朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

カジャム城攻撃はいつの話?

2012年06月21日 | 階伯(ケベク)

ドラマ「ケベク」では、当初ケベクが誕生する前後の612年の様子を描き、第3話からはその14年後(626年)、少年へと成長したケベクと、その父親ムジンが亡くなるまでを描く。

そして、第7話の終盤からは青年へと成長したケベク、ウィジャ等が登場するのだが、これはいったい何年後という設定だろうか。少年役と青年役の役者さんの年齢差を見る限り10年近く経過しているようにも思えるのだが、ドラマの中でハッキリ言及されていなかったような気がする。(単に見落としただけか?)

ポイントは、ドラマのストーリーによれば、その頃百済で新羅の椵岑(カジャム)城を攻略する計画が持ち上がっていたということである。しかし、史実上、これに該当する記述が見当たらない。

椵岑城に関する記録を「三国史記」から拾ってみると・・・

武王12年(611)冬10月、新羅の椵岑城を包囲し、城主の讃徳を殺し、その城を滅ぼした。

19年(618)、新羅の将軍辺品らが、椵岑城を攻めて、これをとりもどした。〔この戦いで〕奚論が戦死した。

29年(628)春2月、出兵して新羅の椵岑城を攻めたが、勝てずに帰った。

 

これ以降、固有名詞としては椵岑城の名は出てこないのである。(見落としていなければ)

ドラマの設定では626年にはケベクはまだ少年であり、「三国史記」の628年の記述はわずか2年後ということであてはまりそうにない。なによりこのときは新羅に勝てなかったのだ。

ドラマの配役の年齢差から考えて10年近く経過している・・・という仮定をしてみると、636年前後ということになるのだが、いやそれはあり得ないのである。

史実上の重要な事実だが、632年にはウィジャ(義慈王)は太子となっているのだ。

33年(632)春正月、嫡子の義慈を太子とした。

とすると、ドラマに描かれるカジャム城攻撃は632年より前でなければ辻褄が合わない。そうすると、626年から631年の間ということになるのだが、実はもうひとつ重要な事実がある。

631年にはウィジャの息子が人質として日本にやってきているのだ。

『日本書紀』巻二三舒明天皇三年(六三一)三月庚申朔◆三月庚申朔。百濟王義慈入王子豐章爲質。

三月の庚申(かのえさる)の朔(ついたちのひ)に、百済の王(こきし)義慈(ぎじ)、王子(せしむ)豊章(ほうしょう)を入(たてまつ)りて質(むかはり)とす。

(※豊章は豊璋とも記されるが(余豊璋、扶余豊璋) 、日本で成長し、滅亡後の百済復興に一役買った人物である。詳しくは機会があればいずれ。)

外国に行って暮らせるぐらいの年齢とすると、幼くても5、6歳ぐらい?
しかし、そうするとウィジャが息子を生んだのは626年前後となってしまい、ますます話の辻褄が合わないのだ。(うつけの振りをしていた頃にはすでに嫁を娶っていたということになる)

ということで、結局のところ、ドラマのストーリーはあくまでもドラマ上の設定であり、史実との整合性を求めても仕方がないという、いつもどおりの結論に落ち着きそうだ。(異論、異説あれば歓迎します)

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続きあり。

カジャム城攻撃は629年?