朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

「三国史記」におけるケベク

2012年04月15日 | 階伯(ケベク)

---ネタばれ注意!---

史実上のケベク(階伯)については、「三国史記」列伝に記述がある。1ぺージ程度なのですべて引用しておこう。(例のごとく東洋文庫版(平凡社)より)

ただし、ドラマの核心に迫る記述もあるので、この先ドラマを楽しみたい方は読まない方がよいです。

 

階伯(かいはく)は百済人である。出仕して達率(たつそつ:第二品)となった。唐の顕慶5年(百済義慈王20年。660)庚申、〔唐の〕高宗は蘇定方を神丘道大総管に任命し、軍を率いて海を渡らせ、新羅とともに百済を討たせた。階伯は将軍となり、決死隊5千人を選んでこれを拒(ふせ)いだ。〔階伯は、〕

 一国の人〔力〕で唐と〔新〕羅の大兵力にあたるのであるから、国の存亡は予知できない。恐らくわが妻と子は捕えられて(ぬひ)となることであろう。生きて辱しめられるよりは、死ぬ方がましである。

と言い、そこで妻子を皆殺し〔した後〕、黄山の野に着いて三ヵ所に陣営を設置した。新羅の軍隊と遭遇し、戦おうとする時、軍士たちに誓い、

 昔、〔越の〕句践(こうせん)は5千人で呉の70万人を破った。今日は各自が奮励して勝利を決し、国恩に報いよう。

と言い、ついに皆殺しの闘いに挑んだ。一人で千人に当る勢いで、〔新〕羅兵はついに退却した。このような〔戦闘を〕四度くりかえしたが、力尽きて〔戦〕死した。

百済本紀にも同様な記述がある。

また、唐と新羅の軍隊が、すでに白江・炭峴を通過したのを聞いて、将軍の階伯を派遣し、5千人の決死隊を率い、黄山に進出して、〔新〕羅軍と四度戦いみな勝った。〔しかし、わが軍は〕数が少なく、力尽きて、ついに敗北し、階伯は戦死した。

(※実際には、百済本紀では「階」の文字の左側は「土へん」)