竹取翁と万葉集のお勉強

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車持朝臣千年を鑑賞する  夫の君に戀ひたる謌

2011年01月24日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
夫の君に戀ひたる謌
 万葉集巻十六には「戀夫君謌」の題をもつ歌が二首あり、その内の一首です。紹介する集歌3811の歌の左注には車持氏の娘女の歌とありますので、参考として歌を鑑賞します。なお、集歌3811の歌は奈良時代に流行った歌物語と思われますので、何らかの事件を脚色して成立した歌として鑑賞しています。

戀夫君謌一首并短謌
標訓 夫(せ)の君に戀ひたる謌一首并せて短謌
集歌3811 左耳通良布 君之三言等 玉梓乃 使毛不来者 憶病 吾身一曽 千磐破 神尓毛莫負 卜部座 龜毛莫焼曽 戀之久尓 痛吾身曽 伊知白苦 身尓染保里 村肝乃 心砕而 将死命 尓波可尓成奴 今更 君可吾乎喚 足千根乃 母之御事歟 百不足 八十乃衢尓 夕占尓毛 卜尓毛曽問 應死吾之故

訓読 さ丹つらふ 君が御言(みこと)と 玉梓の 使(つかひ)も来ねば 思ひ病(や)む 吾が身ひとつぞ ちはやぶる 神にもな負(おほ)ほせ 占部(うらへ)据ゑ 亀もな焼きそ 恋ひしくに 痛き吾が身ぞ いちしろく 身に染み透り むらきもの 心砕けて 死なむ命(いのち) にはかになりぬ 今さらに 君か吾を呼ぶ たらちねの 母の御事か 百足らず 八十(やそ)の衢(ちまた)に 夕占(ゆふけ)にも 占(うら)にもそ問ふ 死ぬべき吾がゆゑ

私訳 私の体を通すような美しい貴方のお言葉だと、立派な梓の杖を携えその伝言を伝える使いも来ないので、恋患う私の身はただ独り。神の岩戸を開けるような立派な神に託すことなく、卜の斎瓮を据え亀の甲羅を焼くことなどなさるな。片恋するのが長くなり痛ましい私の身の上、その苦しみがはっきりと身に染み透り、むらきもの心は張り裂けて死にいくこの命。その時は迫ってきた。今、再び、貴方でしょうか、私の名を呼ぶ。私の心を満たす実母の行いでしょうか。百に満たない八十のような多くの辻に立って夕占でも、占でも、貴方に逢うことを問う。きっと、恋で死に行く私だから。


反謌
集歌3812 卜部乎毛 八十乃衢毛 占雖問 君乎相見 多時不知毛
訓読 占部(うらへ)をも八十(やそ)の衢(ちまた)も占(うら)問へど君を相見むたどき知らずも

私訳 卜の斎瓮にも、八十の辻の辻占にも占い問うが、貴方に直接に逢う手段を知ることもありません。


或本反謌曰
標訓 或る本の反謌に曰はく
集歌3813 吾命者 惜雲不有 散退良布 君尓依而曽 長欲為
訓読 吾が命は惜しくもあらず然(さ)たらふ君によりてぞ長く欲(ほ)りせし

私訳 私の命は惜しくはありません。死に行く身であっても、せめてそうであっても貴方に寄り添い、長くそばに居たいと思うだけです。


右、傳云、時有娘子。姓車持氏也。其夫久逕年序不作徃来。于時娘子、係戀傷心、沈臥痾疹、痩羸日異、忽臨泉路。於是遣使喚其夫君来。而乃歔欷流啼、口号斯謌。登時逝歿也

注訓 右は傳へて云はく「時に娘子(をとめ)あり。姓は車持氏なり。その夫久しく年序(とし)を逕て徃来を作(なさ)ず。時に娘子、係る戀に心を傷(いた)ましめ、痾疹(やまひ)に沈み臥(こや)り、痩羸(そうるい)日に異(け)にして、忽(たちま)ちに泉路(せんろ)に臨みき。ここに使を遣りその夫(せ)の君の来(きた)るを喚ぶ。すなはち歔欷(なげ)き流啼(りゅうてい)して、この謌を口号(くちずさ)み。登時(すなはち)逝歿(みまか)りき」といへり。

注訳 右は伝えて云うには「ある時、娘がいた。姓を車持氏であった。その夫、久しく年を経ても通って来なかった。或る時、娘は、このような恋に心を痛めて、病に罹り床に臥し、痩せ細り日々に病状は悪化して、遂に死に望むこととなった。そこで使いを遣って、その夫が来るようにと呼んだ。そして、娘は涙を流し泣きながら、この歌を口ずさんで、すぐに死んでしまった」という。


 先に養老七年五月の芳野御幸で、車持千年が吉野御幸での恋歌を詠うと、その恋は養老七年五月の出来事だと万葉集を編む人々が承知するような有名な話としました。この歌も、万葉の時代の人々が知る有名な車持氏の娘女の純愛を詠った歌です。この集歌3811の歌の「君之三言(御言)」や「玉梓乃使」の詞から、そのままストレートに歌意を解釈しますと、夫君は高貴な大宮人と想像されます。内容として真実かは不明ですが、集歌3811の歌の背景には高貴な男性と一時は恋仲になり、その後、その男性と別れ、恋に死んだ歌詠みの車持の姓を持つ女性がいたようです。そうした時、車持千年が吉野御幸で恋歌を詠った、その恋の行方が非常に気になります。これらの情景から、車持氏の娘女を車持千年とする考えもあるようです。
 さて、先に見た歌などを参考にして宮中で職務の関係から笠金村と車持千年が非常に親しい仲であったとしますと、気になる笠金村の歌があります。ここで、その歌を再掲します。この笠金村が詠う歌の、笠金村が良く知る娘女に成り代わって歌を贈られた大宮人とは、どんな人物だったのでしょうか。歌では「公」と表記しています。
 恣意的な参考として、膳親王は神亀元年に二十一歳となり初めて従四位下の官人として任官していますので、この神亀元年(724)十月の御幸に随行することは可能です。なお、前年の養老七年(723)の芳野御幸には未成年で、まだ官人でもないため「官人」として随行することは出来ません。また、場合により養老七年の芳野御幸の時点では、官職を持つ車持千年が、律令制下での官僚制度の建前では、未成年で官人でもない膳親王の上位に位置することになります。こうした時には神亀元年と養老七年とでは、恋人への敬称が「君」から「公」へと変わる可能性があります。

神龜元年甲子冬十月、幸紀伊國之時、為贈従駕人、所誂娘子笠朝臣金村作謌一首并短謌
標訓 神亀元年甲子の冬十月に、紀伊國(きのくに)に幸(いでま)しし時に、従駕(おほみとも)の人に贈らむがために、娘子(をとめ)に誂(あとら)へて笠朝臣金村の作れる謌一首并せて短謌

集歌543 天皇之 行幸乃随意 物部乃 八十伴雄与 出去之 愛夫者 天翔哉 軽路従 玉田次 畝火乎見管 麻裳吉 木道尓入立 真土山 越良武公者 黄葉乃 散飛見乍 親 吾者不念 草枕 客乎便宜常 思乍 公将有跡 安蘇々二破 且者雖知 之加須我仁 點然得不在者 吾背子之 徃乃萬々 将追跡者 千遍雖念 手嫋女 吾身之有者 道守之 将問答乎 言将遣 為便乎不知跡 立而爪衝

訓読 天皇(すめろぎ)の 行幸(みゆき)のまにまに 物部(もののふ)の 八十伴(やそとも)の雄(を)と 出で去(ゐ)きし 愛(うつく)し夫(せも)は 天飛ぶや 軽の路より 玉(たま)襷(たすき) 畝傍を見つつ 麻(あさ)裳(も)よし 紀路(きぢ)に入り立ち 真土山(まつちやま) 越ゆらむ君は 黄葉(もみぢは)の 散り飛ぶ見つつ 親(にきびに)し 吾は思はず 草枕 旅を宜(よろ)しと 思ひつつ 君はあらむと あそそには かつは知れども しかすがに 點然(もだ)もありえねば 吾が背子が 行きのまにまに 追はむとは 千遍(ちたび)思へど 手弱女(たわやめ)の 吾が身にしあれば 道(みち)守(もり)の 問はむ答へを 言ひ遣(や)らむ 術(すべ)を知らにと 立ちて爪(つま)づく

私訳 天皇の行幸に随って、たくさんの武官の者と共に出発して行った私が愛する夫は、雁が空を飛ぶ軽の道から美しい襷を懸けたような畝傍の山を見ながら、麻の裳にも良い生地の、その紀伊の国への道に入っていく。真土山を越えていくでしょうあの御方は、黄葉の葉々が散り飛ぶのを見ながらそれを親しみ、私はそうとは思いませんが、草を枕にする苦しい旅も好ましい常のことと思いながら、あの御方は旅路にいらっしゃると、私はぼんやりとは想像しますが、しかしながら何もしないではいられないので、愛しい貴方が出かけていったように追いかけて行こうと千度も思いますが、手弱女である女である私は、道の番人が旅行く私に浴びせかける質問に答えるすべも知らないので、旅立とうとしてためらってしまう。


反謌
集歌544 後居而 戀乍不有者 木國乃 妹背乃山尓 有益物乎
訓読 後れ居て恋ひつつあらずは紀伊(き)の国の妹背(いもせ)の山にあらましものを

私訳 後に残されて一人で貴方を恋い慕っていないで、紀伊の国にある妹背の山の名に因んだ貴方に愛される妹背でありたいものです。


集歌545 吾背子之 跡履求 追去者 木乃關守伊 将留鴨
訓読 吾が背子が跡(あと)踏(ふ)み求め追ひ行かば紀伊(き)の関守(せきもり)い留(とど)めてむかも

私訳 私の愛しい背の君の跡を辿って追いかけて行けば、紀伊の関の番人は私を関の内に留めるでしょうか。


 鑑賞への感想として、繰り返しになりますが車持朝臣千年は、性別も含めて一切が不明の歌人です。養老七年五月の芳野御幸の歌についても、御幸に随行する下級官吏が奈良の京に残る高貴な女性に恋をしているとして、その女性に対して「君」の表記を使ったとの鑑賞も成り立ちます。そうした時、車持朝臣千年は御輿を掌るような下級官吏の男性との推定が可能です。おおむね、このような鑑賞が主流と思います。
 ここでは、神亀六年二月までは大王と天皇とは政教分離で、車持千年は天皇の随員として御幸に随行したとして鑑賞しました。そのため、密接に連絡が想像できる笠金村と車持千年ですが、大王の御幸である神亀三年播磨国への御幸には車持千年は随行していなくて、車持千年は歌を詠う機会がなかったと思っています。また、大王の御幸ではその統治を詠い、天皇の御幸では国土の祝福を詠うのが基本ではなかったでしょうか。このように万葉集の歌々を標や左注を下にその場面を照合して組み合わせることで、色々な解釈や鑑賞が楽しめるのではないかと考えています。
 実に与太話でした。

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