竹取翁と万葉集のお勉強

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竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その15

2009年04月30日 | 万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する
竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その15

原文 稲寸丁女蚊 妻問迹
訓読 否(いな)き娘子(をとめ)か 妻問ふに(15)
私訳 求婚を拒む娘女だろうか 夜に娘女の許を訪れているのに

歌に二人の男の求婚に板挟みになった娘女の姿を見ています。一方、万葉集には、女の許を夜這った後で二人の男がその女を争って、女が恋の板挟みのために死んだ歌は二首あります。それが、菟原処女墓歌と葦屋処女墓歌です。その歌で女の許に夜這ふ「妻問ひ」の表記は、集歌1809の高橋連虫麻呂の菟原処女墓歌は「須酒師競相結婚」の表記ですが、田辺福麻呂の葦屋処女墓歌は「各競妻問為祁牟」です。そこで、歌の「妻問」と同じ表記で集歌1801の歌を選んでいます。

(田辺福麻呂歌集)
過葦屋處女墓時作謌一首并短謌
標訓 葦屋の処女の墓を過ぎし時に作れる歌一首并せて短歌
集歌1801 古之 益荒丁子 各競 妻問為祁牟 葦屋乃 菟名日處女乃 奥城矣 吾立見者 永世乃 語尓為乍 後人 偲尓世武等 玉桙乃 道邊近 磐構 作冢矣 天雲乃 退部乃限 此道矣 去人毎 行因 射立嘆日 或人者 啼尓毛哭乍 語嗣 偲継来 處女等賀 奥城所 吾并 見者悲喪 古思者
訓読 古(いにしへ)の 健(ますら)壮士(をとこ)の 相競(きほ)ひ 妻問ひしけむ 葦屋(あしのや)の 菟原(うなひ)処女(をとめ)の 奥城(おくつき)を 我が立ち見れば 永(なが)き世の 語りにしつつ 後人(のちひと)の 偲(しの)ひにせむと 玉桙の 道の辺(へ)近く 磐構(いわかま)へ 作れる塚を 天雲の そくへの限(かぎ)り この道を 去(い)く人ごとに 行きよりて い立ち嘆かひ ある人は 啼(な)くにも哭(ね)つつ 語り継ぎ 偲(しの)ひ継ぎくる 処女(をとめ)らが 奥城処(おくつきところ) 吾さへに 見れば悲しも 古(いにしへ)思へば
私訳 いにしえに 男達が競って求婚したという 葦屋の 菟原娘子の 墓の前に 立ってみると いついつまでも 後の世に語り伝え 偲ぼうと 道の傍らに 岩を組んで造った塚は 天雲のたなびく果てまで 知れ渡り この道を行く人は みな寄り道をして訪れ 立ちどまって嘆き なかには 声をあげて泣く里人もいたりして 語り継ぎ 偲び継いで来た あの乙女の墓所の前に立つと わたしも悲しさが こみ上げてくる

反謌
集歌1802 古乃 小竹田丁子乃 妻問石 菟會處女乃 奥城叙此
訓読 古(いにしへ)の小竹田(しのだ)壮士(をとこ)の妻問ひし菟原(うなひ)処女(をとめ)の奥城(おくつき)ぞこれ
私訳 昔に小竹田の壮士が妻問ひした菟原処女の墓がこれだ

集歌1803 語継 可良仁文幾許 戀布矣 直目尓見兼 古丁子
訓読 語り継ぐからにもここだ恋しきを直目(ただめ)に見けむ古(いにしへ)壮士(をとこ)
私訳 語り継ぐだけなのだが、ひどく菟原処女が恋しいのに、それを直接に菟原処女に会った昔の男たちよ

この田辺福麻呂は、大伴家持の天平二十一年三月二十三日の日記に「左大臣橘家の使者、造酒司令史田辺史福麿を、守大伴宿禰家持が館に饗す。ここに新歌を作り、また古詠を誦ひて、各心緒を述ぶ」の記録がありますが、唯一、この記事と云うぐらいに人物の不明な人です。万葉集には「田辺福麻呂之歌集」から採歌された歌がありますから、天平年間後半に田辺福麻呂は和歌集を編んだようです。
大伴家持の日記の記事からは、左大臣橘諸兄から越中国守の大伴家持へ田辺福麻呂が使者に立ったようですが、公務か私的な使いか、解釈の難しいところです。田辺福麻呂は造酒司令史の八位相当官の官位を持った役人です。個人的な使いで一月くらいの休暇を取ったのでしょう。それとも、準公務だったのでしょうか。
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竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その14

2009年04月29日 | 万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する
竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その14

原文 為支屋所經
訓読 醜屋(しきや)に経(ふ)る(14)
私訳 粗末な小屋で時が過ぎて行って

竹取翁の長歌の一節「醜屋に経る」を「粗末な小屋で時が過ぎて行って」と解釈して、巻十三に載る集歌3270の歌を導き出しました。集歌3270の歌は「し」の音を集めた宴会での「音」の遊びの歌です。そして、返歌は「わ」の音です。
さて、集歌3270の歌の「醜の醜手を」をつまらない男の手と解釈するか、丈夫な立派な男の手と解釈するか二通りありますが、古事記と同じ解釈で丈夫な立派な男の手と解釈してます。自分の小屋に日中に恋人を引き込んだ男が、その強引さに女に振られた景色を見ています。普段の解説のように「醜の醜手を」をつまらない男の手と解釈して、女の嫉妬の歌とは解釈していません。随分に景色が違いますが、私のは大国主命を古事記では葦原色許男神、日本書紀では葦原醜男と云う世界と同じです。「恐ろしく強い」、「頑丈な」のような意味合いです。

(読み人知れず)
集歌3270 刺将焼 小屋之四忌屋尓 掻将棄 破薦乎敷而 所掻将折 鬼之四忌手乎 指易而 将宿君故 赤根刺 晝者終尓 野干玉之 夜者須柄尓 此床乃 比師跡鳴左右 嘆鶴鴨
訓読 さし焼かむ 小屋(をや)の醜屋(しきや)に かき棄(う)てむ 破薦(やれこも)を敷(し)きて 掻し折らむ 醜(しこ)の醜手(しきて)を さし交(か)へし 宿(しき)ます君ゆゑ 茜(あかね)さす 昼は終(しめら)に ぬばたまの 夜(よひ)は過(し)がらに この床の ひしと鳴きさふ 嘆きつるかも
私訳 焼き払ってしまいたい小屋のみすぼらしい家に、掻き集めて棄ててしまいたいような粗末な薦を敷いて、貴女を掻き寄せ押し伏せて、頑丈な男の手を差し交わし、共寝をした貴女のために、茜色の日のさす日中は一日中、夜は夜通しに、この寝台をぎしぎしと音をさせて、逢いたくて嘆いたことよ。

集歌3271 我情 焼毛吾有 愛八師 君尓戀毛 我之心柄
訓読 我(わ)が情(こころ)焼くも吾(わ)れなり愛(は)しきやし君に恋ふるも我(わ)の心から
私訳 自分の心を焼き焦がすのも元は自分にある、愛しいあなたに恋するもの自分の気持ちから

この集歌3270の歌は、長歌を紹介するために編まれた巻のような巻十三に載る歌です。巻十三に載る全百二十七首の内の六十六首が長歌で、残りの六十一首は付属の反歌です。つまり、巻十三は万葉集の中でも長歌のためにあるような特殊な位置にあります。
では、この歌はいったいその巻十三の中でどのような位置にあるのでしょうか。同じ巻十三にある人麻呂歌集の歌は、概ね肆宴(とよのほあかり)での寿詞と思われますから、何らかの宮中に残った歌なのでしょうか。

集歌3253 葦原 水穂國者 神在随 事擧不為國 雖然 辞擧叙吾為 言幸 真福座跡 恙無 福座者 荒礒浪 有毛見登 百重波 千重浪尓敷 言上為吾 言上為吾
訓読 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 事挙げせぬ国 しかれども 辞挙げぞ吾がする 言幸(さき)く ま幸(さき)くませと 障(つつ)みなく 幸くいまさば 荒礒(ありそ)波(なみ) ありても見むと 百重(ももへ)波(なみ) 千重(ちへ)波(なみ)しきに 言上げす吾れは 言上げす吾れは
私訳 天皇が治める葦原の瑞穂の国は地上の神々が気ままに人民に指図しない国です。しかし、私はその神々にお願いをする。その神々に誓約する。この国が繁栄しますようにと。そして何事もなく繁栄しているのなら、荒磯に常に波が打ち寄せるように百回も、千回も、私は神々に誓約します。私は神々に誓約します。

反歌
集歌3254 志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具
訓読 磯城島の大和の国は事霊(ことたま)の佐(たす)くる国ぞま幸(さき)くありこそ
私訳 天皇の志の貴い磯城島の大和の国は地上の神々が天皇を補佐する国です。きっと、繁栄するはずだ。

 参考として、飛鳥奈良時代の万葉集の歌やその頃成立したとされる延喜式に載る祝詞は、「言」、「辞」と「事」は同じ「こと」と読みますが、それぞれ意味が違います。同様に「言」、「云」と「謂」は同じ「いう」と読みますが、その意味合いは同じではありません。「言」の字は特別に神との契約のような約束や神である天皇の行為です。普段の万葉集の解説で、「言」、「辞」と「事」の字を混同したり、「言」、「云」と「謂」の字を混同するものもありますが、それは万葉時代の用法ではありませんし意味や解釈が異なります。
集歌3253の歌が宮中での寿詞としての厳密な「言」、「辞」と「事」の用字の使い分けとすると、集歌3270は軽みの言葉の使い分けでしょうか。「醜」を意味する「四忌屋」と「四忌手」での「四忌」の意味が違います。新しく「みすぼらしい」の意味と古風に「恐ろしく強い」の意味があります。
集歌3270の歌は、長忌寸奥麻呂が詠うような言葉に軽みを持つ、宮中の何かの宴会での「しき」や「し」の音を集めた言葉遊びの歌なのでしょうか。
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竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その13

2009年04月28日 | 万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する
竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その13

原文 信巾裳成 者之寸丹取
訓読 食薦(しきむも)なす 脛裳(はばき)に取らし(13)
私訳 食薦を敷いて、裾を巻く脛裳を外して

脛裳は脛巾裳(はばきも)とも書いて、男性ではゲートルのように袴の裾を纏めるものです。行騰(むかばき)と同じもので、律令の規定では脛裳を使用するのは六位以下の官人です。脛巾や行纏とも書いて同じように「はばき」と読みます。ここで、対象とする万葉集の歌は集歌3825の歌ですが、八首が組みの歌ですので八首を解説した後で、最後にこの歌との説明をします。

長忌寸意吉麻呂謌八首
標訓 長忌寸意吉麻呂の歌八首
集歌3824 刺名倍尓 湯和可世子等 櫟津乃 桧橋従来許武 狐尓安牟佐武
訓読 さし鍋に湯沸かせ勢子ども櫟津(いちひつ)の桧橋(ひばし)より来こむ狐(きつね)に浴(あ)むさむ
私訳 さし鍋に湯を沸かせ、勢子たち。櫟津の桧橋から来る狐に湯を浴びせかけてやろう。
右一首傳云、一時衆集宴飲也。於時夜漏三更、所聞狐聲。尓乃衆諸誘奥麻呂曰、關此饌具雜器狐聲河橋等物、但作謌者。即應聲作此謌也。
注訓 右の一首は伝へて云はく、一時(あるとき)に衆(もろもろ)集ひて宴飲(うたげ)しき。時に夜漏三更(さよなか)にして、狐の声聞ゆ。すなわち衆諸(もろひと)が奥麻呂を誘ひて曰はく、此の饌(せん)具(ぐ)、雜器、狐の声、河、橋等の物に関けて、ただ歌を作れといひき。すなわち声に応(こた)へて此歌を作りきといふ。
解説 さし鍋に火鉢(ひばち)と火箸(ひはし)、さらに桧橋(ひばし)。櫟津(いちひつ)と櫃(ひつ)、「コム」と鳴く狐と来(こ)む、浴(あ)むと遭(あ)ふ。の言葉遊びを楽しんでください。また、場合によっては、この宴会に「湯和可世子等」の用字から「世子」に相当する貴族の子弟で長男の人物がいたかもしれません。当然、同じ音ですが召使いの「勢子」と貴族の子弟である「世子」では雲泥の差があります。


詠行騰蔓菁食薦屋梁謌
標訓 行騰(むかばき)、蔓菁(あをな)、食薦(すこも)、屋梁(やのうつはり)を詠める歌
集歌3825 食薦敷 蔓菁煮将来 梁尓 行騰懸而 息此公
訓読 食薦(すこも)敷(し)き青菜(あをな)煮持ち来(こ)む梁(うつはり)に行縢(むかばき)懸(か)けて息(おき)しこの君
私訳 食事の食薦を敷いて、少しだけ青菜を煮て持って来い。あそこで梁(うつはり)に行縢(むかばき)を懸(か)けて寝ている奴に。
解説 宴会の途中で寝てしまった人物に対するからかいと、宴会で目にした物の羅列を楽しんでください。なお、「息此公」の「息」は「おき」と読みますから、「懸」と「息」は、声に出して歌を詠う時に「かける」と「おく」という動作で同じ意味を想像させます。また、「息此公」は「おきしこのきみ」の音読みでは、男は起きているようですが、漢字表記では寝ています。これは原文だけでの面白みです。これを「息(やす)みし」と読んでは面白みがありません。

詠荷葉謌
標訓 荷葉(はちすは)を詠める歌
集歌3826 蓮葉者 如是許曽有物 意吉麻呂之 家在物者 宇毛乃葉尓有之
訓読 蓮葉(はちすは)はかくこそあるもの意吉麿(おきまろ)が家なるものは芋(うも)の葉に在(あ)らし
私訳 蓮の葉に乗る仏像はこのように貴くあるべきでしょう。意吉麿の家にある蓮の葉に乗る仏像は里芋の葉に乗ったようなものです。
解説 集歌3837の左注からも宴会での干物を載せた蓮の葉の器からの発想の歌と思いますが、ここでは集歌3828の歌から仏塔のそばで宴会をしているようですから蓮の葉の上に載る仏像を想像しています。当時、役人の家には必ず仏像を安置するようにとの命令が出ていますから、「芋の葉に在らし」と蓮の葉の上に載るものの比較での歌です。芋から妹と読み替えての妻の比較までは、いってはいないと思います。

詠雙六頭謌
標訓 双六の頭(さへ)を詠める歌
集歌3827 一二之 目耳不有 五六 三四佐倍有来 雙六乃佐叡
訓読 一二(ひとふた)の目のみにあらず五六(いろく)三四(みし)さへありける双六の采(さえ)
私訳 出目を見るのは人の二つの目だけではない。深く瞑想の境地にある弥勒菩薩も興味一杯で見たであろう双六のサイコロの出目よ。
解説 宴会の脇で、双六賭博をしているのでしょう。この歌は、それを見ての歌です。サイコロの目を全部詠み込んだ歌ですが、それに人だけでなく深く瞑想の境地にある弥勒菩薩さえも、サイコロの出目に興味があると詠ったのが面白みです。双六のサイコロは二個ですから、出目は二から十二です。一から六では双六の出目にはなりませんので、普段の目にする意訳ではもうひとひねり足りないと思っています。当然、「佐倍」の「さへ」の意味には、「博打での冴え」と「○○さえある」の両方の意味合いがあります。少し、訛りました。


詠香塔厠屎鮒奴謌
標訓 香、塔、厠、屎、鮒、奴(やつこ)を詠める歌
集歌3828 香塗流 塔尓莫依 川隈乃 屎鮒喫有 痛女奴
訓読 香(こり)塗(ぬ)れる塔(たふ)にな寄りそ川隈(かはくま)の屎鮒(くそふな)食(は)めるいたき女(め)奴(やつこ)
私訳 好い匂いのする香を塗った貴い仏塔には近寄るな。川の曲がりにある厠から流れる屎を餌に育った鮒でつくった鮒寿司を食べた臭いがきつい女の召使よ。
解説 高貴で好い匂いがするものと、忌避するような嫌な臭いがするものとの対比を楽しんでください。なお、仏教的には女性は仏閣には近寄ってはいけないことになっています。「痛女奴」は、私はきつい裾腋臭のような意味合いではないと理解してます。


詠酢醤蒜鯛水葱謌
標訓 酢、醤(ひしほ)、蒜(ひる)、鯛、水葱(なぎ)を詠める歌
集歌3829 醤酢尓 蒜都伎合而 鯛願 吾尓勿所見 水葱乃煮物
訓読 醤酢(ひしはす)に蒜(ひる)搗(つ)きかてて鯛願ふ我れにな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)
私訳 醤と酢に蒜を混ぜ合わせて鯛で作ったご馳走を食べたいと空想しているのだから、私の目の前に現実に引き戻すような水葱の煮物を持って来るな。
解説 空想での食べたいご馳走と現実に食べている食事のギャップを楽しんでください。


詠玉掃鎌天木香棗謌
標訓 玉掃(たまははき)、鎌、天木香(むろのき)、棗を詠める歌
集歌3830 玉掃 苅来鎌麻呂 室乃樹與棗 本可吉将掃為
訓読 玉掃(たまはき)刈り来(こ)鎌(かま)麿(まろ)室(むろ)の木と棗(なつめ)が本とかき掃(は)かむため
私訳 神聖な玉掃をつくる玉掃の草を鎌で刈り採って来い、そこにいる鎌麿よ。庭の室と棗の木の下を掃除をしたいから。
解説 神事で使用する掃除用具のシンボルとしての高貴な玉掃と実用品の掃除用具の対比と、鎌のあだ名をもつ鎌麿がたまたま宴会にいたようです。この対比と言葉遊びを楽しんでください。

詠白鷺啄木飛謌
標訓 白鷺の木を啄(くは)ひて飛ぶを詠める歌
集歌3831 池神 力土舞可母 白鷺乃 桙啄持而 飛渡良武
訓読 池(いけ)神(がみ)の力士(りきし)舞(まひ)かも白鷺の桙(ほこ)啄(く)ひ持ちて飛び渡るらむ
私訳 池神の寺で演ずる男女の力士舞なのだろうか。白鷺が桙で切り落としたものをくわえて飛び渡っていくように、女が男を外へ連れ出しているよ。
解説 力士舞の力士とは金剛力士のこととされ、その力士舞とは美女の呉女を襲う外道の崑崙(こんろん)退治して、その男根を金剛力士が鉾で切り落とし舞う、伎楽の一つです。したがって、力士は仏を守る十二神将の一人を示すことになりますから、池神は寺の所在地ですので、当時の地名で池神、現在の地名で田原本町にあった法起寺のことを示します。現在は池坐朝霧黄幡比売神社と姿が変っていますが、この歌が詠われた当時は大和地方有数の大寺です。
ここで、白鷺を女性の比喩とすると、伎楽の力士舞の演目から「桙啄ひ持ちて」の言葉に女性が男根を持って行く意味合いが生じます。つまり、力士舞の風景とは逆に女性が男性を誘惑して連れ出している風情になります。それで、白鷺が「桙啄持而」しなければいけないのでしょう。酒の乱れの上でのことですが、皆が二人の行動を知っているような雰囲気です。宴会では、この歌の後で二人を指差して笑うような雰囲気です。少し、下世話な話ですが、「後家が男を銜え込む」世界です。


 長忌寸奥麻呂は、万葉集の中でも飛び切り異才を放つ歌人です。長忌寸奥麻呂は、奥麿や意吉麻呂とも表記され、その名前は「ながのいみきおきまろ」と発音するようですが、人物そのものについては不明の人です。なお、長忌寸の「長」を「なか」と読み、「那珂忌寸」と読み替えて、紀伊国那珂郡の人とする説もありますが、実際のところは、一切が不明です。この語呂合わせの発想ですと、人麻呂の歌に出て来る讃岐国那珂川流域の人でも良くなりますし、讃岐国那珂川流域の人とした場合、一世代後になりますが同郷のひとが弘法大師ですので、語呂合わせなら讃岐国も棄てがたいと思います。
 この長忌寸奥麻呂について推定できる最初の作歌活動が持統四年(690)の紀伊国の御幸で、最後が大宝二年(702)十月の持統太上天皇の伊勢・三河国への御幸での捧呈歌です。詔に応じて歌を献上する立場を考えると、持統四年の時点で三十歳を過ぎていたと思われます。しかし、歌の特徴から精神は若いと推定されますので、持統四年の段階では老人ではないでしょう。
さて、長忌寸奥麻呂の歌は、瞬発力が特徴です。その場、その場の状況に合わせ、巧みに言葉遊びを取り入れて歌を詠っています。人麻呂が歌を表現する漢字一字一字を慎重に選んですべての文字に意味を持たせた世界とは違い、奥麻呂は音を基調にした大和言葉の同音異義語の言葉遊びの世界があります。そして、この歌のスタイルは、後世の連歌、狂歌、能・狂言に繋がる、大切なものです。

ここで、紹介した奥麻呂の歌八首は、非常に特異な歌々です。物や事柄を読み込んだ即興の歌ですが、山上憶良の秋の七草の歌とは少し趣が違います。同僚と酒を飲みながらの宴会での即興歌です。それも、宴会の場所には、火鉢には酒を煮るさし鍋が掛けてあるし、屋根の梁には日頃は使わない道中着が掛けてあったりしてますから、下級の役人がたむろするような場所での夜通しの酒宴です。酒を飲む横では双六博打をするような雑多の場です。そして、最後には宴会での女性と男性が二人して闇に消えて行く風情です。この宴会の、季節柄は蓮葉や白鷺から推測して、四月頃でしょうか。
これらの歌から、下級の役人たちが、日頃の憂さを晴らすのにどんな場所で酒宴を開き、どんな内容で宴を楽しんだかが分かる歌ですので、現在のサラリーマンと同じ風景を見て感心してします。なかなか、人間は進歩しないようです。
歌八首は歌自体に技巧が凝らしてありますから、何の気なしに読むと単なる言葉の寄せ集めの歌のように見えるかも知れませんが、大変、手ごたえのある歌です。さらに、これらの歌が酒を飲んでの即興歌であることを、前提にお楽しみください。
人麻呂が漢字・漢語で大和歌を詠った天才なら、奥麻呂もまた即興で歌を詠う天才です。ただ、残念なことに、「何の気なしに言葉の寄せ集め」としてしか読まない人が大勢ですので、多数決では評価されていません。

蛇足ですが、これらの歌八首が同じ宴会での歌としますと、奈良県田原本町の池神にあった法起寺での宴会だったかもしれません。そして、宴会が行なわれたのが、白鷺が巣作りをする頃合の四月八日の仏生会の夜と思われます。この法起寺は聖徳太子ゆかりの大寺で、当時、大寺では四月八日の仏生会の日と夏安居(げあんご)の修行の最終日にあたる七月十五日の伎楽会の日には伎楽を奉納するのが慣わしでした。そして、現存する聖徳太子ゆかりの寺には弥勒菩薩が祭られていますから、法起寺にも弥勒菩薩は祭られていたと思われます。さらに、この池神にあった法起寺は大和川を通じて櫟津のそばでもありますから、歌で詠われている地名や季節が揃ってきます。これらの歌が詠われたと思われる年代は、文武年間から大宝年間の西暦700年前後の春の歌でしょうか。
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竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その12

2009年04月27日 | 万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する
竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その12

原文 經而織布 日曝之 朝手作尾
訓読 延(は)へて織る布(ぬの) 日晒(ひさら)しの 麻手(あさて)作りを(12)
私訳 麻を植えて織る布を日に晒して麻手を作って

私は、竹取翁の詠う長歌の一節の「延(は)へて織る布(ぬの) 日晒(ひさら)しの 麻手(あさて)作りを」を「麻を植えて織る布を日に晒して麻手を作って」と意訳して、次の藤原宇合が詠う集歌0521の歌を想像しました。

藤原宇合大夫遷任上京時常陸娘子贈謌一首
標訓 藤原宇合大夫の遷任して京に上りし時に、常陸娘子の贈れる歌一首
集歌0521 庭立 麻手苅干 布慕 東女乎 忘賜名
訓読 庭に立つ麻手(あさて)刈り干し布慕う東女(あづまをみな)を忘れたまふな
私訳 庭に植えた麻を刈り取り干して布に仕立てて着ることを慕うように、貴方が刈り取って召した東女をお忘れにならないでください。

 万葉集はその成り立ちから天武天皇系の人々が中心にならざるを得ません。この藤原宇合は天武天皇系の人々からとって敵対する勢力の人ですが、藤原宇合は後期万葉時代を代表する教養人として欠くことが出来ません。
 まず、藤原宇合の概略を説明すると、皇子でない藤原宇合は蔭位の特権があったとしても二十五歳で従五位下に任官するのが相当ですが、彼の場合は二十三歳で遣唐使の副使への任命と同時に正六位下に叙位され、翌月には従五位下へ昇階しています。遣唐使副使への異例の抜擢に伴う任官と昇階です。
 そして、無事に遣唐使副使の大役を果たした直後の養老三年(719)正月に二十六歳で正五位上に昇階し、同年七月に常陸国の守と安房・上総・下総三国を監督する按察使を兼務しています。そのわずか二年後の養老五年には常陸国から帰京し、長屋王の右大臣就任と同時に四階特進し正四位上で式部卿に就任します。若干、二十八歳の出来事です。そして、死没するまで官僚の人権を持つ式部卿の地位を離れることなく、官僚組織を支配します。このように、藤原宇合は非常の秀才です。彼は普段の人が四十・五十歳で就任する地位を二十台後半でこなし、順調に官位を挙げています。
 一方、歌人としては懐風藻に六首、万葉集にも六首、彼の歌が採録されていますが、私の感覚では漢詩の才の方が優れていると思っています。また、藤原宇合の常陸国の守の時代に部下に高橋虫麻呂がいて、東国の歌や民謡の採録が行なわれたのではないかと推定されています。
 このような背景から、藤原宇合は万葉時代では欠くことの出来ない人物と思われます。集歌0521の歌は、藤原宇合が正四位上で式部卿に就任するために都に帰るときに持たれた宴会での歌でしょう。宮中の女官や貴族の女性に対しての鄙の女の比喩に女性の労働が詠われていますが、詠ったと想われる常陸娘子はその働く女達を管理する立場です。常陸娘子は東女で親の身分は下級ですが、地方の国造階級の豪族の娘としての地位と教養があります。
 ここで、参考に万葉集に載る藤原宇合の歌六首を紹介します。

集歌0072 玉藻苅 奥敝波不榜 敷妙乃 枕之邊 忘可祢津藻
訓読 玉藻刈る沖辺(おきへ)は漕がじ敷妙の枕の辺(あたり)忘れかねつも
意訳 玉藻を刈るからとて沖遠くは舟を出すまい。敷妙の枕を交わした人が忘れられないものを。
呆訳 柔毛を別け奥の部屋ですることは疲れ果てもう出来ません。褥を敷いて待っていた美しい枕もとのあの人が忘れられないでしょう。

説明 この歌は藤原宇合が十三歳の時に文武天皇の難波への御幸の夜に、男として夜伽をあてがわれた翌朝の歌とされています。この「敝」の字には破れるの意味だけでなく、疲れ果てるの意味もあります。ただし、歌には女性の匂いはしても閨の姿は見せません。あくまでも、「枕乃辺」で座って待つ女性です。大人が少年の藤原宇合に昨夜の夜伽の女性との首尾を聞いて、からかったときの答えの歌とすると、とんでもない秀才ですし、男として主導権を持って夜伽の女性を扱ったとする自負があります。それで、二十三歳で遣唐使副使なのでしょう。

式部卿藤原宇合卿被使改造難波堵之時作謌一首
標訓 式部卿藤原宇合卿の難波の堵(みやこ)を改め造らしめらえし時に作れる歌一首
集歌0312 昔者社 難波居中跡 所言奚米 今者京引 都備仁鷄里
訓読 昔こそ難波(なには)田舎(ゐなか)と言はれけめ今は京引(みやひ)き都(みやこ)びにけり
私訳 昔でこそ森のような難波は奈良と大宰府の間の田舎と言われていただろうが、今は雅の帝都となりざわめき活気ある都らしくなったことよ。

藤原宇合卿謌一首
集歌1535 我背兒乎 何時曽且今登 待苗尓 於毛也者将見 秋風吹
訓読 我が背子をいつぞ今かと待つなへに面(おも)やは見えむ秋の風吹く
私訳 私の尊敬する貴方が来るのは今か今かと待つだけで、貴方はお出でになるのだろうか。秋の風が吹くだけです。

宇合卿謌三首
集歌1729 暁之 夢所見乍 梶嶋乃 石越浪乃 敷弖志所念
訓読 暁(あかとき)の夢(いめ)に見えつつ梶島(かぢしま)の石(いは)越す波のしきてし思ほゆ
私訳 うつらうつら見る明け方の夢に見えつつ、梶島の巖を越す波が覆い被さるように私の心に貴方の姿が被さっています。

集歌1730 山品之 石田乃小野之 母蘇原 見乍哉公之 山道越良武
訓読 山科(やましな)の石田の小野の柞原(ははそはら)見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ
私訳 山科の石田の小野のクヌギの林を見ながら、貴方は山道を越えるのでしょうか。

集歌1731 山科乃 石田社尓 布靡越者 蓋吾妹尓 直相鴨
訓読 山科の石田の杜(もり)にしま越せばけだし吾妹(わぎも)に直(ただ)に逢はむかも
私訳 山科の石田の杜を袖を靡かせて暫しの間に越えて来れば、たぶんきっと、私の愛しい貴女に直ぐに逢えるでしょう。

一首単独の和歌でも、三首一組の和歌でも、超一流の歌です。人麻呂調の和歌は漢語・漢字が多くの情景を語っています、組の歌は恋人に逢うために訪れる男の距離感と時間が迫ってきて巧みです。万葉集では短歌が六首だけですが、やはり、欠くことの出来ない人物のようです。


 さて、話変わって、万葉集では常陸娘子の他にもう一人、布を日に晒して干した有名な御方がいらっしゃいます。若いときに東国に落ち延びられて壬申の乱を戦い勝った後の持統天皇です。天武八年五月の吉野の盟約の建前で高市皇子は持統天皇の御子と同等な扱いですから、長屋王は持統天皇の建前上の孫になります。

天皇御製謌
集歌0028 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
訓読 春過ぎて夏来(き)るらし白栲の衣(ころも)乾(ほ)したり天の香来山(かくやま)
私訳 もう、寒さ厳しい初春が終わって夏がやってきたようです。白栲の衣を干しているような白一面の天の香具山よ。

 穿って、集歌28の歌を踏まえて集歌521の歌を読むと、天武天皇の直系の孫である長屋王を殺した藤原宇合よ。けっして、天皇家を忘れてはならないぞ。とも取れます。
私は、手前味噌でこちらの意味合いで丹比国人は藤原宇合に関係する集歌521の歌を載せたと思っています。なお、藤原宇合は本来は藤原馬養が正しい表記だったようですが、養老五六年頃に藤原宇合へ表記を変えたようです。

藤原宇合大夫遷任上京時常陸娘子贈謌一首
標訓 藤原宇合大夫の(知造難波宮事の立場から反乱軍の近衛大将として)遷任して(難波から)京に上りし時に、日の立つ娘子の贈れる歌一首
集歌0521 庭立 麻手苅 干布慕 東女乎 忘賜名
訓読 庭に立つ袖(そて)刈り干しし布(ころも)慕(も)ふ東女(あずまをみな)や賜名(しな)を忘(わす)れそ
呆訳 今は宇合の名の馬養よ。御庭に立つ天皇の袖のような人物を殺したな。昔に布を干したような天の香具山を慕われ壬申の乱で東下りをなされた持統天皇から賜った名を忘れてしまったな。

「乎」には凝乎、牢乎や巍乎のような用法があり、状態の「サマ」を示す意味合いも有るようですので、漢語としては「東女乎」は「東女のような状態」の意味合いとしても良いようです。
 当然、この解釈は言葉の上での遊びですが、集歌521の歌の表記方法は「古体歌」に近いので天武天皇から持統天皇初期の時代のものでしょう。まず、藤原宇合の時代ではありません。集歌521の歌には、なにか編集の意図と寓意があることは確かです。
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竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その11

2009年04月26日 | 万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する
竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その11

原文 蟻衣之 寶之子等蚊 打栲者
訓読 あり衣の 宝(たから)の子らか 未必(うつたへ)は(11)
私訳 美しい衣を纏った宝のように大切で触れてはいけない人だからか いや、かならずしも

手には触れてはいけない大切な宝の意味合いと「うつたへ」の言葉の響きから、集歌0517の歌を拾ってみました。「打栲者」の「うつたへは」の読みを砧で栲を打って柔らかくする動作である「栲を打つ」と解釈しないで、万葉集の歌らしく「未必」の「うつたへ」と解釈するのが、他の普段の解説と違うところです。また、宝のような女性は、貴重で大切なものですから手で触れる=抱く行為はしてはいけません。

大納言兼大将軍大伴卿謌一首
標訓 大納言兼大将軍大伴卿の歌一首
集歌0517 神樹尓毛 手者觸云乎 打細丹 人妻跡云者 不觸物可聞
訓読 神樹(かむき)にも手は触(ふ)るといふを未必(うつたへ)に人妻といへば触れぬものかも
私訳 神罰が下る神樹にも手は触れることが出来るのに、かならずしも、人妻と云うだけで抱かないわけではない。

石川郎女謌一首 即佐保大伴大家也
標訓 石川郎女の歌一首 即ち大伴佐保の大家(おほとじ)なり
集歌518 春日野之 山邊道乎 与曽理無 通之君我 不所見許呂香聞
訓読 春日野(かすがの)の山辺(やまへ)の道を恐(おそり)なく通ひし君が見えぬころかも
私訳 春日の野辺の山沿いの道を夜に恐れることなく通ってこられた貴方だったのに、お見えにならないこの頃です。

この歌の大納言大将軍大伴卿とは、壬申の乱で大和国で活躍した大伴安麻呂のことです。万葉集で有名な大伴旅人と坂上郎女の父親で、家持の祖父になります。この血筋だけでも万葉集から外すわけにはいきません。
また、壬申の乱に関して、壬申の乱では敵対した大友皇子軍の物部麻呂と大海人皇子軍の大伴安麻呂が天武天皇の時代以降は同僚の官僚となり、文武天皇・元明天皇の時代は右大臣は石上麻呂、大納言は大伴安麻呂のような地位で長親王や舎人親王の下で政治を行なっています。
他の資料に載らない大伴田主の名が万葉集の歌に見えますが、この大伴田主は大伴安麻呂と巨勢郎女との間の子ではないかとの推測があります。私の空想的な推理からは、巨勢郎女は人麻呂の詠う「軽の里の妻」と思っていますから、大伴安麻呂と巨勢郎女と人麻呂には恋の三角関係があったのではないかとも、私は推理しています。
その大伴安麻呂と巨勢郎女との相聞の歌が次の歌です。

大伴宿祢娉巨勢郎女時謌一首 大伴宿祢諱曰安麻呂也難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子平城朝任大納言兼大将軍薨也
標訓 大伴宿祢の巨勢郎女を娉(よば)ひし時の歌一首 大伴宿祢は諱(いみな)を安麿といえり。難波の朝(みかど)の右大臣大紫大伴長徳卿の第六子にして平城(なら)朝(みかど)の大納言兼(あわせて)大将軍に任(ま)けられて薨(みまか)れり。
集歌101 玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曽著常云 不成樹別尓
訓読 玉葛(たまかづら)実の成(な)らぬ木にはちはやぶる神ぞ着(つ)くといふならぬ樹ごとに
意訳 美しい藤蔓の花の実の成らない木には、恐ろしい神が取り付いていると言いますよ。実の成らない木にはどれも。

巨勢郎女報贈謌一首 即近江朝大納言巨勢人卿之女也
標訓 巨勢郎女の報(こた)へ贈れる歌一首 即ち近江(あふみの)朝(みかど)の大納言巨勢(こせ)人(ひと)卿(まえつきみ)の女(むすめ)なり
集歌102 玉葛 花耳開而 不成有者 誰戀尓有目 吾孤悲念乎
訓読 玉葛(たまかづら)花のみ咲きて成らずあるは誰が恋にあらめ吾(わ)が恋ひ念(おも)ふを
意訳 美しい藤蔓の花だけが咲いて実が成らないようなのは誰の恋心でしょうか。私は恋心を感じているのに。

 さて、面白いことですが、先の集歌517の歌は「神樹にも手は触るといふを」と詠いだしていますが、集歌518の石川郎女の歌では「神」の話題はありません。まだ、歌の時代は天平時代ではありませんから、春日山にはまだ有名な神社は無い時代です。返って、春日山より率川の三枝神社の方が当時としては有名ですから方向が少し違います。
また、集歌517と集歌518との歌で詠っている恋の景色が、なぜかずれています。集歌517の歌は恋しているけれど貴女が抱けないと云う雰囲気ですが、集歌518の歌は恋の成就の後の破局のような雰囲気です。それに、石川郎女について、標では大伴安麻呂と一緒に住み大伴一族を切り盛りする刀自の立場の妻なのですが、集歌517の歌では離れて住む人妻です。なにか、夫々の歌や標の内容がバラバラで違和感があります。
それよりも、私は集歌0517の歌は集歌102の返歌とする方が相応しいと思うのですが。ただそのとき、集歌0517の歌から巨勢郎女は誰かの人妻になってしまいます。
 少し、いたずらの呆れた訳に付き合ってください。

訓読 玉葛(たまかづら)実の成(な)らぬ木にはちはやぶる神ぞ着(つ)くといふならぬ樹ごとに
呆訳 美しい藤蔓の花の実の成らない木には恐ろしい神が取り付いていると言いますよ。実の成らない木にはどれも。それと同じように、貴女を抱きたいと云う私の思いを成就させないと貴女に恐ろしい神が取り付きますよ。

訓読 玉葛(たまかづら)花のみ咲きて成らずあるは誰が恋にあらめ吾(わ)が恋ひ念(おも)ふを
呆訳 美しい藤蔓の花のような言葉の花だけがたくさんに咲くだけで、実際に恋の実が実らなかったのは誰の恋心でしょうか。私は貴方の私への恋心を感じていましたが。

訓読 神樹(かむき)にも手は触(ふ)るといふを未必(うつたへ)に人妻といへば触れぬものかも
呆訳 むやみに触ると神罰が下るという神の樹にも人は手で触れると云います。かならずしも、人妻と云うだけで貴女を抱かないわけではありません。貴女には、もう、ちはやぶる神のような「あの人」が憑いていますから。

人麻呂の石見国の赴任中に大伴安麻呂が巨勢郎女へ恋をして振られたのであれば事件です。ですが、大伴旅人や家持にとっては少し気恥ずかしい事件です。

蛇足ですが、ご承知のことと思いますが万葉集の時代では辞源などの解説にあるように集歌101の歌の標の「娉ひし」の意味は「求婚」や「婚約」が本来の意味で「夜這い」の意味はありませんから、集歌101と集歌102との歌からは大人の男女の仲を見つけることは出来ません。
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