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トルコ旅行 14 ヒッタイト帝国の都ハットゥシャ-6

2015年02月04日 | 海外旅行
トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の南端「スフィンクスの門」を終え、最後の「王の門」の見学です。



「ハットゥシャ」の概略地図です。

現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、かつて城壁に囲まれていたと思われるエリアをピンク色に塗っています。

遺跡の見学道路を北の大神殿から南の「スフィンクスの門」まで進み、最後は「王の門」の見学です。

見学を終えた後、遺跡の北にあるレストランに行きましたが、地図の上部にある青い矢印のすぐ上がその場所です。



写真上段は、城内に向いて作られた「王の門」の風景で、左側の白い石柱にレリーフが見られます。

写真下段は、城壁の外側から見た門の風景で、左右の石の形から、かつてスケールの大きいアーチ型の門があったことがうかがわれます。

「王の門」のレリーフは、発掘された当初、王の像と考えられ、門の名称としたようですが、その後の研究で、神の像と考えられるようになっています。

「ライオンの門」や、「スフィンクスの門」など左右に像がある門とは違い、片方だけに神の像が作られたことに興味を魅かれます。

約3500年前の遺跡の中に真新しい白のレリーフは、明らかにレプリカと分かりますが、実物は、アンカラのアナトリア文明博物館にあるそうです。



「王の門」のそばの案内板にあった門の再現イメージ図です。

門の両側の城壁を突き出すことにより、門の前を狭くして押し寄せる敵の人数を制限し、城壁の上からの反撃も考えられていたようです。

一見、中世ヨーロッパの城門にも思えますが、既に3500年前頃、このような城門が造られていたとは驚きです。



トルコ人ガイドさんが「王の門」のレリーフを説明している風景です。

指さされた腰の下辺りの説明内容は、すっかり忘れてしまいましたが、克明に刻まれた神の像にヒッタイト時代が垣間見えるようです。

門に押し寄せる敵を迎え撃つ味方の兵士達を鼓舞する姿のようにも見え、いかめしい顔を門の外に向ける守護神の雰囲気とは違うものです。

体は、正面に向き、顔や、手足は、横を向く姿は、ヒッタイト帝国の聖地「ヤズルカヤ」でも見られ、ヒッタイト帝国時代のレリーフの特徴のようです。

同様の形式は、メソポタミヤ文明や、古代エジプトの彫像の一部にも見られますが、この形式が好んで使われたのは写実を離れ、描きたい面を組み合わせるピカソ的発想だったのでしょうか。



神の像とされるレリーフを拡大した写真です。

トルコ人ガイドさんが指さした腰の下には剣と思われる長い棒状のものが見え、右手に持つ斧もタツノオトシゴの顔にも似た珍しいものです。

先が尖った帽子の後ろに垂れ下がったものが付いますが、耳の下まで覆う形から兜にも見えてきます。

資料を探していたら面白い記述がありました。

■「古代オリエント文明」(ピエール・アミエ著、鵜飼温子訳、白水社発行)より
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~城門のひとつ《王の門》は、力強い写実的肉付きの守護神の像で飾られている。この髯(ヒゲ:頬のひげ)のない人物は、うしろに飾りの帯の垂れた角のついた冠を被り、そしてパレスティナやイラン出土の武器と類似の、刃の反対側が掌の形に分岐した斧を手にしている。帯に結びつけられた曲がった短刀と腰巻は、ラス・シャムラのバール神のものをしのばせる。
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「王の門」と、その付近にあった建物の再現イメージ図(上段)と、平面図(下段)です。

何故かこの図は、「王の門」付近ではなく、「スフィンクスの門」の地下道の入口付近の案内板にあったもので、その場所がこの図で紹介された「王の門」付近一帯が見晴らせる場所だったことによるものでしょうか。

再現イメージ図(上段)を見ると、場外から「王の門」を入り、左手に続く塀に沿って進むと大きな建物の入口があったようです。

中庭がある大きな建物や、その横にある小さな建物は、城門に近いことから旅人の宿泊施設で、小さな建物には馬や、ロバ、ラクダなどを休ませる施設だったのかも知れません。

下に掲載した遺跡南東部の地図で見ると、平面図(下段)は、「王の門」付近と一致していますが、再現イメージ図(上段)は、南北が逆さまに描かれています。



「ハットゥシャ遺跡」の南東部の地図です。

ヒッタイト帝国の都には各地方からの往来があったと考えられ、南東方面に向いた「王の門」にはカッパドキアや、その先の地中海東岸、エジプトとの交流の門だったことが考えられます。

前述の資料に「王の門」に刻まれた守護神の像の短刀や、腰巻が「ラス・シャムラのバール神のものをしのばせる」とあり、「ラス・シャムラ」を調べて見ました。

Wikipediaによると、「ラス・シャムラ」は、地中海東岸にあるシリアの港湾都市「ラタキア」から北に約8Kmの海岸近くの町で、紀元前1450年頃から紀元前1200年頃に栄えた古代都市国家「ウガリット」があった場所だそうです。

「ウガリット」の北にはヒッタイト帝国、南東にはメソポタミア、南西には古代エジプトと、それらを結ぶ三角形の中央に位置し、地中海との交流もあったとされます。

Wikipediaによると、「バール神」は、ウガリット神話に「バアル」の名で登場する神で、「右手に矛、左手に稲妻を握る戦士の姿」、「自然界の水を征する利水・治水の神」、「慈雨によって実りをもたらし、命を養う糧を与える神」などの特徴が紹介されています。

ヒッタイト帝国の聖地「ヤズルカヤ」の大ギャラリー奥の岩に刻まれたレリーフで見た主神「テシュプ」も天候神・雷神とされ、よく似ています。

やはり、半砂漠地帯の気候の中で生きる人々の祈りは、雨の恵みだったものと思われます。

又、「ウガリット」の神話がユダヤ教の聖書へとつながるカナン神話の原型とされていることを知り、驚きました。



写真上段は、「スフィンクスの門」の下の道から「王の門」付近を見た風景で、写真下段は、右手の風景を拡大したものです。

写真右手の道路脇にあるのが「王の門」でしようか。

門から細長く続く石の列が塀の跡のようで、写真右端の建物跡が案内板にあった再現イメージ図の建物と思われます。



ハットゥシャ遺跡の見学を終え、ツアーのバスで、昼食に立ち寄ったレストランの風景です。

冒頭の地図の上にある青い矢印の先にあり、ハットゥシャ遺跡の全体が見渡せました。

写真下段にレストランの入口があり、入口の左手に等高線が描かれたハットゥシャ遺跡の地図が掲示され、その写真をブログで、利用させて頂きました。



レストランの庭にブドウの棚があり、たくさんの房が実っていました

かつて見たことのない小粒のブドウで、未熟とも思える緑色の実に白い粉が付いた珍しいものでした。

写真右下は、ブドウの房のそばにこぶしを並べて撮ったものです。

野生のブドウかと思い、トルコ人ガイトさんに尋ねると、ワインを作る品種だそうです。

こんな小さなブドウで、本当にワインを作るのでしょうか。



写真上段は、レストランから南に見えたハットゥシャ遺跡の風景です。

遺跡は、正面の山すその「大神殿」から左の山頂の「スフィンクの門」まで続いています。

山頂から少し右に見える大きな岩山の上が「大城塞」があると思われますが、こここからは見えないようです。

アナトリアの古い集落は、守りを考え、山裾から見えない山の中腹に作られる例が多く、ハットゥシャの最初の集落も「大城塞」から始まったものと思われます。

写真中段は、大神殿付近の風景です。

右手に再現された城壁(左下隅に拡大写真)、左手の道路わきの木立付近が大神殿の駐車場で、その間に神殿などの建物跡が広がっています。

写真下段は、「スフィンクの門」がある山頂付近の風景で、駐車した車も見えます。



レストランの東に見えたヤズルカヤ遺跡付近の風景です。

山の中腹に三角形の岩山が並ぶ(写真の中央)辺りが「ヤズルカヤ遺跡」で、土産物店の黄色い建物も見えていました。

エジプトのラムセス3世(在位前1182~1151)の葬祭殿の記録によると、紀元前1180年、ヒッタイト帝国は、「海の民」によって滅ぼされたとされます。

ヒッタイト帝国末期、聖地ヤズルカヤで、天候神「テシュプ」へ祈る最後の王を想うと、厳しい干ばつが続く時代だったのかも知れません。

次回は、いよいよカッパドキアです。
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