竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 大和の神祀り

2014年03月30日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
大和の神祀り

 伊勢王は中臣大嶋や忌部首を使い、大海人皇子の願いを満たすために大和の神祀りの儀礼を整えた。
 朱雀二年(673)春、朝廷は丹比公嶋を通じその本貫である播磨と丹波の郡司に即位の大礼の馳走を命じた。伊勢王と中臣大嶋とが整えた式次第に従い、忌部首や忌部色夫知が播磨と丹波の郡司に大和の神祀りの準備を指導する。即位の大礼は、冬、十二月に行われる。それに向け、いろいろな品物が整えられていく。また、朝廷は古来の礼である貢として播磨と丹波の郡から飛鳥の都に大礼準備の人を出させた。
 その年の十二月五日、飛鳥岡本宮で大海人皇子の大王への即位の大礼が大和の神祀りの儀礼に従い行われた。その夜、大海人皇子は神の子としての成人式を行った。
 倭の男子の成人式では、母方の女性と成人する男の児とが同衾することでその里の産土(うぶすな)の一員となる。大王はこれを模した産土神事の儀礼を行った。ただ、褌親(たふさおや)に等しい同衾の相手は母方の女性ではなく、神事を司る天皇(この時は倭皇太后天皇)の差配の下、神事采女が務めるそれぞれの寄代に神降りした天神の女神と地祇の女神が相手を務める。つまり、女神主導による成人儀礼であるから、大和人の理論では女神によって成人した大王は神々の産土の一員となる。ここに現人神の思想が成立したのである。

 その年の四月、大来皇女が伊勢国の神の宮で斎王となることが天下に告げられ、物忌みに入られた。斎王を迎える伊勢王は国の祝部たちに大王が降される斎王が何たるものかを教えていく。
 一方、物忌みの間、大来皇女は初潮を見、蘇我一族の誂えの下、裳着の儀礼を行い、成女となられた。その成女となった大来皇女に采女を務めたことのある額田姫王、祭祀氏族である中臣大嶋や忌部首たちが神祀りの神事の儀礼を教え授けた。その間に皇女は幣の扱いから神婚の秘儀までを細かく教えられていった。
 朱雀三年十月、物忌みを終えた大来皇女は伊勢国の神の宮に齋く斎王として伊勢国へ降って行かれた。
 大海人大王は暇乞いに来た大来皇女に二人だけの秘密の話をした。
「皇女、主は吾が一番、愛した大田皇女の最初の子じゃ。主の母、大田も愛しいが、大来も愛しい」
「今、吾は大王となり、主、大来は皇女となった。倭の掟では皇女は皇子に嫁ぐ」
「主の年を想うと、叶うのは高市しか、おらん。高市は、先の戦いを勝ち抜いた若き大将軍じゃ。じゃが、今、皇后は鵜野。故に主と高市を娶わすわけにはいかん。その訳は云わん、許せ」
「君、吾は稚ないが、その事情はよう判っております。御気になされるな」
 大王は、正面からじっと大来皇女を見つめる。
 普段の表情のない大王の顔とは違う。今、大王は父親の顔で聞く。
「さて、大来、主は伊勢王を見たことがあるか」
「君、数度、野上の陣屋で御姿を御見かけし、声も交わしたことがありまする」
「大来、その伊勢王をどのように思うか」
「御見かけした折り、君に似た、清々しい御方と思いました。これから、伊勢に降りますが、あの御方の国なら不安はありませぬ。ご心配なきように」
「そうか、清々しいか。良き男と思うか」
「君、清々しく、良き御方と思います」
「皇女、主の身内はこの父と弟の大津だけじゃ。その唯一の身内である父として云う、伊勢王は心から主、大来に惚れておる。だが、伊勢王は五世の王じゃ。その伊勢王は主を妻として迎えることは出来ん。そこで主は伊勢の斎王として伊勢神主が祀る神の宮へ参る」
「中臣大嶋や忌部首どもは、主に斎王としての神婚の心得を授けたかもしれん。奴らは御門の目合いを為すとしても神の心で為せと云うたであろう。じゃが、主が伊勢王を愛しいと思えば、女子として伊勢王と目合え。大王たる父が許す。そして、もし、男児を為せば、その男児は伊勢国の大神主となる。これは大王と伊勢神主との約定じゃ。人の目をはばかる、隠しの児とはならん」
 云う事を云った大王は、普段の表情のない大王の顔に戻った、
「大来、返事はいらん。もう、この父と逢うことはないであろう、達者で行け」

 十月下旬、伊勢国鈴鹿の国衙で伊勢王は大来皇女を迎えた。
 伊勢国の神の宮である都波岐神社には磐座はあるが、後年のような御社となる建物は無い。そのため、斎王の皇女は新たに建てられた斎宮に住む。この時、大来皇女は十五歳、伊勢王は三十五歳。王族の正妻として嫁ぐなら、当時としては共に相応しい年齢である。大来皇女は斎王と云う身分で、神主伊勢王の挨拶を受けた。その挨拶の間、皇女の心に父、大海人大王の言葉が響いた。
「女子として伊勢王と目合え、児を為せ」
 臣下から礼を受ける皇女の心は、潔斎し身を清め神に仕えると云う斎王と人を愛する女子との間で揺れ動いた。目の前の臣下の礼を為す伊勢王は、倭の貴族らしくたくましい体に涼しげな顔が載っている。皇女の正面で挨拶する伊勢王が、もし、皆が祝う背の君になるのなら女子として夜事が待ち遠しくなるような相手である。皇女の心の整理がつかない内に、伊勢王から斎王大来皇女のへの挨拶は終わった。
 その伊勢王は、連日、伊勢の神祀りに詳しい采女代を伴い、参上する。そして、皇女に斎王としての伊勢の神祀りの儀礼を教え、授ける。その伊勢王の姿かたちや清々しい身のこなしに、次第、皇女は神に仕える斎王ではなく、人を愛する女子の心になって行った。

 十一月半ば、その年の新嘗祭が伊勢国の神の宮である都波岐神社で執り行われた。来るべき初春の祈年祭は朝廷から勅使が降り、また、国中の祝部どもが集う。この新嘗祭は、その祈年祭の予行演習のような性格を持ち、国造家の内々の神祀りとして執り行われた。
 古式に小屋掛けした室の中で、屠蘇の大麻(あさ)酔いと采女代が唱える神寿詞や厳粛な神事に、斎王たる皇女の心は宙を舞った。控える采女たちは心を宙に舞わす皇女を八重畳の敷栲に据え退いた。そして、神の寄代となり神降りした女神と人の代表たる神主伊勢王は御門の目合いを為した。
 二度の交りの後、身に被さったまま息を整える伊勢王の耳元で大来は小さく伊勢王だけに聞こえるように告げた。
「父から主の心の内を聞いた。吾も主を愛しいと思う」
 伊勢王もまた密かに答えた。
「皇女、吾はこの身を皇女に奉げて、一生を仕える。それを神に誓う」
 皇女の心を聞き、伊勢王は想いが通じた感激に涙した。そして、その感激に体は猛った。その新たな猛りを男として皇女に注いだ。今、皇女は神の寄代では無く、人を愛する女子として伊勢王の猛りを受け止めた。
 その女子となった皇女の胸に大海人大王の言葉が再び響いた。
「女子として伊勢王と目合え、児を為せ」
 やがて、皇女は女神ではなく伊勢王の妻として豊饒の証の声を挙げた。伊勢王はその豊饒の証の声に最前とは違った皇女の女子を喜ぶ感情を感じた。そして、今、皇女は己が妻と思った。
 新嘗祭の秘儀は終わった。儀礼が終われば、二人は斎王と神主の立場に戻る。そして、神主伊勢王は、日々、精進潔斎する清い斎王大来皇女にかしずいていく。

 翌朱雀四年二月、伊勢王は神主として伊勢国一宮で伊勢国の祈年祭を取り行い、大来皇女は都波岐神社の斎王として神祀りを執った。摺り染めの純白の和栲の小袖に緋の袴を着け、真紅の衣を纏い、そこに黄金の髪飾りの下、漆黒の黒髪を垂らした清々しく美しい皇女の姿に、国の祝部どもはあまりの神々しさにひれ伏した。寄代となった斎王を天降りした女神として儀礼は進む。その夜、天上の神の世界から神主へと豊穣を約束する新霊を遷すため、神降りした女神は神主と御門の目合いを為した。
 深夜、大木が茂る都波岐神社の、かがり火の明かりに照らし出された境内に、荒栲の貫頭着を纏った国中の祝部どもが、整然と平伏している。その列の中を倭の巫女装束の斎王たる皇女が幣を両手に掲げ進む。その後を神主や采女が従う。秘儀を行う御簾の前で、斎王や神主どもは胡床に腰を下ろし、控えた。すると、勅使が集う者どもに大王の祈年祭を執り行えとの宣を陳べた。

「我が皇祖(みおや)の天皇(すめらみこと)等(たち)、世を治めたまふこと、天にせかがまり地にぬきあしにふみて、篤く神祇(あまつかみくにつかみ)を礼(ゐや)びたまふ。周(あまね)く山川を祀り、幽(はるか)に乾坤(あまつち)に通す。是を以て、陰陽(ふゆなつ)開(ひら)け和(あまな)ひて、造化(なしいづる)共(ことども)に調(ととのほ)る。今、朕(わ)の世に当りて、神祇を祭(いは)ひ祀(まつ)ること、豈、怠ること有らむや。故、群臣(もろもろのおみ)、共(とも)に為に心を盡して、神祇を拝(ゐやびまつ)るべし」

 宣を受け、斎王と神主は祈年祭の秘事を行った。屠蘇酒を頂き、その大麻酔いの中、次第、斎王は神の寄代となっていく。采女代の唱える神寿詞の中、豊饒の女神が寄代に天降りした。やがて、豊饒の女神と人の代表である神主とが御門の目合いを為した。深閑とした境内で平伏する祝部どもは、かすかに漏れ聞こえる秘事に神婚を確信した。
 やがて、数度の御門の目合いの後、豊饒の女神は天に還り、祈年祭は終えた。祈年祭の神婚儀礼を終えたあと、神主代が祝部どもと直会を行う。降り物の酒肴で皆が共食し、伊勢国人の一体感を確認する。
 翌朝、国の祝部どもは、今は恒例となった例の降し物の鉄鍬と刀子とを抱え、里へと帰っていった。
 祈年祭の夜に行われる神婚神事は、建て前では寄代に神降りした女神から神主へと豊穣を約束する新霊を遷すための御門の目合いである。しかし、若い生身の大来皇女にとっては伊勢王を初めて夫として身に迎えることと実質は変わらない。大海人大王は、若い生身の大来皇女を祝うため、倭から身内の女子どもとして十市皇女と阿閉皇女とを伊勢国へと行かせた。これもまた、建て前として大王から伊勢の神への奉げ物の送達使と云う形を取った。

 この伊勢国では、確実に大王の神祀りが国の里々に根付いて来た。そのため、里毎には古風の特別な縁日や神祭りをするが、春の祈年祭、夏の大祓祭、秋の風日祭、冬の新嘗祭は、どの里でも、神祀りの儀礼はほぼ同じ式次第と神寿詞で行う。そして、その神事には奉げ物として鉄鍬と刀子が大王から降され、国造が取り次いだ。
 国家の統制が入る分、次第、次第に巫女と神主の立場が逆転した。巫女の役割は、古来、神の寄代となり、神降りした神の御言葉を告げることである。つまり、神託が主体であった。それが、今は女神の寄代として神主との神婚儀礼に比重が移った。女神と神主とが為す御門の目合いでは、建て前とは違い、それを生身の人が為すため、勢い、男の神主に儀礼の主導権が移る。自然、神主はその儀礼での見栄えが良く、また、御門の目合いでは相手となる若い体を持つ神事采女を好んだ。


 倭でも国の神祀りの準備は進む。里の神祀りではなく、大王の神祀りとするため、龍田と広瀬の神の御社に近い斑鳩に宿泊が可能な官舎を準備した。大和では古来、神の磐座に御社のような建物はない。場合により、神稲等を蓄える倉があるばかりである。里の祀りから国の祀りにするためには、集う人々の宿舎が必要となる。
 朱雀五年(676)四月、倭の神祀りの準備は整った。中臣大嶋や忌部色夫知は、大王の名で倭の国中の県主、神主、祝部を斑鳩に集めた。しかし、昔の伊勢での神祀りと同じように来る者もいれば、来ない者もいた。
 その倭の神祀りは、初め龍田で風の神に豊饒を祈り、次いで広瀬で水の神にも豊饒を願った。その夜、斑鳩の官舎で倭のしきたりに従い、采女の集う砕けた直会が行われた。翌朝、祝部どもに大王からの降し物として、太刀、鉄鍬、刀子が渡され、それを以って里で夏の大祓いの祀りを行うようにと申し渡された。この一連の神祀りの儀式で倭の祝部どのは噂で聞いていた伊勢国の神祀りのなんたるかを実感した。
 秋七月、再び、龍田・広瀬で神祀りが行われた。この度は、誰一人欠けることなく、倭の祝部どもは集まった。神祀りの後、やはり、降し物があった。ただ、今度は鉄鍬と刀子だけで、大王からの太刀はなかった。この年以降、龍田・広瀬での神祀りは恒例となり、倭の国中の県主、神主、祝部だけではなく、全国の祝部どもへも参加が呼び掛けられた。そして、集う祝部どもにそれぞれの里の善き稲種や特産の農作物があれば持参するようにと呼び掛けられた。

 飛鳥の朝廷は、この神祀りを通じて稲の品種改良と農作業の改善を図り、指導していった。全国から善き稲種が集められ、倭でその品種の良さの確認をし種籾を作った。次第に龍田・広瀬での神祀りの降し物に鉄鍬と刀子だけなく、神事初穂として稲種となる品種改良された稲穂も加えられるようになった。
 全国の祝部どもは、倭、斑鳩への旅の途中、田興しの方法、稲の作り方、秋の実りを見聞きする。そして、里には毎回、農作業で使う鉄鍬と刀子を貰い、加えて試験作付けのための稲穂も貰った。
 この時代、急速に全国の鉄鍬の形は倭式に統一され、農地と収穫は大きく伸びた。そして、郡家や国衙には次々と籾を保存するための倉庫が建てられた。やがて、伊勢国と同じように全国の神祀り、特に朝廷が命じる春の祈年祭、夏の大祓祭、秋の風日祭、冬の新嘗祭での式次第や儀礼は大王のものへと統一されていった。
 大和の人口は飛鳥時代から奈良時代の百年間で四百万人から五百五十万人へと、ある種、人口爆発を起こし、唯一この時期だけ、人々の体格もまた昭和期に匹敵するほどに大きくなった。逆に見れば、急激に増加する農作物の生産がその人口爆発と体格向上を支え、促した。ただ、この人口爆発や大きな体格は奈良時代中期を境に終わり、平安時代を通じ暗黒の人口停滞期に入った。体格もまた矮小化へと逆戻りをした。
 この人口爆発期に全国の祝部どもは、大王が祭主となるこの神祀りへの招待を願った。この神祀りに集えば、なにがしかの農作業や収穫の向上が期待できる。それは里長でもある祝部どもにとって里での経済と立場に関わる深刻な問題である。もし、己一人招待されず、結果、他の里と比較して遅れを取れば里人は承知しない。少なくとも、大海人大王が統治する朱雀年間、大和の国々では決定的に鉄鍬は不足していた。地方の里では不足する、その鉄鍬や刀子が班弊される神祀りに招待されないことは、里長でもある祝部には致命的な問題となった。
 全国の祝部どもが参加を願う、この倭での大王が祭主となる神祀りは、神祇官から諸国の国司守へ、国司守から郡司へと伝達される。つまり、国司守の伝令は確実に里長へと伝えられ、その里長は伝令に従う。力での国家の統一ではなく、神祀りによる国家の統一が進んでいった。結果、大和の国々は、その地方々々での気候、風習、方言などが違うのだが、奇祭と云う特別な行事を除けば、神社の社の形式、神事の形式や式次第、祝詞奏上などが共通統一化された。
 少し後の時代になるが、こうして出来た伝達や招聘の慣例を背景に大王の班弊に漏れた郡司が、それを理由に入間郡正倉神火事件を起こすほどになった。

 大海人大王が云う仏教での統制に目を向ける。
 壬申の乱の翌年の朱雀二年(673)十二月、朝廷は早くも、左大臣高市皇子の指揮下、三野王と紀臣訶多麻呂を造大寺司に命じて国営の高市大寺(後、大官大寺と改称)の建立に取りかかった。同時にこの高市大寺に僧侶を統率する知事を置き、百済人僧侶の福林と義成を任命した。仏教徒は僧侶を通じてこの知事の指導の下に入ることになる。
 さらに朱雀四年四月、その知事の命令の下、僧尼併せて二千四百人余りを集め、法要を行わせた。もともと、伝来した仏教は大唐で国家平安を願う律宗を中心とした組織仏教に変質しており、僧尼たちは統制が行われることに違和感を持たなかった。
 朱雀六年(677)八月、太政官は官人全員に命令を下し、家毎に出家僧一人を出させ、その保持を行わさせた。ここに大和の官人は氏の神祀りと朝廷の仏教によって縦串と横串とで統制されることになった。
 もともと仏教徒であり、壬申の乱の功臣で、今は理官となった大三輪高市麻呂は大王の推奨に従い、三輪山に次々と寺を建て、仏を敬った。この大海人大王の時代に、三輪山は私寺ではあるが倭随一の仏教聖地となった。その大檀越高市麻呂の姿に、百済人などの仏教徒は大王が行う大和の仏教庇護に信頼を寄せた。
 朱雀八年(679)十月、大海人大王は僧尼の身分に合わせた法衣や供などの規定を定め、僧侶たちのさらなる統制を行った。ついで、僧侶が守るべき規定と僧侶の老後の保護について指示をした。
 さらに朱雀十二年(683)三月になって、僧正・僧都・律師の階級制度を定め、国が任命する僧正たちに僧尼の監理・統制の責任を負わせた。また、同時に僧尼令を公布した。朝廷は国の律令整備とともに仏教を庇護はするが、同時に管理をする姿勢を強めていった。

 こうして、大海人大王の朝廷は大和の神祀りと国家仏教の両面から、国家と云う骨格を形作って行く。伊勢王が企画したように、力で抑えつけるのではなく、古来の里の神祀りを大王の下に集めることで、大和の国々は大王の支配下に入っていった。
 さらに、朝廷は神を祀る大王の命として、農地を耕し田畑を興す者は里の神祀りを通じ、収穫の三分を拠出することを命じ、祝部たる里長にその収納の責任を負わせた。その三分の収穫は神の倉に納められる。また、各戸に使役を割り当て、道造り、堤の整備や新たな開墾に従事させた。全国の祝部たる里長や里人は、知らず知らずの内に、律令の租庸調の税体系に取り込まれていった。なお、三分の収穫は大宝律令での租税である田1段につき2束2把に相当する。
 他方、仏教徒に対し朝廷は国家仏教の統制のため信者と出家を峻別した。出家には国家試験合格要件と年度毎の定員を定め、私仏僧を禁じた。あくまで、朝廷の承認の下に、仏教はある。
 外国から見れば魔法のような方策で、大和の国中が律令体制へと組み込まれていった。そこに混乱や反乱はなかった。当然、不満分子やその新たな体制に馴染めない者も出る。しかし、それは少数であった。ただ、神の倉に集まる稲などの収穫物を自分の物と公の物とに区別が出来ない者はいた。朝廷の責任者である高市皇子は、公私の区別が出来ず神の倉の収穫物を私物とした者は、王族と云えども盗賊と同じ扱いで処罰した。それが里の掟であるし、大和の律令体系の背景でもある。

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