一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『雷桜』 ……蒼井優、柄本明、宮崎美子の熱演が光る……

2010年10月24日 | 映画


青春時代に見た映画は、強烈な印象を残す。
中でも、中学、高校時代に見た
『ロミオとジュリエット』(1968)
『いちご白書』(1970年)
『おもいでの夏』(1971年)
の3作は、今でも私の心の中で特別な作品として輝いている。
それは、3作が特に映画として秀でた作品であった……というワケではない。
作品的に優れた映画は他にもたくさんあった。
なぜにこの3作が強く印象に残っているかといえば、それは極私的な理由だ。
そのひとつは、好きなタイプの女優が出ていたこと。(コラコラ)
『ロミオとジュリエット』は、オリビア・ハッセー、


『いちご白書』は、キム・ダービー、


『おもいでの夏』は、ジェニファー・オニール。


3人とも一目惚れだった。(オイオイ)
もうひとつの理由は、音楽にシビれてしまったこと。
『ロミオとジュリエット』は、「What Is A Youth」、
『いちご白書』は、「Circle Game」、
『おもいでの夏』は、「The Summer Knows」。
音楽が流れてきただけで、今でも瞬時にあの頃に気持ちが還ってしまうほどなのだ。

10月22日(金)に公開された映画『雷桜』のキャッチコピーが、
日本版「ロミオとジュリエット」。

〈えっ?〉
と思ったが、蒼井優が出ているので、見に行くことにした。
正直、
〈いくらなんでも、日本版「ロミオとジュリエット」とは言い過ぎではないか……〉
と思った。
かなり前に宇江佐真理の原作は読んでいるが、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』とは、まったく違っていた。
一体どこが似ているというのか?
様々な疑問を抱きつつ、映画館に足を運んだ。

【ストーリー】
徳川家に生まれた斉道(岡田将生)は、孤独で退屈な日々を送っていた。
ある晩、家臣の瀬田助次郎(小出恵介)が眠れぬ斉道に言った。
「私の故郷・瀬田村の山には天狗がおります…」


助次郎の話に興味を持った斉道は、瀬田村へ向かう。


瀬田山で生まれ育った雷(蒼井優)は、父・理右衛門(時任三郎)と二人きりで自由奔放に暮らしていた。
山が乱されないよう、山に入った村人を脅して追い払っていた雷。


やがて村人の間で噂が広がった。
「瀬田山には天狗がいる…」
斉道は瀬田村に向かう道中、御用人の榎戸角之進(柄本明)らが止めるのも聞かず、一人「天狗の棲む山」へ馬を走らせる。
そこで斉道は雷に出会う。
村に戻った斉道は助次郎に「女の天狗に出会った」と話す。
すると、助次郎が斉道に告げた。
「その天狗は、二十年前に誘拐された私の妹、遊に違いありません」

雷は村へ戻り、遊として生きた。


そして斉道と遊は、美しくも奇妙な巨木《雷桜》の下で再会する。
山の外を知らない遊は、“身分の違い”など意識せず、まっすぐな気持ちで斉道に向き合う。
斉道にとって遊は、初めて“殿”という立場抜きに話せる存在となった。
互いに惹かれあう二人。
しかし、周囲がそれを許すはずはなかった―。


男は愛する者のため、別れを決意する。
そのとき女は、命をかけた勝負に出る―。
(ストーリーはパンフレットより引用し構成)


実際に映画を見た感想はというと――
宇江佐真理の原作とはかなり違っていて、映画は、斉道と雷の二人に焦点をしぼって物語を進行させ、二人の恋愛のみを描いているので、いまいち物語の設定等が理解しにくいということ。
他の部分を端折っているため、なぜ雷が誘拐され山で暮らすようになったかとか、なぜ斉道が心を病んでしまったかが、見る者に伝わりにくいのだ。
それぞれが、フラッシュバックのような短い映像と、言葉による説明がなされるだけなので、物語に深みがなく、現実離れしている。
土台がしっかりしていないので、どこか「ありえない話」みたいな印象を与えてしまう。
登場人物たちの話す言葉も現代語を基調としていて、浮ついた感じがする。
いずれも脚本に問題があるのだろうが、脚本の段階でもっと練られていたら、かなり違った作品に仕上がったのではないかと思われる。
と、不満はこれくらいにして、良かった点も述べておこう。

まずは、蒼井優の演技。
熱演と言ってイイ。
泣くシーンが多いのだが、それぞれに違った表情を見せ、実に巧い。
どんな作品でも(秀作でなくても)、あるレベル以上の演技を見せてくれるので、蒼井優が出ている映画だったら、損をしたような気分にならない。
それくらい彼女の演技は見る者の心を動かす。


あまりに蒼井優の演技が巧みなので、競演の岡田将生は少し損をしたかもしれない。
岡田将生自身、今年は『告白』や『悪人』といった傑作・話題作に出演しているし、今もっともノッている若手俳優のひとりなのだが、蒼井優の演技と比較すると、やはり少し見劣りがした。
しかし、伸び代のある男優なので、これからが楽しみだ。


蒼井優、岡田将生の二人どちらにも言えることだが、乗馬が巧かった。
これは、賞賛に値する。
かなり練習したものと思われ、乗馬のシーンが多かったことからも、どちらも自信を持って撮影に臨んだものと思われる。


榎戸角之進を演じた柄本明。
『悪人』に引き続き、この作品でも素晴らしい演技を見せている。
後半に見せる或るシーン(あえて言わないでおこう)は凄まじいの一言。
どの監督も、柄本明をキャストに迎えたがる気持ちが、私にも解るような気がした。


宮崎美子。
こちらも『悪人』に引き続き、雷の母親を好演している。
宮崎美子も、最近、邦画界では、「引っぱりだこ」的女優。
よく見かけるが、それぞれの役柄を巧みに演じ分け、作品ごとに違った印象を与える。
そこが凄い。


肝心の日本版「ロミオとジュリエット」の件だが、
〈なるほど〉
と思われるシーンがあったので、紹介しておこう。
それは、村祭りのシーン。
再会を誓って別れた二人であったが、斉道の方に逢えない理由ができ、雷が気落ちしている時、周囲の反対を押し切って斉道が雷に逢いに来る。
この村祭りのシーンが、フランコ・ゼフィレッリ監督作品の『ロミオとジュリエット』(1968年)の或るシーンにそっくりなのだ。
それはキャピュレット家の夜会のシーン。
モンタギュー家の一人息子ロミオ(レナード・ホワイティング)が、キャピュレット家の夜会にまぎれ込み、そこで若く美しい娘・キャピュレット家の一人娘ジュリエット(オリビア・ハッセー)に出逢うシーン。
この夜会のシーンには、あのニーノ・ロータの美しき名曲「What Is A Youth」が流れ、二人の出逢いを盛り上げるのだが、『雷桜』でも静かなバラードのような曲が流れる。
だが、時代劇なので、Yahoo!映画などで、
「祭りの場面に、外国語の歌詞の歌が流れる趣向は、違和感がある」
というような評を多数見かける。
だが、これこそが『雷桜』の「ロミオとジュリエット」的部分なのだ。
この『雷桜』では、大橋トリオにより今風な曲が流れ、時代劇なのに、このシーンだけは不思議な空間・雰囲気を創り出している。
映画『ロミオとジュリエット』を見ていない人は、この村祭りのシーンに違和感を持つかもしれないが、フランコ・ゼフィレッリ監督作品を愛し、何度も見ている人は、このシーンに特別の感情を抱くだろう。
好きとか嫌いではなく、それを超越した感情。
フランコ・ゼフィレッリ監督作品『ロミオとジュリエット』へのオマージュともいうべきシーンなので、私など激しく心を揺さぶられた。
これから『雷桜』を見に行く人は、この映画『ロミオとジュリエット』の夜会のシーンだけは見ておいた方がイイかもしれない。

この映像をよく見ると、ロミオ役のレナード・ホワイティングに岡田将生がよく似ていることに気づく。
キャスティングの段階で、そのことが監督の頭にあったのかなかったのか、興味深い。

『ロミオとジュリエット』の挿入歌「What Is A Youth」の歌詞には、次のような言葉が並ぶ。

《What is a youth?
 Impetuous fire

 What is a maid?
 Ice and desire

 The world wags on
 A rose will bloom
 It then will fade

 So does a youth
 So does the fairest maid

 Comes a time
 when one sweet smile……》

【日本語字幕】
《若さとは?
 抑えられぬ炎

 乙女とは?
 氷と熱い情

 いつの世にも
 バラは咲き
 そして枯れる

 若さも同じこと
 やがてうつろう

 いつの日か
 あの甘い微笑も
 色あせる時が来る……》

歌詞を見ると、青春を礼賛してはいない。
賛歌してはいない。
むしろ空しさを歌っているかのようである。

《いつの世にもバラは咲き、そして枯れる。
 若さも同じこと。やがてうつろう。
 いつの日かあの甘い微笑も色あせる時が来る……》

だから青春は貴いのだ……ということなのかもしれないが……深い!

最後に、この映画を見ていて、気になった点をひとつ。
本作のタイトルにもなっている「雷桜」とは、落雷で真っ二つに折れた銀杏に桜が芽をつけた巨樹のこと。
映画では、沖縄県の今帰仁村に「雷桜」を建てて撮影を行ったとのこと。
だが、雷桜の木が立っている場所、そして周囲の樹木がなんだかおかしい。
山奥の樹木という感じがしない。


そもそも銀杏の木は中国原産で、町中でよく見かけることからも分かるように人為的に増えていった木だ。
山奥では今でもなかなか見かけない木だし、これだけの巨樹が江戸時代に、しかも山奥にあること自体、不自然という気がしないでもない。
おまけにロケ地が沖縄ということで、周囲の植物も違和感がある。

このシーンに出てくる植物は、あきらかにシロツメクサであろう。


シロツメクサについて調べてみると、

【シロツメクサ】
漢字表記は、「白詰草」。詰め草の名称は1846年 (弘化3年)にオランダから献上されたガラス製品の包装に緩衝材として詰められていたことに由来する。
日本においては明治時代以降、家畜の飼料用として導入されたものが野生化した帰化植物。根粒菌の作用により窒素を固定することから、地味を豊かにする植物として緑化資材にも用いられている。(ウィキペディア)

ということで、江戸時代の山奥にシロツメクサがあることも不自然だ。
ラストに海が出てくるが、これがいかにも沖縄の海という感じで、これもオカシイ。
こういった細部に気を遣っていない為に、せっかくの努力が水の泡になっている部分が多々あり、それがとても残念であった。

この記事についてブログを書く
« 第22回平和美術展 ……Yさんの... | トップ | 雲仙(妙見岳~国見岳~普賢... »