もうすぐ原爆の日。
いままでこれほど、原爆の日の意味を考えたときはなかった、と思う。
今、平和ボケ という言葉とともに、
日本も もっと軍備を増強し核を持つべき、という声がたかまっている。
近所の人もそう言っていた。
確かに安心だろう。
狂人のような国が攻めてこないとも限らない。
だから、そんなときのために、相手を打ち負かすだけの武力があれば、安心である。
そのとおりなのである。
では、なぜ、賢人、聖人たちは、あえて、防衛しなかったのだろうか。
ガンジー キリスト、吉田松陰、キング牧師、中村哲・・・
それ故、殺された。
たんなる気の緩みか。
そうではない。
それが命をかけた強い意思表示だった。
私たちにはそれが理解できないだけ。
武器を持たなければ危険
持っていれば安全
このあたり前の事実を否定することなく、
この観念を乗り越えてしまう。
アウフヘーベン(止揚)という言葉がある。
日本では、馴染みのない言葉
たとえば、負けにならないためには勝つしかない、そのためには他を蹴落とすしかない。
負けたくない、しかし、他を蹴落とすのも嫌。
出口のない袋小路のようにかんじる。
しかし、視点をずっと高いところに持っていき、遙かなる高みから俯瞰すると、それは小さな社会の中だけのことだとわかる。
つまり、その社会から離脱。
あるいは勝ち負けのない社会をつくればよいのだ。
あるいはそもそもなんで勝たなければならないか、勝つとはなにか?
より深く根本まで考えることも、離脱の方法だと思う。
俯瞰し別次元に飛翔する、これがアウフヘーベンだとわたしは捉えている。
今、この観念が必要なのだろうと思う。
残念だが、今世界中が同じ方向に向かっているだろう。
では、このまま軍拡が進むと、私たちの子孫はどうなるのか。
日本は百発の核弾頭を保有し、それぞれ、北京、平壌、モスクワなどにロックオンされている・・・
世界中の国がそうなっている。
お互いに睨み合い、牽制しあっている。
それが安全安心な日本ですか。
それが青く澄んだ地球ですか。
今わたしたちがすべきこと。それは
勇気を持って丸腰になること。
それが一番勇気のいる一番危険な、しかし一番有効な平和への道。
いままでこれほど、原爆の日の意味を考えたときはなかった、と思う。
今、平和ボケ という言葉とともに、
日本も もっと軍備を増強し核を持つべき、という声がたかまっている。
近所の人もそう言っていた。
確かに安心だろう。
狂人のような国が攻めてこないとも限らない。
だから、そんなときのために、相手を打ち負かすだけの武力があれば、安心である。
そのとおりなのである。
では、なぜ、賢人、聖人たちは、あえて、防衛しなかったのだろうか。
ガンジー キリスト、吉田松陰、キング牧師、中村哲・・・
それ故、殺された。
たんなる気の緩みか。
そうではない。
それが命をかけた強い意思表示だった。
私たちにはそれが理解できないだけ。
武器を持たなければ危険
持っていれば安全
このあたり前の事実を否定することなく、
この観念を乗り越えてしまう。
アウフヘーベン(止揚)という言葉がある。
日本では、馴染みのない言葉
たとえば、負けにならないためには勝つしかない、そのためには他を蹴落とすしかない。
負けたくない、しかし、他を蹴落とすのも嫌。
出口のない袋小路のようにかんじる。
しかし、視点をずっと高いところに持っていき、遙かなる高みから俯瞰すると、それは小さな社会の中だけのことだとわかる。
つまり、その社会から離脱。
あるいは勝ち負けのない社会をつくればよいのだ。
あるいはそもそもなんで勝たなければならないか、勝つとはなにか?
より深く根本まで考えることも、離脱の方法だと思う。
俯瞰し別次元に飛翔する、これがアウフヘーベンだとわたしは捉えている。
今、この観念が必要なのだろうと思う。
残念だが、今世界中が同じ方向に向かっているだろう。
では、このまま軍拡が進むと、私たちの子孫はどうなるのか。
日本は百発の核弾頭を保有し、それぞれ、北京、平壌、モスクワなどにロックオンされている・・・
世界中の国がそうなっている。
お互いに睨み合い、牽制しあっている。
それが安全安心な日本ですか。
それが青く澄んだ地球ですか。
今わたしたちがすべきこと。それは
勇気を持って丸腰になること。
それが一番勇気のいる一番危険な、しかし一番有効な平和への道。