竹取翁と万葉集のお勉強

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和銅元年(708)三月十八日 人麻呂 六十二歳

2009年06月28日 | 柿本人麻呂歌集から人麻呂年賦を推理する
伝承での人麻呂の死亡
和銅元年(708)三月十八日 人麻呂 六十二歳

 「職業人としての柿本人麻呂」と題したメモ書きでの考察を下に石見国美濃郡戸田の戸田人麻呂神社の戸田綾部氏の伝承と武蔵国川越氷川神社の摂社人麻呂神社の川越綾部氏の伝承から人麻呂の命日を三月十八日と推定します。そして、人麻呂の死亡推定場所は、長門國阿武郡須佐から石見國美濃郡戸田にかけての海岸とし、海難事故による水死と考えます。
 突発的な海難事故による水死において、万葉集に載る「自傷作歌」は人麻呂辞世の歌にはなりません。海難事故では、人麻呂の遺体が回収されたか、どうかは不明です。まして、その臨終に立ち会い、彼の辞世の歌を伝えることは、まず、不可能です。当然、万葉集に載る「自傷作歌」は、人麻呂にゆかりある歌から人麻呂を敬愛する万葉集の編者により創られたものと考えるのが穏当と考えます。
 ここでは、万葉集の編者の意図に従い、「自傷作歌」を紹介します。それに付帯して意訳も紹介しますが、万葉集に載る「自傷作歌」は人麻呂辞世の歌ではないと云う私見とは異なりますので、万葉集全訳注原文付(中西進氏 講談社文庫)の意訳を紹介します。万葉集に載るこれらの五首は、天平年間に信じられていた人麻呂の最後の様子を示すと考えますので、万葉集を編纂した人物によって付けられた歌の標題や編集術から、人麻呂の最後の様子を鑑賞してください。
 参考に、この万葉集に載る「自傷作歌」とは、万葉集の編集で創られた人麻呂への挽歌です。従って、これらの歌から人麻呂終焉の地捜しは、その歌の本質から不可能です。

柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時、自傷作歌一首
標訓 柿本朝臣人麻呂の石見國に在臨死時に、自から傷みて作れる歌一首
集歌223 鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有
訓読 鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ
意訳 鴨山の岩を枕として死のうとしている私のことを知らないで妻はまっているであろう。

柿本朝臣人麻呂死時、妻依羅娘子作謌二首
注訓 柿本朝臣人麻呂の死し時に、妻の依羅娘子の作れる歌二首
集歌224 且今日々々々 吾待君者 石水之 貝尓 (一云 谷尓) 交而 有登不言八方
訓読 今日(けふ)今日とあが待つ君は石見の貝に (一は云はく、 谷に) 交(まじ)りてありと言はずやも
意訳 今日は帰られるか、今日は帰られるかよ私の待っていたあなたは石川の貝にまじってすでに亡くなられたと言うではありませんか。

集歌225 直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲
訓読 ただに逢(あ)ふは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつしのはむ
意訳 直接御目にかかることはもうできないでしょう。石川の上に雲よ立ちわたって下さい。それを見ながらお偲びしましょう。

丹比真人(名闕)擬柿本朝臣人麻呂之意報謌一首
標訓 丹比真人(名闕(か)けたり)の柿本朝臣人麻呂の意(こころ)に擬(なぞ)へて報(こた)へる歌一首
集歌226 荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告
訓読 荒浪により来る玉を枕に置き吾れここにありと誰れか告(つ)げけむ
意訳 荒浪の中をよって来る玉を枕もとに置いて自分がここにあるということを誰が知らせたのであろう。

或本謌曰
集歌227 天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無
訓読 天(あま)離(さか)る鄙の荒野に君を置きて念(おも)ひつつあれば生けるともなし
意訳 天路も遠い夷の荒野にあなたをおいて、恋いつづけていると生きた心地もない。
左注 右一首歌作者未詳。但、古本以此歌載於此次也。
注訓 右の一首は作者いまだ詳(つばひ)らかならず。ただ、古本、この歌をもちてこの次(つぎて)に載す。
* この歌の意訳は、万葉集全訳注原文付(中西進氏 講談社文庫)のものを採った

おわりに
 この「柿本人麻呂歌集から人麻呂年譜を推理する」は、万葉集や柿本人麻呂を研究される人々が、その人物像は不明で謎の人物とする、その柿本人麻呂の年譜を示すものです。つまり、一般には「トンデモ研究」と分類される非学問であって、小説や小話に分類されるものですので、この読み物がどのような立ち位置にあるかを判断して下さい。なお、ここでの読み物に立錐の余地の可能性があると認めていただけるなら、この「柿本人麻呂歌集から人麻呂年譜を推理する」の考察の下となった弊説「職業人としての柿本人麻呂」や「日本挽歌を鑑賞する」を参照していただければ、提案する柿本人麻呂の人となりや万葉集が詠われた時代背景をより理解していただけるものと希望します。
 紹介した「日本挽歌を鑑賞する」に取りこみましたが、弊説「日本紀私記序(弘仁私記序)から日本書紀の編纂時期を考える」で提起しましたように、桓武天皇や嵯峨天皇の時代に日本紀や続日本紀は藤原氏や桓武天皇の百済王系氏族の意向に沿う形で改変されています。万葉集の歌々を鑑賞する時、現在の教えられる古代の歴史とは、その改変された日本書紀や続日本紀を正史とし、同時に貞観政要を引用する姿から延暦年間に創作されたであろう藤氏家伝をあたかも旧伝として参照していることを、知る必要があります。ただ、残念ながら、漢文で書かれた続日本紀や藤氏家伝等を現代語訳で紹介する時、専門家は原文の文章が現在の教えられる古代の歴史に合わないと判断すると、それに沿う形に意訳し、解説することがあります。そのため、万葉集を理解するには、一般の方ほど、万葉集と現在の教えられる古代の歴史のギャップを埋めるためにも、漢文で書かれた原文の続日本紀や藤氏家伝等を眺めて頂きたいと思います。参考に紹介しますが、原文の続日本紀には次のような天智天皇の御代での庚午年籍に端を発する戸籍と僧籍に関する記事があり、その内容は年号において明確に日本書紀の編年号とは矛盾します。

続日本紀 神亀元年(724)十月丁亥朔の条
原文 詔報日、白鳳以来朱雀以前、年代玄遠、尋問難明。亦、所司記注多有粗略、一定見名、仍給公験。
訓読 詔して報じて日はく「白鳳以来、朱雀以前、年代は玄遠にして、尋問は難明なり。また、所司の記する注に多く粗略有り、一(ひと)たび見名を定だめ、仍ち公験を給せよ」と。

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慶雲三年(706)冬頃 人麻呂 六十一歳

2009年06月27日 | 柿本人麻呂歌集から人麻呂年賦を推理する
石田王の挽歌
慶雲三年(706)冬頃 人麻呂 六十一歳

 紹介する石田王の挽歌として万葉集には長歌と短歌を合わせて六首ほど採られていますが、その肝心な石田王本人は歴史の上ではまったく不明な人物です。ここでは人麻呂の推定される年譜とこの石田王の挽歌の内容から慶雲三年冬の年代を推定しています。
 ここで、大宝律令の発布以降は、それ以前の「皇子」に相当する皇族の名称を、続日本紀では「王」と表記します。ここから、集歌420の歌に示す「石田王」は、本来は「石田皇子」と呼ばれていたと考えられます。そして、その石田皇子は、集歌420の歌で「吾大王者」との敬称で呼ばれる人物です。つまり、本来、天皇や皇太子に与えられる「吾大王者」の敬称に相応しい人物と推定されます。また、集歌423の「石田王の卒りし時」の挽歌は山前王の作歌となっていますが、左注の「或云、柿本朝臣人麻呂作」により人麻呂による代作の可能性があります。この集歌423の歌は、集歌420の丹生王の詠う石田王への挽歌を受けた形になっていますが、その集歌420の歌もまた人麻呂による作歌の匂いがします。つまり、石田皇子は「吾大王者」の敬称を持つような、朝廷を代表して草壁皇子や高市皇子の挽歌を詠った人麻呂が代理として挽歌を捧呈するほど重要な人物であったと考えられます。
 なお、ここでは従来の解説に見る仕事熱心な石田王ではなく、恋に生きる石田王として解釈しています。このため、集歌423の歌の「朝不離 將帰人乃」の「帰」の漢字の訓みを従来の「行く」ではなく「帰る」と訓んでいますので、大きく解釈が違っています。

同石田王卒之時、山前王哀傷作謌一首
標訓 同じ石田王の卒(みまか)りし時、山前王の哀傷(かなし)びて作れる歌一首
集歌423 角障經 石村之道乎 朝不離 將帰人乃 念乍 通計萬口波 霍公鳥 鳴五月者 菖蒲花橘乎 玉尓貫(一云、貫交) 蘰尓將為登 九月能 四具礼能時者 黄葉乎 折挿頭跡 延葛乃 弥遠永(一云、田葛根乃 弥遠永尓) 萬世尓 不絶等念而(一云、大舟之 念馮而) 將通 君乎婆明日従(一云、君乎従明日者) 外尓可聞見牟

訓読 つのさはふ 磐余(いはれ)の道を 朝さらず 帰(き)けむ人の 思ひつつ 通ひけまくは ほととぎす 鳴く五月(さつき)には 菖蒲(あやめ)草(ぐさ) 花橘を 玉に貫(ぬ)き(一(あるひは)は云はく、貫(ぬ)き交(か)へ) かづらにせむと 九月(ながつき)の 時雨(しぐれ)の時は 黄葉(もみぢ)を 折かざさむと 延ふ葛(ふぢ)の いや遠永(とほなが)く(一は云はく、田(た)葛(くず)の根の いや遠長(とほなが)に) 万世(よろづよ)に 絶えじと思ひて(一は云はく、大船の 思ひたのみて) 通ひけむ 君をば明日ゆ(一は云はく、君を明日ゆは) 外にかも見む

私訳 石のごつごつした磐余の道を朝に必ず帰って行った貴方が、想いながらあの人の許に通ったであろうことは、霍公鳥が鳴く五月には菖蒲の花や橘の花を美しく紐に貫きあの人の鬘にしようと、九月の時雨の時には黄葉を手折ってあの人にさしかざそうと。野を延びる藤蔓のように、いっそう久方に長く万世に絶えることがないようにと想って通われた。そのような貴方を明日からは他の世の人として見る。

右一首、或云、柿本朝臣人麻呂作
注訓 右の一首は、或ひは云はく「柿本朝臣人麻呂の作れる」といへり。


或本反謌二首
標訓 或る本の反歌二首
集歌424 隠口乃 泊瀬越女我 手二纒在 玉者乱而 有不言八方
訓読 隠口(こもくり)の泊瀬(はつせ)娘子(をとめ)が手に纏(ま)ける玉は乱れてありと言はずやも

私訳 人の隠れると云う隠口の泊瀬の娘女の手に捲いている美しい玉が紐の緒が切れて散らばっていると言うのでしょうか。


集歌425 河風 寒長谷乎 歎乍 公之阿流久尓 似人母逢耶
訓読 河風の寒き長谷(はせ)を嘆きつつ君の歩(ある)くに似る人も逢へや

私訳 河風の寒い泊瀬で嘆げいていると、貴方の歩き方に似た人に逢へますか。

右二首者、或云、紀皇女薨後山前王代石田王作之也
注訓 右の二首は、或ひは云はく「紀皇女の薨(かむあが)りましし後に、山前王の石田王に代(かわ)りて作れり」といへり。


 順番が前後しますが、次に丹生王の歌を紹介します。

石田王卒之時、丹生王作謌一首并短謌
標訓 石田王の卒(みまか)りし時に、丹生王の作れる歌一首并せて短歌
集歌420 名湯竹乃 十縁皇子 狭丹頬相 吾大王者 隠久乃 始瀬乃山尓 神左備尓 伊都伎坐等 玉梓乃 人曽言鶴 於余頭礼可 吾聞都流 狂言加 我間都流母 天地尓 悔事乃 世開乃 悔言者 天雲乃 曽久敝能極 天地乃 至流左右二 杖策毛 不衝毛去而 夕衢占問 石卜以而 吾屋戸尓 御諸乎立而 枕邊尓 齊戸乎居 竹玉乎 無間貫垂 木綿手次 可比奈尓懸而 天有 左佐羅能小野之 七相菅 手取持而 久堅乃 天川原尓 出立而 潔身而麻之身 高山乃 石穂乃上尓 伊座都流香物

訓読 なゆ竹の とをよる皇子 さ似(に)つらふ 吾(わ)が大王(おほきみ)は 隠国(こもくり)の 泊瀬の山に 神さびに 斎(いつ)きいますと 玉梓の 人ぞ言ひつる 逆言(およづれ)か 吾が聞きつる 狂言(たはこと)か 吾が祀(ま)つるも 天地に 悔(くや)しきことの 世間(よのなか)の 悔しきことは 天雲の そくへの極(きは)み 天地の 至(いた)れるさへに 杖(つゑ)策(つ)きも 衝(つ)かずも行きて 夕衢(ゆうまち)占(うら)問ひ 石卜(いしうら)もちし 吾が屋戸(やと)に 御諸(みもろ)を立てて 枕辺(まくらへ)に 斎(いはひ)瓮(へ)を据ゑ 竹玉(たかたま)を 間(ま)なく貫(ぬ)き垂れ 木綿(ゆふ)襷(たすき) かひなに懸(か)けて 天にある 左佐羅(ささら)の小野の 七節菅(ななふすげ) 手に取り持ちて ひさかたの 天の川原に 出で立ちて 潔身(みそぎ)しましみ 高山の 巌(いはほ)の上(うへ)に 坐(いま)せつるかも

私訳 なよ竹のとをよる采女の歌に詠われた皇子に似た我が大王は、人が隠れるという隠口の泊瀬の山に神のように祀られていますと、美しい天皇の鉾を立てる道を行く人が言うのは逆言でしょうか、私が聞いたのは狂言でしょうか。私が大王の末永い命をお祈りしても、天上と地上での悔しいことの、人の世の悔しいことは、天の雲が退いていく極み、天と地が接する所に至るまでに、杖をついても、また杖をつかなくても行って、夕方の辻占いで人の言葉を問い、石卜もしました。私の家に神祀りの御諸を立て、貴方の枕元には斎瓮を据えて、竹玉を沢山に紐に通して垂らしました。貴方は木綿の襷を腕に掛けて、天上にある左佐羅の小野の七節の菅を手に取って持って、そして、遥か彼方の天上の天の川原に出で立って神の禊をしまった。貴方は高山の巌の上にいらっしゃるのでしょうか。


反謌
集歌421 逆言之 狂言等可聞 高山之 石穂乃上尓 君之臥有
訓読 逆言(およづれ)の狂言(たはごと)とかも高山の巌(いはほ)の上に君が臥(こ)やせる

私訳 逆言や狂言でしょうか。高山の巌の上に貴方がいらっしゃる。


集歌422 石上 振乃山有 杉村乃 思過倍吉 君尓有名國
訓読 石上(いそのかみ)布留(ふる)の山なる杉群(すぎぬら)の思ひ過(す)ぐべき君にあらなくに

私訳 石上の魂を振るという布留山にある杉群の思いを過ぎてしまうような思い出の中の貴方ではないのに。


 石田皇子は集歌420の歌で「吾大王者」との敬称で呼ばれていることから、天皇や皇太子に与えられる「吾大王者」の敬称に相応しい人物であったと推定されます。これを踏まえて、少し唐突ですが私見で、文武天皇時代に皇子と皇女と間での御子は、高市皇子と御名部皇女との御子である長屋王、弓削皇子と紀皇女との御子である石田王の御二方ぐらいと推定されます。この高貴な血筋から万葉集では石田王と長屋王との挽歌に「大王」や「大皇」の最大級の敬称が使われていると推測されます。

参考歌
神龜六年己巳、左大臣長屋王賜死之後倉橋部女王作謌一首
標訓 神亀六年己巳、左大臣長屋王に死を賜ひし後に倉橋部女王の作れる歌一首
集歌441 大皇之 命恐 大荒城乃 時尓波不有跡 雲隠座

私訳 天皇は畏れおおい方です。ところが、大殯の時でも無いのに天皇は亡くなられてしまわれた。

注意 歌の「命恐」の「命」の漢字を「尊」の意味と解釈し、従来の解説のように「御言」とは解釈しない。


 続日本紀によると、文武天皇は慶雲三年(706)十一月に健康を害して譲位を計られたようです。このとき以前に朝廷は皇太子を立てたと推測されます。この慶雲三年は、正月に泉内親王が伊勢大神宮へ斎宮として参拝、八月に田形内親王が伊勢大神宮の斎宮への就任、さらに、十二月にも多紀内親王が伊勢大神宮への参拝を行ったと云う特別な年です。本来ですと、斎宮に関わる行事は、皇位継承、斎宮が欠けた、又は、何か皇室に重要な出来事があるときに限られます。なにか、特別の事件があったと考えられます。文武天皇は内々で譲位を計られたのでしょうが、皇族及び朝廷としては皇位の子から母親への譲位は異常事態です。異常を考えると、万葉集の集歌441の歌の「命恐」の表記法も時代からは異常です。慶雲三年にも、聖武天皇に関わる何かがあったのでしょう。
 持統十二年の皇族および重臣会議で、天皇は文武天皇、補佐は一つ年下の長屋王と決まっています。天智天皇と天武天皇の定めた決まりでは、母親の格で皇位継承順位が決まりますから、私見では文武天皇が欠けた時、血統からは長屋王が一位、石田王が二位、膳部王が三位です。ただ、実務を執った長屋王は現御神としては欠格になり、大王にしかなれないと考えます。ここで、続日本紀によると、慶雲三年十二月に疫病を追い払う追儺の行事を、慶雲四年二月に疫病のための臨時の大祓を行っていますので慶雲三年の暮れ頃に疫病が大流行したと推定されます。こうした時、石田王が亡くなられたのは、集歌425の歌から冬の時期で、集歌420の歌からは自宅で病死との推定が出来ます。文武天皇は疫病ではない持病で譲位を計られたと推定出来ますが、皇太子である石田王は疫病で慶雲四年の初春頃に亡くなられたと考えられます。もしそうなら、皇太子と天皇が相次いで亡くなる異常事態です。それで、神祀りの古式に戻り、元明天皇の緊急登場になったと推定されます。この時、推定で元明天皇の直系の孫となる膳部王は三歳です。

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大宝二年(702)八月頃 人麻呂 五十六歳

2009年06月26日 | 柿本人麻呂歌集から人麻呂年賦を推理する
引手乃山の妻の死亡
大宝二年(702)八月頃 人麻呂 五十六歳

 引手乃山の妻の死亡を大宝二年秋八月頃の出来事と推定しています。

柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作謌二首并短謌 集歌210の歌以下
標訓 柿本朝臣人麻呂の妻死(みまか)りし後に泣(い)血(さ)ち哀慟(かなし)みて作れる歌二首并せて短歌
集歌210 打蝉等 念之時尓 (一云 宇都曽臣等 念之) 取持而 吾二人見之 走出之 堤尓立有 槻木之 己知碁知乃枝之 春葉之 茂之如久 念有之 妹者雖有 憑有之 兒等尓者雖有 世間乎 背之不得者 蜻火之 燎流荒野尓 白妙之 天領巾隠 鳥自物 朝立伊麻之弖 入日成 隠去之鹿齒 吾妹子之 形見尓置有 若兒乃 乞泣毎 取與 物之無者 烏徳自物 腋挟持 吾妹子与 二人吾宿之 枕付 嬬屋之内尓 晝羽裳 浦不樂晩之 夜者裳 氣衝明之 嘆友 世武為便不知尓 戀友 相因乎無見 大鳥乃 羽易乃山尓 吾戀流 妹者伊座等 人云者 石根左久見手 名積来之 吉雲曽無寸 打蝉等 念之妹之 珠蜻 髣髴谷裳 不見思者

訓読 現世(うつせみ)と 念(おも)ひし時に (一は云はく、 うつそみと 念(おも)ひし) 取り持ちて 吾が二人見し 走出の 堤に立てる 槻(つき)の木の こちごちの枝(え)の 春の葉の 茂きがごとく 念(おも)へりし 妹にはあれど 憑(たの)めりし 児らにはあれど 世間(よのなか)を 背(そむ)きし得(え)ねば かぎるひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天(あま)領巾(ひれ)隠(かく)り 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠(かく)りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 若児(おさなこ)の 乞(こ)ひ泣くごとに 取り与(あた)ふ 物し無ければ 男(をとこ)じもの 脇ばさみ持ち 吾妹子と ふたり吾が寝(ね)し 枕(まくら)付く 妻屋(つまや)のうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為むすべ知らに 恋ふれども 逢ふ因(よし)を無み 大鳥の 羽易(はがひ)の山に 吾が恋ふる 妹は座(いま)すと 人の言へば 石根(いはね)さくみて なづみ来し 吉(よ)けくもぞ無き 現世(うつせみ)と 念(おも)ひし妹が 玉かぎる髣髴(ほのか)にだにも 見えなく思へば

私訳 この世の中のことと思っていた時に、お互いの手を取り合って、私と貴女と二人で見た庭先の堤に立つ欅の木のあちらこちらの枝に春の葉が茂るように、生き生きとした貴女でしたが、そして、頼りのなる若い貴女でしたが、人の生き死にの、この世のことの決まりことに背くことが出来なくて、ほむらの燃える荒野に白妙の布で貴女の遺体を包み隠して、鳥たちのように朝に送り立たせて、夕日のときに葬儀を終えて貴女の身をこの世から隠すと、貴女の形見に残した幼子が貴女を求めて泣くごとに、幼子にしゃぶらせることのできるようなものもないければ、男である私の腋に抱えてあやし、貴女と二人で私と共寝した枕を置く貴女との部屋の内に心悲しく日を暮らし、夜はため息を付いて朝を向かえ、嘆くのだけどどうしょうもなくて、貴女を恋しく思っても、再び貴女に逢うこともありえない。大きな鳥の、その羽易の山に私が恋しい貴女がいますと人が云うので、岩道を踏み分け苦しみながらも来たことよ。貴女に逢えるという良いこともなくて、この世の人と思いたい貴女が、トンボ玉の光のようにほのかにも見えないことを思うと。


短謌二首
集歌211 去年見而之 秋乃月夜者 雖照 相見之妹者 弥年放
訓読 去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせれど相見し妹はいや年(とし)放(さか)る

私訳 去年に見たような、今年の秋の月は夜を同じように照らすけれど、去年の月を二人で見た貴女は、時間とともに想いから離れていくようです。


集歌212 衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑徃者 生跡毛無
訓読 衾(ふすま)道(ぢ)を引手の山に妹を置きて山道を行けば生けりともなし

私訳 白妙の布で遺体を隠した葬送の列が行く道の引手の山に貴女を一人置いて戻ってくると自分が生きている実感がありません。


或本謌曰
集歌213 宇都曽臣等 念之時 携手 吾二見之 出立 百兄槻木 虚知期知尓 枝刺有如 春葉 茂如 念有之 妹庭雖在 恃有之 妹庭雖在 世中 背不得者 香切火之 燎流荒野尓 白栲 天領巾隠 鳥自物 朝立伊行而 入日成 隠西加婆 吾妹子之 形見尓置有 緑兒之 乞哭別 取委 物之無者 男自物 腋挾持 吾妹子與 二吾宿之 枕附 嬬屋内尓 日者 浦不怜晩之 夜者 息衝明之 雖嘆 為便不知 雖戀 相縁無 大鳥 羽易山尓 汝戀 妹座等 人云者 石根割見而 奈積来之 好雲叙無 宇都曽臣 念之妹我 灰而座者

訓読 現世(うつせみ)と 念(おも)ひし時に 携(たづさ)へて 吾が二人見し 出立(いでたち)の 百枝(ももえ)槻(つき)の木 こちごちに 枝(えだ)させるごと 春の葉の 茂きがごとく 念(おも)へりし 妹にはあれど 恃(たの)めりし 妹にはあれど 世間(よのなか)を 背(そむ)きし得(え)ねば かぎるひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天(あま)領巾(ひれ)隠(かく)り 鳥じもの 朝立ちい行きて 入日なす 隠(かく)りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 緑子(みどりこ)の 乞(こ)ひ哭(な)くごとに 取り委(まか)す 物し無ければ 男(をとこ)じもの 脇ばさみ持ち 吾妹子と 二人吾が宿(ね)し 枕(まくら)付(つ)く 妻屋(つまや)のうちに 昼は うらさび暮らし 夜は 息づき明かし 嘆けども 為むすべ知らに 恋ふれども 逢ふ縁(よし)を無み 大鳥の 羽易(はがひ)の山に 汝(な)が恋ふる 妹は座(いま)すと 人の言へば 石(いは)根(ね)割(さく)見(み)て なづみ来し 好(よ)けくもぞ無き 現世(うつせみ)と 思ひし妹が 灰にていませば

短謌三首
集歌214 去年見而之 秋月夜者 雖渡 相見之妹者 益年離
訓読 去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は渡れども相見し妹はいや年(とし)離(さか)る

集歌215 衾路 引出山 妹置 山路念邇 生刀毛無
訓読 衾(ふすま)路(ぢ)を引手の山に妹を置きて山路(やまぢ)思ふに生けるともなし


集歌216 家来而 吾屋乎見者 玉床之 外向来 妹木枕
訓読 家(いへ)に来て吾が屋(へ)を見れば玉(たま)床(とこ)の外(よそ)に向きけり妹が木(こ)枕(まくら)

私訳 家に戻ってきて私の家の中を見ると貴女と寝た美しい夜の床でいつもは並んでいるはずの枕が、外の方向を向いている貴女の木枕が。


 集歌212の短歌に続く「或本謌」で紹介される集歌213から集歌216までの長歌と短歌は、集歌210から集歌212までの長歌・短歌の推敲前の歌群であろうと考えられます。こうした時、この推敲前の集歌213の歌の「思ひし妹が 灰にていませば」の句から、「引手乃山の妻」は火葬された妻であることが判ります。歴史では道照和尚の火葬を畿内では最初の出来事としますから、この歌が詠われたのは少なくとも文武四年(700)以降の位置付けになります。ここで「或本謌」の集歌213の歌では「灰而座者(灰にていませば)」と詠い終わりますが、集歌210の歌では「珠蜻 髣髴谷裳 不見思者(玉かぎる髣髴にだにも 見えなく思へば)」と変更し、歌から火葬の強いイメージを取り払っています。恣意的判断ですが、この時、人麻呂は火葬と云う葬儀の方法に馴れていなくて、その火葬のイメージを持ったまま、初めの歌を創ったと考えます。時が経ち、火葬と云う葬儀の方法が知られるようになって集歌210の歌の結句のように「はかなさ」の感情で推敲したと推測します。ここから「引手乃山の妻」が火葬されたのは、道照和尚を始めの例とする火葬方法が知られてからそれほど時期が経っていない時代と考えます。この推定の時、或本謌で「緑兒之 乞哭別」と人麻呂は詠いますから、引手の山の妻が死んだ時に、二人の間には緑児がいます。この緑児の言葉から子供の年齢を一~二才位とすると、その子供は文武四年頃の誕生との推定が可能になると考えます。
 先に人麻呂は字名、佐留は諱と考え、柿本朝臣人麻呂と柿本朝臣佐留は、同一人物と推定しました。こうした時、柿本朝臣の姓を持つ人物で正史に載る者がいます。それが建石と浜名です。続日本紀には

建石  神亀四年(728)正月 従五位下に叙任
浜名  天平十年(738)四月 外従五位下で備前守に任官

の記事があります。
 当時は、おおむね三十五歳前後で従五位下に叙任しますから、建石は持統七年(693)前後、浜名は文武四年(700)前後の生まれとなります。浜名は、天平十年(738)には既に外従五位下ですので、外従五位下への叙任はそれより少し前と考えられます。したがって、引手の山の妻の緑児とは浜名である可能性が非常に高いと考えます。すると、建石は長男である可能性が出て来ます。もしそうであるなら、人麻呂と「引手の山の妻」は持統五年(691)前後に結婚したとの推定ができます。二人の結婚が持統五年前後であろうと仮定すると、人麻呂が四十五歳、引手の山の妻は初婚でしょうから十六~十七歳ぐらいの年齢となります。
 文武四年の段階で人麻呂の年齢は五十四歳ほどと推定しています。歌で「緑兒之 乞哭別」と詠う姿と人麻呂の年齢を考えると、「引手の山の妻」の死亡を文武四年からあまり遅い時期に置くことは難しいと考えます。こうした時、人麻呂は大宝元年十月の文武天皇の紀伊御幸に同行していますが、大宝二年十月の持統太上天皇の伊勢御幸には同行していません。これは、人麻呂が喪に服していたためかもしれません。この場合、律令から妻の喪が三ヶ月ですから「引手の山の妻」の死亡は大宝二年(702)八月頃となります。これは、集歌211の歌の「秋乃月夜者」の季節感にも合います。
 ここで、「引手の山の妻」の出身氏族について考えてみます。「引手の山の妻」とその親族は、火葬を行っていることから仏教徒であり、新規の風習を取り入れる貴族階級と考えられます。「引手の山の妻」の火葬が行われ、散骨された場所である羽易山の「易」の字に注目しますと、この「易」の字から「羽易山」とは「矢羽を交換した山」と解釈することが出来ます。つまり、人麻呂が詠う「羽易山」とは、神話で「天つ羽」を交換した物部氏ゆかりの山となります。つまり、物部氏ゆかりの山=石上神社の山=国見山(こちらが古来の石上神社の神奈備山)となります。この場合、歌の「衾道」とは地名では無く、歌で「白栲 天領巾隠」と詠うように葬送の野辺送りの時に棺にかけられた白い布を意味します。つまり、衾道は野辺送りの道を指し、固有名詞ではなくなります。歌で詠う「羽易山」が布留の国見山とすると、桃尾の滝付近は人麻呂が詠う「石根割見而」に相当する地形です。また、歌で詠う「引手乃山」とは、神話にある引手山=引手力命=天手力男命の坐す山です。つまり、天手力男命をお祭りする天理市長滝町の九頭神社です。これもまた、国見山を指します。これらを勘案すると、人麻呂たちは「引手の山の妻」を国見山のふもとの荒野に葬ったことになります。布留川の右手は石上神社の神域です。これから、妻の墓は国見山の布留川に沿って上っていく野辺道の左手の荒野=野辺にあることになります。つまり、国見山の南西斜面の場所となり、仏教でいう彼岸の方向を向くことになります。歌で「蜻火之 燎流荒野尓」と詠うように、旧暦七月の夏の夕刻、入日が山を染める、そのような時刻に妻を火葬したと考えられます。現在の地名では、おおよそ、天理市滝本町大親寺付近と推定されます。

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大宝二年(702)七月頃 人麻呂 五十六歳

2009年06月25日 | 柿本人麻呂歌集から人麻呂年賦を推理する
土形娘子と出雲娘子の挽歌と火葬
大宝二年(702)七月頃 人麻呂 五十六歳

 人麻呂は三人の宮廷の官女の死亡を悼む歌を作っています。一人目は吉備津の采女に対するもので、残りの二人はここで紹介する土形娘子と出雲娘子です。この二人は共に壬申の乱で活躍した大和豪族の子女です。
 これらの歌は火葬をテーマに据えていますから、歴史的には続日本紀に始めて火葬の記事が登場する文武四年(700)以降の歌と考えられます。当然、土形娘子と出雲娘子との死亡時期は違いますが、ここでは死亡時期が、ある程度、推定可能な出雲娘子の死亡時期を代表として取り上げ、大宝二年の文武天皇の吉野宮への御幸の時とします。

土形娘子火葬泊瀬山時、柿本朝臣人麿作謌一首
標訓 土形娘子を泊瀬山に火(やき)葬(ほふ)りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首
集歌428 隠口能 泊瀬山之 山際尓 伊佐夜歴雲者 妹鴨有牟
訓読 隠口(こもくり)の泊瀬(はつせ)の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹にかもあらむ

私訳 人の隠れる隠口の泊瀬の山の山際にただよっている雲は貴女なのでしょうか。


溺死出雲娘子火葬吉野時、柿本朝臣人麿作歌二首
標訓 溺れ死(みまか)りし出雲娘子を吉野に火(やき)葬(ほふ)りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌二首
集歌429 山際従 出雲兒等者 霧有哉 吉野山 嶺霏微
訓読 山の際(ま)ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺(みね)にたなびく

私訳 山際から、出雲の貴女は霧なのでしょうか、吉野の山の峰に棚引いている。


集歌430 八雲刺 出雲子等 黒髪者 吉野川 奥名豆颯
訓読 八雲(やくも)さす出雲(いづも)の子らよ黒髪は吉野の川の沖になづさふ

私訳 多くの雲が立ち上る出雲の貴女、貴女の自慢の黒髪は吉野の川に中ほどに揺らめいている。


 土形娘子と出雲娘子とは「娘子」の表記ですが、火葬された場所が夫々の本貫の里ではありませんので、その土地の娘では無く、官位の無い官女と考えられます。
 さて、火葬は、歴史的には文武四年の道照和尚の火葬を最初の事例としています。文献への初見が文武四年に対し、中臣連鎌足の伝承のように一部ではそれ以前に仏教信者の内で行われていた可能性もありますし、火葬の歴史の議論では吉備国の例を出してもっと早いと唱えることも出来ますが、ここでは、火葬の始まりを文武四年としておきます。つまり、この文武四年を二人の娘子の死亡時期の上限と考えます。こうした時、文武天皇時代の都は、藤原宮ですので宮中女官である出雲娘子が吉野に滞在しているのは、吉野御幸の時以外は考えられません。文武四年以降の近々の御幸は、持統太上天皇の最後の吉野御幸である大宝元年(701)六月と文武天皇の大宝二年(702)七月の吉野御幸のときです。持統太上天皇と文武天皇との立場を考え、また、同行人数から思いを馳せて、出雲娘子の事件が起きたのは大宝二年七月の文武天皇の御幸のときとします。
 一方、土形娘子の二首については、文武四年以降であろうとしか年代が規定できません。土形娘子が宮廷出仕の女官とすると、その出身地は平山の那良なので、火葬された泊瀬の山の場所から推定して平城京時代ではありません。およそ、藤原京時代のことですから、道照の文武四年(700)以降、和銅三年(710)の平城京遷都以前の間での出来事となります。ただし、人麻呂は大宝二年(702)暮以降に大神朝臣高市麻呂の病気交代として長門国守に就任した可能性がありますので、大宝二年夏以前の出来事と考えられます。

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大宝元年(701)十月 人麻呂 五十五歳

2009年06月24日 | 柿本人麻呂歌集から人麻呂年賦を推理する
紀伊国への二度目の御幸
大宝元年(701)十月 人麻呂 五十五歳

 集歌1709の歌の左注の「右、柿本朝臣人麻呂之謌集所出」の「右」の解釈により、場合によっては、この「幸紀伊國時謌十三首」は人麻呂歌集の歌ではありません。ただし、ここでは「右」の範囲を広く取って人麻呂歌集に含まれると解釈した上で、ここで紹介する歌を人麻呂の作品としています。
 人麻呂が詠う大宝元年(702)十月の持統太上天皇と文武天皇による紀伊国への御幸に随行した時の歌は、集歌146の歌、集歌1667から集歌1681までの歌と集歌1796から集歌1799までの歌と、三部に分かれて万葉集には収録されています。これらの歌は「軽の里の妻=隠れ妻」と「引手乃山の妻」の二人の妻の死亡推定に深く関わりますので、大分になりますが、全て紹介します。

大寶元年辛丑、幸于紀伊國時見結松謌一首 柿本朝臣人麻呂謌集中出也
標訓 大寶元年辛丑、紀伊國に幸(いでま)しし時に結び松を見たる歌一首 柿本朝臣人麻呂歌集の中に出づ
集歌146 後将見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又将見香聞
訓読 後見むと君が結べる磐代(いはしろ)の小松が枝末(うれ)をまたも見むかも

私訳 後でまた見ようと貴方が結んだ磐代の小松の枝を、貴方はまた見られたでしょうか。


大寳元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇幸紀伊國時謌十三首
標訓 大宝元年辛丑の冬十月に、太上天皇大行天皇の紀伊國に幸(いでま)しし時の歌十三首
集歌1667 為妹 我玉求 於伎邊有 白玉依来 於伎都白浪
訓読 妹がため我れ玉求む沖辺(おきへ)なる白玉寄せ来(こ)沖つ白浪

私訳 貴女のために私は真珠の玉が欲しい。沖の方から白い真珠の玉を波とともに寄せて来い。沖に立つ美しい玉のような波立つ白浪よ。

右一首、上見既畢。但、歌辞小換、年代相違。因以累戴。
注訓 右の一首は、上に見ゆること既に畢(をは)りぬ。ただ、歌の辞(ことば)小(すこ)しく換(かは)り、年代相違へり。因(よ)つて以つて累(かさ)ねて戴(の)す


集歌1668 白埼者 幸在待 大船尓 真梶繁貫 又将顧
訓読 白崎は幸(さき)をあり待つ大船に真梶(まかぢ)繁(しじ)貫(ぬ)きまたかへり見む

私訳 由良の白崎は御幸のふたたびの訪れを待っている。大船に立派な梶を差し込んで船を出し、また紀伊国の御幸の帰りに見ましょう。


集歌1669 三名部乃浦 塩莫満 鹿嶋在 釣為海人乎 見變来六
訓読 三名部(みなべ)の浦潮(しほ)な満ちそね鹿島なる釣りする海人(あま)を見て帰り来(こ)む

私訳 紀伊国の三名部の浦に磯の道を閉ざす潮よ満ちるな。鹿嶋で釣をする海人を見に行って来たいから。


集歌1670 朝開 滂出而我者 湯羅前 釣為海人乎 見變将来
訓読 朝(あさ)開(ひら)き漕ぎ出て我れは由良(ゆら)の崎釣りする海人(あま)を見変(みかへ)り来まむ

私訳 朝が開け船を漕ぎ出すと、私は由良の岬で釣をする海人の色々な姿を見ることが出来るでしょう。


集歌1671 湯羅乃前 塩乾尓祁良志 白神之 礒浦箕乎 敢而滂動
訓読 由良(ゆら)の崎潮(しほ)干(ひ)にけらし白神(しらかみ)の礒の浦廻(うらみ)を敢(あ)へて漕ぐなり

私訳 由良の岬の潮は引き潮のようです。白浪が打ち寄せる白神の磯の浦の辺りを、敢えて船を楫を漕いでいく。


集歌1672 黒牛方 塩干乃浦乎 紅 玉裾須蘇延 徃者誰妻
訓読 黒牛潟(くろうしがた)潮干(しほひ)の浦を紅(くれなゐ)の玉裳(たまも)裾(すそ)引(ひ)き行くは誰(た)が妻

私訳 黒牛の潟の潮が干いた浜辺を紅の美しい裳の裾を引いて歩いているのは誰の恋人でしょうか。


集歌1673 風莫乃 濱之白浪 徒 於斯依久流 見人無
訓読 風莫(かぜなし)の浜の白波いたづらにここに寄せ来(く)る見る人なしに

私訳 風があっても風莫の浜と呼ばれる浜の白波は、ただ無性に寄せてくる。見る人もいないのに。

一云 於斯依来藻
あるひは云はく、
訓読 ここに寄せ来(こ)も
私訳 ここに寄せて来るよ。

右一首、山上臣憶良類聚歌林曰、長忌寸意吉麻呂、應詔作此謌。
注訓 右の一首は、山上臣憶良の類聚歌林に曰はく、「長忌寸意吉麻呂、詔(みことのり)に應(こた)へて此(これ)を作れる」といへり。


集歌1674 我背兒我 使将来歟跡 出立之 此松原乎 今日香過南
訓読 我が背子が使(つかひ)来(こ)むかと出立(いでたち)のこの松原を今日(けふ)か過ぎなむ

私訳 私の愛しい子が父からの便りの使いが来ないかと家の外に出て立つように、まだかまだかと待っていた出立のこの松原を今日は行き過ぎます。


集歌1675 藤白之 三坂乎越跡 白栲之 我衣乎者 所沾香裳
訓読 藤白(ふぢしろ)の御坂を越ゆと白栲の我が衣手(ころもて)は濡れにけるかも

私訳 藤白の御坂を越えると、有馬皇子の故事を思うと白栲の私の衣の袖は皇子を思う涙に濡れるでしょう。


集歌1676 勢能山尓 黄葉常敷 神岳之 山黄葉者 今日散濫
訓読 背の山に黄葉(もみち)常敷く神岳(かむたけ)の山の黄葉(もみちは)は今日か散るらむ

私訳 有馬皇子の藤白の御坂の山は黄葉で覆われています、大和の明日香の雷丘の黄葉はもう散っているでしょうか。


集歌1677 山跡庭 聞徃歟 大我野之 竹葉苅敷 廬為有跡者
訓読 大和には聞こえ往(い)かぬか大我野(おほがの)の竹葉(たかは)刈り敷き廬(いほり)せりとは

私訳 大和にはその評判が聞こえているでしょうか、大我野にある珍しい竹葉を刈り取って仮の宿に敷いていることを。


集歌1678 木國之 昔弓雄之 響矢用 鹿取靡 坂上尓曽安留
訓読 紀(き)の国の昔弓雄(さつを)の響矢(なりや)用(も)ち鹿取り靡けし坂上(さかへ)にぞある

私訳 紀の国で、昔、弓の勇者が神の響矢で鹿を取り従わせた熊野荒坂です。


集歌1679 城國尓 不止将徃来 妻社 妻依来西尼 妻常言長柄
訓読 紀(き)の国にやまず通(かよ)はむ妻の杜(もり)妻寄しこせね妻と言(い)ひながら

私訳 紀の国には止むことなくいつも通いましょう。仁徳天皇の妻の磐姫命皇后の御綱柏の社の故事のように、妻を御綱柏を採りに寄せ来させましょう。貴女は妻と言ひながら。

一云 嬬賜尓毛 嬬云長柄
あるひは云はく、
訓読 妻賜(たま)はにも妻と言ひながへ

右一首、或云、坂上忌寸人長作。
注訓 妻にしてください、妻というのですから。


後人謌二首
標訓 後(のち)の人の歌二首
集歌1680 朝裳吉 木方徃君我 信土山 越濫今日曽 雨莫零根
訓読 朝も吉(よ)し紀(き)へ行く君が信土山(まつちやま)越ゆらむ今日(けふ)そ雨な降りそね

私訳 今朝は日よりも良いようです。紀の国に行く貴方が大和と紀の国との境の信土山を今日は越えていく。雨よ降らないで。


集歌1681 後居而 吾戀居者 白雲 棚引山乎 今日香越濫
訓読 後(おく)れ居(い)て吾(わ)が恋ひ居(を)れば白雲の棚(たな)引(ひ)く山を今日(けふ)か越ゆらむ

私訳 後に残り居て私が貴方を恋慕っていると、白雲の棚引く山を今日は越えるのでしょうか。


紀伊國作謌四首
標訓 紀伊國にて作れる歌四首
集歌1796 黄葉之 過去子等 携 遊礒麻 見者悲裳
訓読 黄葉(もみちは)の過ぎにし子らと携(たづさ)はり遊びし礒を見れば悲しも

私訳 黄葉の時に逝ってしまった貴女と手を携えて遊んだ磯を今独りで見ると悲しいことです。


集歌1797 塩氣立 荒礒丹者雖在 徃水之 過去妹之 方見等曽来
訓読 潮気(しほけ)立つ荒礒(ありそ)にはあれど往(い)く水の過ぎにし妹が形見とそ来し

私訳 潮気が立つ何も無い荒磯ですが、磯を洗い流れ往く水のように過ぎ去った貴女との思い出と思ってここにやって来ました。


集歌1798 古家丹 妹等吾見 黒玉之 久漏牛方乎 見佐府下
訓読 古(いにしへ)に妹(いも)と吾(わ)が見しぬばたまの黒牛潟(くろうしがた)を見れば寂(さぶ)しも

私訳 昔に貴女と私が人目を忍んで寄り添って見た漆黒の黒牛潟を、独りでこうして見ていると寂しいことです。


集歌1799 玉津嶋 礒之裏未之 真名子仁文 尓保比去名 妹觸險
訓読 玉津島(たまつしま)礒の浦廻(うらみ)の真砂(まなご)にも色付(にほひ)て行かな妹も触れけむ

私訳 玉津嶋の磯の砂浜の真砂にも偲んでいきましょう。貴女がこのように触れた砂です。


 私の気持ちは、集歌1680と集歌1681との歌は、紀国への御幸から帰ってきたときに人麻呂の若妻の「引手乃山の妻」から聞いた気持ちから、若妻に仮託して人麻呂が作歌した歌です。それで、土地勘のない「引手乃山の妻」の想像は国境の信土山までではないでしょうか。
 また、集歌1796以下の四首の歌は、人麻呂だけの歌で人に見せる歌ではなかったと思います。幼子を抱える若妻がいますが、心の妻は別な妻であると云う口には出せない複雑な思いではなかったでしょうか。決して、引手乃山の妻には見せてはいけない歌です。

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