ
 モントルー・ジャズ・フェスティバル・ジャパン・イン・かわさき(MJF)2014が今年も11月21日から30日まで5つの会場で開催される。今年で4回目。
 今回の目玉は、ジャズ界の王者ナット・キング・コールの愛娘ナタリー・コールが初登場する。また、日本・スイス国交樹立150周年にあたる今年は、これまでの内容に加えて、新たに「ジャズ・ソロ・ピアノ・コンペティション」を開催する。そのほか、世界的アーティストによる公演やワークショップをはじめナイトマーケットやフリーライブなど今回もさまざまなプログラムを用意し「音楽のまち・かわさき」にふさわしい秋の川崎をジャズでいろどる。チケット好評発売中。
 主なプログラムは次の通り。11月22日(土)、ナタリー・コール。ミューザ川崎シンフォニーホール。14:00開演。11月22(土)、23日(日祝)、WINGER+SLAUGHTER。CLUB CITTA。17:00開演。11月24日(月)、国府弘子with Fried Pride。ラゾーナ川崎プラザソル。14:00開演。11月25日(火)、小山太郎Group~ジャズドラマレジェンズに捧ぐ~。ラゾーナ川崎プラザソル。19:00開演。11月26日(水)、渡辺香津美×中牟礼貞則JAZZ GUTR MASTERS。ラゾーナ川崎プラザソル。19:00開演。11月27日(木)、ユキ・アリマサ×原朋直duo。ラゾーナ川崎プラザソル。19:00開演。11月28日(金)、由紀さおり+洗足学園Get Jazz Orechestra。洗足学園前田ホール。18:30開演。11月30日(日)、ORIGINAL PONTABOX+エリックミヤシロEM BAND。昭和音楽大学テアトロ・ジ-リオ・ショウワ。14:00開演。
 問い合わせは、同実行委員会事務局☎044(222)5805。

川崎の歴史あれこれ  「柳田国男と川崎」

2014-10-16 12:33:43 | 川崎の歴史あれこれ
『遠野物語』で知られる日本民俗学の父・柳田国男(一八七五~一九六二)が川崎の地に眠っていることを知っていますか?
柳田は全国の農山村を歩き、村の生業、生活、祭祀、宗教、家族、習俗をはじめ、方言や地名の研究などで大きな業績を残しました。
 彼にとって、地域を歩き土地の人々から話をきくことは、地域を発見し、民俗学的な思索を深めるために、大事なことでした。北多摩郡砧村(現在の世田谷区成城)の自宅から多摩川を越えて稲城や登戸、生田や王禅寺など、多摩丘陵をよく歩いていたそうです。
 晩年の柳田国男は、教育への関心を深め、身の回りのことがらを観察し、自分の言葉で考え、意見を言うことのできる子どもを育てる教科書をつくることに熱心に取組みました。
 戦後すぐ、GHQ(連合国総司令部)により、それまでの歴史教育などが停止され、新しく「社会科」が設けられました。しかし、まだ教科書はできておらず、各地で小学校関係者による地域の実情にあった教科研究が活発でした。
 柳田も身の回りのことがらから社会に関心を持たせ、自分の言葉で質問や議論ができ、そして答えを見つけることのできる子どもを育てることが重要だと考え、子息が通った成城学園初等学校の教員たちと社会科のカリキュラムづくりに取り組んでいます。 
彼は、国民全体の教育の質を上げるためには農村部の子どもにも理解できるものではなくてはならないと考え、川崎市立西生田小学校の教員たちにこのカリキュラムづくりに参加するよう呼びかけました。
 西生田小学校区の細山地区は、農村らしい生活が戦後間もない時期に残っていたからでしょう。柳田国男の指導をうけて作られた西生田小学校の社会科カリキュラムは昭和二十六年二月に研究授業が行われ、成城学園初等学校での実践をへて昭和二十八年に柳田国男著の社会科教科書『日本の社会』に結実しています。
多摩丘陵を愛し、そこに広がる村や人々の暮らしから地域の成り立ちを発見し、教科書や学校教育を通じてそれを社会に還元しようと試みた柳田国男は、いま、夫人とともに南生田の春秋苑に眠っています。小高い丘から地域や子孫の暮らしを見守る伝統的な日本人の死生観を念頭におき、自ら墓所を選んだのでしょう。
(川崎市教育委員会文化財課 小柳津 貴子)


柳田国男著小学校社会科教科書『日本の社会』実業之日本社刊

橘地区レディース杯バレーボール大会 久末町内会Aチームが優勝

2014-07-26 08:00:05 | 川崎の歴史あれこれ



 第45回「橘地区レディース杯バレーボール大会」は7月13日、高津区宇奈根の多目的広場で行われ、同地区代表の5チームが参加して熱戦が繰り広げられた。その結果、久末町内会Aチームが優勝し、千年町会が準優勝、3位は子母口北町会、4位は久末町内会Bチームだった。
上位2チームの久末町内会Aチームと千年町会チームは、9月7日に行われる「高津区バレーボールボール大会」に出場し、高津地区2チームと争われ、高津区ナンバーワンが決まる。 

川崎の歴史あれこれ 「梨と桃のふるさと」

2014-07-26 07:55:53 | 川崎の歴史あれこれ

当麻辰二郎の功績を記した「種梨遺功碑」(川崎大師境内)

 夏から秋にかけて、市内北部では梨のもぎとりや直売が盛んですが、戦前には、市内各地でさまざまな果物が栽培されていました。それを物語るのが、川崎区港町の多摩川べりに昭和三年に造られた国登録有形文化財の川崎河港水門です。水門頂部の彫刻は、当時川崎で栽培されていた果物が盛られた籠を表現しています。
 今の川崎区大師地区で梨の栽培が始まったのは、江戸時代中期のことです。十九世紀前半に編まれた『新編武蔵風土記稿』にも、川崎の梨が記録されています。川崎の梨は多摩川が運ぶ滋養の高い土壌に育まれ、盛んに栽培され、様々な書物にも登場します。
 安政三(一八五六)年の大暴風雨による高潮で、大師河原の梨は壊滅的な被害を受けましたが、明治初期には再び盛んに栽培されるようになります。
明治二十六年に出来野の当麻辰次郎さんが発見した長十郎梨は、甘く病害虫に強く栽培しやすいこともあり、全国に広がりました。現在では品種改良が進み、長十郎梨は流通しなくなりましたが、授粉用にはたくさん栽培されています。
 桃も江戸時代から栽培されていたことは、池上幸豊が代官所に土地利用について伺いをたてた文書から分かっています。この頃の桃は、今のような水蜜桃ではありませんでした。明治になると水蜜桃が横浜の外国人を通じて入ってきて、川中島の石渡七左衛門さんがこれらの外国種の桃の栽培を始めました。品種改良も熱心に研究され、明治二十九年に田島村大島(現在の川崎区大島)の吉沢寅之助さんが伝十郎桃を開発したほか、早生水蜜、田中早世などの品種が次々に生み出されました。特に伝十郎桃は形や色、味もよく、病虫害にも強く収穫量も多いことから、全国に名を馳せました。吉沢さんは伝十郎の実生から新しい品種「橘早生」を生み出しています。橘早生は、その後神奈川県の農業試験場で「白桃」と掛け合わされて「白鳳」になり、現在でも多く栽培されています。
川崎区大島の大島八幡神社には、伝十郎桃を開発した吉沢寅之助さんを顕彰する「温故知新の碑」が建てられています。
 近代化をたどる川崎では、埋め立てを進め近代工場を誘致する一方で、梨や桃のほかにもイチジクやブドウ、梅や柿などの果物が盛んに栽培され、新しい品種を生み出していたのです。
(川崎市教育委員会 文化財課・小柳津貴子)