昔に出会う旅

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13世紀末の「英祖王」を偲ぶ、「浦添ようどれ」の見学№2

2008年07月02日 | 沖縄の旅

駐車場から「浦添ようどれ」へ向う途中にあった大きな案内板です。
前回も部分的に掲載しましたが、年表や、戦前の写真などがあり、ずいぶん丁寧な内容になっています。
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■案内板にあった説明文を転記します。
浦添ようどれは琉球王国初期の王の墓で、極楽殿ともいいます。咸淳年間(1265-1274年)に英祖王が築いたといわれ、その後、14世紀後半~15世紀前半に石垣がめくらされました。さらに1620年には、浦添出身の尚寧王が改修し、自らもここに葬られました。
ようどれの頂(現在地)から墓庭へは、まず急坂の石畳道を下り、かってはトンネル状の通路であった暗しん御門を通って二番庭(なー)にでます。そして中御門と呼ばれるアーチ門をくぐり抜けて、墓室のある広い一番庭にいたります。
墓室は、岩盤に大きな横穴を二ヶ所掘り、前面を石積みで塞いだつくりです。西室(向って右側)が英祖王、東室(左側)が尚寧王の墓といわれています。墓室の中には、中国産の石で作られた骨を納めるための石厨子があり、仏像などが巧みに彫刻されています。
去る沖縄戦で、浦添ようどれの石積みは大きく破壊されましたが、戦後、琉球政府によって墓室が修復され、平成12~17年には墓庭の石積が復元されました。
「ようどれ」とは琉球の言葉で夕凪(ゆうなぎ)のことで、「ユードゥリ」と発音します。
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一段上の写真にある案内板の「浦添ようどれ」の見取り図の一部です。
向って右上の道から下り、「前庭」「暗しん御門(くらしんうじょう)」「中御門(なーかうじょう)」と進んでいきます。

石段の道をそのまま下っていく道は、かって琉球最古の寺院「極楽寺」があったと伝わる場所につながっています。

向って左の「中御門」をくぐると広い「一番庭」があり、断崖に掘られた墓がありますが、今回は、「前庭」までを掲載します。



案内板を過ぎると、下り道が始まる所に看板がありました。
いよいよ「浦添ようどれ」に下って行く道のようです。

看板には、「開園 9:00、閉園 18:00」とあり、夜間は、この下り口で、通路をふさぐのかも知れません。



かなり急な斜面に沿って造られた長い石段の坂道を下りて行きました。



下り坂が終わる辺りで、正面に「浦添ようどれ」の石垣と、前庭に上がる階段が見えてきます。

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■銅版に刻まれた碑があったので転記します。
「尚裕氏の浦添ようどれ復元の功績を称える」
琉球王国尚王家の陵墓・浦添ようどれは、国宝候補とされながらも沖縄戦で破壊され、その復元が大きな課題でありました。
浦添ようどれを含む浦添城跡一帯が平成元年に国史跡に指定されたことから、本市が整備を検討していたところ、はからずも尚家第二十二代当主・尚裕氏から、3,629平方メートルの陵墓を浦添市民に無償贈与する意向が伝えられ、平成7年12月19日、贈与契約が交わされました。
尚裕氏の英断をうけて、本市では平成9年から文化庁補助で復元事業に着手し、8年の歳月をかけて、ここに静謐な雰囲気の琉球王陵を蘇らせることができました。尚裕氏は復元完成をまたずして薨去るされましたが、復元された浦添ようどれが再び戦禍にあうことなく、尚裕氏の功績とともに永久に残ることを記念します。
平成17年4月29日
浦添市長 儀間光男
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「前庭」から「暗しん御門」を見た景色です。
沖縄戦で、壊滅的被害を受けた「浦添ようどれ」は、完全には復元できていませんでした。
岩のトンネルを復元するのは困難だったと思われます。

向って左の石柱に戦前の「暗しん御門」の写真が展示されていました。



一段上の写真の案内板に展示されていた昔の「暗しん御門」の写真です。

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■「暗しん御門」の説明文を書きに転記します。
昭和9年頃の暗しん御門    撮影:田邊泰
暗しん御門は、加工した岩盤と石積みでできたトンネル状の通路のことです。薄暗くひんやりとしていて、地下通路をとおつて「あの世」に行くような雰囲気でしたが、沖縄戦で天井の岩盤は崩れてしまいました。
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駐車場から「浦添ようどれ」へ向う途中にあった大きな案内板に戦前の「暗しん御門」の写真が展示されていました。
一段上の写真より手前から撮影したものです。
二段上の写真と比べるとトンネルの上の壁が崩れ去ったことがよく分かります。



「暗しん御門」を過ぎて「二番庭」に出ました。
石段を上り「中御門」をくぐるといよいよ最後の「一番庭」があります。

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■この「二番庭」の下から「金属工房跡」が発掘されたそうで、「浦添グスク・ようどれ館」に「金属工房跡」の写真と、説明書きがありましたので転記します。
「金属工房跡」
二番庭の下から銅製品や鉄製品をつくる作業場の跡がみつかりました。
炭のまざった黒い土の中から、製品をつくったときに出たカス(鉄滓、鍛造剥片、粒状滓)や、鉄や銅を溶かしたり、溶けた金属を注ぐ容器(坩堝または取瓶)、炉に風を送る送風管(鞴の羽口)などが出土しています。
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「中御門」の前の傾斜のある石段は、「勝連グスク」でも見たことがあり、このブログで2007-03-13掲載した「勝連城三の郭の変な階段」に写真があります。
実際に歩いてみると、少し登りにくくい感じでした。(下りはそうでもなかった)

坂道と、階段を組み合わせためずらしい構造ですが、何かねらいがあったのかも知れません。