多摩川新聞ブログ

川崎の地域情報を提供する「多摩川新聞」の連動ブログです。

根岸 円墳群と祝い唄の伝承

2017-10-25 00:12:53 | 川崎地名遊歩道

 東生田緑地の竹林を通り抜けると、根岸(ねぎし)稲荷の赤い二重の鳥居が見えてくる。この根岸稲荷から歩道橋をはさんで根岸古墳群が広がっている。
 「根岸」は、多摩川が桝形の丘陵のふもと近くに沿って流れていたころ、ここで五反田川が合流していたところである。その流れが丘陵の根方にあたることから、地名が生まれていたといわれている。
 根岸古墳群は、標高五十六㍍ある丘陵の尾根にあり、竹林のなかに五基の古墳が盛り上がって見える。
 丘陵東端の斜面に築かれている第一号墳は、直径十一・五㍍で高さが一・六㍍の円墳である。その西側には同じ規模の第二号円墳がある。
 この二基の古墳から離れて丘陵の南斜面には三基まとまって円墳が見られる。この中の第三号墳は、自然の地形を巧みに利用した楕円形の円墳である。その北側に接する第四号墳は、古墳群の中では最大のもので東西径が十八・五㍍に南北十九メートルあり、高さが二・二㍍の円錐である。
 いずれも七世紀後半から八世紀にかけて築かれており、古墳時代終末期のものといわれている。
 古墳時代は、それ以前の弥生時代後期からの稲作の生産が広がり、朝鮮半島から伝えられた須恵器づくりが始まっている。根岸古墳群でも、昭和四十六年(一九七一)に二基の古墳を発掘調査したとき、副葬品として須恵器をはじめ直刀の破片や玉類などが発見された。
 古墳の内部構造は、木棺を納めた部分が小石を敷きつめた床になっており、規模が小さいところから高い権力者のものではなく、豪族の墓と見られている。
 古墳は単なる墳墓ではなくて、大和政権が全国的な支配をすすめるために、各地の支配者(首長)に地域の支配権と祭祀権をあたえた象徴であった。それと同時に支配者としての権威を、後継者に引きつぐための儀式の場でもあったと推測されている(『神奈川の遺跡』)。
 多摩川と五反田川の合流点だった根岸は、主要地方道の世田谷町田線と生田横浜線が交差する交通の要にもなっている。生田根岸誇線橋の真下には、小田急電鉄が走り五反田川が流れている。
 五反田川は、川崎市麻生区細山から小田急線に沿って蛇行しながら生田大橋を抜け、根岸橋を通って二ケ領本川を結ぶ四・七㌔㍍の山地性急流河川である。迂回し曲折した流路であるため、その流れ勾配も急竣で台風などの大雨に見舞われると、下流部の橋がネックとなって水害を引き起こしてきた。
 しかし水量の少ないときには、水がきれいに澄んで橋の上からは魚影ではなく種類がわかるくらいの清流だった。水車小屋も昭和二十年(一九四五)ごろまで八個もあり、米つきは小麦粉・そば粉などを挽いていたのだった。
 五反田川の流域には、高石や細山の祭り囃子、養蚕にかかる唄、農作業の労働唄など伝統芸能が生まれ、古民謡の『五反田節』はいまも地元保存会の人びとによって唄いつがれている。

 これほどの旅のつかれを 五反田の酒屋で忘れたか
 忘れがたなや五反田の 酒屋の小娘子
 鳥なれば巣もなかけたや 五反田の 境のあの榎
 榎にゃ蔦がからまる  娘にゃ殿御がからまる

 「これさま(ちらさま)」という祝い唄があるが、五反田節はその替え歌である。素朴で人情豊かな人びとの貴重な祝い唄の伝承である。
(前川清治著『かわさき地名遊歩道』1992年、多摩川新聞社刊)

(20)菅馬場 息づく多摩丘陵の自然

2017-01-27 01:01:30 | 川崎地名遊歩道
 「多摩美ふれあいの森」から再び区境を越えて多摩区に入る。多摩自然遊歩道の最終コーナーの山道を下って、小田急線の読売ランド駅前にいたる。
 その山道一帯は、日本女子大付属高校に接する南斜面地で、「多摩緑地保全地区」に指定されたところだ。面積は三・六ヘクタールだが、川崎市が用地を取得したのは〇・六ヘクタール。残りの三ヘクタールは地権者の協力をえて「協定」が結ばれている。川崎市多摩区西生田一丁目から菅馬場(すげばんば)四丁目にあたるが、「馬場」の地名は代官屋敷の馬場があったところから生まれた。
 緑地保全地域となるまでには、川崎市麻生区の多摩美五町会連合会や多摩自然遊歩道愛護会などの粘り強い住民運動が積み重ねられてきた。
 緑の条例にもとづく保全地区の指定申し出が行われたのは昭和四十九年(一九七四)十一月のことである。審議会は一年後「植生、景観ともに良好なので総じて保全することが適当である」との答申を出した。
 ところが、その直後から民間業者による開発の動きが起こった。土地の測量が始まり、地権者との買収交渉が重ねられた。その一方で川崎市は、審議会からの答申を受けて「緑地保全協定」の協力要請を、地権者に熱意をこめて繰り返していた。
 住民運動も大きく高まっていた。川崎の環境保全市民会議や多摩丘陵の自然を守る市民の会などが中心となって現地調査をすすめ、「ふるさと自然遊歩道づくり」の取り組みが盛りあがっていた。
 実行委員会をつくって、「歩く会」や「署名運動」がすすめられた。「歩く会」には川崎市から環境保全局長や教育委員会文化課長も参加し、多摩丘陵の自然が息づくクヌギ、コナラ、アラカシなどの林の中を、住民とともに探歩した。この中で山野に自生する落葉樹「ムラサキシキブ」が数多く見られ、「紫式部の小径」の名も生まれた。淡い紫色で細かな花をつけ、ほのかな香りが漂って人びとの心をなごませてくれる。
 足もとには、暗紫色の花をつけるタマノカンアオイやタマアジサイ、ホタルブクロなどの草花が自生し、自然の宝庫が広がる。タマノカンアオイは、多摩丘陵にしか自生していない植物であり、植物学者の牧野富太郎博士によって発見されている。
 うまのすずくさ科の常緑多年草で小さな花をつける。濃い緑色の葉の表面には、白斑の脈が走っており、茎は短い。その根のきわに地面を割るようにして、小さな顔をのぞかせる。
 この「歩く会」が行われた翌年には、「多摩自然遊歩道」が実現した。さらに五年後には、地権者との話し合いが実って「緑地保全協会」(面積五ヘクタール)が結ばれた。
 多摩自然遊歩道の愛護会が周辺町内会の住民によってつくられ、民間業者による開発の波を防ぐために市議会に請願書も出された。「多摩自然遊歩道周辺一帯の自然環境の保全」を求めていた。
 すでに小沢城址を中心とした緑地保全地区の都市計画決定が行われ、面積六〇・一六ヘクタールが川崎市によって買収されていた。その成果につづいて「多摩緑地保全地区」も、昭和六十三年(一九八七)末に都市緑地保全法にもとづく都市計画の決定が行われたのだ。「点から線へ、線から面へ」の緑地保全の運動が大きな成果を生み出した。
 いま、地球環境を守るキャンペーンが盛んに行われている。身近で森林浴を楽しめる足もとからの緑市保全の取り組みは、待ったなしのところにきており、緑なくして人間は生きられないことを教えている。
(前川清治著『かわさき地名遊歩道』1992年、多摩川新聞社刊)

菅馬場 息づく多摩丘陵の自然

2016-11-08 13:12:15 | 川崎地名遊歩道

 「多摩美ふれあいの森」から再び区境を越えて多摩区に入る。多摩自然遊歩道の最終コーナーの山道を下って、小田急線の読売ランド駅前にいたる。
 その山道一帯は、日本女子大付属高校に接する南斜面地で、「多摩緑地保全地区」に指定されたところだ。面積は三・六ヘクタールだが、川崎市が用地を取得したのは〇・六ヘクタール。残りの三ヘクタールは地権者の協力をえて「協定」が結ばれている。川崎市多摩区西生田一丁目から菅馬場(すげばんば)四丁目にあたるが、「馬場」の地名は代官屋敷の馬場があったところから生まれた。
 緑地保全地域となるまでには、川崎市麻生区の多摩美五町会連合会や多摩自然遊歩道愛護会などの粘り強い住民運動が積み重ねられてきた。
 緑の条例にもとづく保全地区の指定申し出が行われたのは昭和四十九年(一九七四)十一月のことである。審議会は一年後「植生、景観ともに良好なので総じて保全することが適当である」との答申を出した。
 ところが、その直後から民間業者による開発の動きが起こった。土地の測量が始まり、地権者との買収交渉が重ねられた。その一方で川崎市は、審議会からの答申を受けて「緑地保全協定」の協力要請を、地権者に熱意をこめて繰り返していた。
 住民運動も大きく高まっていた。川崎の環境保全市民会議や多摩丘陵の自然を守る市民の会などが中心となって現地調査をすすめ、「ふるさと自然遊歩道づくり」の取り組みが盛りあがっていた。
 実行委員会をつくって、「歩く会」や「署名運動」がすすめられた。「歩く会」には川崎市から環境保全局長や教育委員会文化課長も参加し、多摩丘陵の自然が息づくクヌギ、コナラ、アラカシなどの林の中を、住民とともに探歩した。この中で山野に自生する落葉樹「ムラサキシキブ」が数多く見られ、「紫式部の小径」の名も生まれた。淡い紫色で細かな花をつけ、ほのかな香りが漂って人びとの心をなごませてくれる。
 足もとには、暗紫色の花をつけるタマノカンアオイやタマアジサイ、ホタルブクロなどの草花が自生し、自然の宝庫が広がる。タマノカンアオイは、多摩丘陵にしか自生していない植物であり、植物学者の牧野富太郎博士によって発見されている。
 うまのすずくさ科の常緑多年草で小さな花をつける。濃い緑色の葉の表面には、白斑の脈が走っており、茎は短い。その根のきわに地面を割るようにして、小さな顔をのぞかせる。
 この「歩く会」が行われた翌年には、「多摩自然遊歩道」が実現した。さらに五年後には、地権者との話し合いが実って「緑地保全協会」(面積五ヘクタール)が結ばれた。
 多摩自然遊歩道の愛護会が周辺町内会の住民によってつくられ、民間業者による開発の波を防ぐために市議会に請願書も出された。「多摩自然遊歩道周辺一帯の自然環境の保全」を求めていた。
 すでに小沢城址を中心とした緑地保全地区の都市計画決定が行われ、面積六〇・一六ヘクタールが川崎市によって買収されていた。その成果につづいて「多摩緑地保全地区」も、昭和六十三年(一九八七)末に都市緑地保全法にもとづく都市計画の決定が行われたのだ。「点から線へ、線から面へ」の緑地保全の運動が大きな成果を生み出した。
 いま、地球環境を守るキャンペーンが盛んに行われている。身近で森林浴を楽しめる足もとからの緑市保全の取り組みは、待ったなしのところにきており、緑なくして人間は生きられないことを教えている。
(前川清治著『かわさき地名遊歩道』1992年・多摩川新聞社刊)

菅仙石 隠れ住んだ義経と弁慶

2016-03-18 14:18:03 | 川崎地名遊歩道
 雑木林に囲まれた小沢城址をあとにする。丘陵を削って宅地化された通りを抜けると、臨済宗の「仙石山寿福寺(せんごくざんじゅふくじ)」がある。
 寿福手のある仙石は、文字どおり山あり谷ありの仙人が住むような郷であった。寺伝によれば、「この山に仙人道鏡がこもり、練行修身をつんだので“仙石”とよばれた」とある。
 寿福寺の歴史は古い。『江戸名所図会』によれば、「推古天皇六年(五九八)に聖徳太子が建立」と書かれている。その後、たび重なる災火によって寺は荒廃していた。それを、鎌倉にある建長寺八十四世の大安法慶禅師が永徳年間(一三八一~八四)に中興し、天台宗から臨済宗へ改宗してから隆盛したといわれる。
 これを裏づけるように永徳二年(一三八二)、足利幕府の第二代関東公方だった足利氏満によって大会堂、善慶伝(ぜんおうでん)(本堂)、養護廟(ようごびょう)の三堂宇が造営された記録もある。
 参道には黒松の並木があって山門から境内に入ると、裏山の松と竹林を背景に本堂、観音堂、宝物倉、鍾楼、庫裡などが点在している。本堂には、室町時代後期の作といわれる頂相木造国一禅師坐像が安置されている。頂相(ちんそう)とは禅宗高僧の肖像をいい、像は写実的である。像の高さは四十六㌢で寄せ木造り。曲彔(きょくろく)とよぶ椅子に座り、手には払手(●ルビ=ほっす)を持ち、玉眼が入っている。
 本増の胎内に納められていた銘札と首板の銘文によって正徳五年(七一五)に三橋薩摩、明和六年(一七六九)には三橋永助が、それぞれ修理したことが明らかになっている。最近になって川崎市教育委員会が重要歴史記念物に指定した。
 国一禅師は禅宗の高僧で、大安法慶禅師にあたる。元亨元年(一三二一)に亡くなっている。
 禅宗は厳しい座禅修道によって自ら会得して悟りを開く仏教であり、達磨大師が始祖である。師の導きをもっとも重視する。師のなきあと肖像画や肖像彫刻により、伝法の証として弟子たちによって尊ばれ、あがめられてきた。国一禅師坐像も、その一つである。
 寿福時には、このほか室町時代前期の作の木造十一面観音菩薩坐像、江戸時代の作である木造達磨大師坐像がある。十一面観音菩薩坐像は、玉眼入りで黒塗り。彫技は丁寧で天衣を台座上に垂下させ、宋元風の特色を持っている。
 代々の住職や客人によって写されたという経文もある。その中には文治年間(一一八五~八九)に、鎌倉から奥州平泉に逃れる途中の源義経と弁慶が、ここに隠れ住んでいる間に「大般若経」を移した経文もふくまれている。
 義経と弁慶の鐙(あぶみ)二具、袈裟も残されている。本堂裏の五財弁天池の近くには「弁慶のかくれ穴」、仙石の入口には「弁慶渡らずの橋」という土橋もある。その近くには「弁慶の足跡石」もあった。
 五財弁尊天池では、千葉県検見川遺跡で発見された古代ハスの花を咲かせた大賀一郎博士からの貴重な蓮の花も見ることができる。
 『江戸名所図会』にも取り上げられた“仙石十景”は、寿福寺を中心として景観である。いまは指月橋と小沢城址に残る光照崖が、わずかに面影をとどめている。
 仙石十景とは、弁財天、大黒天、稲荷大明神をまつった養護廟、白い湧き水の吐玉泉(とぎょくせん)、展翼峰(てんよくほう)、採草阜(さいそうふ)、晩成室(ばんせいしつ)、攫霧松(かくむしょう)、餐霞谷(さんかこく)、瓢界亭(ひょうかいてい)に光照崖(こうしょくがい)と指月橋である。

菅城下 三沢川沿いに神社仏閣

2016-02-21 22:35:56 | 川崎地名遊歩道
 多摩丘陵の裾野をぬうように、曲がりくねって流れる三沢川は、昔から洪水に悩まされてきた河川である。
 全長十・二キロメートルの一級河川である三沢川は、川崎市麻生(あさお)区の黒川地先に水源がある。小さな谷川は黒川地区の谷間を急勾配で流下すると、東京都稲城(いなぎ)市に入る。京王電鉄相模線を横切って再び川崎市域に入ると多摩区の菅城下(すげしろした)で分水し、多摩川へ直結する新三沢川と二ケ領用水に合流する旧三沢川にわかれる。
 これまで三沢川は、長雨や豪雨が降るたびに洪水や浸水の被害に見舞われてきた。これは上流から押し流された土砂で下流の川底が埋まるためである。
 そこで洪水防止のために新しく放水路を新設する工事が行われた。工事は昭和十六年(一九四一)に始められた。戦争中に一時中断したが、戦後になって完成した。新三沢川の誕生である。
 ところが昭和三十年代に入って三沢川は、またも洪水被害に見舞われた。上流部での丘陵開発が始まり、大規模な区画整理事業が行われた。丘陵山林の保水能力がどんどん失われ、下流部での水害発生の原因となったのである。
 再び三沢川の改修工事が始まった。部分的は河道の修正や川底の掘り下げ、堤防を築くなど護岸の整備がつづられてきた。三沢川の両岸の側道を歩くと家が低い位置にあって側道が高くなっている。洪水防止の護岸工事によって生じたものである。
 旧三沢川沿いには、古い歴史をもつ神社や仏閣が多い。子之神社に近く天台宗の福昌寺(ふくしょうじ)と法泉寺がある。
 金剛山福昌寺は、大正十二年(一九二三)に落雷で焼失しているため、古文書もなく寺の歴史は正確にわからない。新編武蔵風土記稿には、賢心阿闍梨(けんしんあじゃり)が開山したとの記録が残っている。
 幸いにも恵心僧都(えしんそうず)の作といわれる本尊の木造阿弥陀如来立像と一冊の過去帳が残った。過去帳からみて徳川三代将軍・家光につかえた旗本の山根壱岐守正盛が、領地を寄進して福昌寺を再建したようである。
 大谷山法泉寺は、文治三年(一一八七)の開山で本尊の木造阿弥陀如来坐像をはじめ数多くの仏像がある。山門をくぐって境内に入ると、大きな松の根元に丸彫りの子育て地蔵を乗せた六面塔がある。隣接の薬師堂は、法泉寺によって管理されている。
 旧三沢川にかかる仙谷十景の一つ指月橋(しげつきょう)と新三沢川の新指月橋は、小沢城への道につながる玄関口だが、近くには八雲神社がある。
 八雲神社は、鎌倉時代の創始といわれている。祇園精舎の守護神である牛頭天王(ごづてんのう)がまつられていた。天王社とよばれていたが明治時代の神仏分離令で祭神を素戔鳴尊(すさのおのみこと)に改め、八雲神社となった。
 大祭は七月十八日に天王祭として行われ、鳥居の左右に大きな旗が立てられる。左の旗には「草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)」、右の旗には「大蛇を退治て」と書きこまれる。
 祭神の素戔鳴尊は、「疫病から人びとを守り、暑熱をさけ、人のうらみをはらいのける力をもつ」といわれる。牛頭天王も行疫神としてあつかわれているところから、習合されたものと思われる。
 菅城下の地名は、いうまでもなく小沢城の直下にあたるところから由来する。川崎市多摩区の東端にあって稲城市に接しており、三沢川以北の平地にある。一帯が水田だったところも、いまは住宅地と化し、ところどころに果樹園が残っている。

かわさきから世界へ発信 川崎国際環境技術展

2016-02-03 15:33:14 | 川崎地名遊歩道
 今、かわさきから世界に伝えたい、環境技術――。環境に配慮した製品や技術、ノウハウを幅広く集め、ビジネスマッチングの活性化を目ざす「川崎国際環境技術展2016」が来月18、19の両日、中原区の等々力アリーナで開催される。入場無料。

2月18,19日開催
 同展は、これまでの川崎の環境への取り組みや国内外の企業が持つ優れた環境技術、生産工程に組み込まれた環境技術などの情報を川崎の地から広く国内外へ発信し、世界に誇れる環境技術や製品などを有する企業と国内外の企業などとのビジネスマッチングの場を提供することで、環境分野での産業交流、技術移転による国際貢献の推進を目的
とするもの。
 主な出展企業は、環境改善技術、廃棄物・リサイクル技術、エネルギー、エコプロダクト、環境への取組、国際、産学官連携などの分野のほか小品コーナーも設けられ、200ブースが出展する。
 主なプログラムは、18日はステージでは、オープニングセレモニー、市長プレゼンテーションの後、水素エネルギーセミナーとして「水素の大規模貯蔵輸送技術と今後の展望」「燃料電池自動車MIRAIの開発と水素社会の耳珠減に向けて」と題して、それぞれ専門家がセミナーする。また、特別講演は、東京工科大学足立芳寛教授が「世界が取り組み始めたCOP21」と題して講演する。
 19日には、セミナー会場で海外企業などビジネスプレゼンテーションや環境ビジネスアライアンスマッチングセミナーなどが開かれる。そのほかのイベントとして、〔テーマ企画〕世界をリードする川崎のポテンシャルの発信。グリーンイノベーション(環境産業)、ライフイノベーション(医療産業)、ウェルフェアイノベーション(福祉産業)など。また、各企業の協力により様々な製品の照会やエコカー試乗体験や環境出前授業なども開かれる。
 なお、開催期間中は武蔵小杉駅(JR南武線・東急東横線・目黒線)北口からバスで約7分。北口から無料シャトルバスを運行する。
 昨年は2月5,6日に実施され、出展者数は138団体220ブースで約1万1300人が来場し、約380件がビジネスマッチングに成功した。また、海外からは中国(上海、青島、瀋陽ほか)、韓国、ベトナム、タイ、アメリカ、ドイツなど33カ国から約220人が参加した。
 問い合わせは、同展実行委員会事務局〒210-0007川崎区駅前本町11-2、フロンティアビル10階電話044(200)2313、FAX044(200)3920

川崎地名遊歩道『菅 弓矢で鬼を討つ神事』

2016-01-09 14:38:22 | 川崎地名遊歩道

 JR南武線の稲田堤駅から駅前商店街を通りぬけ、府中街道に出る。この府中街道沿いには、「菅の六地蔵」とよぶ地蔵菩薩が一体ずつ点々と祀られる。
 菅村の馬場谷(ばんばやと)にあった代官屋敷に六体の地蔵が祀られていたが、地震による山崩れにあって埋まった。その後、村内に子供の疫病が流行し、六地蔵のたたりだとの噂が広がった。そこで六地蔵を掘り起こし、府中街道沿いにまつって供養したという伝承が残っている。
 菅村については、「菅の多く生ぜし所なれば、かく名づけしか。南より西へかけてはすべて丘にして、南北多摩川の岸の方へよりて、又平地なり。水田は真土にして砂交じれり」と新編武蔵風土記稿に記録されている。
 菅村は多摩郡小沢郷に属していたのが、元禄三年(一六九〇)に橘樹郡稲毛領に編集されている。これは幕府が二ケ領用水の取水口を中野島と菅の境界に設けるため、菅村を天領としたことにある。
 その菅村は、上菅と下菅に分かれていた。それぞれ名主がいて、神社も分かれていた。上菅は八雲社、下菅は子之神社(ねのかみしゃ)であった。
 府中街道を横断し、臨済宗の延命山長松寺(ちょうしょうじ)の前を通り過ぎると三沢川に突き当たる。左折して川沿いに下ると、子之神橋がある。橋を渡ると天台宗の法泉寺(ほうせんじ)があり、その奥に子之神社がある。
 子之神社の創建は鎌倉時代といわれ、根之神社と書かれていた。保元の乱(一一五六年)のとき、鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)が源義朝に向けて放った矢じりを、義朝の子の義経が所持していた。この地を訪れたさいに、その矢の根を地主明神の祠に納めて“根神”(ねのかみ)と名づけたという。また稲毛七郷の武士が、馬場谷で流鏑馬(やぶさめ)を行い、“子”(ね)の方向に祠を建てて矢の根を納めたことから、子之神と称したともいわれている。
 子之神社では、いまも年の初めに悪魔を払う“お的”とよぶ歩射の神事が、毎年一月九日の祈念祭につづいて行われている。
 祭具の弓は、楊の木が用いられたが、今は梅の枝で二張りつくられる。矢に用いる矢篠は一年生のものが使われ、矢羽は半紙で作られている。
 的は、葦を二つに裂いてつぶし、網代に編んだ正方形のものをつくる。表は黒三条と白二条の円を描き、裏は「鬼」と書いた羊紙が張りつけられる。
 この二張りの弓と矢で、神官が最初に表鬼門と裏鬼門の空へ向けて矢を放つ。つづいて的へめがけて矢を射る。このあと氏子や希望者などが二人並んで五本ずつ矢を射る。最後は氏子会の当番が的の裏に貼ってある「鬼」の字を打ち抜いて、五穀豊穣と村内の安全を祈るという神事である(『川崎の民俗』)。
 子之神社の社殿は、いくたびか焼失している。明治初期に改築されて現在にいたっているが、扉のところに“お百度参り”の数を表示する百珠のソロバンがかけられている。
 神社に隣接して「菅北浦緑地」が、三沢川沿いに広がっている。日本住宅公団が計画した西菅土地区画整理事業の中で確保された緑地である。
 “緑の憲法”とよぶ自然環境保全条例の制定を求める直接請求運動が起こり、昭和四十八年(一九七三)十月に条例は実現した。この条例をもとに川崎市は、住宅公団へ計画の見直しを要請し、面積五・五㌶の緑地保全が行われた。
 クヌギ、コナラを主体とした二次林で、残り少ない多摩丘陵の自然が貴重な文化財とともに一体となって保全されることになった。
(前川清治著『かわさき地名遊歩道』1992年、多摩川新聞社刊)