竹取翁と万葉集のお勉強

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難訓歌に遊ぶ

2017年05月06日 | 初めて万葉集に親しむ
難訓歌に遊ぶ

 先の章では和歌に使われる漢字と云う表意文字に注目して、歌を鑑賞しました。その和歌に使われる漢字と云うものに特別に注目しますと、未だ適切な歌の読解が得られていない、いわゆる、難訓歌と云うものに出合います。ここではその難訓歌に注目し、額田王が詠う「莫囂圓隣之」の歌を例題として難訓歌を鑑賞します。歌は、古く、難訓歌中の難訓歌と目されるものです。
 扱いますこの歌は万葉集 巻一の「後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇、後即位後岡本宮」と云う時代を示す部立に含まれる歌です。

部立 後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇
補注 後即位後岡本宮
標題 幸于紀温泉之時、額田王作謌
原歌 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立為兼五可新何本

 この歌が詠われた背景を確認しますと、部立の「後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇」の記事と標題の「幸于紀温泉之時」から『日本書紀』の記事を参照しますと、歌は斉明天皇が斉明四年(六五八)十月から翌年正月まで滞在された紀温湯への行幸でのものとなります。この紀温湯は歴史では「牟婁温湯(むろのいでゆ)」とも呼ばれ、現在の南紀白浜温泉(和歌山県西牟婁郡白浜町)と推定されています。
 この時代、斉明天皇の王宮は飛鳥岡本宮にあり、紀温泉へは飛鳥から吉野秋津野(吉野郡下市町)へと出向き、その手前、吉野川の川岸、飛鳥側となる秋津野の津(大淀町千石橋付近)から川船で吉野川(紀ノ川)を下り、紀ノ川河口にある紀伊水門(和歌山市新和歌浦付近)に出て、そこから外航航路を行く新羅船のような大船に乗り換えて紀温湯のある田辺湾へと向かったと思われます。そして、この紀温湯近辺には潮岬を廻った先に皇祖を祀る熊野速玉大社の元宮である神倉神社(祭神は熊野速玉大神=伊邪那岐神)があり、また花窟神社(祭神は伊耶那美神)があります。この地理と歴史を読解に先立ち了解して下さい。

 ここで雑談と息抜きを兼ねて、巻二に載る大伴宿祢と巨勢郎女との相聞問答歌を楽しんでみて下さい。なお、紹介する原歌には歌を解釈した根拠となる句切れを入れていますから、解釈の句切れがある分、本来の原歌表記とはなっていません。

大伴宿祢娉巨勢郎女時謌一首
大伴宿祢、諱曰安麻呂也。難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子。平城朝任大納言兼大将軍薨也
標訓 大伴宿祢の巨勢郎女を娉(よば)ひし時の歌一首
追訓 大伴宿祢、諱(いみな)を曰はく「安麻呂」といへり。難波の朝(みかど)の右大臣大紫大伴長徳卿の第六子なり。平城の朝(みかど)に大納言(だいなごん)兼(あはせ)て大将軍に任(ま)けられ薨(みまか)れり。
集歌一〇一
原歌 玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曽著常云 不成樹別尓
訓読 玉(たま)葛(かづら) 実(み)成(な)らぬ木には ちはやぶる 神ぞ着(つ)くといふ ならぬ樹ごとに

巨勢郎女報贈謌一首 即近江朝大納言巨勢人卿之女也
標訓 巨勢郎女の報(こた)へ贈りたる歌一首
追訓 即ち近江朝の大納言巨勢(こせの)人(ひとの)卿(まへつきみ)の女(むすめ)なり
集歌一〇二
原歌 玉葛 花耳開而 不成有者 誰戀尓有目 吾孤悲念乎
訓読 玉(たま)葛(かづら) 花のみ咲きに 成らざるは 誰が恋にあらめ 吾(わ)が恋ひ念(も)ふを

 息抜きの為に紹介しましたこの相聞問答歌二首は万葉集の歌の中でもある特徴を持ちます。それが集歌一〇一の歌の「實不成樹尓波」と「不成樹別尓」と云う表記ですし、集歌一〇二の歌の「不成有者」と云うものです。これはともに「不成」と云う表記を使い、漢文の構文と同じ表現方法で大和歌を詠います。
 このように時代と共に実作されたと思われる万葉集の初期の作品では、漢詩漢文の影響を受けた表現方法を見ることが出来ます。従いまして、額田王が詠う「莫囂圓隣之」の歌が単純に句頭から順にその表記に従って音字として読み解けるかどうかは保障されないのです。例えば「莫」と云う漢字は漢文では否定語と扱われる文字で、他に「無」、「勿」、「母」と云う文字が漢文否定語では同類となりますから、「莫」と云う文字を音字として「な」(例:知跡言莫君二)と扱うのか、否定語の「莫」(例:物莫御念)と扱うのでは解釈が変わります。しかしながら万葉集の解読では大和言葉を示す音字と漢文否定語として、どちらの解釈も成立する可能性があります。ですから、最初から「莫」と云う文字に対して、それが音字であると決めてかかることもまた危険です。
 次に万葉仮名と云うものでも同音異字と云うものがあります。先の「莫」と云う文字は字音では「な」と云う大和言葉での音を示しますが、万葉仮名での「な」と云う音字では「奈、名、莫、勿、那、無、汝、菜、魚、南、寧、七、難、甞、男、去」などの文字が同音異字の関係にあります。同様に中国語の漢語の世界でも同音字と云うものがあります。例として漢語の「囂」の同音字は「宵、削、効、逍」がそれに当たります。難訓歌の紹介で「莫囂圓隣歌」と記して「ばくごうえんりんか」と訓じているものがありますが、「囂」と云う文字に対して大和言葉を表す音字としてその漢字を読むのですと、その日本慣用発音「ごう」や日本語ベースの漢字辞典に示す発音「xiāo」は必ずしも正解ではありません。それぞれの単なる可能性がある読みの一つから言葉を紡いだにすぎません。従いまして、額田王が詠う集歌九の歌「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立為兼五可新何本」を読み解くのですと、先人の研究成果を尊重し過ぎて曇らせた心の色眼鏡を外し、基本に従い謙虚に漢字音韻などに詳しい漢辞事典なども丁寧に参照する必要があります。ちなみにHP「漢典」から探しますと「囂」の隋唐代となる中国中古音での発声は『宋本廣韻』では「hieu/xyeu」となっていて、どちらかと云うと「ひゅぅ」や「しゅぅ」に近い発声です。「ごう」や「xiāo」ではありません。なお、日本においても漢字を扱うHP「字源」では中古音発音を「hieu/xyeu」と紹介していますから、古典文学研究者のする難訓歌の読解において「囂」と云う漢字に対して近現代の発音「ごう」と云う音韻を与える可能性は少ないと考えます。
 およそ、額田王や柿本人麻呂の時代、大和人たちは漢字と云う文字を使って大和人が話す言葉の発音を紙の上に文字として表現しようと試みていた時代です。そして、同時に遣隋使や遣唐使を大陸に派遣することで入手した書籍を通じて大量の「言葉」がもたらされた時代でもあります。ある種の文明開化の時なのです。すると、その時代の人々は新規外来語である漢字と云う文字を扱う時、丁寧に『説文解字』や『玉篇』などの字典などから文字の姿や意味を調べたでしょうし、隋代に成立した音韻書である『切韻』や唐代の改訂版『唐韻』などにより漢字の音韻を知ったと思います。ですから、場合により集歌九の歌に使われる「囂」と云う文字が、当時の発声では「宵」や「削」などとの漢字同音字の関係にあったかもしれないのです。その可能性を隋唐時代の音韻を科挙試験などの要請から公式化するために『切韻』や『唐韻』などを集大成して編まれた『宋本廣韻』は示しています。

 難訓読解に先立って、雑談と息抜きをしました。
 話題とする額田王が詠う集歌九の歌について、現在までの研究から定説となっている句切りと部分的に解読されているところの訓じを紹介します。インターネットに公表されるHP「極まって万葉集」に鎌倉時代から現代までの訓じ提案が整頓されていますので、それを参考としますと上二句の句切れの位置と下三句の訓じについては、鎌倉時代の学僧仙覚から現代まで相違はありません。つまり、問題となっている集歌九の歌の難訓部分は上二句にあります。

集歌九
原文 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと
読解 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾が背子が い立たせりけむ 厳(いつ)橿(かし)が本(もと)

 さて、示しましたように上二句は和歌と云う定型詩の形式に従って五文字と七文字とに句切れが入ると云うのが鎌倉時代から今日までの共通の認識です。この認識ですと文字数からして基本的に表記された文字は一字で一音を示す音字であろうと推定されます。つまり、和歌として歌を楽しむなら頭四字で歌を表した「莫囂圓隣歌」と云うものを「ばくごうえんりんか」と八音字でもって訓じることは和歌の基本からしますとあり得ないこととなります。売本のために作られた「莫囂圓隣歌」と云うキャッチコピーが「莫囂圓隣」+「歌」と云う組み立てですと、和歌と云う世界であるなら本来は「莫囂圓隣」は四音字でなければいけません。律詩である和歌の難訓を議論しているなら「ばくごうえんりん」と云う八音字の訓じはあり得ません。ただし、文芸春秋社の態度に見られるように李寧熙氏の著作物を積極的に取扱い、その提唱する万葉集の歌は古代朝鮮語による自由詩であるという定義を支持するのでしたら、それはあり得ます。ただ、そのような主張・態度は、万葉集は日本語による和歌集と定義する本編とは相容れないものです。
 歌は日本語による和歌と定義し、そこから「莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣」の漢字は一字一音の音字で構成されると仮定しますと、万葉時代に大和の人々が認識していた大和言葉の 発音を割り当てたであろう漢字文字に対して、『宋本廣韻』などの中古音韻究書などから字音として可能性のある発音を求め、それを使って平仮名表記の文字列に対して音を割り当て、さらに大和言葉となる文字列を探ることは可能です。すると、次のような平仮名表記の文字列が得られます。

原歌表記 読み下し 意訳表記 注記
莫囂圓隣之 なそまりし な染まりし 莫を万葉仮名とする
      そまりなし 染まりなし 莫を漢文否定語とする
大相七兄爪謁氣 おそなえそえき 御備え副えき

 この上二句の成果を使い集歌九の歌を訓じますと、次の解釈が得られます。

幸于紀温泉之時、額田王作謌
標訓 紀温泉(きのいでゆ)に幸(いでま)しし時に、額田王の作れる歌
集歌九
原歌 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし 御備(おそな)え副(そ)えき 吾(あ)が背子し 巌立ち為(せ)しけむ 厳橿(いつかし)が本(もと)
私訳 一点の穢れなき白栲の布を奉幣に副えました。吾らがお慕いする君が、梓弓が立てる音の中、その奉幣をいたしました。大和の橿原宮の元宮であります、この熊野速玉大社(神倉神社)を厳かに建てられた大王(=神武天皇)よ

 鑑賞としては、斉明天皇が紀伊国への御幸の目的地である神武天皇ゆかりの行宮であり伊邪那岐神を祀る熊野速玉大社(現在の神倉神社)で純白の帛の巻物を奉納し、奉幣を奉げる様子を想像しています。時代性として、純白な帛の布は相当な高価で神聖なものだったと考えています。参考で、伝存する聖武天皇の御装束は純白の帛の衣だそうです。そして、弊物のイメージは四方盆に純白の帛三疋を俵積に載せた形です。
 この読解の背景を説明しますと、「囂」や「圓」の文字に対して一音となる音は何かと調べてみます。すると「囂」(『宋本廣韻』では「hieu/xyeu」)と云う漢字は「宵」や「削」と漢字同音字の関係があります。従いまして、発音では「ひぇぅ」や「せぅ」と云う音が得られます。これは鎌倉時代以来 伝統の『韻書』などを下にした一般的な研究書や解説書から「xiao/ao」とするものや慣用音の「ゴウ」からしますと意外な展開ではないでしょうか。ただし、『宋本廣韻』を下にした隋唐時代の中古音韻研究からしますと予想の範囲内の発声音ですから近代の難訓歌研究からすれば検討すべき項目の一つです。その表れとして中古音での音韻検討成果を反映し、「囂」に「しず」と云う音韻を与え、「莫囂圓隣之」に対して「しずまりし」と云う訓じを与えるものです。しかしながら、澤瀉久孝氏や間宮厚司氏が理解するように「しずまりし」の訓じでは句頭の「莫」と云う漢字の扱いが難しくなります。
 ここで、万葉集が詠われた時代の漢字同音字の問題について考えて見ますと、参考とすべきものに奈良時代前期までには将来されていた有名な書籍に『詩経』や『遊仙窟』と云うものがあり、そこに載る漢詩ではこの漢字同音字の関係を知っていないと故事由来や猥書としては解釈が出来ない代物です。この『詩経』からの有名な下品で淫靡を意味する故事「鄭衛之音」もまた漢字での同音字の関係を知っていることで初めて理解できるものです。ここで、以下に紹介します『詩経』の「衛風 有狐」の詩文では「淇」と「妓」が、『遊仙窟』の詩文では「磨」と「摩」、「銅」と「洞」などが漢字の同音字関係にあります。この同音字関係があって初めてその文章を見た貴族たちは「にやにや、にたにた」とする訳です。ちなみに「衛風 有狐」の「有狐綏綏、在彼淇側」の「淇」を「妓」と解釈すれば、妓女に化けた狐は淇河の傍らにいるのではなく、その妓女は服を脱がされ閨で男に抱かれているとなります。また、『遊仙窟』の「即今形勢冷、誰肯重相磨」の「磨」を「摩」と解釈すれば、射精後に萎えた男根に再び刺激を加え勃起を促すさまとなり、「即今雖冷惡、人自覚残銅」の「銅」を「洞」と解釈すれば射精後の萎えた男根が去った後の女性器への感想です。このような言葉遊びで自在に文章や歌を解釈できたのが奈良貴族の標準的な教養レベルです。

<衛風 有狐>
有狐綏綏、在彼淇梁、心之憂矣、之子無裳
有狐綏綏、在彼淇厲、心之憂矣、之子無帶
有狐綏綏、在彼淇側、心之憂矣、之子無服 (淇と妓とは同音)

<遊仙窟から詩文抜粋>
舊来心肚熱、無端強熨他、
即今形勢冷、誰肯重相磨。(磨と摩とは同音)
若冷頭面在、生平不熨空、
即今雖冷惡、人自覚残銅。(銅と洞とは同音)

 奈良時代の貴族はこの種の書籍や頓智が好みだったようです。これらの書籍を含め同類の漢籍は大陸では早い時期に失せて無くなりましたが日本では今日まで伝わります。およそ、彼らは漢字には同音字があり、それは適宜使用しても良いことを知っていたと云うことになりますから、万葉集の歌が詠われた時代、飛鳥・奈良貴族は「囂」と云う漢字は「宵」や「削」と同音字の関係にあることを確実に知っていたと考えられます。以上の考察から、本篇では「囂」に「しず」ではなく、「せぅ」の音韻を想定し、『古語拾遺』が古語「腋子」が、後、訛りの言葉として「和可古(わかこ)=稚子」と称するようになったと解説するように、その訛りとして「そ」と云う字音を与えています。
 次に「圓」は新字では「円」であり、その「圓」の原義が「まる、まるい」ですから「ま」と云う音が得られます。また、射的の的として丸く書いたものと云うことから「円」に「まと」と云う訓じが与えられ、古来、大和では「高円」は「たかまと」と訓じます。そこからの「ま」です。現代の研究では「圓隣之」を「ま、り、し」と訓じますから、この「ま」と云う音には異論はないと考えます。つまり、初句の訓じ問題は「囂」と云う文字の音を探すことに集約されていたわけです。ただなぜか、この解読作業での一番重要となる文字の音を探す作業で『宋本廣韻』などの音韻字典などから文字の姿や隋唐時代の発音を調べなかったのでしょうか。万葉集と云う詩歌集は漢語と真仮名(万葉仮名)という漢字の音を借りた文字だけで記述されたものですから、歌の読解では文字の音韻を確認すると云う作業は基礎中の基礎です。古書を漁って先行する論説紹介を中心とするのも重要な学問手法でしょうが、基本に忠実に原歌表記から中国中古音の音韻を尊重して読解するのもまた学問の手法ではないでしょうか。
 次いで、二句目の七文字表記の「大相七兄爪謁氣」の訓じには特別の問題はありません。表記のままに一字一音から七音字の大和言葉を探せば読解は完了です。ただし、歌は紀温泉への行幸を詠う歌ですから、その情景が詠われていないといけないと云う重要な制約があります。この制約の下、初句を読み解き、さらに三句目以降の共通認識となっている読み解きとをつなぎ、短歌として成立する必要があります。この条件の下、その二句目の読解の課せられた制約から人々は苦心を重ね色々と言葉を探ったようです。その苦心から多くの戯訓説や誤記説などが出て来たのでしょう。参考資料として、章末に代表的な苦心の下に提唱された試訓を紹介します。ただし、歴史的に戯訓説が有力だったためか、原歌の漢字表記と相対するはずの訓じとが、直接には関連しないものが多数を占めます。つまり、原句を戯訓として自由に訓じています。原句は七文字ですから解釈した言葉と一文字一文字の字音とが一致すべきですが、理屈通りではないと云うことです。
 結論的には、過去において初句の「囂」と云う文字の音を適切に得られなかったことと、「不成」、「不見」と云う万葉時代初期に現れる特別な表現方法の可能性を失念していたことにより混乱が生じたのでしょう。それに気付かない万葉集と云う和歌の詩歌集を原歌から読解することに不慣れな人たちによって「莫囂圓隣歌(ばくごうえんりんか)」と云う虚仮脅しの不適切な呼び名が与えられ、さらにその呼称から余計な雑念が入り込み、読解がこじれにこじれたと考えます。たった一字、「囂」と云う文字さえ適切に処理できれば、全くに話題となるような難訓歌にはならなかったのです。

 もう一つ、
 難訓部「莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣」は和歌の初句と二句目に位置し、それぞれ五文字、七文字です。つまり、一字一音の万葉仮名表記です。現代においても特別な事情がなければ平仮名に片仮名のルビを振る人はいないと思います。例として「いく(イク)」や「きみ(キミ)」。それと同じように万葉集を貴族階級の教養としていた時代、およそ、平安時代中期 紫式部や清少納言の時代までの人たちが「莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣」と云う万葉仮名の表記に当時の常用文字である万葉仮名(変体仮名)で訓じを付ける可能性はありません。それが鎌倉時代以降、昭和時代までの和歌人には悲劇だったのでしょう。
 現代は便利な時代になりました。例えば、HP「漢典」にアクセスしますと、そこには『康煕字典』、『宋本廣韻』、『説文解字』、『玉篇』などからの解説が載り、また同音字表もあります。現代では一般の社会人でも部屋に居ながらにして容易に万葉集時代の漢字の意味、発音などの情報が大学図書館レベルで入手が可能です。万葉集の漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌を、その漢語と万葉仮名に分解し、ここで紹介しましたような手法で検討を行えば、難訓歌と称される歌であっても読解は可能です。もし、興味がありましたら、一度、挑戦をしてみてください。


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