竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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天智八年(669)秋 人麻呂 二十三歳頃

2009年05月31日 | 柿本人麻呂歌集から人麻呂年賦を推理する
吉備津采女の挽歌
天智八年(669)秋 人麻呂 二十三歳頃

 この歌の詠われたのは天智天皇の治める大津宮で、およそ天智八年(669)頃の春の季節と推定されます。歌の吉備津采女の女性については諸説ありますが、柿本臣や高市皇子の母方の宗像君に関係する備中国都宇郡(岡山市津寺地区)の出身の采女の女性の説を採用します。
 歌は人麻呂が高市皇子の下で鉱山関係の業務に従事していた時代に、若き高市皇子の密かな愛人である吉備津采女が妊娠し自殺した時に、人麻呂が高市皇子へ捧げた挽歌です。推定で高市皇子が十七歳、相手の吉備津采女が少し年上の十九歳ぐらいでしょうか。なお、吉備津采女の葬送の時に詠われたこの挽歌において、その長歌は亡くなった吉備津采女への問い掛けとして、短歌は采女の恋人である高市皇子への弔問の歌として解釈し私訳を行っています。

吉備津采女死時、柿本朝臣人麿作歌一首並短哥
標訓 吉備の津の采女の死(みまか)りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首並せて短歌
集歌217 秋山 下部留妹 奈用竹乃 騰遠依子等者 何方尓 念居可 栲紲之 長命乎 露己曽婆 朝尓置而 夕者 消等言 霧己曽婆 夕立而 明者 失等言 梓弓 音聞吾母 髪髴見之 事悔敷乎 布栲乃 手枕纏而 釼刀 身二副寐價牟 若草 其嬬子者 不怜弥可 念而寐良武 悔弥可 念戀良武 時不在 過去子等我 朝露乃如也 夕霧乃如也

訓読 秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひをれか 栲縄(たくなは)の 長き命を 露こそは 朝に置きて 夕は 消ゆと言へ 霧こそは 夕に立ちて 朝は 失すと言へ 梓弓 音聞くわれも おほに見し 事悔しきを 敷栲の 手枕まきて 剣刃 身に副(そ)へ寝けむ 若草の その嬬の子は さぶしみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと

私訳 秋山の木々の間に光が差し込め、美しく輝く貴女、なめらかな竹のようなしなやかな体をした貴女は、どう思ったのか、栲の繩のように長い命を、露だったら朝に降りて夕べには消え、霧だったら夕べに立ち込めて朝には消え失せるという、采女の貴女が神を呼ぶ梓の弓をかき鳴らす音を聞いた私も、その姿をかすかにしか見なかったことが残念で、閨の寝具の上で手枕を交わして剣や太刀を身に添えるように寄り添って寝た、若草のような貴女の若い恋人は、貴女を亡くした寂しさか、思い出して夜を寝られるでしょう。悔しみか、思い出して恋しがるでしょう。思いもかけず、亡くなった貴女は、朝露のようで、夕霧のようです。


集歌218 楽浪之 志我津子等何 罷道之 川瀬道 見者不怜毛
訓読 楽浪の志賀津の子らが罷道の川瀬の道を見ればさぶしも

私訳 さざなみが立つの志賀の津で備中国津から来たあの人の葬送の送りの行列を川瀬の道に見ると心寂しいことです。


集歌219 天數 凡津子之 相日 於保尓見敷者 今叙悔
訓読 天数ふ凡津の子が逢ひし日におほに見しくは今ぞ悔しき

私訳 天の星をおおよそに数える、大津の宮であの人に会った日にぼんやりとだけ見たことは、今は残念なことです。


 ここで、集歌217の歌の「若草 其嬬子者」は「若草のその夫の子は」と訓読みするのが普段の正統です。この普段の正統は天智天皇の太后御歌の集歌153の歌の「若草乃嬬之」を「若草の夫の」と読むところに従っています。ところが、「若草乃嬬之」を「若草の夫の」と読むのは倭建命の故事に従った大御葬(おほみはふり)での四歌(ようた)を失念したことからの誤訳ですから、「其嬬」を「その夫(つま)」と読むことは出来ません。つまり、「若草 其嬬子者」は「若草のその妻の子は」としか読めないことになります。それで、男女が逆転して解釈が違いますし、若草の形容は「子」に対するものとなります。歌の「其嬬」の言葉は、死んだ吉備の津の采女への優しさです。この「其嬬」の言葉により、この采女の死は行きかかりの激情の情交ではなく、妻としての情交の結果と人々は理解するのです。つまり、歌では采女は、高貴な男性の妻として死んだのです。「その夫の子」では、単なる愛人の一人の意味合いになります。また、集歌219の歌での「見る」行為は、その対象をはっきり認識すると云う行為でもありますから、若い女性を「見る」行為は肉体関係を想像させます。それで、歌で「其嬬」の言葉の感情から人麻呂は「おほに見る」と詠って、歌においてはかすかにその存在を知っているとしているのです。実際は、葬送に集う人々は神事や宮中行事を通じて、その顔・形は十分に知っている相手です。
 なお、従来の解説に万葉集の中での歌の配列や使われている万葉仮名表記から、この歌は持統天皇の時代の後半の時期に人麻呂が伝聞や伝承の歌から創作したとするものがあります。ただし、考古学の発掘・研究成果から略体歌による年代推定説は既に破綻していますので、それを下にした歌の表記からの年代推定は動いていますし、配列論については万葉集巻二での“人麻呂歌集”と云う視線での挽歌群における配列を考察する必要があり、これらを総合すると持統天皇後半説については難しいと考えています。

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天智八年(669)春 人麻呂 二十三歳頃

2009年05月30日 | 柿本人麻呂歌集から人麻呂年賦を推理する
鷺坂の歌とその周辺歌
天智八年(669)春 人麻呂 二十三歳頃

 鷺坂の歌とその周辺歌は、万葉集巻九の雑歌の載る一連の柿本人麻呂歌集の歌ですが、集歌1725の麻呂謌一首の左注にある「右、柿本朝臣人麻呂之謌集出」の「右」の拡大解釈から集歌1664の歌から集歌1725の麻呂謌一首までを、「柿本朝臣人麻呂之謌集」としています。恣意的になりますが、これら作者が明確に記されてないものですが、人麻呂の作品と推定しています。
 こうした時、これらの歌が詠われたのは天智天皇の治める近江大津宮時代、およそ天智八年(669)の夏頃から翌年の春にかけての歌と考えています。ちょうど、人麻呂が近畿の山中で鉱山開発の探査の作業に従事していた時期に相当します。そして、歌から想定可能な人麻呂の行動範囲は、京都府の木津川水系、宇治川水系及び滋賀県の阿渡川水系で、これは判明している古代の銅鉱石や鉄鉱石の産地に重なります。そのため、この歌群は万葉集の和歌の鑑賞だけでなく、鉱山研究者にも興味深い歌群でもあります。

集歌1687 白鳥 鷺坂山 松影 宿而往奈 夜毛深往乎
訓読 白鳥の鷺坂山の松蔭に宿りて行かな夜も深け行くを

私訳 白鳥の鷺、その鷺坂山の松の木陰で宿っていきましょう。夜がふけて行くので。


集歌1688 炙干 人母在八方 沾衣乎 家者夜良奈 羈印
訓読 炙(あぶ)り干す人もあれやも濡衣を家には遣らな旅のしるしに

私訳 このように濡れた衣を焚き火にあぶり干す人がいるでしょうか。この濡れた衣を家に送りましょう。苦しい旅の証しに。


集歌1690 高嶋之 阿渡川波者 驟鞆 吾者家思 宿加奈之弥
訓読 高島の阿渡川波は騒くともわれは家思ふ宿悲しみ

私訳 高島の阿渡川の川波が騒がしくても、私はしみじみ家を思い出します。旅の宿りが苦しいので。


集歌1695 妹門 入出見川乃 床奈馬尓 三雪遺 未冬鴨
訓読 妹が門入り泉川の常滑にみ雪残れりいまだ冬かも

私訳 恋人の家の門に入り出づる泉川の滑らかな岩に雪が残っている。まだ、冬ですね。


集歌1890 春日野 犬鶯 鳴別 春眷益間 思御吾
私訓 春日野(かすがの)の犬鶯(おほよしきり)の鳴き別れ春眷(み)ます間(ま)も思ほせわれを

私訳 春日野で犬鶯が鳴いて飛び去るように、過ぎゆく春日野の春をしみじみ懐かしく思う、その折々にも思いだして下さい、私を。


集歌2178 妻隠 矢野神山 露霜尓 〃寶比始 散巻惜
訓読 妻隠る矢野の神山露霜ににほひそめたり散らまく惜しも

私訳 妻が籠ると云う名張の家野の神山は露霜に色づきだした。黄葉が散ってしまうのが惜しいことです。


 さて、集歌2178の歌を吉備国方面の歌とする解説もありますが、歌の「妻隠 矢野神山」は「妻隠る名張」の伝承から創られた言葉と考えて「妻隠りの名張」であり、その場合は、歌の「矢野の神山」とは、現在の「家野の神山」と解釈します。つまり、歌の世界は伊賀国名張郡家野郷の鵜山にある八柱神社近辺の山並みでしょう。そして、この一帯は、「職業人としての柿本人麻呂」で紹介した木津川流域の最上流部に当たり、流域は砂鉄鉱床や巨晶(ペグマタイト)の露床が見られ、手工業的な金属製錬においては鉱山探査を行なうような場所です。
 ちょっと意外でしょうが、飛鳥・奈良時代の貴族・知識階級は、外国からの知識を下に最新の技術者として山野に分け入り鉱山を開発し銅や鉄を製錬しますし、一方、自ら先頭に立ち河川の改修や干拓を行い水田の開発を行います。明治時代と同じで、実践の先頭に立つ民衆レベルの技術者は、まだ、育っていません。貴族・知識階級の人々が、実践の先頭に立つ最先端の技術者なのです。三野王は土木建築の技術者ですし、柿本臣や田中臣は鉱山・冶金開発関係の技術者です。飛鳥・奈良時代の貴族は手に労働タコを持つ技術者である可能性を、万葉集を読むときに持って頂けたらと感じます。

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天智七年(668)五月頃 人麻呂 二十二歳、隠れ妻 十五歳

2009年05月29日 | 柿本人麻呂歌集から人麻呂年賦を推理する
隠れ妻の裳儀 そして妻問い
天智七年(668)五月頃 人麻呂 二十二歳、隠れ妻 十五歳

 最初に、推定する天智七年五月頃の年代は、天智八年頃に人麻呂が大津宮で吉備津采女への挽歌を詠ったと推定したことから逆算したものです。
 さて、昔、庶民では男子は褌祝い、女子は腰巻祝いと称する成人の仲間入りをする儀式がありました。同じような儀礼を、身分の高い人では袴儀や裳儀などと云います。当時の褌祝いは、儀式の当日に母方の親族の年上の女性が成人式を迎えた男の子に性交の方法と閨での女性の扱い方を教える場でもありました。貴族男子では、さらに教育掛かりとして添伏と云う女性を充てます。同様に、女の子も儀式の当日に親族の男性が破瓜を行い、その後に訪れる夜這いや妻問ひで支障なく男を迎える体を整え、教育を行う場であったようです。
 次の歌は、この風習を思って鑑賞してください。親公認の恋愛関係の二人ですが、まだ、体の交わりはありません。それで、歌では「香未通女」や「盛未通女」と表現されています。そんな男女の関係の二人ですが、その娘に二人が待っていた裳儀の時期がやってきます。ちょうど、現在での結婚式を迎える女性の感覚に似た時間帯です。集歌3307の歌の「橘の 末枝を過ぎて」から、橘の花の時期が終わった頃として新暦六月中旬、旧暦五月初旬を想定しています。

集歌3305 物不念 道行去毛 青山乎 振放見者 茵花 香未通女 櫻花 盛未通女 汝乎曽母 吾丹依云 吾叨毛曽 汝丹依云 荒山毛 人師依者 余所留跡序云 汝心勤

訓読 物思はず 道行く行くも 青山を 振り放け見れば つつじ花 香(にほひ)未通女(をとめ) 桜花 栄(さかえ)未通女(をとめ) 汝(な)れをぞも 吾に寄すといふ 吾ともぞ 汝れに寄すといふ 荒山(あらやま)も 人し寄すれば 寄そるとぞいふ 汝が心ゆめ

私訳 花を是非に見ようと思わずに道を行き来ても、青葉の山を見上げるとツツジの花が芳しく香る未通女のようで、桜の花は盛りを迎えた未通女のようだ。そんな貴女は私を信頼して気持ちを寄り添え、つまらない私も同じように貴女を信じ気持ちを寄せる。手の入っていない未開の山も人が感心を寄せると、すぐに寄り来て手を入れると云います。ひたすら、貴女は私のことだけを想ってください。

反歌
集歌3306 何為而 戀止物序 天地乃 神乎祷迹 吾八思益
訓読 いかにして恋ひ止むものぞ天地の神を祈れど吾は思(も)ひ益(まさ)る

私訳 どのようにして貴方への恋は止むものでしょう。天地の神に貴方と契ることを願ったあとも、私の貴方を慕う気持ちはいっそう募ります。


集歌3307 然有社 羊乃八歳叨 鑚髪乃 吾同子叨過 橘 末枝乎過而 此河能 下父長 汝情待
訓読 然(しか)れこそ 遥(よう)の八歳(やとせ)と 切り髪の 吾同子(よちこ)と過ぎ 橘の 末枝(ほつえ)を過ぎて この川の 下(しも)甫(そ)め長く 汝(な)が情(こころ)待つ

私訳 このようにして、ようやくの八歳の幼さない切り髪のおかっぱ頭の髪を伸ばし始めて肩まで伸びてうない放髪の幼さを過ぎて、橘の薫り高い末枝の花芽の時を過ぎて、この川の下流が広く大きく長いようにと、始めて女として貴方の情けを待っています。


反歌
集歌3308 天地之 神尾母吾者 祷而寸 戀云物者 都不止来
訓読 天地の神をも吾は祈りてき恋といふものは都(みやび)止(や)まずけり

私訳 貴女と同じように天地の神にも私は願いを捧げています。貴女と恋の行為をするというものは奥ゆかしくて引き止めることは出来ません。


 集歌2847の歌の「我にな恋ひそと妹は云へど恋ふる間に年は経につつ」の感覚や、女性自身が歌う集歌3307の歌の「然れこそ 遥の八歳を」の感覚から、幼い隠れ妻の初潮は他の女性に比べて少し遅かったのかもしれません。それで、やっと大人になったような感覚でしょうか。
 参考まで、中国の漢典に「父、皆同甫音」とあります。この「甫」には、「始め・広く大きい」との意味もあります。この歌での「羊」と「父」の漢字は、「遥」と「甫」の当て字としています。
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天智五年(666)夏頃 人麻呂 二十歳、隠れ妻 十三歳

2009年05月28日 | 柿本人麻呂歌集から人麻呂年賦を推理する
はじめに

 最初に、この題名について触れます。万葉集において、柿本朝臣人麻呂の歌と柿本人麻呂歌集の歌とは、歌に付けられた標や左注において明確に区分されています。歌と歌集での厳密な定義からすると、柿本朝臣人麻呂の歌とは人麻呂が作歌した個々の歌であり、柿本人麻呂歌集の歌とは歌集に載る、その多くは作歌者が特定されない歌集に載る歌々の位置付けにあります。ただし、個人に歌の感情から人麻呂歌集の歌の多くは、人麻呂の歌と推定しています。このため、「柿本人麻呂歌集から人麻呂年譜を推理する」と題していますが、ここでの歌々は人麻呂の歌と人麻呂歌集の歌の両方を意味します。なお、人麻呂歌集の歌を人麻呂の歌と考える根拠は、ある種、個人の感覚に拠りますので、恣意的選別と了解願います。
 さて、この「柿本人麻呂歌集から人麻呂年譜を推理する」は、「職業人としての柿本人麻呂」と題したメモ書きを背景に推論した人麻呂の職業から人麻呂歌集の歌を通じて人麻呂の年譜を考察したものです。このために、普段に行われる人麻呂の歌の解釈・解説からは非常に特異であり、非学問なものになっています。所謂、トンデモ研究と分類されるものの位置にあります。この人麻呂歌集の歌からの人麻呂の年譜に対する考察の位置付けを確認して頂き、ここでは「職業人としての柿本人麻呂」と題したメモ書きの帰結から導き出せる天智五年(666)頃から和銅元年(708)頃までの、作歌年代が推定できると思われる柿本人麻呂の代表的な歌を鑑賞し、それを年代順に人麻呂の年譜として配置していきます。
 ここで、人麻呂歌集の歌からの人麻呂の年譜に対する考察の基となる「職業人としての柿本人麻呂」と題したメモ書きの概要を説明しますと、人麻呂は大和朝廷系の銅の製錬や鋳造に関わる氏族である柿本臣の一員として、若い時代は畿内や長門国で探鉱に従事し、ある時期以降は官営装飾工房や鋳銭所の責任者であったと推定しています。また、柿本臣佐留の字名又は仮名が人麻呂であったと推論しています。つまり、官が管理する本系図に載る本名となる諱は猿(良字で佐留)、字名が人麻呂で、最終官位・官職が従四位下前長門国守柿本朝臣佐留として和銅元年三月十八日に長門国阿武郡の沖合で奈良の京に戻る途中に海難事故で死亡したと推論しています。
 その「職業人としての柿本人麻呂」と題したメモ書きにおいて、柿本朝臣人麻呂は字名で、諱は柿本朝臣猿(良字で佐留)と推定しました。この推定を下に、柿本朝臣猿が天武十年(681)十二月に小錦下の位を授けられている史実を基準年として人麻呂の年譜を推定します。奈良時代の従五位下の官位は、天武天皇の時代の小錦下に相当します。記録が増える奈良時代での従五位下に叙官位される一般的な年齢を参考に、柿本朝臣猿=人麻呂の小錦下への叙官位を三十五歳と仮定しますと、小錦下に叙官位された天武十年(681)から柿本人麻呂は大化二年(646)頃の生まれとなります。ここを「柿本人麻呂歌集から人麻呂年譜を推理する」での出発点とします。
 なお、題に「おっちゃんの万葉集」と付けていますように、ここでのものは学問ではありません。酒のつまみでの「小話」として楽しんでいただけたら幸いです。


偶然の出会いと石上神社の初恋
天智五年(666)夏頃 人麻呂 二十歳、隠れ妻 十三歳

 人麻呂歌集の歌の中で辿れる最初の歌として人麻呂の初恋の歌を取り上げます。その人麻呂の初恋は、人麻呂歌集の歌などから推測される彼の年譜から逆算すると天智五年頃と推定され、先の生年推定から人麻呂が二十歳頃の出来事となります。その人麻呂が恋した相手は、所謂、軽の里の妻、又は、隠れ妻と呼ばれる女性です。人麻呂が恋した時、隠れ妻は人麻呂歌集の歌から推測して、まだ、初潮を迎えていない少女ですが、二十歳ほどの男が恋をする姿から隠れ妻のその時の年齢を十三歳と考えます。

集歌501 未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者
訓読 未通女等(をとめら)の袖布留山の瑞垣(みずかき)の久しき時ゆ思ひき吾は

私訳 処女たちが神寄せの袖を振る布留山の瑞垣の久しい時よ。昔を思い出したよ。私は。


参考歌
集歌2415 處女等乎 袖振山 水垣乃 久時由 念来吾等者
訓読 処女(をとめ)らを袖(そで)布留山(ふるやま)の瑞垣(みづかき)の久しき時ゆ思ひけり吾は


 人麻呂は、石上神社の夏の祭礼で一人の少女を見初めたようです。そのときの情景を、人麻呂は生涯忘れることがなく、その初恋の想いのままで、一生涯、愛したようです。その想いの回想の歌が集歌501の歌です。この情景が、彼の初恋の情景と考えます。専門家による歌の解説によると、集歌501の歌は、最初に集歌2415の歌があり、推敲して集歌501の歌になったと推測されていて、これらの歌は共に隠れ妻が亡くなった後の大宝年間の歌と考えられます。ただ、作歌時と実際の出来事との時代は違うのですが、この歌からは人麻呂と隠れ妻の最初の出会いが推測できる歌だと考えます。そして、実際に出会ったばかりの歌は、次に紹介する歌と考えます。
 なお、隠れ妻がまだ幼い時代は、人麻呂が人麻呂自身に詠った歌と、人麻呂が隠れ妻に贈った歌の表記は同一ではないと考えます。つまり、幼い隠れ妻への歌は、外見では隠れ妻への贈呈歌ですが、その実態は保護者への贈呈歌になりますから、それなりの教養を見せる必要があったと考えます。そのため、人麻呂が創る贈る歌は漢詩体の形式を持つ漢化和文の和歌です。ここで、歌の表記法における略体歌・非略体歌・常体歌分類からの時代性の解説は木簡発掘により破綻していますので、表記法による時代区分は採用しません。略体歌・非略体歌・常体歌・万葉仮名歌の表記分類は、作歌時の場面、読み手の立場、発表する場等に依存すると考えています。

集歌2449 香山尓 雲位桁曵 於保々思久 相見子等乎 後戀牟鴨
訓読 香具山(かぐやま)に雲居たなびきおほほしく相見し子らを後(のち)恋ひむかも

私訳 香具山に霧雲が立ち込めたように、ぼんやりとお互いに出会ったあの子をこれからも恋するのでしょうか。


集歌2450 雲間従 狭月乃 於保々思久 相見子等乎 見因鴨
訓読 雲間よりさ渡る月の鬱(おほほ)しく相見し子らを見むよしもがも

私訳 雲の間から時より顔を見せる月のようにぼんやりと、互いに出会ったあの子にもう一度会う機会が欲しい。


集歌2396 玉坂 吾見人 何有 依以 亦一目見
訓読 たまさかに吾(わ)が見し人を如何(いか)ならむ縁(よし)をもちてかまた一目見む

私訳 美しい坂、その偶然に私が見知った人を、どのような縁があって、もう一度逢うことができるでしょうか。
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竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その24 特別篇その二

2009年05月27日 | 万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する
竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その24 特別篇その二
中臣宅守の「花鳥に寄せて思ひを陳べる」の歌

中臣宅守は、古今和歌集の仮名序の中で姦淫の罪で罰を受けたとの理解で「色を好む家」と比喩され、また同時に「花鳥に寄せて思ひを陳べる」歌の作者です。
先にこの中臣宅守の履歴を紹介すると、中臣意美麻呂の孫、中臣東人の子で、親族の叔父に右大臣中臣清麻呂がいます。中臣宅守は、天平十一年(739)三月頃に皇后の病気治癒を願う物忌みの時期に犯した姦淫の罪で罰を受け、越前国への近国流刑を受けたとみなされています。翌十二年六月の大赦では同じ姦淫の罪で遠流刑を受けた石上朝臣乙麻呂と同様に特別に詔があって大赦の放免リストから外されていますが、天平十三年九月の恭仁京遷都に伴う大赦で、やっと許されて京に戻ってきたようです。その後に、天平宝字七年(763)正月に従六位上から従五位下に昇任し、神祇大副の官位相当の大夫の格の身分となっています。中臣氏系図によると天平宝字八年に恵美押勝の乱に連座し除名されたことになっているようです。
一方、本家の大中臣系図では最終官位が天平宝字七年の従五位下から二階級ほど順調に昇階して、孝謙天皇侍従で正五位下への叙任となっているようです。ここに、すこし、伝承に乱れがあるようです。つまり、歴史的には判ったような、判らないような人物です。しかし、和歌の歴史では中臣宅守は重要な位置を占めていて、後の伊勢物語に通じる位置にあります。
さて、次の歌は古今和歌集の仮名序の一文にも影響する重要な「花鳥に寄せて思ひを陳べる」の歌です。これらの歌々は、天平宝字元年(757)の「橘奈良麻呂の変」で正四位下右大弁である橘奈良麻呂たちが藤原仲麻呂一派によって殺され、孝謙天皇を廃し藤原仲麻呂の子飼いである大炊王を傀儡の淳仁天皇として皇位につけた事件の時に詠われた歌です。この「橘奈良麻呂の変」は、その首謀者達が孝謙天皇の処罰の裁可を受ける前に全員が藤原仲麻呂たちの手によって拷問死したり、孝謙天皇や大炊王とはまったく関係の無い十年前の聖武天皇の時の話を持ち出して来て、この事件の首謀者とするような歴史でも稀な事件です。
この事件の時に、万葉集の編纂者の丹比国人は十年前の聖武天皇御幸の夜の雑談が謀反とされて、伊豆国への流刑です。古今和歌集の仮名序で示す「色好みの家に埋れ 貴の人知れぬこととなりて」の言葉のように万葉集に関わる人々が退けられ、宮廷文学は漢詩・漢文の世界に遷っていきます。

 なお、これらの「花鳥に寄せて思ひを陳べる」の歌を目録により中臣宅守の狭野弟上娘子へ与える贈答歌の一部として扱う向きもありますが、それは間違いです。中臣宅守の狭野弟上娘子へ与える贈答歌は、万葉集歌番3723から歌番3778の弟上娘子の歌までの五十六首です。つまり、後年に付けられた目録と本来の本文の標が同じとは限りません。
以下に示すこれら歌々の花橘や霍公鳥の言葉には、万葉集の編纂に深く関わる橘諸兄・奈良麻呂親子への寓意と蜀魂伝説の望帝杜宇の故事がありますので、それを取り入れて私訳と一部に想いを込めた呆れた訳を試みます。
 それでは、これらの前説を下に歌をお楽しみください。

集歌3779 和我夜度乃 波奈多知婆奈波 伊多都良尓 知利可須具良牟 見流比等奈思尓
訓読 吾(わ)が屋戸の花橘はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なしに
私訳 我が家の花橘は空しく散りすぎて逝くのだろうか。見る人もなくて。
呆訳 私が尊敬する万葉集と橘家の人々は空しく散っていくのだろうか、思い出す人もいなくて。

集歌3780 古非之奈婆 古非毛之祢等也 保等登藝須 毛能毛布等伎尓 伎奈吉等余牟流
訓読 恋死なば恋ひも死ねとや霍公鳥物思ふ時に来鳴き響(とよ)むる
私訳 恋が死ぬのなら恋う心も死ねと云うのか、霍公鳥は物思いするときに来鳴きてその鳴き声を響かせる
呆訳 和歌が死ぬのなら和歌を慕う気持ちも死ねと云うのか。過去を乞う霍公鳥は私が和歌を思って物思いにふけるときに、その過ぎ去った過去を求める鳴き声を響かせる

集歌3781 多婢尓之弖 毛能毛布等吉尓 保等登藝須 毛等奈那難吉曽 安我古非麻左流
訓読 たひにして物思ふ時に霍公鳥もとなな鳴きそ吾(あ)が恋まさる
私訳 たひにして物思いするときに、霍公鳥よ、本なしに鳴くな。私の恋う気持ちがましてくる
呆訳 多くの歌の牌の万葉集を思って物思いするときに、霍公鳥よ、頼りなくに過去を乞うて鳴くな。私の和歌を慕う気持ちが増してくる
説明 旅の「たひ」の場合、万葉仮名では主に多比か多妣の用字を使います。それが多婢の用字です。私は「多牌」の字が欲しかったのだと想っています。また、集歌3781と集歌3783との歌の設定は、自宅の風景が目にあります。旅の宿ではありません。それに左注に「寄花鳥陳思」とあるように、娘女への贈答にはなっていません。

集歌3782 安麻其毛理 毛能母布等伎尓 保等登藝須 和我須武佐刀尓 伎奈伎等余母須
訓読 雨隠(あまごも)り物思ふ時に霍公鳥我が住む里に来鳴き響(とよ)もす
私訳 雨で家にこもって物思いするときに、霍公鳥が私の住む里に来鳴きてその鳴き声を響かせる
呆訳 雨の日に家にこもって物思いするときに、霍公鳥が私の住む里に来鳴きて、その過去を乞う鳴き声を私の心の中に響かせる

集歌3783 多婢尓之弖 伊毛尓古布礼婆 保登等伎須 和我須武佐刀尓 許欲奈伎和多流
訓読 たひにして妹に恋ふれば霍公鳥我が住む里にこよ鳴き渡る
私訳 たひにあってあの人を恋しく思うと、霍公鳥が私の住む里にやって来て鳴き渡っていく
呆訳 多くの歌の牌を編纂した万葉集を恋しく思うと、あの人が霍公鳥の姿に身を変えて私の住む里にやって来て過去を乞うて鳴き渡っていく

集歌3784 許己呂奈伎 登里尓曽安利家流 保登等藝須 毛能毛布等伎尓 奈久倍吉毛能可
訓読 心なき鳥にぞありける霍公鳥物思ふ時に鳴くべきものか
私訳 無常な鳥だよなあ、霍公鳥は。私が物思いするときに鳴くだけだろうか

集歌3785 保登等藝須 安比太之麻思於家 奈我奈氣婆 安我毛布許己呂 伊多母須敝奈之
訓読 霍公鳥間(あひだ)しまし置け汝(な)が鳴けば吾(あ)が思(も)ふ心いたも術(すべ)なし
私訳 霍公鳥よ、しばらく鳴くのに間を置け。お前が鳴くと私が物思う心はどうしようもなくなってします。

右七首、中臣朝臣宅守寄花鳥陳思作歌
注訓 右の七首は、中臣朝臣宅守の花鳥に寄せ思(おもひ)を陳(の)べて作れる歌

紀貫之は、「万葉集の目録」を作ったほどの古今の歴史を通じて万葉集研究の第一人者です。その紀貫之が書いた古今和歌集の仮名序は、この中臣宅守の心と天平宝字元年の橘奈良麻呂の変の真実を知らなければ、それを理解したとは云えません。この「色好みの家」を単に女好きと理解していたら、貴方は紀貫之が意図した通りの立派な藤原貴族で、藤原定家の世界の人です。
もし、「色好みの家」を中臣宅守と理解したら、貴方の心は源氏、清原氏、紀氏系のはぶれ貴族です。はぶれ貴族の和歌への思い入れは、古来からの神聖な儀式における天皇の御製や奉呈歌があるべき姿で、その捧呈歌を儀礼において択ばれて誉れ高く詠い挙げたいのがはぶれ貴族の切望です。壬生忠岑が詠う「人麿こそはうれしけれ、身は下ながら言の葉を、天つ空まで聞こえ上げ」の姿です。藤原氏ではない柿本氏の、そのはぶれ貴族の人麻呂が捧呈歌を誉れ高く詠い挙げたのが、うらやましいのです。これが、本来の仮名序の世界と思います。なお、もじると中臣宅守は「中臣が宅を守る」とも、読むことが出来ます。

資料-A
古今和歌集 仮名序抜粋
今の世中いろにつき人のこころ花になりにけるよりあだなるうたはかなきことのみいでくればいろごのみのいへにむもれきの人しれぬこととなりてまめなるところには花すすきほにいだすべきことにもあらずなりにたり

仮名序抜粋の試みの読み下し文
今の世の中 色につき 人の心花になりにけるより あだなる詩 はかなき事のみ出でくれば色好みの家に埋れ 貴の人知れぬこととなりて、まめなるところには花すすき穂にいだすべきことにもあらずなりにたり

現代語私訳
今の世の中は欲望に染まり、人の心は花を愛でる風流人になるより、仇なる漢詩やつまらない事ばかりが流行るので、大和歌の心は姦淫の罪の中臣朝臣宅守が歌う「花鳥に寄せ思いを陳べて作れる歌」の時に時代の中に埋もれてしまい、高貴の人が大和歌を知らないようになってしまって、改まった儀式には元正太上天皇の時のように「すすきの尾花」のような御製を少しでもお作りになることもなくなってしまった。

説明 「すすきの尾花」
太上天皇御製謌一首
標訓 (元正)太上天皇の御製歌(おほみうた)一首
集歌1637 波太須珠寸 尾花逆葺 黒木用 造有室者 迄萬代
訓読 はた薄(すすき)尾花(おばな)逆葺(さかふ)き黒木(くろき)もち造れる室(むろ)は万代(よろづよ)までに
私訳 風に靡くすすきの尾花の穂を表に下から上に逆さに葺き黒木で造った大嘗宮の室は、永遠であれ。

資料-B
仮名序抜粋に呼応する真名序の抜粋
及彼時、変澆漓、人貴奢淫、浮詞雲興、艶流泉涌。其実皆落、其華孤栄。至有好色之家、以此為花鳥之使。

真名序抜粋の訓読
かの時に及び、澆漓(きょうり)に変じ、人は奢淫(しゃいん)を貴び、浮詞(ふし)は雲のごとく興り、艶の流れは泉のごとく涌く。その実(じつ)は皆落(お)ち、その華ひとり栄えむ。至りて色を好む家有り、もってこのために花鳥の使ひとなす。

現代語私訳
平城の天子であられる聖武天皇の時代から、徳と信は衰え、人は豪奢と淫行を好み、浮ついた漢詩は雲が湧き上がるように興り、色恋への風潮は泉のように湧き上がった。その漢詩は堕落しきり、仏の華のみが独り栄えた。中臣朝臣宅守の時代に至って、橘奈良麻呂の変の故を以って花鳥の歌を秘密の通信とした。

説明 御在所からの「平城の天子」は諱では聖武天皇のことを示し、諱で平城天皇は「奈良の御門」を示します。諱で平城天皇のことを「平城の天子」とする表現は、奈良・平安期では不敬のため行われない表現方法です。普段の古典では、「口にするのも憚れる、言葉でいうのも畏れ多い。」として御在所などから、高貴な御方の尊称とします。

正統な古典文学の解釈
資料-Aの仮名序抜粋の読み下し文
今の世の中、色につき、人の心花になりにけるより、あだなる歌、はかなき言のみいでくれば、色好みの家に、埋れ木の人知れぬこととなりて、まめなる所には花すすきほにいだすべきことにもあらずなりにたり。

現代語訳 古今和歌集 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫より
しかし、今の世の中は、昔の真実を重んじた時代とは異なって派手になり、、人の心は華美になったため、歌もそれにしたがって、浮いた実のない歌、軽い、かりそめの歌のみが現れてくるので、好色な人の家に、埋れ木のように人には知られず、ひそかにもてあそばれるものとなって、改まった公の場所には、おもて立って出せるものでもなくなってしまった。
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