バイクライフ・バイクツーリングの魅力を北海道から。
聖地巡礼-バイクライディングin北海道-
ライダースクラブ1988年12月号と、ネット上のライテク記事について。

年に1回、あるかないかの東京日帰り出張。
その楽しみに神田の古本屋街の散策がある。
と、いっても飛行機の時間を気にしながら、駆け足で回ることが多く、去年の3月には本当にJR秋葉原から雨の中を走って本屋さんへ行き、帰りは早歩きで帰って羽田へ急いだ。
毎回、ライダースクラブのバックナンバーを、ほんの数冊しか買えないが、買って帰る。
以前、毎月本当に楽しみにして待ち、買ったらむさぼるようにして読み、バイクで走って、また読み返し、また走る…を繰り返していた、そのころの本だ。
泣く泣く手放した本のなつかしい背表紙、表紙と再会し、自腹を切って再び買い、また読む。
その内容の濃さには、改めて読んでも圧倒される。
今、こんな文体で、こんなふうにバイクを論じるジャーナリズムはない。
根本健氏とスタッフの、渾身の記事が並ぶ。写真も、渾身の表現だ。
学生だった頃、文系だった僕は、時折論文を書かねばならない…というか、一年中論文を書くための下調べ、書き、直しを延々繰り返していたのだが、ライダースクラブの文章は、頭のリズムを整えるためにとてもよく、そこら辺のくだらない「論文」などよりもずっと論理的で誠実な書き方だった。
論文を書く前に、僕はすぐれた日本語表現の本たちなどと並んで、ライダースクラブを読み、それから執筆にかかっていた。
今回取り上げるNO126(1988年12月号)は、僕が社会人になってからの本で、札幌に住んでいた時のものだが、根本健の挑むような文章は、そのころもまだ読み味わうことができる。

巻頭特集は「RIDING TECHNOROGY ハンドリングのバランステクニック―フロントまわりの不安をなくすには」で、28ページにわたって、根本健氏の記事が載っている。
特集記事の各ページの上には小見出しがつけられていて、最初の2ページは特集の扉として小見出しはないが、その次からは、以下のように26項目がページの上端に帯のように書かれている。
・確かな知識でリラックスすればマシンは本来素直なものだ
・身構えれば身構えるほどたいていは基本特性をスポイルする
・レプリカのハンドルバーの意味するもの
・高度なマシンを乗るのに必要な相応の知識
・MCならではの走りの組み立てを前提としたアライメント設定
・ハンドルを切って曲がる時でも四輪とは違うという認識
・自動的にバランス作用のためにステアしていくフロントまわり
・コーナリングアプローチこそハンドルの動きはマシンまかせに
・リヤタイヤにハンドルを切らせているフロントタイヤ
・旋回状態まで前後輪はどうバランスしてゆくのか
・フロントまわりのバランス機能はもっと活かせる
・どんな運動特性に乗っているのかを知ることだ
・フロントまわりを振りながら直進するMC
・前輪の忙しさと後輪の緩やかさ
・ローリングさせると実感できるフロントまわりの動き
・そのロール運動の中心をみつける
・ロール特性とフロントまわりをバランスさせたディメンション
・フロントまわりの動きに逆らわない乗り方がありそうだ
・マシンを倒しこむのではなくロールさせるという感覚
・ブレーキングでもハンドルを押さえつけない配慮
・トラクションでフロントまわりを追従させる
・マシンまかせにリーンするのではなく旋回させ続ける乗り方
・運動特性と機能をフルに利用すると軽やかに走るビッグマシン
・マシンをホールドしておくポイントと力を抜くポイント
・安全運転より趣味やスポーツの情報としたいライテク
・知らなくても乗れる―それで誰が損をするのか

レプリカがブームとなり、峠でGPライダーのマネをしたフォームで走り回るライダーが増え、事故も多かった頃だ。
その割に、きちんとしたライディングテクニックを書いたものはあったものの、あまり読まれていなかった嫌いがある。根本氏はこの特集の中で、そのようなバイクを販売しているメーカーが乗り方などについてもっと積極的に取り組むべきではないか、と問題提起している。
ライダースクラブミーティングや、後のライディングパーティーなどの企画も、きちんとした乗り方を広める必要を痛感してのもので、もちろん「ライダースクラブ」だけが頑張っていたわけではなく、ホンダの常設されたライディングスクールや、カワサキのライディング教室のイベントなど、90年代からその後にかけていろいろとスクールも立ち上がり、今では比較的多くの教室があり、(もちろん、気軽に行けるほど数多くはなく、大都市まで出かけなければならないことが多いことと、料金がまだ少し高めである―それでも必要経費から考えると高くないのだが、こういうことはメーカーが赤字を出しながらでも安く提供すべきだろう―ことなど、問題もなしとしないが)乗り方についても、学ぼうと思えばいろいろと学べるようになってきた。

だが、気を付けた方がいいのは、ネット上のライテク記事だ。
これは当ブログのライテク記事ももちろん含まれる。
これらのネット上のライテク記事は、信用ならないのが多い。
もともとバイクのコーナリング時の動きなど、バイクとライダーが減速したり加速したり、その中でも直進から曲がってまた直進に戻るという複雑な動きをし、そのバイク自体が前が下がったり、後ろが下がったり、横に傾いていったり、傾いた状態で止まったり、また起き上がってきたりと動いているし、その上でライダーが動いたり、止まったり、同じような姿勢でもどこかに力を入れていたり、抜いていたり、体重を掛ける場所を変えたりと、とにかく動きが複雑だ。
比較的単純な遊園地の乗り物のコーヒーカップでさえ、その中に乗っていると、あるいは横から眺めてみても、いまどういう動きをしているかを頭と体で十分に認知することは難しいのに、バイクの動きは、かなり複雑で、全体が動いているから、どこかを固定的に語らないと理解が難しい。
例えばバイクを横に傾ける話の時には、バイク全体が起こしているヨー運動(曲がりこみ)の動きと一時的に切り離して述べないとわかりにくいことがある。
しかし、これを字面通り受け取ると、「なんてでたらめでめちくちゃなことが書いてあるんだ!」ということにもなるし、また、全体の中である側面を切り取った断面図のようなものだという前提を外してしまって、その通り実践しようとしておかしなことになっている例も、多く見かける。

ネット上の特に個人が書いているライテクは、僕のものも含めて、そういう全体像の中のどこを便宜上固定し、どこを焦点として考えた表現なのか、それは、固定を解いたときにはどういうことになるのか、について無自覚だったり、想定していない件も多く見受けられる。
よく議論になるライテクの流派のようなもの、例えば根本健氏を教祖のように扱う一派がいて、それに対するアンチがいる…という構図なども、根本氏の文章そのものをよく読まずに、目立つところだけを取り上げて崇拝するかのようなしぐさをしてしまったり、その「信者」たちの言説の変なところを取り上げて根本氏の論そのものを罵倒する人がいたりと、喫茶店や峠の駐車場でああだこうだとよくわからないままに好き勝手議論するにはいいのだが(それは、バイクライフの楽しみのひとつだと思う。内容が間違いだらけだとしても。)、それがネット上では、変な悪意が増幅して、相手をいかに軽蔑するかの合戦のようになる場合も多くて、その議論の不毛さと人をけなすことで自分の優位さを保とうとする精神的貧しさに辟易することも多いのだ。
しかし、いずれにしても、僕の読んだ範囲では、ネット上の個人(その個人がプロであれ、誰であれ)が書いているライテクで、そのまま信用していいものは、一つもない。
特に通説を批判するというスタンスで、これこそが正しいという書き方をしているものにひどいものが多い。(つまり、この記事自体もそうだということです。くれぐれも鵜呑みになさらないようにお願いいたします。)
参考にできるのは、「自分はこういうふうにしている」という記事や、「こんなふうに自分は感じた」と体験を書いている(と思われる)もののみだと言っていいだろう。
それ以外の内容は、どこかで必ず裏を取るべきだ。つまり、実体験やネット以外の場所での言説(出版物など社会的ハードルを乗り越えて出されているもの)での確認をした上で、なおかつ暫定的に把握しておく程度に留めるべきだ。
言うまでもなく僕のブログの記事も、これは何回も書いているが、鵜呑みにしてほしくないし、信用してはならないのだ。
ライダーは走り出せばその運転で自分と他人の命を守るのは走らせている本人しかいない。
だから、その本人が、実践上覚悟しつつ絶対に安全領域を超えないようにしながらいろいろ試してみて、納得していくしかないのだ。
ライディングはスポ―ツであり、あらゆるスポーツの教本がそうであるように、その動きの全てを不足なく論ずることは不可能だし、それを人に求めるべきではない。
数あるライテク記事の中から、自分が自分の頭で「試すに値する」と判断できるものを探し、少しずつ、自分で試して、フィードバックし、納得し、また常に疑いつつ、次に行くしかないのだ。
もしも、ライディングに関して、迷いや悩みがあり、そのヒントを文章や図解、動画などに求めたい人がいるならば、絶対に書籍や書店などの店頭で販売されているDVDなどをお勧めしたい。
ネット上でしつこく販売戦略を仕掛けてくるもの、「簡単に」とか、「みるみる」とか、「見違える」とか、「……だけで」とか言っているもの。そしてライディングの本質でなく、誰の心にもある虚栄心をくすぐるように話しかけてくるものに関しては、まず近づかないことをお勧めする。
ネット情報は誰もが上げられ、気軽であるが、信頼性はほとんど期待できず、もしも信頼するというのなら自己責任でと言うのが基本だ。
では、どうして僕はライテク記事を書くのか。
それは、自分の中での整理のために他ならない。
僕は僕なりに、自分の中でいろんな説を咀嚼して、自分のライディングで可能な部分は必ず試して(できないことはできないけれど)、その上で書いている。
そうしないと自分のためにならないからで、そのうえで、信用ならないという前提で、「あ、ははあ…こんなことを考えてるやつがここにいた」というふうに、見てもらえばいいのだ。
それが、素人とプロの違いだ。
プロに値しない職業人や、メディアがあったとしても、素人は「自分は素人に過ぎない」ということは胸に刻んでおかなければならない。
…と、僕は思う。
ネット上ではなんでもありみたいになってきたけれども、
僕はそういうふうにネットと付き合っていきたいと思っている。
他の人はどうであれ。
その楽しみに神田の古本屋街の散策がある。
と、いっても飛行機の時間を気にしながら、駆け足で回ることが多く、去年の3月には本当にJR秋葉原から雨の中を走って本屋さんへ行き、帰りは早歩きで帰って羽田へ急いだ。
毎回、ライダースクラブのバックナンバーを、ほんの数冊しか買えないが、買って帰る。
以前、毎月本当に楽しみにして待ち、買ったらむさぼるようにして読み、バイクで走って、また読み返し、また走る…を繰り返していた、そのころの本だ。
泣く泣く手放した本のなつかしい背表紙、表紙と再会し、自腹を切って再び買い、また読む。
その内容の濃さには、改めて読んでも圧倒される。
今、こんな文体で、こんなふうにバイクを論じるジャーナリズムはない。
根本健氏とスタッフの、渾身の記事が並ぶ。写真も、渾身の表現だ。
学生だった頃、文系だった僕は、時折論文を書かねばならない…というか、一年中論文を書くための下調べ、書き、直しを延々繰り返していたのだが、ライダースクラブの文章は、頭のリズムを整えるためにとてもよく、そこら辺のくだらない「論文」などよりもずっと論理的で誠実な書き方だった。
論文を書く前に、僕はすぐれた日本語表現の本たちなどと並んで、ライダースクラブを読み、それから執筆にかかっていた。
今回取り上げるNO126(1988年12月号)は、僕が社会人になってからの本で、札幌に住んでいた時のものだが、根本健の挑むような文章は、そのころもまだ読み味わうことができる。

巻頭特集は「RIDING TECHNOROGY ハンドリングのバランステクニック―フロントまわりの不安をなくすには」で、28ページにわたって、根本健氏の記事が載っている。
特集記事の各ページの上には小見出しがつけられていて、最初の2ページは特集の扉として小見出しはないが、その次からは、以下のように26項目がページの上端に帯のように書かれている。
・確かな知識でリラックスすればマシンは本来素直なものだ
・身構えれば身構えるほどたいていは基本特性をスポイルする
・レプリカのハンドルバーの意味するもの
・高度なマシンを乗るのに必要な相応の知識
・MCならではの走りの組み立てを前提としたアライメント設定
・ハンドルを切って曲がる時でも四輪とは違うという認識
・自動的にバランス作用のためにステアしていくフロントまわり
・コーナリングアプローチこそハンドルの動きはマシンまかせに
・リヤタイヤにハンドルを切らせているフロントタイヤ
・旋回状態まで前後輪はどうバランスしてゆくのか
・フロントまわりのバランス機能はもっと活かせる
・どんな運動特性に乗っているのかを知ることだ
・フロントまわりを振りながら直進するMC
・前輪の忙しさと後輪の緩やかさ
・ローリングさせると実感できるフロントまわりの動き
・そのロール運動の中心をみつける
・ロール特性とフロントまわりをバランスさせたディメンション
・フロントまわりの動きに逆らわない乗り方がありそうだ
・マシンを倒しこむのではなくロールさせるという感覚
・ブレーキングでもハンドルを押さえつけない配慮
・トラクションでフロントまわりを追従させる
・マシンまかせにリーンするのではなく旋回させ続ける乗り方
・運動特性と機能をフルに利用すると軽やかに走るビッグマシン
・マシンをホールドしておくポイントと力を抜くポイント
・安全運転より趣味やスポーツの情報としたいライテク
・知らなくても乗れる―それで誰が損をするのか

レプリカがブームとなり、峠でGPライダーのマネをしたフォームで走り回るライダーが増え、事故も多かった頃だ。
その割に、きちんとしたライディングテクニックを書いたものはあったものの、あまり読まれていなかった嫌いがある。根本氏はこの特集の中で、そのようなバイクを販売しているメーカーが乗り方などについてもっと積極的に取り組むべきではないか、と問題提起している。
ライダースクラブミーティングや、後のライディングパーティーなどの企画も、きちんとした乗り方を広める必要を痛感してのもので、もちろん「ライダースクラブ」だけが頑張っていたわけではなく、ホンダの常設されたライディングスクールや、カワサキのライディング教室のイベントなど、90年代からその後にかけていろいろとスクールも立ち上がり、今では比較的多くの教室があり、(もちろん、気軽に行けるほど数多くはなく、大都市まで出かけなければならないことが多いことと、料金がまだ少し高めである―それでも必要経費から考えると高くないのだが、こういうことはメーカーが赤字を出しながらでも安く提供すべきだろう―ことなど、問題もなしとしないが)乗り方についても、学ぼうと思えばいろいろと学べるようになってきた。

だが、気を付けた方がいいのは、ネット上のライテク記事だ。
これは当ブログのライテク記事ももちろん含まれる。
これらのネット上のライテク記事は、信用ならないのが多い。
もともとバイクのコーナリング時の動きなど、バイクとライダーが減速したり加速したり、その中でも直進から曲がってまた直進に戻るという複雑な動きをし、そのバイク自体が前が下がったり、後ろが下がったり、横に傾いていったり、傾いた状態で止まったり、また起き上がってきたりと動いているし、その上でライダーが動いたり、止まったり、同じような姿勢でもどこかに力を入れていたり、抜いていたり、体重を掛ける場所を変えたりと、とにかく動きが複雑だ。
比較的単純な遊園地の乗り物のコーヒーカップでさえ、その中に乗っていると、あるいは横から眺めてみても、いまどういう動きをしているかを頭と体で十分に認知することは難しいのに、バイクの動きは、かなり複雑で、全体が動いているから、どこかを固定的に語らないと理解が難しい。
例えばバイクを横に傾ける話の時には、バイク全体が起こしているヨー運動(曲がりこみ)の動きと一時的に切り離して述べないとわかりにくいことがある。
しかし、これを字面通り受け取ると、「なんてでたらめでめちくちゃなことが書いてあるんだ!」ということにもなるし、また、全体の中である側面を切り取った断面図のようなものだという前提を外してしまって、その通り実践しようとしておかしなことになっている例も、多く見かける。

ネット上の特に個人が書いているライテクは、僕のものも含めて、そういう全体像の中のどこを便宜上固定し、どこを焦点として考えた表現なのか、それは、固定を解いたときにはどういうことになるのか、について無自覚だったり、想定していない件も多く見受けられる。
よく議論になるライテクの流派のようなもの、例えば根本健氏を教祖のように扱う一派がいて、それに対するアンチがいる…という構図なども、根本氏の文章そのものをよく読まずに、目立つところだけを取り上げて崇拝するかのようなしぐさをしてしまったり、その「信者」たちの言説の変なところを取り上げて根本氏の論そのものを罵倒する人がいたりと、喫茶店や峠の駐車場でああだこうだとよくわからないままに好き勝手議論するにはいいのだが(それは、バイクライフの楽しみのひとつだと思う。内容が間違いだらけだとしても。)、それがネット上では、変な悪意が増幅して、相手をいかに軽蔑するかの合戦のようになる場合も多くて、その議論の不毛さと人をけなすことで自分の優位さを保とうとする精神的貧しさに辟易することも多いのだ。
しかし、いずれにしても、僕の読んだ範囲では、ネット上の個人(その個人がプロであれ、誰であれ)が書いているライテクで、そのまま信用していいものは、一つもない。
特に通説を批判するというスタンスで、これこそが正しいという書き方をしているものにひどいものが多い。(つまり、この記事自体もそうだということです。くれぐれも鵜呑みになさらないようにお願いいたします。)
参考にできるのは、「自分はこういうふうにしている」という記事や、「こんなふうに自分は感じた」と体験を書いている(と思われる)もののみだと言っていいだろう。
それ以外の内容は、どこかで必ず裏を取るべきだ。つまり、実体験やネット以外の場所での言説(出版物など社会的ハードルを乗り越えて出されているもの)での確認をした上で、なおかつ暫定的に把握しておく程度に留めるべきだ。
言うまでもなく僕のブログの記事も、これは何回も書いているが、鵜呑みにしてほしくないし、信用してはならないのだ。
ライダーは走り出せばその運転で自分と他人の命を守るのは走らせている本人しかいない。
だから、その本人が、実践上覚悟しつつ絶対に安全領域を超えないようにしながらいろいろ試してみて、納得していくしかないのだ。
ライディングはスポ―ツであり、あらゆるスポーツの教本がそうであるように、その動きの全てを不足なく論ずることは不可能だし、それを人に求めるべきではない。
数あるライテク記事の中から、自分が自分の頭で「試すに値する」と判断できるものを探し、少しずつ、自分で試して、フィードバックし、納得し、また常に疑いつつ、次に行くしかないのだ。
もしも、ライディングに関して、迷いや悩みがあり、そのヒントを文章や図解、動画などに求めたい人がいるならば、絶対に書籍や書店などの店頭で販売されているDVDなどをお勧めしたい。
ネット上でしつこく販売戦略を仕掛けてくるもの、「簡単に」とか、「みるみる」とか、「見違える」とか、「……だけで」とか言っているもの。そしてライディングの本質でなく、誰の心にもある虚栄心をくすぐるように話しかけてくるものに関しては、まず近づかないことをお勧めする。
ネット情報は誰もが上げられ、気軽であるが、信頼性はほとんど期待できず、もしも信頼するというのなら自己責任でと言うのが基本だ。
では、どうして僕はライテク記事を書くのか。
それは、自分の中での整理のために他ならない。
僕は僕なりに、自分の中でいろんな説を咀嚼して、自分のライディングで可能な部分は必ず試して(できないことはできないけれど)、その上で書いている。
そうしないと自分のためにならないからで、そのうえで、信用ならないという前提で、「あ、ははあ…こんなことを考えてるやつがここにいた」というふうに、見てもらえばいいのだ。
それが、素人とプロの違いだ。
プロに値しない職業人や、メディアがあったとしても、素人は「自分は素人に過ぎない」ということは胸に刻んでおかなければならない。
…と、僕は思う。
ネット上ではなんでもありみたいになってきたけれども、
僕はそういうふうにネットと付き合っていきたいと思っている。
他の人はどうであれ。
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« 乗車儀式、降... | GPZ1100の記事 » |
ぼくはネットで気になるバックナンバーをたまに買っては読んでいます。
樹生さんのブログファンというのもあってかぼくも多少の雑誌を読んでみてライダースクラブは自分に合っているように感じます。
が、古いライダースクラブはホントに難しくて何がなんだかさっぱりな部分も多いです(笑)
専門家が読む記事なのか?とたまに思ってしまいます。
でも根本健氏のジャーナリズムは凄く好きです。
たまに別のジャーナリストが書く記事によっては読んでいてイライラするようなものもあるんですが、根本氏のは読んでいて気持ちが良いです。
なかなか雑誌も読む時間が無いんですが、たまに時間を作ってはバックナンバーを買って読んでみたいと思います。
ライダースクラブ、特に根本健氏が編集長だった頃の本は、相当にとんがっていて、挑むような雰囲気がありました。
今までにないバイク雑誌を作ろうとしていたのだと思います。
1980年代、ライダースクラブとは違う方法論でライテク記事を展開していたつじつかさ氏も好きでした。つじ氏は常に研究を薦めていて、この5年間くらいは、日本的というか古武術的な体の使い方と、スポーツ医学とを合わせたような論の展開をしています。結果として80年代の根本氏の論と似てきているところもあって、しかし、両者は、表面上は逆のことを言っているように見えた80年代から、本当は同じことを、違うアプローチで言っていたような気が私はします。
どっちが正しいとか、どっちが偉いということではなく、私は両方から影響を受けましたし、どちらも好きです。
和歌山俊宏氏も、昔からきちっとバイクライディングを研究し、論究してきた人です。
彼の論も好きです。
宮崎敬一郎氏も好きです。
私も文章が好きでないバイクジャーナリストはいます。
しかし、大切なのは、自分がどう乗りたくて、何を求めているか、ということ、そしてその「今の自分」にしっかり立脚しつつも、自分と相いれない考え方に対しても、できるだけアンテナを開こうとしていることだと思います。
もちろん、趣味ですから人と自分の命や財産を奪うことがないように気を付けて、好きに楽しめばいいのですが、その好きな世界の奥深いところや、本当に心ふるえるような楽しいところには、やはり憧れます。
音楽なんかでも同じだと思うのです。
本当に全力で調べて、走って、考えて、理論化していった、そういうライディングの理論を読みたいと思います。
それは、やはりお手軽なものでは無理なのだとも思うのです。
ポイントは、書き手が自分の優位さを誇示したがっているのか、少しでもライディングの真実に迫ろうと必死でいるのかにあると思うのですが。
もちろん、それは、読み手の読む姿勢にも同じことが言えるでしょうね。
これだと思ったら、わかるまで読む。わからなくても、わかろうと迫り続ける。それが読むことだと思います。
良いですね。楽しみがあるって。
私は、おはずかしながら当時、読んでいませんでした。
文字を読むのが苦手な事に加えて、書いてある内容が理解出来なかったのです。
当然、ライディングもメタメタで、ひどいものでした。
ですが、根本さんと片山敬純さんがヨーロッパで、
db-1に乗って走ってるビデオだけは、何度も何度も観ました。
オートバイを生活の一部として楽しむ。
ヨーロッパのバイクは、手応え足応えが違う。分かって作ってるよね。
とか、まだまだ未熟なんだといつも思ってました。
ライディングは、その後も進歩しませんでしたが、あの時の仲間で、未だに乗ってるのは私だけに成ってました。
未だに乗ってるのも、あの時のビデオの中の台詞、オートバイを生活の中の一部として楽しむ!ができる様に成りたいという思い、
ライディング技術が向上しなかった悔しさが、大きく影しています。
楽しめるバイクライフ。
いつまで乗れるか分かりませんが、目指して行きたいです。
片山選手と根本氏がDB1や、XL600、VFR750などでイタリアを走り回るビデオですよね!
当時近所のレンタルビデオ屋さんで見つけて、何回も借りてみていました。
大好きなビデオ作品です。
泉優二氏が映像の監督をしていたと思います。
ヘリからの空撮まであるという、すごい作品でした。
ああ!買っておけばよかった!
あのビデオの中の二人のように、自在に、猛々しく、しなやかに、大人びて、子供っぽく、本当に楽しそうに走れたらいいなあと思います。
私も憧れはあるものの、それははるかに遠く、でも時々ひとりで「ついてくるかあい~」「おっとお~」とか、
「ここは公道です。僕はいい子のライダーですみたいな…うそをつけ!」とか、ツーリング中に思い出して一人で言ってみたりして笑ったりもしています。
はたから見ていたら、かなり気持ち悪いおっさんですね。
楽しむバイクライフ。目指したいです。
昨日は日中の温度があがりました。
あきらかにオーバーワークで過ごしています。
20項目余りのライディングの箇条書き。
なるほど、なるほど~と読んでました。
ワタシはライテク本は手にしたこともありません。
限定解除時代も教本もなかったころなので
自己流もいいとこなので勉強になります。
感覚だけの走りの中でも
・進行方向の正中線にバイクをかならず乗せる。
・バイクの重量の中心に自分の丹田を沈める。
・クランクケース中の地球ゴマをいつも感じる。
いつも感じるようにしています。
バイクは速度域、カーブ、上り下り、加減速
すべてそれぞれの動きがあって、本当に
奥が深いです。
バイク個体の特徴の付き合いを加えると、
ほんと一台一台一人一人の様々な走りに
なるから個性的です。
kaoriさんの今回挙げた3項目、
1つめは人車統合のバランスと進行方向との整合。
2つめは、人+車のバランス。言い換えれば、ライダーの荷重の意識の持ち方。
3つめは走行状態にあるバイク単体の動きにくい「動作中心」(これを根本氏は動的重心と言っていましたが、「動的重心」がこの場合物理学的に正しい用語かどうかは留保が必要なようです。)の感得。
…と、基本的なことでありながら、ここ最近の和歌山氏やつじ氏の展開する、乗車理論と相通ずるものがあります。
「丹田」という器官は体にないけれども、丹田を感じて(もっと先に行くとその意識も捨てていいようですが)動いた方が、体の具合がよくわかり、動きの質が向上する…。
バイクの重心そのものは、エンジン停止時でも1万回転で回っていてもかわらないとしても、動きの中心は明らかに変化する…(これはジャイロ効果で説明できますが、実際のバイクではホイールのジャイロ効果も加わり、サスの上下動やエンジン回転の上下動も加わるので、かなり複雑になりますけれど…)。
kaoriさんが言うように、「バイクは速度域、カーブ、上り下り、加減速すべてそれぞれの動きがあって、本当に奥が深い」と思います。
バイクも種類ごとに違うし、ましてバイクは4輪よりも圧倒的にライダーの体重のかかり方の影響が大きいので、同じバイクでも乗り手ごとに乗り方は違ってくるし、これに操作の個性、走り方の好みも加わると、もう、同じものは二つとないという感じですよね。
歩くという動作は共通でも、歩き方に一人ひとり違いがあるように。
それもまた、バイクの面白さだと思いますし、そういう意味で他の人の走りを見ることが、とても楽しく、勉強になるのも、これもまたバイクの楽しさだと思います。