有島武郎から小林多喜二へ/思想と実践の一体化
尾西康充
小林多喜二が白樺派の人道主義、とりわけ志賀直哉のリアリズムの手法に学んだことはよく知られている。その前段として、庁立小樽商業学校(現小樽商業高校)に在学していた頃は『小さき者へ』や『生まれ出づる悩み』など、有島武郎の小説を読みふけり、卒業を前に創刊した回覧雑誌には「生まれ出ずる子ら」というタイトルを付けるほどであった。
●青年木本への多喜二の共感
『生まれ出づる悩み』(一九一八年)の主人公木本は、貧しさのために東京での学業をあきらめて北海道岩内の実家へ帰る。漁夫として「荒くれた自然の威力」と格闘する一方、芸術への情熱を抱いた青年画家として「宏大で厳かな景色」を描き続ける。有島自身がモデルとなった作家の「私」は、十年ぶりに木本に再会し、筋骨たくましい漁夫の姿への変貌ぶりを見て、木本が「パンの為めに生活のどん底まで沈み切つた十年の月日」に耐えてきたことを思い浮かべる。画家としての才能にも恵まれていた多喜二は、〈労働と芸術〉の間で葛藤する青年木本の生き方に深い共感を覚えたにちがいない。
『生まれ出づる悩み』には、漁夫たちが資本を持たないために、「命をなげ出さんばかりの険しい一日の労働の結果」である漁獲を「外の土地から投資された海産製造会社によって捨て値で買ひ取られる無念さ」がリアルに描かれている。資本家による労働の搾取を、まるで「大きな手には掴まれる」ようだと感じた木本の悲痛な心境は、過酷な収奪がおこなわれていた北海道の〈内国植民地〉としての実態を伝えるものであり、多喜二が『蟹工船』のなかに描きこもうとした「殖民地に於ける資本主義侵入史」に繋がるテーマであるといえる。
●有島の『宣言一つ』の思想
有産階級の生まれである有島は晩年、「人間の生活の改造」が「生活に根ざしを持った実行」の他にはないと考え、「第四階級」の労働生活を通じてこそ、「思想と実生活とが融合」できると主張した(『宣言一つ』、一九二二年)。
有島がこのような主張を持つに至ったのは、アメリカに留学していた青年時代、ニューハンプシャー州グリーンランドにある開拓農場で労働した体験によるものと考えられる。有島が働いたのは一九〇五年六月十二日から七月二十四日まで、それはちょうどグリーンランドから北東約七キロメートルのところにあるポーツマスで日露戦争講和会議が開かれる直前のことであった。
有島はアメリカ留学中に黄色人種に対する差別を感じ、平和を唱えるキリスト教信者のなかにさえ戦争を好む者がいた現実に幻滅を味わっていたが、グリーンランドの農場では、〈新移民〉と呼ばれた最貧層のポーランド移民労働者たちと親しく交流した。このときの体験をもとにした『迷路』(一九一八年)では、「新しい文明の出発点を彼等に見出したやうに思つた。彼等の心があのまゝで成長したら、今の文明を覆へすに足る美しい文明が生れ出るに違ひない」と描いている。有島にとって実際に農場で働いたのは、生涯を通じてこのときだけであり、十三年もの時を経た後に、当時の体験を小説に描いたのは、「思想と実生活」を融合させるべく有島農場の開放を決意していたからであろう。
●プロレタリア文学の先駆者
私は今夏、グリーンランドを訪れ、農場で働いていた有島がニューハンプシャー州の地元新聞「ジ・エクスター・ニューズ・レター」(一九〇五年七月十四日)に「雇用主の意にかなう働きぶり」を見せ、「きちんとした身なりで、他の人びとに対して礼儀正しくふるまった」と報じられていたことを発見した。
時代の制約からアナーキズムにとどまりはしたものの、思想と実践との一体化を重んじたプロレタリア文学の先駆者として、有島の文学は多喜二の作品とともに高く評価されてよいだろう。
(おにし・やすみつ 三重大学人文学部教授)
◇
同テーマについては「山の文学学校・下諏訪」(29日~1月2日)の講座「プロレタリア作家・小林多喜二の胎動」で話されます。ほかに澤田章子「近代の名作を読む」、田島一「実作研究」。連絡先は日本民主主義文学会℡03(5940)6335( 2009年12月09日付け「しんぶん赤旗」より)
尾西康充
小林多喜二が白樺派の人道主義、とりわけ志賀直哉のリアリズムの手法に学んだことはよく知られている。その前段として、庁立小樽商業学校(現小樽商業高校)に在学していた頃は『小さき者へ』や『生まれ出づる悩み』など、有島武郎の小説を読みふけり、卒業を前に創刊した回覧雑誌には「生まれ出ずる子ら」というタイトルを付けるほどであった。
●青年木本への多喜二の共感
『生まれ出づる悩み』(一九一八年)の主人公木本は、貧しさのために東京での学業をあきらめて北海道岩内の実家へ帰る。漁夫として「荒くれた自然の威力」と格闘する一方、芸術への情熱を抱いた青年画家として「宏大で厳かな景色」を描き続ける。有島自身がモデルとなった作家の「私」は、十年ぶりに木本に再会し、筋骨たくましい漁夫の姿への変貌ぶりを見て、木本が「パンの為めに生活のどん底まで沈み切つた十年の月日」に耐えてきたことを思い浮かべる。画家としての才能にも恵まれていた多喜二は、〈労働と芸術〉の間で葛藤する青年木本の生き方に深い共感を覚えたにちがいない。
『生まれ出づる悩み』には、漁夫たちが資本を持たないために、「命をなげ出さんばかりの険しい一日の労働の結果」である漁獲を「外の土地から投資された海産製造会社によって捨て値で買ひ取られる無念さ」がリアルに描かれている。資本家による労働の搾取を、まるで「大きな手には掴まれる」ようだと感じた木本の悲痛な心境は、過酷な収奪がおこなわれていた北海道の〈内国植民地〉としての実態を伝えるものであり、多喜二が『蟹工船』のなかに描きこもうとした「殖民地に於ける資本主義侵入史」に繋がるテーマであるといえる。
●有島の『宣言一つ』の思想
有産階級の生まれである有島は晩年、「人間の生活の改造」が「生活に根ざしを持った実行」の他にはないと考え、「第四階級」の労働生活を通じてこそ、「思想と実生活とが融合」できると主張した(『宣言一つ』、一九二二年)。
有島がこのような主張を持つに至ったのは、アメリカに留学していた青年時代、ニューハンプシャー州グリーンランドにある開拓農場で労働した体験によるものと考えられる。有島が働いたのは一九〇五年六月十二日から七月二十四日まで、それはちょうどグリーンランドから北東約七キロメートルのところにあるポーツマスで日露戦争講和会議が開かれる直前のことであった。
有島はアメリカ留学中に黄色人種に対する差別を感じ、平和を唱えるキリスト教信者のなかにさえ戦争を好む者がいた現実に幻滅を味わっていたが、グリーンランドの農場では、〈新移民〉と呼ばれた最貧層のポーランド移民労働者たちと親しく交流した。このときの体験をもとにした『迷路』(一九一八年)では、「新しい文明の出発点を彼等に見出したやうに思つた。彼等の心があのまゝで成長したら、今の文明を覆へすに足る美しい文明が生れ出るに違ひない」と描いている。有島にとって実際に農場で働いたのは、生涯を通じてこのときだけであり、十三年もの時を経た後に、当時の体験を小説に描いたのは、「思想と実生活」を融合させるべく有島農場の開放を決意していたからであろう。
●プロレタリア文学の先駆者
私は今夏、グリーンランドを訪れ、農場で働いていた有島がニューハンプシャー州の地元新聞「ジ・エクスター・ニューズ・レター」(一九〇五年七月十四日)に「雇用主の意にかなう働きぶり」を見せ、「きちんとした身なりで、他の人びとに対して礼儀正しくふるまった」と報じられていたことを発見した。
時代の制約からアナーキズムにとどまりはしたものの、思想と実践との一体化を重んじたプロレタリア文学の先駆者として、有島の文学は多喜二の作品とともに高く評価されてよいだろう。
(おにし・やすみつ 三重大学人文学部教授)
◇
同テーマについては「山の文学学校・下諏訪」(29日~1月2日)の講座「プロレタリア作家・小林多喜二の胎動」で話されます。ほかに澤田章子「近代の名作を読む」、田島一「実作研究」。連絡先は日本民主主義文学会℡03(5940)6335( 2009年12月09日付け「しんぶん赤旗」より)
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多喜二『東倶知安行』との地理的な近さに、改めて多喜二と有島との関係をたどる必要を感じ、その後『種まく人』同人たちと『白樺』同人たちの個別のかかわり方をたどる作業をしたことがあった。
同年11月末に『多喜二生誕100年記念シンポジウム』を準備し、シンポジウムのなかで伊豆利彦氏が多喜二と有島との関係について発言されたことにも興味深い思いを抱いたものだった。
今回、尾西先生が、限られた紙面のなかで多喜二と有島との文学的位置付けについて書かれたことは、今後大きな意味をもつと思われ、大いに期待するところがある。
わたしも岩内を数回訪れました。有島が「小作人への告別」のなかで、農場を共同で営んで欲しい由を「生産の大本となる自然物、すなわち空気、水、土のごとき類のものは、人間全体で使用すべきもので、あるいはその使用の結果が人間全体に役立つよう仕向けられなければならないもので、一個人の利益ばかりのために、個人によって私有さるべきものではありません。」と説明しているくだりは、なんど読んでもぞくぞくします。皮肉にも、戦後の農地解放は共同所有が認められない、という結果をもたらしましたが。
岩内の木田金治郎美術館も忘れがたい場です。余談ですが、岩内にはこうした立派な施設が数件あるのに驚きました。原発を受け入れた見返り、とも聴いています。さらなる余談ですが、岩内町は漱石が一時転籍をした場でもあります。理由は一般に徴兵を避けるため、と理解されているようです。とうじ北海道は徴兵免除地でした。
有島がニューハンプシャー州の農場で労働体験した、というのも示唆に富む発見です。ニューハンプシャーは貧しい州です。東北なんです。あの地域一般開拓者は石ころだらけの土地を大変な苦労を重ねて開墾したようですが、ニューハンプシャーはおとなりバーモント州とちがって、19世紀に入っても恵まれず、今度は西部開拓ブームに便乗してみずから「東部の西部」とアピールして、観光客を呼び寄せようとさえしました。
日本の東北や北海道と重なるところを有島も感じたかもしれませんね。
なお、些細なことですが、有島の様子が報じられている地元紙ですが、Exeterという地名の表記は「エクセター」が一般的らしいです。
私は、倶知安町に3年ほど「単身赴任」をしていましたから、「東倶知安村=京極町」・「岩内町」、そして「有島」地域は業務区域でした。
橋浦泰雄(1888年鳥取)さんの略年譜を紹介。
○1910年:弟・時雄が大逆事件で検挙。
○1916年:有島武郎を訪問し交流が始まる。
○1921年:メーデーで検挙され45日間拘留される。(翌年のメーデーも検挙される。)
○1923年:有島武郎・秋田雨雀と鳥取へ文化講演会(その2ケ月後・有島武郎情死)
○1923年:10月・兄の依頼で札幌に行く。以後、数年間しばしば渡道(この時、「多喜二との交流があった。」との文献もあります。
○1924年:4月札幌で個展を開き収入を得た橋浦泰雄は、田上義也(建築家)と絵筆を持って「ヤジキタの旅」に出ます。
○ 「るもい」・「網走」・「国後島」を旅し
同年5月21日に「岩内町」に北海道を代表する漁民・画家「木田金次郎」に逢って「下北半島東部の塩尻に原始共産制の所がある。」と聞き、後に訪れる。
○1925年:5月「原始共産制」を求めて尻屋村(塩尻)紀行。9月・柳田国男を訪問。
○1928年:3月全日本無産者芸術連盟(ナップ)の中央委員長。
○1929年:3月07日「山宣=素描」
※橋浦泰雄書簡(沼田秀郷宛)
「山宣が凶刃に仆れた際、私はナップ事務所にいたので居合わせた大月源二とともに山宣の宿の駆けつけたのですが、まだまだ何人も来ておらず・・・」
登場人物:有島武郎・秋田雨雀・(多喜二)・木田金次郎・柳田国男・山本宣治・大月源二など多彩です。
○ 1979年11月21日鳥取で逝去。
○ 有島武郎「プロレタリア文学者の先駆者」との表記を見て、モット「勉強」しなくてはとの思いです。
小説『カインの末裔』『或る女』などの代表作で知られる有島は『白樺』派の作家のひとりであるとともに、日本プロレタリア文学の源流の一人でもあると思う。有島の旅の航跡をたどってみ
る。
・第一は「アメリカ留学とヨーロッパへの旅」である。
有島がアメリカのハーバーフォード大学とハーバード大学に留学し、それに合わせて半年ほど
ヨーロッパにも滞在した。
・とくにアメリカ留学時代に有島はキリスト教を信仰することに失望し、「相互扶助」精神に傾い
ていく。
彼のキリスト教への失望は、それまで人格にかかわって尊敬してきた考え方に対する失望でも
ある。その時期に日露戦争があり、これをきっかけにアメリカ人たちが日本に対して興味本位
的な見方をしていることに失望の原因があった。
有島は図書館通いなどをして懸命に勉強し、友人の金子喜一によって社会主義思想を紹介
され、関連の文献を懸命に読んでいく。その一方で、ホイットマンやイプセン、トルストイ、ゴーリキーなどの作品を読み、無政府主義者のクロポトキンがロンドンに亡命していることを知って面会に行く。その対面を通じてクロポトキンの「相互扶助論」に自分の思想が発芽するのを感じる。有島の、ニセコ農場を小作に無償解放するという彼の人間解放の思想を実践する端緒を、この出会いに知ることができる。
1922(大正11)年ごろに、早くも「相互扶助」による理想社会の実現を自分の思想とした有島
は、国の農地改革がおこなわれた(1949昭和24年の27年前に実践していた先達でもあるにしても、 当時としては、クロポトキンによって教唆された有島の「相互扶助」の考えとその実践は一般にはとても理解しにくいものだった。
・有島が農場解放宣言の時にまとめた言葉の一部を書いた掛け軸、「相互扶助」と書いた横額
がある。
もうひとつ、わずか半年というヨーロッパ滞在のなかで、弟の画家・有島生馬がイタリアに留学していましたので、彼の芸術家仲間とも多くの交流があった。そのことがまた、スイス旅行へとつながり、「あなたは私の生命の一部分」という言葉で書簡を送ったスイス人女性のティルダ・ヘックとのかかわりも生まれる。スイス滞在はわずか一週間と短いものだった。しかし、彼
はスイスのことを「夢の国」と表現しており、この一週間に莫大な収穫を得て、彼の人生観を確実なものにしていく時期であったようだ。
・第二は、帰国後の有島の心の旅路とである。
有島は日本に戻ってから兵役につき、そのあと母校の札幌農学校の教授となった。私生活
のうえでも、1916(大正5)年に妻の安子と、父の武が相次いで亡くなるという多難な時期を過ごす。それと同時に、ティルダとも書簡を通じてのかかわりがずっとつづく。わずか一週間というスイス滞在中の交流が、その後15年もの文通期間につながっていく。
●『宣言一つ』
有島武郎は大正デモクラシーのなかで、しだいにプロレタリア文学に惹かれていく。だがプロレタリア文学を目指そうにも自らが有産階級 (ブルジョワジー) にいる身ではうまくいかない。
そのなかで書いたのが『宣言一つ』である。プロレタリア文学運動にどのようにかかわろうとしたのかについての有島武郎の思索と苦悩の到達点であった
クロポトキンに会って確実に自分のものとなった相互扶助の思想は、父の存命中は長男とし
ての役割があって実行することはできなかったが、いつ実行するかの時期をはかっていた期
間でもありました。その一方で、のちにともに自殺の相手となる波多野秋子とのかかわりも生
まれた。
「労働者はクロポトキン、マルクスのような思想家をすら必要とはしていないのだ。かえってそれらのものなしに行くことが彼らの独自性と本能力とをより完全に発揮することになるかもしれないのだ。
それならたとえばクロポトキン、マルクスたちのおもな功績はどこにあるかといえば、私の信ずるところによれば、クロポトキンが属していた (クロポトキン自身はそうであることを厭 (いと) ったであろうけれども、彼が誕生の必然として属せずにいられなかった) 第四階級 (プロレタリアのこと・筆者) 以外の階級者に対して、ある観念と覚悟とを与えたという点にある。マルクスの資本論でもそうだ。労働者と資本論との間に何のかかわりがあろうか。思想家としてのマルクスの功績は、マルクス同様資本王国の建設に成る大学でも卒業した階級の人々が翫味 (がんみ) して自分たちの立場に対して観念の眼を閉じるためであるという点において最も著しいものだ」
「私は第四階級以外の階級に生まれ、育ち、教育を受けた。だから私は第四階級に対しては無縁の衆生の一人である。私は新興階級者になることが絶対にできないから、ならしてもらおうとも思わない。第四階級のために弁解し、立論し、運動する、そんなばかげきった虚偽もできない。今後私の生活がいかように変わろうとも、私は結局在来の支配階級者の所産であるに相違ないことは、黒人種がいくら石鹸で洗い立てられても、黒人種たるを失わないのと同様であるだろう。したがって私の仕事は第四階級者以外の人々に訴える仕事として始終するほかはあるまい。世に労働文芸というようなものが主張されている。またそれを弁護し、力説する評論家がある。彼らは第四階級以外の階級者が発明した文字と、構想と、表現法とをもって、漫然と労働者の生活なるものを描く。彼らは第四階級以外の階級者が発明した論理と、思想と、検察法とをもって、文芸的作品に臨み、労働文芸としからざるものとを選り分け
る。私はそうした態度を採ることは断じてできない」
有島武郎は、大正10 (1921) 年、プロレタリア文芸誌『種蒔く人』に参加、講演会を行うが警察
に干渉され実行することはできなかった。プロレタリア文学の金字塔『種蒔く人』が発刊されたのは、翌大正11 (1922) 年である。『種蒔く人』の流れはのちに『文芸戦線』へと受け継がれて
いく。
同1922年7月、彼が相続した狩太(現ニセコ町)の有島農場を解放するため小作人を集め、無
償解放することを宣言する。
「この土地のすべてを諸君に無償で譲渡します。しかし、それは諸君の個々に譲るのではな
く、諸君が合同してこの全体を共有するようにお願いするのです。その理由は、生産の大本と
なる空気、水、土地という類いのものは人類が全体で使用し、人類全体に役立つよう仕向けら
れねばならず、一個人の利益によって私有されるべきものでないからです。諸君がこの土地に
責任を感じ、助け合って生産を計り、周囲の状況を変化する結果となることを祈ります」(高山亮二著『有島武郎とその農場・農団』)。
この一文はさらにつづく。
「農民たちは、有島のいうことを十分理解できなかった。が〈もう年貢はいらない〉という現実だけは直感できた。彼らは転ぶように弥照神社の階段を駆け降りた」と。それが喜びであった
か、何であったか…。 ただ、有島はその3年前から小作料は受け取っていなかったのです。
・1923年6月、有島は軽井沢の別荘で波多野秋子とともに自殺する。
世間一般では愛の絶頂で死んだ情死という見方をしていますが、後に述べる灌漑用水溝事件
の28日後だった。自分の理想によって実践した農場解放が思わぬ方向を見せたことに対する
苦しみもうかがうことができるだろう。
・第三部「有島のとった行動と、それらに対する評価を考える」
有島の作品とその自殺行為への世評は厳しいものだった。、自殺したあと彼の作品は、教科
書から外されてしまう。有島にかかわる問題として、灌漑用水溝に関連した補助金詐取の裁判
事件がある。農場解放を受けた農民は、1924年に狩太共生農団を結成して自治運営をはじめ
るが、その前に灌漑用水池の工事費として受けた補助金を別の目的に流用したということで訴
えられた。農団のリーダーで管理人であった吉川銀之丞が有罪判決を科せられた。そこには、
有島に対する一種の弾圧が裏に隠されているのではないかという疑惑も浮かぶ。「昭和」とい
う時代を目前にして、思想弾圧とファシズムの影が迫っていたともいえる。ちなみに銀之丞は、事件の償いを1943年ごろには完全返済をしている。
有島が彼の思想を確立していった大正デモクラシーの時代は、一方でファシズムなどによる
弾圧が世界的に押し寄せる時代でもあった。そんな中で、「相互扶助」という理念をもって行動することは並大抵のことではなかったのだろう。
伊豆利彦は、『平和新聞』(2001年8月)アンチミリタリストの立場 (題言)で、以下の通り、小牧近江らによって一九二一年二月に創刊された『種蒔く人』(1921年12月号)に社論として無署名の「非軍国主義の論理」と題して
僕たちは国と国との戦争には絶対に反対する。それが、いついかなる場合であろうと。
何故か、国と国の戦争に参加することは、今の場合、直接に僕たちの手で国境を同じ
うする仲間を殺すことだ。そして僕たちは常に誰れのために戦いつつあるか。
と、原日本国憲法9条に通ずる理念を掲げて、さらに
第二次『種蒔く人』 第1巻第1号には、<非軍国主義号>と題して、武者小路実篤の「戦争はよ
くない」という詩を発表している。
「俺は殺される ことが/嫌いだから/人殺しに反対する、」「他人は殺されてもいいと云
う人間は/自分は殺されてもいいと云う人間だ、/人間が人間を殺してもいいと云うこと
は/決してあり得ない。」
との詩を掲載し戦争反対の姿勢を示した。
執筆陣には有島武郎ばかりか、長谷川如是閑、吉江喬松(孤雁)、小川未明、川路柳虹など幅
広い知識人も加わり、毎号表紙に<批判と行動>のタイトルをかかげて、平和とヒューマニズ
ム、自由と進歩のための行動を呼びかけた。しかし、この 第二次『種蒔く人』 は、1924年9月
の関東大震災まで刊行されて終刊。その志は『文藝戦線』誌に引き継がれた。また、 小林多
喜二が小樽で始めた同人雑誌『クラルテ』も、この雑誌の強い影響を受けたばかりか、多喜二
の代表作のひとつ「不在地主」「防雪林」は、直接に有島武郎の文学精神を受け継いだものだ
といえる。
伊豆利彦は先の論の結びに(プロレタリア文学は)「武者小路実篤らの人道主義的信念を基盤
としながら、国家と人民、国 家と戦争の関係を科学的に解明し、反戦平和の運動を、社会主
義的な人民解放の運動と結びつけて、新しい時代を切りひらく戦いの先頭に立ったのであ
る。」としている。
大正末の有島武郎の苦悩は、戦争とファシズムの時代の多喜二らプロレタリア文学者に引き
継がれ敗北し、戦後民主主義教育を受けたわたしたちに、いま受け継がれている。
有島武郎が「クロポトキン」に逢っていたこと初めて知りました。
クロポトキン:「パンの略取」の関係者としては、「幸徳秋水」・「小林多喜二」がいます。
有島が、『種蒔く人』にも関係していたことも初めて知りました。
小林多喜二は『クラルテ』を創刊したとき、『種蒔く人』の「前田河広一郎などに」評価を求めていますが。
前記の「るもい」さんの書込み改めて読みます。(夜も更けました。)
まだまだ:勉強が出来ていないな―♪akio