多摩川新聞ブログ

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三十八度線を越えて 第5話

2016-12-13 10:02:12 | 三十八度線を越えて

(作者註)この者が仮には、現在では使われていない迎氏の国名や地名などをそのまま使用しています。あらかじめご了承ください。
この物語により、戦争を知らない人達が、少しでも戦争の悲惨さを知っていただけば幸いです。
   ◇
当時は不衛生のため、下着にノミやシラミが巣くって非常に痒い思いをしました。父や母の下着からノミやシラミをとっては、お小遣いをもらったものです。ノミはすばしっこいので退治するのが大変ですが、シラミはいったん下着に巣くったらノロノロですので、見つけやすく両手の親指の爪で押しつぶすのです。赤い血が出て、それが面白く、そのうえお小遣いがもらえるので楽しくシラミ退治をしたものです。
     ◇
今、一一〇万分の一の朝鮮半島の地図を広げて改めて遠い道のりを避難してきたことが奇跡のように思われます。避難して来たコースは分かりませんが、地図上で見ると、およそ7万7千キロを天蓋貨車や夜行行進で、やっとの思いで平壌(ルビ=へいじょう)現在のピョンヤンです。そこから北緯三八度線まで辿りつきました。北鮮と南鮮との境界線には鉄条網が張られ、ロスケと中共軍、いわゆる中国共産党軍から検査を受けるのです。貴重品は全部没収され、着の身着のままで鉄条網をかいくぐり、南鮮で親日家の人たちが両手を広げて待ち受けてくれました。
   ◇
南鮮には、日本人を温かく受け入れる人たちが日本人会をつくり、それは親切にしてくれました。何よりもうれしかったのはコーリャンの飯と藁(ルビ=わら)布団です。野宿で草木を食べて飢えをしのいできましたので何よりの御馳走でした。
京城(ルビ=けいじょう)、現在のソウルから仁川(ルビ=じんせん)、現在のインチョンまで歩いて引き揚げ船に乗り、祖国である日本へ向かったのです。
 しかし、引き揚げ船とはいえ貨物船で、何万人もの日本人でごった返していました。そのうえ不衛生で、食事をしている隣では糞尿をしている始末。そのため、幼い子供たちは赤痢や腸チフスなどの伝染病にかかりましたが、医者は乗り合わせていないので、どうすることもできません。
すると、リーダー格の人が病気の子どもを抱きかかえ海へ放り投げるのです。これ以上、伝染病患者を出さないためです。
    ◇
何日間、引き揚げ船に乗っていたことでしょう。私たちが乗った引き揚げ船は、長崎県佐世保市の港に上陸しました。船から降りるや、男も女も頭から襟元から体中にDDTを浴びせられました。ノミやシラミがいないか消毒されたのです。特に女性たちは、おかっぱ頭にいっぱい白い粉を吹き付けられ真っ白でした。
 こうして私達は朝鮮半島から引き揚げてきたのです。    (おわり)

三十八度線を越えて 第4話

2016-11-08 13:24:49 | 三十八度線を越えて


(作者註)この物語には、現在では使われていない昔の国名や地名などをそのまま使用しています。あらかじめご了承下さい。
この物語により、戦争を知らない人達が、少しでも戦争の悲惨なことを知っていただければ幸いです。
    ◇
北朝鮮からの逃避行がはじまってから二日後、終戦を知らされました。わが国が敗戦したのを知って、ソ連軍は朝鮮半島を南下し、私たちはますます南へと避難するほかありませんでした。
ロスケは朝鮮半島に住んでいた日本人を、ここぞとばかりに侵攻してきました。ソ連軍はシベリアにあった流刑所を急に開放したため、頭を坊主刈りにしたロスケたちが横行し、日本女性を片っぱしからレイプしたため多くの女性が泣かされました。刃向うとしても、そこは敗戦国、どうともしがたい状態でした。
     ◇
逃避行はもっぱら夜になってからの行進です。昼間だと、ロスケや中共軍、今でいう中国共産党ですね。その両軍の襲撃を受けるため、陽の目を避けての行軍です。関東軍はとっくに逃げ出し、リーダー格の人が先頭に立って避難民を誘導しました。幼い子が泣き出すと敵に見つかるため、極力泣かないように母親は努めましたが、子どもは泣くのが務め、口を抑えて泣き声が聞こえないようにしますが、それでも泣きやまない子は、窒息死させるか、闇の中に捨てるか、強制させられました。
    ◇
逃避行中、大きな河原のそばで、テント張りの野宿をしている時でした。テントから一歩でも歩こうものなら、なにやら大きな塊のようなものにつまずくのです。よく見ると死体です。腸チフスや赤痢などで病死した人、食糧難で餓死した人たちです。河原のそばは死体の山だらけ。ひとりずつ呉座で簀巻きにして交互に積み上げ、焚火のように燃やすのです。その異臭といったら、鼻がちぎれるようでした。その異臭を一回嗅いだら、しばらくは鼻の感覚がなくなるようでした。
当初は呉座で簀巻きにしたのが、あまりにも多くなると、呉座もまかず、そのまま素焼きにしても追いつかない状態でした。
     ◇
とにかく南へと避難するのですが、それでもロスケと中共軍に阻まれ、そのまま野宿するほか道はありませんでした。毎夜、ロスケがガールハントにやって来ては、レイプするのです。思いあまって、赤ちゃんか幼い子でテントの入り口をふさぎ、手足をつねってはわざと泣かすのです。赤ちゃんや子供の泣き声で、やむなくロスケが逃げ出していくのです。
    ◇
忘れようとしても忘れない事件があります。若いお母さんをロスケが襲うとしたら、手足が不自由な四、五歳くらいの男の子が空気銃をもって母親の前に立ちはだかり、必死になってロスケから母親を守ろうとしたのです。さすがにロスケも立ち退かざるを得なくなり、母親は無事でした。その光景は今も瞼に焼きついています。戦争には負けはしても,この親子は敵兵を相手に勝利したのです。思わず、隣近所から拍手がわきました。素晴らしい勝利の瞬間でした。
(つづく)

三十八度線を越えて第3話

2016-11-08 13:14:49 | 三十八度線を越えて
(作者註)この物語には、現在では使われていない昔の国名や地名などをそのまま使用しています。あらかじめご了承下さい。
 この物語により、戦争を知らない人達が、少しでも戦争の悲惨なことを知っていただければ幸いです。
   ◇
私が住んでいた北朝鮮の北部、満州との境は冬ともなればとても寒く、凍てつくような寒さでした。お手洗いに長く座っていると、お尻とチンポの先が凍ってしまうのです。立ち小便をすると、真っ白い雪の中に黄色い小便が流れ、終わるといち早くズボンにしまわないと先っぽが凍ってしまうのです。
家の中には床の下に薪を焚いた「オンドル」で床の上を温めるので、とても暖かく過ごしました。寝るときなど、二人が逆さまに寝てお互いが相手の両足を両手で抱え込んで温め合うのです。
唯一、北朝鮮に羅南というリゾート地がありました。両親に連れられ良く遊びに行きました。砂風呂温泉が有名で、頭だけを上にして体中に熱砂を覆うのです。じんわりとして体中がほてり、とても快適でした。
    ◇
私の父はとても活動写真が好きでした。末の男で、父が遅くに生まれた私をよく可愛がってくれ、劇場へ連れて行ってくれました。無声映画で劇場の右端に楽団が伴奏を奏で、左端に活弁士が映画のストーリーを語ってくれるのです。マス席には箱火鉢が備えられ、バナナを火鉢にくべて焼く「焼きバナナ」を食べながら活動写真に見入ったものです。そのせいか、成人してからも部類の映画好きになりました。洋画・邦画を問わず、映画が大好きで、あるとき有名な映画評論家と対談したとき、その評論家をして「お前はハンパじゃないね」と唸らせたほどです。
    ◇
昭和二〇年(1945)八月九日、ソ連軍、私たちはロスケと呼んでいました。そのロスケが参戦し、私たち日本人は南へ南へと避難せざるを得ませんでした。八月一三日、朱乙を出て、南へ南へと逃避行がはじまりました。父は、軍票や金券、証券類などの全財産を大甕につめて庭先に穴を掘って埋めました。この先、戦争が終わったら、また、掘り返せばいいからと、そうしたのです。そして私たち子どもには、襟元にお札を縫い込み、お米で作ったお手玉とポケットいっぱいに白砂糖を入れて避難しました。いつ、どこではぐれても、金品さえあったら何とかしのげるだろうとの父の発案でそうしたのです。しかし、それも一〇日ほどで食糧などに替え、瞬く間になくなりました。
   ◇
悲しいかな貧乏な家庭に育った子供たちは、なきなき置き去りにされるか、支那人に引き取ってもらうかしたのです。なかには、やむなく支那人に売って金銭にかえる家族もいたのです。彼らが、今でいう「中国残留孤児」たちです。私たちは、恵まれていたから、置き去りにされず、また、支那人に売られることもなかったのです。その当時、支那人に買われた孤児たちは、ろくに食事も与えられず、奴隷のように一日中働かされ、女の子は売春を強いられたということです。改めて両親に感謝しました。
    ◇
北朝鮮からの逃避行がはじまってから二日後、終戦を知らされました。わが国が敗戦したのを知って、ソ連軍は朝鮮半島を南下し、私たちはますます南へと避難するほかありませんでした。
ロスケは朝鮮半島に住んでいた日本人を、ここぞとばかりに侵攻してきました。ソ連軍はシベリアにあった流刑所を急に開放したため、頭を坊主刈りにしたロスケたちが横行し、日本女性を片っぱしからレイプしたため多くの女性が泣かされました。刃向うとしても、そこは敗戦国、どうともしがたい状態でした。
つづく