豆の育種のマメな話

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◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

私の「本づくり」第8話 :「ラテンアメリカ旅は道づれ」「パラグアイから今日は!」「伊豆の下田の歴史びと」「伊豆下田里山を歩く」自費出版する

2021-12-09 09:54:00 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

私の「本づくり」第8話

「ラテンアメリカ旅は道づれ」「パラグアイから今日は!」「伊豆の下田の歴史びと」「伊豆下田里山を歩く」自費出版する

コロナ禍の巣ごもり時間を活用して昔の駄文を補筆編集し冊子に纏めることを思い立ち、「ラテンアメリカ旅は道づれ」(A5版276p)、「パラグアイから今日は!」(A5版222p)、「伊豆の下田の歴史びと」(A5版234p)、「伊豆下田、里山を歩く」(A5版230p)の4冊を上梓した。

前2冊は南米で暮らした頃の紀行文と随想録である。南米大陸を旅し、アルゼンチンやパラグアイで生活してみると、アンデス文明の歴史や文化、ラテン気質と言われる人びとの生き方、豊かな自然について驚き学ぶことが多かった。また、後の2冊は開国の舞台となった伊豆下田の歴史びと、筆者の故郷である伊豆の里山について幼少時体験をもとに綴ったものである。

これまでの人生では仕事にかまけて子供や孫に「来し方」を語ることもなかったので、この機会に記憶を辿り体験を書き残すことは意味があろうと考えた。

◇本づくりの顛末

編集作業は過去の経験で何とかなったが、問題は製本作業である。先ず家庭用複写機を利用して印刷し、製本はホームセンターで万力・糸鋸・ボンドなどを調達して無線とじ製本に挑戦した。試行錯誤しながら何とか形になったが、裁断機が無かったので、かつて世話になった街の印刷屋にトリミングをお願いした。印刷屋の主人は冊子のページを繰りながら、「これでは、我々の商売も上がったりだ」と出来栄えにお世辞を言ってくれた。

しかし、近しい方に贈るにしても数十部は必要なので、新たな項目を加え再編纂し発行することを考えた。印刷製本は部数を考慮して外注することにし、かつて取引があった地元及び札幌の業者を含め数社で見積もりを取ったところ、最近増加しているネット印刷の見積額が従来業者の30-70%だったので、その中からコストパフォーマンスの高そうな東京と大阪の2社を選んだ。

ネット印刷では、紙質の選定など製本体裁を選択し、部数を設定すると、見積額と納品期日が即表示される。ワード作成の編集原稿をPDF変換し圧縮フォルダーで送付する。校正をメールでやり取りし、1~2週間後には宅急便で納品された。ネット上のオンデマンド印刷に不安はあったが、活字の大きさや写真サイズ、写真の濃淡等を工夫すればオフセット印刷に遜色ない出来栄えになることが分かった。予想以上の低コスト・迅速納品である。便利になったものだ。

◇完成後の思い

「旅は道づれ」「パラグアイから」は相棒との南米大陸弥次喜多道中記、異文化圏での暮らしの記録。アンデス文明遺産を訪れインデイオの悲劇を想い、パタゴニアの氷河を見て自然破壊を憂い、イースター島やマヤ遺跡では人類の行く先を考えた。日系移住者の苦難の歴史と誠実さに感銘し、経済的貧困の中でも長閑に暮らす現地の人々と語り「幸せとは何か」を考えた。日系人が持ち込んだ裏庭のダイズが今や国家経済を支え、世界の市況を左右するまでになったことに驚いた。

「歴史びと」「里山を歩く」では、伊豆下田生まれの歴史びとの生き様を辿った。共通する伊豆人気質(人がよく無心な心、一途で頑固なまでの生き方・・・)に、己を重ねて妙に納得もした。歴史遺産を訪ね、古道を歩いた。自然あふれる里山、温暖な気候、いで湯に漬かり昔を偲んだ。ある時は深根城・鵜島城の戦いに思いを馳せ、ある時は日露交渉中の大津波顛末から友好とは何かを考えた。カワヅサクラを育てた人々を訪ね、コシヒカリの起源種「身上早生」で醸した地酒を味わった。

今回発刊した4冊は些か雑然とした内容だが、ふるさと応援団を自称する著者の意図は感じて頂けるに違いない。人は誰もが暮らした場所に愛着を感じ、それぞれの地域が故郷となる。年老いてから故郷に還元出来るものはごく僅かだが、この冊子はその一つ。本書をご覧になり、ラテンアメリカ及び伊豆下田の歴史や自然に興味を抱き、旅に出て見ようかと思って頂けたら有難い。

遊び心で創った冊子であるが、私の中では「コロナ禍に記憶を紡ぐ。せめて八十路の一里塚・・・」となった。早速、子供や孫へ贈ろう。

◇2年に及ぶコロナ禍、千差万別多様な過ごし方があろうが「本づくり」もその一つ。ある作家が「若者に対する年配者のアドバンテージは圧倒的な記憶の集積にある。高齢者は積極的に昔話をしたほうがいい」と述べていたが、小生も断捨離・終活は成り行きに任せて先送り、脳活性化のために記憶を紡ぐ作業を続けようと思う。

なお、これらの本は「恵庭市立図書館」で閲覧できる。

 

「ラテンアメリカ旅は道づれ」目次

はじめに

第1章 アルゼンチンの旅 

1  ブエノス・アイレスに遊ぶ

2  大豆の都と呼ばれる町がある 

3  コルドバの地名で思い出すのは?

4  マル・デル・プラタ、アルゼンチン最大のビーチ・リゾート 

5  メンドーサのワインとアコンカグア展望 

6  北西部のサルタとフフイ、「雲の列車」とウマワカ渓谷

7  世界最大イグアスの滝、「何だ、こりゃあ!」

8  南米のスイス「バリローチエ」

9  世界最南端の町ウスアイア、哀愁を感じる町だ

10  世界の果て国立公園、テイエラ・デル・フエゴ

11  最果ての海峡「ビーグル水道」、鉛色のうねりにオタリアが群れる

12  ペリト・モレノ氷河クルーズとウプサラ氷河探訪

13  アルゼンチン心の詩集「ガウチョ、マルテイン・フィエロ」

14  南米大陸へ最初に渡った日本人、フランシスコ・ハポン

15  アルゼンチンの大牧場主「伊藤清蔵博士」、札幌農学校から世界へ

16  パンパ平原を札幌生まれのガウチョが駈ける「宇野悟郎氏」

第2章 ウルグアイの旅 

1  ウルグアイ東方共和国モンテビデオ

2  世界遺産の町コロニア・デル・サクラメント

第3章 パラグアイの旅 

1  イエズス会の遺跡トリニダを訪れる

2  信仰の町カアクペ、パラグアイ巡礼の道 

3  ボケロンのユートピア、原住民はどう思う? 

4  ピラールの牛は腹まで水に浸かって草を食む

5  パラグアイの豆乳飲料、フルテイカ社を訪ねる

6  パラグアイ最初の日系移住地「ラ・コルメナ」

7  戦後初の計画移民の地「チャベス」

8  パラグアイ大豆発祥の地「ラパス」

9  周到に進められた直轄移住地「ピラポ」

10  最後の直轄日系移住地「イグアス」

11  ジョンソン耕地に抱いたコーヒー生産の夢は大豆で実ったか?「アマンバイ」

12  日本人は山へ帰れ・・・

第4章 チリの旅

1  パイネ国立公園を行く

2  君はアンヘルモでクラントを食べたか?

3  サンチアゴに雨が降る 

4  チリのアカプルコと呼ばれる「ビーニャ・デル・マル」

5  旧都、天国のような谷「バルパライソ」

6  南米チリに渡った最初の日本人 

7  英雄詩人パブロ・ネルーダと革命家チエ・ゲバラ

8  年間降水量が1.1ミリ、チリ北部のアリカ

9  世界最高所のチュンガラ湖に水鳥が遊ぶ 

10  イースター島の旅、モアイは歩いたのか? 悲しみの顔は何を語る

第5章 ペルー、ボリビアの旅 

1  リマ、黄金の都はどうなった?

2  ナスカの地上絵、何のために描いたのか?

3  クスコ、インカ帝国の都は黄金の輝き

4  マチュ・ピチュ、インカの失われた天空都市、ミステリアスな想いに浸る

5  チチカカ湖、トトラの浮島で子供らは歌う

6  チチカカ湖再訪、高山病で急遽サンタクルスへ、友との邂逅 

第6章 メキシコの旅 

1  アステカ神殿の上に立つ大聖堂、メヒコの旅の始まり 

2  君は「国立人類学博物館」を訪れたか?

3  テオテイワカン遺跡のピラミッド

4   陶器「タラベラ焼き」とグルメの町「プエブラ」

5  チョルーラに昔の栄華を偲ぶ

6  コロニア様式の町「タスコ」に遊ぶ

7  殉教壁画に「太閤さま・・・」、クエルナバカ大聖堂

8  カンクン、一度は訪れたいカリブ海のリゾート

9  チチエン・イッツア、森に埋もれるマヤ遺跡

第7章 スペインの旅(十七世紀中南米で覇権を握った国) 

1  ガウデイとサグラダ・ファミリア聖堂 

2  カタルーニャの芸術家たち

3  落日に染まるアルハンブラ宮殿

4  石柱の森のメスキータ、宗教に共存はあるか?

5  ラ・マンチャの風車

6  スペインの農業

7  プラド美術館でみる夢

8  ソフィア王妃芸術センターの「ゲルニカ」

9  マドリード王宮、豪華絢爛スペイン王室の歴史

10  ラス・カサスに学ぶ、「ビラコチャと見間違えた」では済まされない

第8章 アメリカ大陸の歴史 

1  アメリカ大陸、移民の歴史

2  新大陸における農耕文化の起源と新大陸原産の作物たち

3  文明を変えた作物「大豆」、新たな開拓者

あとがき  

 

「パラグアイから今日は!」目次

はじめに 

第1章 南米からの便り

(1)パラグアイからの便り

1 パラグアイ国から今日は! 初年目、友への便り(2000年)

2 遠い国パラグアイから親愛なる皆様へ(2006年)

3 セマナ・サンタのパラグアイにて(2006年)

4  近況報告申し上げます(2006年)

5  親愛なる皆様、いかがお過ごしですか(2007年)

6  元旦にフェリシダーデスと電話あり 

(2)アルゼンチンからの便り

1 アルゼンチン雑感(1979年) 

2  アルゼンチンの人々(1980年)

3  研修員のことなど(1984年) 

4  パンパ平原に君の姿は良く似合う(1984年)

第2章 南米の暮らし

1  ゴミの話 

2  釣銭は飴玉ですか、アスピリンですか?

3  新札はどこへ消えた 

4  セニョリータと呼ばれたくない 

5  ロマーダで車のスピードを落とせ 

6  運が良かった? 南米の車社会は事故と紙一重 

7  異国での講演会 

8  南米人の気質 

9  グアラニー語、言葉は民族のアイデンテイテイー 

10  南米で暮らした家 

第3章 南米の食事

1  アルゼンチンの主食はアサード

2  ブエノス・アイレスの焼き肉レストラン「ラ・エスタンシア」

3  世界を養う「マンジョカ」

4  家庭の食事

5  飲むサラダ「マテ茶」の作法

6  エンパナーダとチパ

7  南米でエントラーダ(前菜)に何を選ぶ?

8  南米のデザート、「アロス・コン・レチエ」とは何だ?

9  海外では食中毒に気をつけろ 

10  パパイア、甘さが強く独特の癖がある

11  南米の香り懐かしマラクジャ(パッションフルーツ、時計草) 

12  マンゴーを食べ過ぎかぶれた話

13  ジャボチカバ、木の幹に白い花が咲きブドウが実る?

14  タマリンド、果肉を食べる豆 

15  南米で和食を御馳走する 

第4章 南米の動植物

1  遠目には満開の桜、ラパチョの花に望郷の想いが募る 

2  聖なる木、「パロ・サント」 

3  ケブラッチョ、斧も折れる硬さ、皮の「なめし」に使われた 

4  酔っぱらいの樹パロ・ボラーチョ 

5  バルサ、中南米原産の世界で最も軽い木 

6  ハカランダ(ジャカランダ) 

7  パラグアイの森林事情と木材加工品 

8  アルゼンチンの国花「セイボ」 

9  大豆試験圃場でのできごと

10  南米の蟻と蟻塚、大豆畑でも蟻にはご用心

11  ツリスドリの群がるのをみた 

12  南米の鳥と聞いて君は何を思い出す?

13  アルゼンチンの国鳥「オルネーロ」(カマドドリ)

第5章 南米の民芸品

1  アオポイ、パラグアイを象徴する繊細な刺繍の綿織物 

2  ニャンドウテイ、「蜘蛛の巣」と呼ばれるパラグアイ刺繍 

3  銀細工のボールペン 

4  サボテンの民芸品、アルゼンチンのフフイにて 

5  パラグアイ神話の主人公 

6  インカローズとカルピンチョ

7 チリのお土産 

8  アルパとボトル・ダンス 

9  パラグアイの画家「ルーベン・シコラ」の水彩画 

あとがき

 

「伊豆の下田の歴史びと」目次

はじめに

目 次

第1章 開国の舞台「下田」

1  風待ち船で賑わった下田港      

2  伊豆下田の「打ちこわし騒動」 

3  入会地をめぐる紛争「茅場争い」 

4  黒船艦隊が下田から持ち帰った植物 

5  黒船艦隊が箱館から持ち帰った植物 

6  ペリー艦隊が下田で手に入れた二つの「大豆」 

7  ワシントン記念塔の「伊豆石」 

8  ペリー艦隊来航記念碑と日米友好の灯 

9  ペリー提督来航記念碑、函館の「ペリー提督像」を訪ねる 

10  ハリスと牛乳のはなし「開国の舞台、玉泉寺」 

11  ハリス江戸出府の道程、「ヒュースケン日本日記」から 

12  村山滝蔵と西山助蔵、ハリスに仕えた二少年 

13  タウンゼンド・ハリス、教育と外交にかけた生涯 

14  日露交渉の真っ最中、下田を襲った「安政の大津波」 

15  プチャーチン、日本を愛したロシア人がいた 

16  橘 耕斎、幕末の伊豆戸田港からロシアに密出国した男 

17  「宝島」の作者ステイーヴンソンと「吉田松陰伝」   

第2章 伊豆下田の歴史人  

1  「伊豆の長八」と呼ばれた男 

2  新選組隊士となった加納通広(鷲尾) 

3  中根東里、伊豆下田生まれの儒者、清貧に生きた天才詩文家

4  中根東里と伊豆人気質 

5  石井縄斎(中村縄斎)、伊豆下田生まれの儒者 

6  篠田雲鳳、開拓使仮学校(札幌農学校前身)女学校で教えた女流詩人 

7  下岡蓮杖、写真術の開祖 

8  写真師鈴木真一と晩成社出立時の記念写真 

9  横浜馬車道にある写真師下岡蓮杖顕彰碑 

10  依田勉三、奥伊豆の里から何故「北海道十勝開拓」だったのか? 

11  三余塾、奥伊豆生まれの碩学、土屋宗三郎(三余) 

12  渡瀬寅次郎、依田勉三の十勝入植に異を唱えた同郷の官吏 

13  井上壽著、加藤公夫編「依田勉三と晩成社」に思う 

14  晩成社の開拓は成功したのか? 農事試作場としての視点 

15  晩成社の山本金蔵と松平毅太郎、札幌農学校農芸伝習科に学ぶ 

16  依田勉三翁之像(帯広市中島公園) 

17  依田勉三の実験場、晩成社「当縁牧場跡地」 

18  晩成社、鈴木銃太郎・渡邊 勝・高橋利八のシブサラ入植 

19  新渡戸稲造は何故「お吉地蔵」を建立したのだろうか

20  韮山反射炉再訪 

21  韮山代官、江川太郎左衛門英龍(坦庵) 

22  今村伝四郎藤原正長、「愛の正長」と校歌に謳われる 

23  下田市名誉市民、中村岳陵と大久保婦久子 

24 下田生まれの性格女優、浦辺粂子 

付表1 伊豆下田歴史年表/付表2 黒船艦隊が下田から持ち帰った植物標本/付表3 黒船艦隊が箱館から持ち帰った植物標本/付表4 伊豆下田歴史年表(開国の時代)/付表5 ハリス江戸出府の道程/付表6 ハリスに仕えた二少年/付表7 プチャーチン関連年表/付表8 下岡蓮杖関連年表/付表9 鈴木真一関連年表/付表10韮山反射炉年表/付表11江川太郎左衛門年表/付表12中村岳陵年譜/付表13大久保婦久子年譜/付表14浦辺粂子年譜

あとがき 

 

「伊豆下田、里山を歩く」目次

はじめに

目 次

第1章 里山を歩く 

1 カワヅザクラ(河津桜)を育てた人々 

2 南伊豆の「早咲きサクラ」を知っていますか? 

3 熱海のハカランダ 

4 コシヒカリ、ゆめぴりか、起源を辿れば南伊豆 

5 上原近代美術館、伊豆の田舎の陽だまり美術館 

6 須原小学校、昭和二十七年度卒業生が六十年ぶりに通学路を歩く 

7 坂戸から谷津へ、河津三郎の里を歩く 

8 坂戸「子之神社」でパワーは得られるか? 

9 屋号、奥伊豆では今も使われる 

10 須原小学校(下田市)、「長松舎」から始まる九十九年の歴史 

11 古松山「三玄寺」、開創は竜王祖泉禅師 

12 竹一筋に、奥伊豆の友 

13 西伊豆の小さな漁村戸田港と「造船郷土資料博物館」 

14 下田富士と民話伝説 

15 寝姿山と武山 

16 下田の城(深根城と下田城) 

17 稲梓郷稲梓里、伊豆下田の地名考 

18 伊豆の土屋郷(須原村)と土屋氏 

19 夏のウグイス、裏山のイノシシ一家 

20 サルが渋柿をかじり、シカが遊ぶやわが家の庭に 

21 北海道で咲いた伊豆の花(マンリョウとシャガ) 

22 やはり野に置け蓮華草、冬の水田を利用した花畑 

23 彼岸花(曼殊沙華)咲く 

第2章 記憶の断章

1一枚の写真  

2 囲炉裏端は「学び」の場 

3 異邦人のような来訪者たち 

4 百姓の時代 

5 イラクサ、カラムシを食い尽くした毛虫 

6 山で摘んだ珠玉の味が忘れられない 

7 メジロと「鳥もち」 

8 ヤブツバキと椿油  

9 竹、今昔物語 

10 稲梓中学校昭和三十年度卒業生 

11 下田北高第十一回生 

12 下田北高の校訓を思い出す 

13 寂空常然の生涯 

14 禮堂文義が保存していた「感謝状」「嘱託状」 

15 四分利公債證書と支那事変行賞賜金国庫債券 

16 伯父「朝義」のこと 

17 啓山石堂が生きた時代 

18牛飼い 

19 祝日と国旗掲揚 

20 石堂が植えた「ヒイラギ」と「イヌマキ」 

資料1農業の時代/付表1須原小学校九十九年の沿革/付表2古松山三玄寺/付表3村落の形成と変遷(稲梓郷稲梓里)/資料2寂空常然の系図/資料3 明治・大正・昭和時代の記録簿等/

あとがき 

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一冊の本「伊豆の下田の歴史びと」

2021-04-02 11:08:19 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

新型コロナウイルス(COVID-19)がなかなか収束しない。外出自粛で生まれた時間の活用法はいろいろあるだろうが、冊子の編纂もその一つ。ここに紹介する「伊豆の下田の歴史びと」(土屋武彦著、A5版232ページ、2021年6月1日発行)もコロナ禍の中で誕生したと言えるだろう。著者は伊豆下田生まれ、北海道在住。

本書の「はしがき」「目次」「あとがき」を引用する。

◇はじめに

嘉永7年(1854)日米和親条約が締結されると、伊豆の下田は日本外交の表舞台で脚光を浴びるようになる。ペリー提督率いるアメリカ艦隊入港、米国総領事館の設置、下田条約並びに日米通商条約の締結、ロシア使節プチャーチン提督の入港と日露和親条約批准など、この間わずか数年間であるが日本の方向性を左右するような大きな交渉とドラマが下田を舞台に繰り広げられた。奥伊豆下田で暮らす人々にとっても、この時代は刺激的で激動の時代であったと言えるだろう。

勿論、伊豆の歴史はこれだけで語り尽くせるものではない。須崎の爪木崎遺跡や田牛の上の原遺跡のように今からおよそ八千年前の縄文時代早期の土器を出土する遺跡があり、日本書紀に伊豆の名前が初見されるなど古くから大和との交流があった。しかし、伊豆は海人山人が暮らす里、遠く離れた流刑の地として知られていたにすぎない。海人は黒潮文化の担い手として操船、造船技術に優れ、山人は天城の山ひだに分け入って採鉱技術を発揮し土地を拓いていた。この海人山人の世界は、時には頼朝や早雲が活躍する舞台となった。江戸時代には重要な風待ち湊下田が江戸幕府の直轄地として、伊豆石・伊豆炭・海産物の積み出し港となり、金山・銀山では採掘が行われた。これら歴史の隅々で伊豆人は逞しく生きて来た。

この様に伊豆は歴史の宝庫としてどの時代も興味深いが、本書では開国の時代を中心に江戸~明治時代の事象と人物を取り上げた。気の向くままに拾い上げたので、全てを網羅するものでも学術的歴史書でもない。伊豆を訪れる人々が旅の途中で出逢い興味を懐くような事象を、落穂ひろいのごとく拾い集め解説したので気楽にご笑覧願いたい。

お読み頂ければ、本書の登場人物には共通する伊豆人気質とでも言えるような生き様があることを感じ取って頂けるに違いない。それは、人が好く無私な心、一途で頑固な生き方・・・伊豆人に共通する性格とでも言えようか。伊豆の自然とここに暮らす人々の人情が人を育て、歴史を創っているのだろう。

本書が伊豆下田をご理解頂く一助になれば、故郷を愛する筆者にとって望外の喜びである。なお、本書は拙著「伊豆下田、里山を歩く」の姉妹編であることを付け加えさせて頂く。

 

◇目次

はじめに

目 次

第一章 開国の舞台「下田」

1  風待ち船で賑わった下田港      

2  伊豆下田の「打ちこわし騒動」 

3  入会地をめぐる紛争「茅場争い」 

4  黒船艦隊が下田から持ち帰った植物 

5  黒船艦隊が箱館から持ち帰った植物 

6  ペリー艦隊が下田で手に入れた二つの「大豆」 

7  ワシントン記念塔の「伊豆石」 

8  ペリー艦隊来航記念碑と日米友好の灯 

9  ペリー提督来航記念碑、函館の「ペリー提督像」を訪ねる 

10  ハリスと牛乳のはなし「開国の舞台、玉泉寺」 

11  ハリス江戸出府の道程、「ヒュースケン日本日記」から 

12  村山滝蔵と西山助蔵、ハリスに仕えた二少年 

13  タウンゼンド・ハリス、教育と外交にかけた生涯 

14  日露交渉の真っ最中、下田を襲った「安政の大津波」 

15  プチャーチン、日本を愛したロシア人がいた 

16  橘 耕斎、幕末の伊豆戸田港からロシアに密出国した男 

17  「宝島」の作者ステイーヴンソンと「吉田松陰伝」   

第二章 伊豆下田の歴史人  

1  「伊豆の長八」と呼ばれた男 

2  新選組隊士となった加納通広(鷲尾) 

3  中根東里、伊豆下田生まれの儒者、清貧に生きた天才詩文家

4  中根東里と伊豆人気質 

5  石井縄斎(中村縄斎)、伊豆下田生まれの儒者 

6  篠田雲鳳、開拓使仮学校(札幌農学校前身)女学校で教えた女流詩人 

7  下岡蓮杖、写真術の開祖 

8  写真師鈴木真一と晩成社出立時の記念写真 

9  横浜馬車道にある写真師下岡蓮杖顕彰碑 

10  依田勉三、奥伊豆の里から何故「北海道十勝開拓」だったのか? 

11  三余塾、奥伊豆生まれの碩学、土屋宗三郎(三余) 

12  渡瀬寅次郎、依田勉三の十勝入植に異を唱えた同郷の官吏 

13  井上壽著、加藤公夫編「依田勉三と晩成社」に思う 

14  晩成社の開拓は成功したのか? 農事試作場としての視点 

15  晩成社の山本金蔵と松平毅太郎、札幌農学校農芸伝習科に学ぶ 

16  依田勉三翁之像(帯広市中島公園) 

17  依田勉三の実験場、晩成社「当縁牧場跡地」 

18  晩成社、鈴木銃太郎・渡邊 勝・高橋利八のシブサラ入植 

19  新渡戸稲造は何故「お吉地蔵」を建立したのだろうか

20  韮山反射炉再訪 

21  韮山代官、江川太郎左衛門英龍(坦庵) 

22  今村伝四郎藤原正長、「愛の正長」と校歌に謳われる 

23  下田市名誉市民、中村岳陵と大久保婦久子 

24 下田生まれの性格女優、浦辺粂子 

付表1 伊豆下田歴史年表/付表2 黒船艦隊が下田から持ち帰った植物標本/付表3 黒船艦隊が箱館から持ち帰った植物標本/付表4 伊豆下田歴史年表(開国の時代)/付表5 ハリス江戸出府の道程/付表6 ハリスに仕えた二少年/付表7 プチャーチン関連年表/付表8 下岡蓮杖関連年表/付表9 鈴木真一関連年表/付表10韮山反射炉年表/付表11江川太郎左衛門年表/付表12中村岳陵年譜/付表13大久保婦久子年譜/付表14浦辺粂子年譜

あとがき 

 

◇あとがき

伊豆の下田、私の生誕地である。原戸籍によれば出生地が賀茂郡稲梓村須原××番地とあるので、正確には稲梓村、まだ下田には含まれていなかった。稲梓村は下田の北部に位置する山村で、昭和30年に近隣6町村が合併し下田町となり、昭和46年に市制が施行され下田市となっている。

生家は山奥の小さな百姓だったので、子供時代は家の手伝いもしたが山野を駆け回って遊び暮らした。太平洋戦争突入から敗戦に至る時代で、戦後の暮らしの変貌も、子供ながらにこの田舎で体験した。誰もが貧しい時代だった。学校は須原小学校から稲梓中学校を経て、下田北高等学校で学んだ。小・中学時代は家から学校まで遠かったので、道草しながら歩いて登校し、勉学よりも遊びに費やした彼是ばかりが印象に残っている。高校はバス通学だったので部活動で汗を流した記憶は少なく、本ばかり読んでいたような気がする。

高校卒業後に北海道へ渡り、札幌で大学生活を送った後は、十勝、上川、道南、南米アルゼンチン・パラグアイと仕事の関係で各地に暮らした。現在は恵庭市に居を構えているが、下田を離れてから既に60年が過ぎ去ろうとしている。この間、毎年のように帰省していたが、仕事があるうちは親の元気な顔を見ればすぐに戻るのが常だった。また、両親亡きあとは墓参と空き家の管理のため年に数回は訪れているが、慌ただしく往来している。

そのような中、ふるさと応援団として何が出来るだろうかと考え、「開国の舞台下田」のこと、歴史に名を遺す「下田生まれの歴史びと」のこと、「里山」のこと、「幼少時の記憶」のことなどを少しずつ紡ぎ、拙ブログ「豆の育種のマメな話」の中で情報発信してきた。このたび書籍化を思い立ち、編纂作業を進める過程で伊豆の歴史や自然を再認識し、陽だまりの里(伊豆)の長閑さや人の良さを振り返ることが出来たのは嬉しいことだった。

令和2年(2020)新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい、日本でも外出自粛を余儀なくされた。この機会を利用して本書の編集作業を進めた。完成度は必ずしも高くないが手作りの私家本完成と言うことで先ずは満足している。足りない所はいつの日か補完することにしたい。

2021年6月1日                             恵庭市恵み野草庵にて 著者〇〇

 

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伊豆の人、今村伝四郎藤原正長

2020-08-07 14:59:50 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

昭和22年(1947)制定の下田小学校校歌(作 田中芳樹・土屋康雄・今成勝司)に「愛の正長 技の蓮杖 学の東里を育みて・・・」とその名を謳われる三名の人物。「技の蓮

杖」とはわが国写真術の開祖と呼ばれる下岡蓮杖、「学の東里」とは著名な陽明学者で清貧に生きた天才詩文家と称される中根東里のことである。二人とも下田生まれ、本書「伊豆の下田の歴史びと」ですでに紹介した。

もう一人の「愛の正長」とは誰か? 下田奉行今村伝四郎正長のことである。三河の人なのに、下田の人々から「愛の正長」と親しみを込めて呼ばれる正長とは一体どんな人物だったのか。

◇ 下田奉行今村伝四郎正長

今村家の遠祖は藤原鎌足に連なると言われる。相模国河村城の城主になった河村三郎義秀は源頼朝に仕えたが、その曽孫五郎秀村のとき河村城を捨て三河国今村郷に移り住み姓を今村に改め、郷士となった。その後幾代か経て、大永7年(1527)今村彦兵衛勝長が徳川家に仕えることになった。勝長は、徳川清康、弘忠、家康三代に仕え、数々の武勲をたてたことで知られる。

今村彦兵衛重長(初代下田奉行):勝長の嫡子。重長は家康、秀忠に仕え数々の武勲をたて、元和2年(1616)目付となり伊豆国に2,200石を知行、下田奉行に任じられる(初代下田奉行)が、老齢のため下田に赴任せず子の正長が職務を代行した。寛永4年(1627)逝去、勝長と同じ岡崎善立寺に眠る。

今村伝四郎正長(第二代下田奉行):18歳になった正長は直参旗本に取り立てられ、二代将軍秀忠の御書院番に選ばれる。25歳で旗本石川八左衛門の娘を妻に迎える。初陣大坂夏の陣で軍功あり1,300石を賜る。元和元年(1615)下田港警備を命じられ、騎馬武士10人と歩卒50人とともに下田へ赴き、遠見番所を設け警備に当たる。寛永4年(1627)第二代下田奉行を継ぐ。多くの治績(船番所の整備、町の区画整理、防風林の植林、社寺振興と下田太鼓祭りの開始、武ヶ浜波除け築堤など)を残したことで知られる。正長の知行は上総国で1,350石、下田知行地(下田、本郷、柿崎、須崎、大賀茂、下賀茂、青野、市之瀬など)2,200石を加え3,600石であった。正長は下田奉行職の傍ら、徳川家直参旗本として特命を受け目付、将軍随行、長崎奉行など諸行事に関わり務めを果たしている。正長の下田奉行職の在任期間は代行を含め37年間に及ぶ。承応2年(1653)下田で逝去。享年66歳。了仙寺に眠る。墓碑銘は今村伝四郎藤原正長(了智院法仙日泰霊位)とある。

なお、第三代下田奉行は正長と昵懇の石野八兵衛氏照が継ぎ、承応2年(1653)から16年間下田奉行を務めた。御番所の整備、七軒町から大浦に抜ける切通し工事、回船問屋の制度確立、隠居同心、火の番小屋の設置など、正長の理想を完成させた。切通し工事は入港の回船から帆一反につき銀一匁を納めさせ、住民には費用を一切負担させなかったと言う。住民に負担を掛けない方式は正長の波除築造の考えを継承している。

今村伝三郎正成(第四代下田奉行):正長の子正成は寛永8年(1668)下田奉行を継ぐ。正長、氏照の治世を継承したが、上水道の敷設は正成の特筆すべき事績と言えよう。井戸水の水質が悪く住民が困窮しているのを見て、中島の水源から道路の地下に木管を埋設して全町に水道を引いた。この上水道整備は時代を先取りする事業であった。在職10年江戸で逝去。享年68歳。了仙寺に葬られた。

・今村彦兵衛正信(第五代下田奉行):正成の子正信が延宝6年(1678)下田奉行を継いだ。在職5年、天和3年(1683)下田で逝去。享年43歳。了仙寺に眠る。正信には子が無かったため今村家は断絶。

この後、第六代下田奉行は服部久右衛門となった。久右衛門は、水道は不用として木管を掘り出しこれで辻木戸を作り、夜間は辻木戸を締め夜盗を防いだと下田歴史年表に記されている。享保6年(1721)御番所は江戸に近い浦賀に移転することになり下田奉行は廃止され、浦賀奉行所支配の浦方御用所が置かれた。

◇ 下田奉行

下田奉行は幕府直轄領に置かれた遠国奉行の一つである。下田奉行は開国の歴史に翻弄され設置、廃止が繰り返され、三つの時代がある。

・第一次:元和2年(1616)~享保5年(1720)

下田港が遠州灘と相模灘の追分にあって江戸~大坂航路の風待ち港として重要な地位を占めていたことから、港の整備、船舶の監督、貨物検査などが重要な仕事であった。今村家四代にわたる下田統治は下田の礎を築く時代であったと言えるだろう。

・第二次:天保13年(1842)~天保15年(弘化元年、1844)

天保13年12月には外国船の来航に備え、海防のため下田奉行が再設置された。小笠原加賀守長毅が浦賀奉行から下田奉行となり、須崎の洲左里崎、狼煙崎(鍋田浜と吉佐美の間)に御台場を築城したが、翌天保15年(弘化元年)2月には御台場廃止、同年5月下田奉行も二代土岐丹波守をもって廃止となった。

・第三次:嘉永7年(1854)~元延元年(1860)

嘉永7年3月に日米和親条約が神奈川で調印され、下田が箱館とともに開港と決まったため、下田奉行が再々設置され佐渡奉行都築駿河守峯重、浦賀奉行伊沢美作守摂津守政義が急遽初代下田奉行任命された。米使ペリー提督艦隊が下田に入港すると、林大学頭・井戸津島守・鵜殿民部少輔・松崎満太郎らと交渉にあたる。奉行所は宝福寺・稲田寺を仮事務所にしていたが、安政2年(1855)中村に奉行所を建設。欠乏所も設置された。伊沢美作守はロシア使節プチャーチンとの交渉に当たっていた筒井政憲・川路聖謨の補佐役にも従事。また、安政3年ハリスが駐日総領事として下田に来航すると下田奉行は岡田備後守忠養、井上信濃守清直(川路聖謨は実兄)、中村出羽守が就任した。安政6年(1859)日米通商条約が締結し横浜開港となると下田港は閉鎖、元延元年(1860)下田奉行も廃止となった。下田が歴史の表舞台に登場したのはこの第三次下田奉行が置かれた僅か七年間であった。

◇ 正長の治績

下田開国博物館編集「肥田実著作集、幕末開港の町下田」に正長の治績が詳細に述べられているので、その概略を紹介しよう。

(1)須崎の越瀬(おっせ)に遠見番所を設け警備にあたる。

元和元年(1615)下田港警備を命じられた正長は、同心50人で沖を通る船を見張り、追船で乗り付けては、女・子供・手負いなど怪しい者が乗っていないか改めたと言う。現在、越瀬に御番所址の石碑が残されている。

(2)下田船改番所の整備

嘉永13年(1636)須崎の遠見番所は大浦に移され、船改番所として整備された。また、鍋田に鎮座していた祠を大浦に移し鎌倉の鶴岡八幡宮を祀り祈願所とした。この年は参勤交代制が実施された翌年にあたり、船改番所の主目的はいわゆる「出女入鉄砲」監視であった。江戸に出入りする諸国の回船は下田船改番所に立ち寄り、宿手形,荷手形を示して船改めを受けなければならなかったのである(海の関所)。

一方、下田沖は海の難所で遭難する船も多く、海難処理も重要な仕事であった。与力や同心だけでは業務が処理しきれない状態になり、正長はかつての配下であった隠居同心28人に回船問屋を申し付け御番所の業務を補佐させた(回船問屋は63人まで逐次増員された)。問屋衆は下田特有の制度であったが、世襲制で、武士ではないが大半の者は名字帯刀が許されたと言う。なお、幕藩体制が固まり治安が安定してくると、享保6年(1721)御番所は浦賀に移され下田奉行は廃止、その後は浦賀奉行所出張所「浦方御用所」が置かれた(場所は澤村邸の辺り)。

(3)武ヶ浜波除けを築く

当時の下田は波浪が市街地に迫り暴風雨が来ると民家が流されるなど被害が大きく、また稲生沢川の河口は土砂が堆積し船の係留も出来なくなることが多かった。正長は港の西側に防波堤を築くことで被害を防ごうと計画、宰領には家臣の薦田景次、太田正次が当った。武山の山麓から切り出した石を運び、高さ2丈(約6m)、長さは直角に曲がった部分を含め6町半(約700m)、寛永20年(1643)から始めて3年目の天保2年(1646)8月8日に完成。この工事では、稲生沢川の先端部分を石堤で絞ることによって水流を強め、土砂を放出し川底が浅くなるのを防ぐ工夫も加えられていた。

この工事にあたり正長は幕府の補助を一切受けることなく、自らの俸禄と私財をなげうって成し遂げた。その後何回か洪水や津波によって破壊されるが、正長が幕府に申し立て、以降の修復は幕府の負担で行われている。長い年月を経て石堤の外側に土砂が寄り、更に埋め立てが行われ現在の武ヶ浜が出来上がった。

(4)城山などの植林

下田城の戦いの後、正長は松を植林。丹精を込めて管理した松はその後も幕府、明治政府、町有林として管理され、防風林及び魚付林として恩恵をもたらした。

(5)社寺の振興、太鼓祭り

正長は敬神の念篤く、大浦八幡宮建立、武山権現社修復、下田八幡神社の修復、了仙寺の開基、大安寺等多くの社寺に寄進するなどしている。人々の信仰も暑かった時代である。また、住民が心を一つにして取り組めるよう八幡神社の祭典を興した。各町が太鼓繰り出す住民総参加型の祭典は太鼓祭りとも呼ばれるが、その旋律は徳川方大阪城入場の陣太鼓を模したと言われている。

◇ 第二の故郷のために

下田奉行を37年間務めた今村伝四郎正長。多くの治績を残したが、私財を投じて行った武ヶ浜の波除け築堤は下田の将来を見据えたものであった。この事業には、住民に負担を掛けまいとする深い配慮があった。正長は下田を第二の故郷と思い、無私の心で工事を進めた。人々は正長の心に愛を感じたに違いない。町民は正長の偉業を称え武山権現社の境内に勒功碑を建てた(大正3年巳酉倶楽部により修復され現在地に移転)。関東大震災の折には、防波堤のお陰で下田は惨事を免れたと町民は「今村公彰徳碑」を建てた。

そして今もなお、下田小学校の子供らは校歌で正長の偉業を学び、「今村公を偲ぶ会」など正長の功績を語り継ぐ人々がいる。

参照:下田開国博物館編集「肥田実著作集、幕末開港の町下田」二〇〇七

 

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伊豆の人-11,写真術の開祖 「下岡蓮杖」

2014-05-26 15:51:17 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下田城山公園蓮杖台の下岡蓮杖顕彰碑と胸像

下田城山公園の一角,蓮杖台と呼ばれる高台に下岡蓮杖の顕彰碑と胸像がある。顕彰碑(昭和3年建設)には渋沢栄一筆で「下岡蓮杖翁之碑」と刻まれ,重岡健治製作の胸像(生誕160年を記念して,昭和59年建設)は写真機と蓮根状の杖を持った姿である。

下岡蓮杖は文政6年下田生まれの,わが国における写真術の開祖とされる人物。下田小学校校歌には,「愛の正長 技の蓮杖 学の東里を育みて,永遠に輝くいさおしの誉れも高き我が下田」と謳われ,下田の基礎を築いた奉行今村伝四郎正長,儒者で天才詩文家の中根東里と並び称される。

蓮杖の経歴は,彼が晩年に語った談話筆記に基づく場合が多く異説も多いが,肥田喜左衛門,斎藤多喜夫氏らの研究でかなり明らかになってきた。詳しくは付表をご覧頂くことにして,先ずは蓮杖の一生を辿ってみよう。

◆下岡蓮杖年譜(概要)

1.生い立ち

下岡蓮杖,文政6年(1823)伊豆国下田仲原町で代々廻船問屋をつとめる櫻田與惣右衛門の三男として生まれる。幼名久之助。幼少より絵を好む。幼くして岡方村土屋善助の養子となるが,天保3年(1832)養父母が他界したため実家に戻る。天保6年(1835)江戸横山町の足袋屋へ丁稚奉公に出されるが,嫌気がさし下田に戻る。

 

2.狩野菫川の門弟となる

天保13年(1843)下田に設けられた台場付の足軽となるが,画筆で身を立てたいとの思いは強く,下田砲台同心・鹿子畑繁八郎の紹介で,幕府の御用絵師である狩野菫川に入門。菫園の号を与えられる。本格的な絵の修業に取り組み,次第に頭角を現す。天保14年(1844)浦賀奉行土岐丹波守の世話で浦賀平根山砲台付足軽となる。

3.銀板写真と出会う

弘化2年(1845)オランダ船がもたらした銀板写真をみて驚嘆,写真技術を学ぼうと決意する(弘化2年,嘉永3年,安政4年など諸説がある)。技術習得には写真を写せる外国人に近づくのが早道と思いつめる。

弘化3年(1846)久里浜に投錨したアメリカ船が発見されると,幕府より「絵図に書きとるよう」命を受けて外国船に接し,見取り図を作成。この頃(嘉永67年),ペリー艦隊の写真師ブラウン・ジュニアやプチャーチン艦隊のモジャイスキーが下田・箱館で数枚の写真を残しているが,蓮杖が彼らに接触した記録はない。

安政3年(1856)玉泉寺がアメリカ領事館となると,下田に戻って領事館の給仕使となりハリスの通訳ヒュースケンから写真撮影を学ぼうとするが,目的を達することは出来なかった。写真技術習得の夢は果たせず,焦燥の日々であったろう。安政6年(1859)江戸城本丸が炎上(十月)すると,師菫川に呼ばれて復旧工事に従事している。

嘉永6年(1853)蓮杖を名乗る(蓮杖が愛用した唐桑製の杖に嘉永6年の文字が刻まれている。この杖の形状から蓮杖と呼ばれ,自身も名乗るようになったと言う)。

4.写真術習得と写真館開業

万延元年(1860)横浜でアメリカ商人ショイヤーの夫人アンナ(画家)からパノラマ画油絵を学ぶ。同時に,ショイヤーの客人であった写真家ウンシン(ジョン・ウイルソン)から写真術の習得に努める。そして,文久元年(1861)ウイルソンが帰国することになり,自身が描いたパノラマ画と交換に写真機を手に入れる。さらに,ウイルソンのスタジオ(駒形町)を継承し外国人相手に撮影を行う(ショイヤーの都合により戸部に転居)が,ウイルソンから譲り受けた薬液が尽きてしまう。化学知識の乏しい蓮杖にとって寝食を忘れ刻苦して調合を研究1年余,写真技術を己のものにした時の喜びの様子が語り継がれている。

文久2年(1862)横浜野毛に写真館を開業(全楽堂,後に弁天通に移転,横浜における日本人最初の営業写真館であった)。

5.千客雲集の盛況

慶応元年(1865)妻・美津が体調を崩したため下田(殿小路)に戻り写真館を営む。この頃「下岡」と改姓する(生地の下田と養父先の岡方村から一字を取ったと言う)。

慶応3年(1867)横浜に戻り,本町通(現・馬車通)で写真館を再開業,「相影楼」「全楽堂」の看板を掲げる(中央には英文の大看板を添える)。一階は茶屋を兼ねた売店,二階が撮影場。着色した「横浜写真」や「横浜絵」が評判を呼ぶ。外国人のお土産品として人気があったと言う。門下に,横山松三郎,臼井重三(秀三郎,蓮節),鈴木真一,江崎礼二,船田万太夫,中村竹四郎ら。

また,明治2年(1869)横浜居留地と筑地居留地間の乗合馬車営業を始め,明治5年(1872)牛乳販売業,石版印刷業を始めるなど,好奇心旺盛で商才にたけた蓮杖の姿が伺える。いずれも開祖と称されるほど逸早く取り組んでいるが,事業としては成功していない。

6.晩年の蓮杖

明治7年(1874)横浜海岸教会で洗礼を受ける。明治8年(1875)妻の美津逝去後は,横浜にあった三軒の写真館を弟子たちに譲り浅草公園五区に転居。時代と共に写真技術は進化し,多くの写真家たちが活躍するようになる。蓮杖はスタジオ写真用の背景画を描くなど,画筆を楽しみ余生を送った。明治12年(1879)には登和を後妻に迎え,大正3年(1914)浅草で逝去(三月,享年92歳,墓は巣鴨の染井墓地にある)。

◆元祖の地位

わが国における写真術の開祖として,「西の上野彦馬,東の下岡蓮杖」と言われてきた。彦馬はオランダ人から化学や写真術を学び,文久2年(1862,蓮杖と同年)長崎で「上野撮影局」を開業。もう一人は,鵜川玉川。師であるフリーマンの写真館を引き継いで1年早い文久元年(1861)に江戸薬研堀で開業している。厳密に言えば,鵜川玉川が元祖であると言えるかもしれない。

いずれにせよ,ほぼ同時期に写真技術を習得し営業を開始した,鵜川玉川,下岡蓮杖,上野彦馬三名を写真術の開祖と言って良いだろう。

◆下岡蓮杖の再評価

上野彦馬は,外国人だけでなく坂本竜馬,高杉晋作ら幕末の志士たちの肖像を撮影し,写真現存している。一方,蓮杖の写真は震災等で多くが紛失したこともあり数が少ない。また,弟子の横山松三郎,鈴木真一らに比べ写真技術が劣るなど評価が芳しくなかったが(ピントの甘い,やらせ写真と揶揄する者もいた),蓮杖の写真が発見されるにつれ評価が高まっている。特に,風景や市井の人々を対象にした風俗写真(演出による絵画的な構図が取り入れられている)は暖かみがある。幼少の頃から絵を好み,狩野菫川門下で修業を積んだ絵師の技術が活かされていると思われるのだが・・・。

幾多の逸話があるが,ここでは省略しよう。興味のある方は,下記の資料を参考にされたい。なお,横浜市馬車通にも「日本写真の開祖,写真師下岡蓮杖顕彰碑」(昭和62年建設)がある。

下田城山公園の蓮杖台を訪れたのは五月下旬であったが,初夏を思わせる暑い日であった。下田開国博物館から,ペリーロードを港に向かい散策し,なまこ壁の旧澤村邸(市歴史的建造物指定)脇の石段を城山公園に向かって上る。石段は昼の陽射しを受けて汗ばむほどであったが,蓮杖の記念碑前に立つと港からの涼しい風が頬を撫でた。

そして,いつも持ち歩くメモ用の小さなカメラを胸像に向けた。幕末から明治にかけて先駆けした写真術開祖の苦労を偲びながら・・・。

参照:下田巳酉倶楽部「下田の栞」大正3年(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),作間勝彦「晩成社移民団関係写真と写真師・鈴木真一」帯広百年記念館紀要192001),斎藤多喜夫「幕末明治横浜写真館物語」吉川弘文館(2004),下田開国博物館「肥田実著作集,幕末開港の町下田」(2007), 肥田喜左衛門「下田の歴史と史跡」下田開国博物館(2009


 

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伊豆の人-5,「中根東里」と伊豆人気質

2013-02-07 16:22:58 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

「中根東里」幼少時のエピソードが知られている。

「・・・東里は幼いころから親に孝行だった。父の重勝はよく飲み歩き,家に帰るのも遅かった。東里はいつも提灯を持って父の帰りを待って外に立ち続けるのであった。ある日,父は泥酔し,迎えに来た東里を東里ともわからず罵り,樹の下に倒れ込んで眠ってしまった。藪蚊が襲ってくる。東里は父を背負って帰ろうとしたが子供の力ではどうにもならず,家に帰り,母に心配を掛けまいと“父は今晩知人宅に泊まることになったが,蚊帳が足りないので借りてこいと言われました。私もそこに泊まります”と蚊帳を持ち出し,父が眠っているところに戻り蚊帳を吊って,一睡もせず泥酔した父を護り,翌朝一緒に帰った。村人は,その孝行ぶりを褒め称えた・・・」とある(参照:井上哲次郎「日本陽明学派之哲学」冨山房明治33(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),下田己酉倶楽部「下田の栞」大正3(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),磯田道史「無私の日本人」文芸春秋2012)。

 

また,1)鎌倉の長屋で弟と暮らした頃,隣人の病を見かね,典籍や衣服を売り払い,これを救い,男の病が回復すると「このまま長屋にいては,あの男も気まずかろう」と,鎌倉を離れた優しさ。2)江戸弁慶橋近くの町木戸の番太郎となり,竹皮草履を作り,売りながら,書を取り寄せては読みふける暮らしの中で,たまたま隣人の幼児虐待の有様を目にするが救済も叶わず,「何のために学問してきたのか」と悩んだ優しさ。3)下野国佐野で,弟の赤子を育てながら村人に書を教え,清貧なうちにも人々に慕われて生活を送ったことなど,東里の人生には心の優しさを示す事象が数知れない。

一方,生活を犠牲にしてまでも貪欲に経書を読み真理を求めた一途さ,禅宗,浄土宗,朱子学,陽明学へと一度矛盾を悟ると次ぎへ進む潔さが東里にはみられる。

 

このような中根東里の性格はどこで形成されたのか?

性格は本来親から譲り受ける遺伝的素質であるが,一つの仮説として,幼少の時を奥伊豆の下田で生きたことが性格形成に影響した,と想定しよう。

気候温暖な土地柄のため性格は温和で優しくなり,江戸から離れた寒村の長閑な暮らしで一途な心(不器用でもある)が育まれたのではないか,と考えるからである。

 

世に,「伊豆人気質」と言う言葉がある。

人国記によれば,「当国の風俗は,強中の強にして,気を稟くるところ都て清きなり。然れども一花の気にして,少しの違いめにても,また親怨を変ずるなりとぞ。案ずるに・・・三方海岸にして,中は山谷なり。寒暑も穏やかなところなり。民族辺境なる故に,よろず一筋なり」という。

 

また,日刊ゲンダイ編集部編「県民性と相性」(グリーンアロー出版社)によると,静岡県は「気候温暖が生んだ気性なのか,金銭欲,上昇志向まるでなし,事あらば酒宴を開く大楽天家,歩くのがのろい,のんびり型,競争を好まない,平和友好的(競争心がない),優柔不断,それなりに」の特性があるという。県内でも,伊豆の乞食(お人好しで人情に厚い,乞食をしても食って行ける)と遠州泥棒(進取の気性に富んでいる,食えなくなると泥棒まがいのこともする。家康の庇護を受けて過当競争をやったことのない静岡市に対し,遠州浜松は大阪や近江商人の進出を受けて安閑としていられなかった)の言葉があると解説する。

 

類型化に意味のないことは承知の上で(東里と比べるのも畏れ多いが),両者を比べてみよう。中根東里の優しさ,一途さが,伊豆人気質に重なって見えるではないか。観光客が訪れ,人々の交流が多くなった現在,前述のような気質は伊豆下田から薄れているが,地元の老人に声を掛けてみれば穏やかな響きと人の良さが伝わってくるだろう。歩く姿や身振りも決してセカセカしていない。

中根東里が腰を下ろし書物片手に竹皮草履を売っていても,違和感がないではないか。

 

伊豆生まれの筆者にとって,妙に納得するところがあるのだが・・・

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伊豆の人-4,下田生まれの儒者,清貧に生きた天才詩文家「中根東里」

2013-02-06 17:06:35 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

元禄7年(1694伊豆下田で生まれ,晩年は下野国佐野(現栃木県佐野市)で暮らし,72歳の生涯をとじた一人の儒者がいた。その人の名は「中根東里」。私がこの名前を知ったのはつい最近の事である。

中根東里の生涯を,辿ってみよう。

 

◆中根東里

・元禄7年(1694)伊豆下田で生まれる。幼名は孫平,名は若思,字は敬父(夫),東里と号す。後の名を貞右衛門。ちなみに,父は重勝,三河の人で伊豆に流れ着いて当地に住み,浅野氏を娶る。

・元禄19年(1706)東里13歳の時,父を喪い(本覚寺に埋葬),禅寺に入り剃髪して証円と名乗る。読経を重ねるうちに,経典の本来の言葉である唐音(中国語)を学びたいと思う。

・正徳元年(1711),唐音を学ぶため宇治黄檗山萬福寺に入り,中国僧から漢学の手ほどきを受ける。書を好み経文を読み尽くさんと欲するが,禅の修行は書見ではないと諌められ,荻生徂徠門下慧岩の名を頼って江戸に出る。

・駒込の浄土宗蓮光寺に寓す。経典,大蔵経を読破したと伝えられ,その噂は江戸に広まった。東里の噂は荻生徂徠の耳にも入り,徂徠は東里を門弟となす(徂徠が鎖国の時代に希少であった東里の言語能力を利用した面もある)。徂徠のもとで古文辞を磨くが,「孟子,浩然の気の章」を読み還俗を決意する。還俗に対して徂徠の怒りを買う。東里は「徂徠の虚名を頼りに名を上げようとした己を恥じ」て,書きためた詩文を全て燃やしてしまう。

・浪人暮らしをしていた細井広沢のもとに身を寄せる。細井広沢は儒学者・書家・篆刻家として知られ西洋天文学にも博識であった。「技を暮らしの足しにせず,技をもって道となす」とする細井広沢の生き方に感銘する。

・正徳6年(1716),23歳の東里は室鳩巣に従って金沢へ下る。鳩巣から貞右衛門の名をおくられる。金沢では,ひたすら四書を読み,研鑚を積む。加賀藩から仕官の要請があったが,「学問して禄を貰う訳にはいかぬ」と,これを断り江戸にもどる。当時の儒学者は高額で仕官するのが常であったから,東里の考えは常識を超えるものであった。

・享保3年(1718)江戸八丁堀の裏長屋で終日書を読んで暮らすが,蓄えも底をつく。享保4年(1719)鎌倉在の弟淑徳と一緒に住むことにし,鶴岡八幡宮の鳥居下で漢籍を読みながら下駄を売り,粥をえて暮らす。ある時,長屋隣人の病を見かね,典籍や衣服を売り払い,これを救った。男の病が回復すると,「このまま長屋にいては,あの男も気まずかろう」と,兄弟は鎌倉を離れる。二年ほどの鎌倉暮らしであった。

・江戸弁慶橋近くの町木戸の番太郎となり,竹皮草履を作り,売りながら,書を取り寄せては読みふける。たまたま隣人の幼児虐待の有様を目にするが,救済することも出来ず,「何のために学問してきたのか」と悩む。そのような折「王陽明全書」に出会い,これまでの霧が消え去るのを感じ,ひたすら王陽明の著述を読みふける。そして,「書物を読んできた自分の使命は,人々にそれを説き,自ら行うことではないか」との考えに至る(知行合一)。この頃から,請われれば町民に書を講じた。

・下野国佐野の泥月庵に移り住み(後に知松庵)町の子供らにに王陽明の伝習録を講義する。以降,東里は30年近くをこの里で暮らした。生涯娶ることもなく,弟の赤子を育てながら村人に書を教え,清貧ながらも人々に慕われて生活を送った。

・宝暦12年(1762)姉の嫁ぎ先であり母が暮らした浦賀に往き,明和2年(176572歳で生涯をとじた。遺品や遺稿と言うべきものも殆ど残っていなかったという。顕正寺(浦賀)に自筆の墓碑がある。

 

磯田道史氏は「無私の日本人」(文芸春秋2012)で,「中根東里という儒者について書きたい。村儒者として生き,村儒者として死んだ人だから,今では知る人も少ないが,わたしは,この人のことを書かずにはいられない・・・」と書き始めている。同書の表紙には「荻生徂徠に学び,日本随一の儒者になるが,仕官せず,極貧生活を送る。万巻の書を読んだ末に掴んだ真理を平易に語り,庶民の心を震わせた」とコピーされている。

 

荻生徂徠や室鳩巣にその才を認められ,天才詩文家・儒者として名前が知られるようになった中根東里であるが,「世間的に偉くならずとも,金を儲けずともよい」と,ひたすら書を読み真理を求め,町民に平易に語り,隣人にやさしい心を持ち続けた生きざは,尊厳に値する。純で優しく,一途で,極限なまでに無私であったから,世間の濁りを純化させることが出来たのだろうか。歴史に埋もれた日本人の一人である。

 

今の世にこそ,中根東里の生き方に学ぶことがありそうだ

 

伊豆に住む従兄弟からの便りで中根東里に出会った。東里の生きざまには強い衝撃を覚える。

 

参照:井上哲次郎「日本陽明学派之哲学」冨山房明治33年(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),下田己酉倶楽部「下田の栞」大正3年(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),磯田道史「無私の日本人」文芸春秋2012

 

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