2021年10月24日(日)
今日は日豊本線中津駅(大分県)。
今日のウォーキングはいつもと違って、フリースタイルウォーク。
マップにはモデルコースが赤の矢印で書いてあるが、どこをどの方向に歩こうと自由ということ。
10時前に中津駅に着くとゴールしている人たちも。ウォーキングお友達も数名。モデルコースを歩いてきたようだ。
挨拶を交わしてスタート。
駅前には福沢諭吉の堂々たる像。
モデルコースとは逆の方向に歩き始め、駅からすぐのアーケード街に入ろうとしたら、ここでもウォーキングのお友達と会う。
皆さん早いなあ。
町のいたるところに、中津の歴史資料という立て札が立てられている。
そして向かったのは、「村上医家史料館」。
1819(文政2)年、藩医・村上玄水が中津で、藩主の許可を得て、九州でも初期の人体解剖を行っている。
人体解剖をもとに書かれた解剖図の下書きなど、村上医家に伝わる所蔵品が展示されている。
スタート受付で中津駅周辺マップを見ながら歩いている。
村上医家資料館で薦められたのは「共通観覧券」700円。
中津城、中津歴史博物館、福沢諭吉旧居・記念館に入館でき、村上医家史料館、大江医家史料館、木村記念美術館は100円で、大雅堂は2割引きで入館できる。
(マップはA3サイズ、今日廻るのはその左半分)
次へと向かう途中に、「諸町蛭子宮」があった。
説明によると、中津城2代目藩主・細川忠興公によって創建された。
すぐに「自性寺」に着く。
自性寺内にある「織部灯篭」は、細川忠興が妻のキリシタンであるガラシャ夫人の菩提を弔うために、中津城内に建立した長福寺にあったものを移転したものと伝えられている。
自性寺から次へと向かっているとふと目に入った立て札。
熊本市の行徳眼科病院に勤務されていたことがあると書かれている。
私の祖父や祖母が住んでいたところは近く、時期からすると平田医師に診てもらったことがあるかもしれない。そんな感慨にふけった。
そこからすぐに、久留島武彦が少年時代に過ごした地の案内板があった。
児童文学者・久留島武彦のことは、だいぶん前に豊後森駅のウォーキングで知った。
またまた、ウォーキングで会った。
共通観覧券にあつた、「中津市木村記念美術館」に着く。
中津出身画家の作品や中津にゆかりの深い美術品が紹介されている。
庭を眺められたりしながらゆったりとした時間が過ごせそうだ。
ここまで、かなり時間を費やした。ゆっくりしている時間もなさそうだ。
先へと歩く。
中津カトリック教会の前に。
教会のステンドグラスには、「細川ガラシャの信仰」など中津市に関係する題材も描かれているらしい。
大分地方裁判所中津支部。自性寺の織部灯篭の説明にあった、細川忠興が妻ガラシャを弔うために建てた長福寺はここにあった。
中津城内を横切って、「中津市歴史博物館」へ。通称「なかはく」。
昨年の2月に来たことがある。
館内にはシアターがあり、中津城石垣の見どころなどの説明が上映されている。
見た後、シアターを見てから中津城を見学した方がよかったなあと後悔した思い出がある。
館内からは中津城の石垣が見える。
常設展の中津の歴史、特別展「西向くサムライ」を見学する。特別展では鎌倉幕府と豊前の国の関係が楽しめた。
常設展の展示品の中には細川家の家紋のある瓦もあった。
お腹も空いてきた、急ごう。シアターは見ずに、中津城へ。
中津城内の「三斎池」。
中津城主だった細川忠興は慶長7年小倉城を居城とした。
その後、家督を子の忠利に譲り、三斎と号し、再び中津城へ戻った。
そして、城内の用水不足を補うために、山国川から城内へ水路を開いた。
その水をたたえた池(現在は市の上水)。鑑賞用や防水用として利用された。
1632(寛永9)年、細川家は、豊前の国から肥後の国へ、今でいう転勤をした。
熊本城へは藩主・忠利が、三斎(忠興)は八代城へ入った。
これは、豊前国での配置をそのまま持ち込んだようだ。
中津城天守閣に登城。
細川家は32年もの長い間、中津で過ごしていた。
上の方の階には、前野良沢と解体新書に関わる展示がある。
前野良沢という人のことをここで初めて知った。
解体新書の翻訳者は杉田玄白と学校の歴史では習った記憶がある。
展示を見ていたら、翻訳のリーダーは、中津藩の藩医・前野良沢で、それらにまつわる説明がしてある。
展示を見た後、前沢良治の生涯と解体新書の翻訳過程を描いた小説『冬の鷹』(吉村昭著、新潮社文庫)を図書館から借りて、一気に読んだ。
(2020年2月撮影)
天守閣より。
二ノ丸の方に出る。
右側が黒田時代の石垣、左側が細川時代の石垣。
川側に回って行ったら猫が。
矢が出てくるやら、鉄砲が出てくるやら、待ち遠しそうだった。
川沿いの桜並木に沿って歩いて、右折。
福沢諭吉旧居・福沢記念館に。
何回か来ている。
福沢記念館を出て少しして、手を目に当てたらメガネが無い。
今日はフリーウォークでウォーキングの時はかけない遠近両用のメガネをかけ地図を見ながら歩いていた。
そのメガネが無い。リュックの中のメガネケースを開けても入っていない。
記憶を呼び戻す。そうだ、博物館の喫茶に入ってメガネを外した。
日曜日の昼頃で、少しの間待ったが、まだ時間がかかりそうなので、オーダーしたものが作られ始めていないのを確認してキャンセルし、出てきた。
博物館へ電話したら、あった。
ほっとした。後から取りに行くことにした。
「大江医家史料館」へ。
解体新書の初版本が展示してある。そのほか蘭学医学関係の資料が展示してある。
薬草園もあるようだが、先を急いだ。
寺町へ。
寺町には黒田時代に建立されたお寺、細川時代に建立されたお寺、それ以降に建立されたお寺が集中している。
細川時代に建立された「本傳寺」。
黒田時代に建立された「合元寺」。
寺町の通り。
細川時代に建立された「寶蓮坊」。
細川時代に建立された「普門院」は見逃している。
博物館へ戻りメガネを受け取って、お腹空いたと思いながら駅へと向かおうとすると、昼食14時までの看板がある懐石料理のお店が。
ギリギリ間に合う。
お店の人には申し訳なかったが、お腹が空きすぎて、じっくり味わうことなく、がつがつと食べてしまった。
14時半頃、ようやくゴール中津駅へ。
今日はフリースタイルウォークだったが、「共通観覧券」でいろいろと廻った。
スタート時は、13時過ぎのソニックに乗れればと思っていたが、途中で14時過ぎにはと思いを変更した。
寺町辺りで14時は無理だなと思い、結局15時過ぎのソニックの指定席を取るべく駅の窓口へ。
すると指定席は満席。
自由席にはなんとか座れた。
中津には、医家史料館が2つもあった。資料も充実していた。
もっとアピールされてもいいのではないかと感じた。
ブログのタイトルは2つにしよう。
今日のウォーキングを終える。
今日は日豊本線中津駅(大分県)。
今日のウォーキングはいつもと違って、フリースタイルウォーク。
マップにはモデルコースが赤の矢印で書いてあるが、どこをどの方向に歩こうと自由ということ。
10時前に中津駅に着くとゴールしている人たちも。ウォーキングお友達も数名。モデルコースを歩いてきたようだ。
挨拶を交わしてスタート。
駅前には福沢諭吉の堂々たる像。
モデルコースとは逆の方向に歩き始め、駅からすぐのアーケード街に入ろうとしたら、ここでもウォーキングのお友達と会う。
皆さん早いなあ。
町のいたるところに、中津の歴史資料という立て札が立てられている。
そして向かったのは、「村上医家史料館」。
1819(文政2)年、藩医・村上玄水が中津で、藩主の許可を得て、九州でも初期の人体解剖を行っている。
人体解剖をもとに書かれた解剖図の下書きなど、村上医家に伝わる所蔵品が展示されている。
スタート受付で中津駅周辺マップを見ながら歩いている。
村上医家資料館で薦められたのは「共通観覧券」700円。
中津城、中津歴史博物館、福沢諭吉旧居・記念館に入館でき、村上医家史料館、大江医家史料館、木村記念美術館は100円で、大雅堂は2割引きで入館できる。
(マップはA3サイズ、今日廻るのはその左半分)
次へと向かう途中に、「諸町蛭子宮」があった。
説明によると、中津城2代目藩主・細川忠興公によって創建された。
すぐに「自性寺」に着く。
自性寺内にある「織部灯篭」は、細川忠興が妻のキリシタンであるガラシャ夫人の菩提を弔うために、中津城内に建立した長福寺にあったものを移転したものと伝えられている。
自性寺から次へと向かっているとふと目に入った立て札。
熊本市の行徳眼科病院に勤務されていたことがあると書かれている。
私の祖父や祖母が住んでいたところは近く、時期からすると平田医師に診てもらったことがあるかもしれない。そんな感慨にふけった。
そこからすぐに、久留島武彦が少年時代に過ごした地の案内板があった。
児童文学者・久留島武彦のことは、だいぶん前に豊後森駅のウォーキングで知った。
またまた、ウォーキングで会った。
共通観覧券にあつた、「中津市木村記念美術館」に着く。
中津出身画家の作品や中津にゆかりの深い美術品が紹介されている。
庭を眺められたりしながらゆったりとした時間が過ごせそうだ。
ここまで、かなり時間を費やした。ゆっくりしている時間もなさそうだ。
先へと歩く。
中津カトリック教会の前に。
教会のステンドグラスには、「細川ガラシャの信仰」など中津市に関係する題材も描かれているらしい。
大分地方裁判所中津支部。自性寺の織部灯篭の説明にあった、細川忠興が妻ガラシャを弔うために建てた長福寺はここにあった。
中津城内を横切って、「中津市歴史博物館」へ。通称「なかはく」。
昨年の2月に来たことがある。
館内にはシアターがあり、中津城石垣の見どころなどの説明が上映されている。
見た後、シアターを見てから中津城を見学した方がよかったなあと後悔した思い出がある。
館内からは中津城の石垣が見える。
常設展の中津の歴史、特別展「西向くサムライ」を見学する。特別展では鎌倉幕府と豊前の国の関係が楽しめた。
常設展の展示品の中には細川家の家紋のある瓦もあった。
お腹も空いてきた、急ごう。シアターは見ずに、中津城へ。
中津城内の「三斎池」。
中津城主だった細川忠興は慶長7年小倉城を居城とした。
その後、家督を子の忠利に譲り、三斎と号し、再び中津城へ戻った。
そして、城内の用水不足を補うために、山国川から城内へ水路を開いた。
その水をたたえた池(現在は市の上水)。鑑賞用や防水用として利用された。
1632(寛永9)年、細川家は、豊前の国から肥後の国へ、今でいう転勤をした。
熊本城へは藩主・忠利が、三斎(忠興)は八代城へ入った。
これは、豊前国での配置をそのまま持ち込んだようだ。
中津城天守閣に登城。
細川家は32年もの長い間、中津で過ごしていた。
上の方の階には、前野良沢と解体新書に関わる展示がある。
前野良沢という人のことをここで初めて知った。
解体新書の翻訳者は杉田玄白と学校の歴史では習った記憶がある。
展示を見ていたら、翻訳のリーダーは、中津藩の藩医・前野良沢で、それらにまつわる説明がしてある。
展示を見た後、前沢良治の生涯と解体新書の翻訳過程を描いた小説『冬の鷹』(吉村昭著、新潮社文庫)を図書館から借りて、一気に読んだ。
(2020年2月撮影)
天守閣より。
二ノ丸の方に出る。
右側が黒田時代の石垣、左側が細川時代の石垣。
川側に回って行ったら猫が。
矢が出てくるやら、鉄砲が出てくるやら、待ち遠しそうだった。
川沿いの桜並木に沿って歩いて、右折。
福沢諭吉旧居・福沢記念館に。
何回か来ている。
福沢記念館を出て少しして、手を目に当てたらメガネが無い。
今日はフリーウォークでウォーキングの時はかけない遠近両用のメガネをかけ地図を見ながら歩いていた。
そのメガネが無い。リュックの中のメガネケースを開けても入っていない。
記憶を呼び戻す。そうだ、博物館の喫茶に入ってメガネを外した。
日曜日の昼頃で、少しの間待ったが、まだ時間がかかりそうなので、オーダーしたものが作られ始めていないのを確認してキャンセルし、出てきた。
博物館へ電話したら、あった。
ほっとした。後から取りに行くことにした。
「大江医家史料館」へ。
解体新書の初版本が展示してある。そのほか蘭学医学関係の資料が展示してある。
薬草園もあるようだが、先を急いだ。
寺町へ。
寺町には黒田時代に建立されたお寺、細川時代に建立されたお寺、それ以降に建立されたお寺が集中している。
細川時代に建立された「本傳寺」。
黒田時代に建立された「合元寺」。
寺町の通り。
細川時代に建立された「寶蓮坊」。
細川時代に建立された「普門院」は見逃している。
博物館へ戻りメガネを受け取って、お腹空いたと思いながら駅へと向かおうとすると、昼食14時までの看板がある懐石料理のお店が。
ギリギリ間に合う。
お店の人には申し訳なかったが、お腹が空きすぎて、じっくり味わうことなく、がつがつと食べてしまった。
14時半頃、ようやくゴール中津駅へ。
今日はフリースタイルウォークだったが、「共通観覧券」でいろいろと廻った。
スタート時は、13時過ぎのソニックに乗れればと思っていたが、途中で14時過ぎにはと思いを変更した。
寺町辺りで14時は無理だなと思い、結局15時過ぎのソニックの指定席を取るべく駅の窓口へ。
すると指定席は満席。
自由席にはなんとか座れた。
中津には、医家史料館が2つもあった。資料も充実していた。
もっとアピールされてもいいのではないかと感じた。
ブログのタイトルは2つにしよう。
今日のウォーキングを終える。