たかしの啄木歌碑礼賛

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盛岡の旧町名(鉈屋町)

2011-07-10 | ぶらり盛岡
城下町盛岡では町の中心部を中津川が流れており、中津川は北上川に直行するようになっている。盛岡の町はこの中津川を堺にし、中津川の南側と北上川の間の地区を河南地区、中津川の北側と北上川の間の地区を河北地区と呼んでいた。

河南地区の丁(町)17
仙北丁、青物丁、鉈屋町、川原丁、石(穀)丁、新石(穀)丁、十三日町、馬町、六日丁、呉服丁、肴丁、 生姜丁、 八幡丁、葺手丁、紺屋丁、鍛冶丁、紙丁
ここで、十三日町と馬町の二つが町(まち)と呼ばれている。馬丁(うまちょう)と呼ぶより馬町(うままち)の方がゴロが良いからなのでしょうか。

河北地区の丁(町) 11
本丁、油丁、大工丁、花屋丁、八日丁、四ツ家丁、三戸丁、長イ丁、材木丁、茅丁、山岸丁

この他、武家屋敷街を明示する武家屋敷小路を定めている。
馬場小路、鷹匠小路、餌差小路、大清水、平山小路、帷子小路、新山小路、日影門小路、仁王小路、大沢川原表、上田小路、上田与力小路、、加賀野などがあります。

盛岡市で立てた旧町名の説明を記した案内板を順次訪ねてみることにした。案内板では「町」の字を用いて紹介している。




(3)鉈屋町(なたやちょう)

鉈屋町は北上川に沿う地区で、現在の町名も鉈屋町になっています。この案内板が立ってる所は鉈町通りの大慈寺小学校や原敬の菩提寺大慈寺への入口です。








京都の富豪鉈屋長清が盛岡に来て,釶屋山(しゃおくさん)菩提院という寺を建立したことに由来する。菩提院は後に内加賀野に移されたため,昔はこの加賀野の寺院の前も鉈屋町と称し,2つの鉈屋町が存在したこともあったが,文化9(1812)年に改められて,当地を鉈屋町として城下の一町とした。

当町の西側に水主(かこ)町があり,文化年間に用水桶を町内に設ける藩命があった時には,水主町のほか当町から上小路(うわこうじ)の曲り角で中野村枝村十文字をも含めて鉈屋町といった。

水主町は,北上川の舟運に従事する船頭などの住む町で,新山舟橋を管理する役目も持っていた。また,藩主の飼っていた鶴の餌にする川魚を捕る仕事などもしており,小禄であるが,藩から扶持を得ていた。

また,当地は江戸時代から良質の湧水が豊富な地域で,酒・味噌・醤油などの醸造業が盛んだった。それを今日伝える大慈清水青龍水は盛岡三清水に数えられ,平成の名水百選に選ばれている。




現在の明治橋と新山舟橋跡(舟をロープで繋いで橋とした川岸の柱跡)



藩政時代に建てられた「明治橋の御蔵」



大慈清水


 
青龍水




鉈屋町には旧い建物が並んでおり、町家の保存を考えております。老舗「細重酒店」は現在も麹を製造販売している盛岡唯一の店で、味噌をつくる時期、漬物の時期になると多くの人が麹を求めに来るそうです。農家の方がお米を持ってきて麹と交換する物々交換もできるようです。





(4)川原町

川原町は鉈屋町から現在の明治橋に通じるところになっている。





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啄木の盛岡中学時代の歌    ≪爾伎多麻(にぎたま)明治34年9月号≫

  十年朽(ととせく)ちて人ゆかざりし堂の戸の隙より洩るゝ白檀の烟 
 
啄木盛岡中学4年・16歳、友人と回覧雑誌「爾伎多麻」を発行、「翠江」名で30首(その23)

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