竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 伊勢皇太神宮

2014年05月25日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
伊勢皇太神宮

 朱雀十四年(685)、大海人大王は、次第、体調不良を訴えるようになった。その年の九月、大王の疾病治癒を願って、大官大寺、川原寺と飛鳥寺で法要が行われた。
 朱雀十五年五月、大海人大王は高熱を出された。その急激に悪化する病状に朝廷は緊張した。大王が日嗣に指名した草壁皇子は虚弱で大王となる風格ではない。反って、一歳年下の大津皇子の方が身体頑強で、大海人大王に似て文才があった。
 ただ、人々は左大臣高市皇子の技術者のような性格を良く知る。一度、決めたことは固く守る。草壁皇子の皇太子への指名は大海人大王の希望でもあるが、同時にそれは、壬申の乱の大将軍であり、飛鳥浄御原宮の左大臣を務める高市皇子の意思を無視したものではない。大海人大王と高市皇子の合意の下での草壁皇子の皇太子への指名である。大王が崩御されても、左大臣高市皇子が在る限り、草壁皇子の次期大王の就任は動かない。政権の中枢に近い者はこの事情を良く知る。草壁皇子がいかに虚弱であろうと、実務を行う左大臣高市皇子が健在である限り、朝廷に動揺はない。
 しかし、政権から離れれば離れるほど、この事情を知らない。勢い、表面上の皇位継承一位の草壁皇子と二位の大津皇子とを見比べる。さらに大海人大王や左大臣高市皇子の指導の下、日嗣への教育を受ける草壁皇子と有力な後見人もなく自由奔放に育った大津皇子では付き合う人々が違う。そのため、下世話では大津皇子の受けは良い。大王の不予の状況の中、にわかに大津皇子に近づく者が増えた。
 七月、人心不安の中、落雷で忍壁宮から出火し、民部省の倉庫までを焼失事件が起きた。人々の不安な気持ちは一層、掻き立てられた。さらに、連日、皇后天皇鵜野皇女らの要請で催される大王の治癒祈願の法要や神祀りが、反って、大王の死期を想像させる。その人心が動揺する中、文才ある大津皇子は身を慎むことなく、徒然に亡命百済人などの学識者たちと漢詩文の交友を持ち、時に、その屋敷に泊まり夜伽の馳走を受けた。

 九月九日、大海人大王は崩御された。朝廷は天下を挙げて、大王の喪に入った。
 十一日、宮中に殯宮を建て、皇后天皇鵜野皇女の意向で法要が執り行われた。
 二十七日、僧尼たちが殯宮から退出した後、大和の古風の葬送儀礼である誄(るい)が始まった。その誄は、連日、大王の棺に奉げられる。古風の誄は、棺の前で葬送の礼を奉げる者が全身を震わせ、髪を切り、身を切裂き、常とは違う姿と流すその血や痛みで、大王への忠誠と悲しみを表す。
 その最中の二十九日、葬送の儀礼と謹慎に飽きた大津皇子は、亡命百済人や新羅人の学識者と詩文の宴を持ち、その屋敷に泊まり、普段のように夜伽の馳走を受けた。その時、日頃、同じ漢詩文の文才があり交友もあった川島皇子は大津皇子から詩文の宴の誘いを受けたが断った。逆に大津皇子に誄が執り行われている今は謹慎するようにと忠告した。
 その川島皇子の使者は大津皇子に皇子の忠告を伝えた。
「君、我が主、川島からの忠告でありまする。いま、大王の殯りの最中、身を慎まれるよう」
「なんぞ、川島は吾の誘いを断るか。吾はこのように慎んでおるわい。ただ、風流の誘いは、断れん。大王を悼む漢詩を詠うことが、殯りの礼に背くはずはない。吾の詩歌の宴の誘いを断るとは、反って、川島は礼無き奴じゃ」
 宴が催された翌三十日、川島皇子は大津皇子に、再度、身を慎むことを忠告した。
 不幸は、この時、起きた。昨夜来の詩歌の風流と夜伽での珍しい韓女子の馳走に心地良い大津皇子は、その気分をぶち壊されたと感じ、忠告に来た川島皇子の使いに怒鳴り付けた。
「吾の風流の宴の誘いを断った礼無き川島が、吾に礼を教えるのか、ふざけたことを云うな」
「漢唐では、悲しみを漢詩に表すのは士大夫の心得じゃ、去ね。この風流なき者どもめ」
「己は目障りじゃ、二度と、この屋敷にくるでないぞ。川島に云っておけ」
 川島皇子の使いは念を押して帰って行った、
「君、我が主、川島の御言葉をお忘れなきよう。君の御命に従い、もう、参りませぬ」

 皇位継承第二位で、反って、皇太子の草壁皇子より優れていると自負する大津皇子は、再三に渡って、忠告を告げる川島皇子の使いに腹を立て、どなりたて、追い返した。川島皇子の使いは、逆に腹を立て帰っていった。これが噂となり、飛鳥浄御原宮中に広まった。
 大海人大王の誄には全国の国造や祝部が集められた。大王の誄の日に間に合わすため、鄙の里から昼夜を分かたず駆けつけた祝部どもは、その身を潔斎し、誄では血を流し大王への哀悼を奉げた。その誄の最中に大津皇子が百済人や新羅人と歌舞音曲を行い、女を抱いたとの噂が流れた。神祀りを司る祝部どもは穢れだと怒りを挙げた。その怒りと穢れの祓いを求める抗議に、皇后天皇鵜野皇女、左大臣高市皇子、王族代表伊勢王たち、大王に血で繋がる者たちは面子を完全に潰された。
 十月二日、大和の神祀りのシステムの崩壊を恐れた左大臣高市皇子は兵を大津皇子の宮に送り、皇子や従者どもを逮捕し、事実を確認した。その時、高市皇子や朝廷のものどもは「噂は嘘であって欲しい」と願ったが、やはり、それは真実であった。

 高市皇子は、伊勢王を始めとして大王家の主だった人々が集う中、大津皇子に問い質した。
「大津皇子、皇子は去る二十九日の夜、飛鳥の新羅人の屋敷で詩歌の宴を開いたか」
 大津皇子は兵に包まれて太政官府に連行されたことに不審を抱いていた。大津皇子は、今は確かに殯宮の最中ではあるが、己は常と同じ振る舞いをしており、何ら、やましい行いをしたとは思っていない。それより、誰か、日嗣に関わって皇子が預かり知らぬ創り事を誣告して、反逆の罪に陥れたのかと思っていた。
「左大臣、この物々しい扱いは、そのことか。確かに二十九日の夜、詩歌の宴に集い、大王を悼む漢詩を詠った」
「大唐では漢詩で亡き人を悼むのは士大夫たる人の礼と云う。吾は、それに倣った」
 大津皇子は、やや安堵の下、申し開きをした。
「さて、大津皇子。その夜はどう為された。夜半には屋敷に戻られたか」
「いや、朝まで詩歌の宴を楽しんだ。屋敷に戻ったのは朝じゃ」
「すると、朝、飛鳥から磐余に戻られたのか。では、その時、祝部どもの禊を見られたか」
「おお、確かに祝部どもの禊に出会った。古風に荒栲の衣だけを纏って禊をしておった。身を冷たき水に曝し、身を清めておったのう」
「そうか、大津皇子は祝部どもの禊を見られたか」
「確かに、朝、禊を見た」
「大津皇子、もう一度聞く。新羅人の屋敷で夜を馳走にならなんだか」
 大津皇子は、ようやく、己に問われている状況を掴めてきた。確かに、新羅人の屋敷で夜伽の馳走を受けた。それは深夜まで宴を楽しむ時には良くあることである。時に宴の主は貴人の胤を求め、己の娘を夜伽に出す。その風習からすると、夜伽を受けることは宴に招かれた返礼に等しい行為となる。大津皇子はその返礼の感覚で、常の事として詩歌の宴の後、新羅人の屋敷に泊り、夜伽の馳走を受け、韓の女子に胤を授けた。その帰り姿を大海人大王の誄のため、夜明け前から禊をする祝部どもに見られた。また、そうした姿を諌める川島皇子の使いを怒鳴り付け、追い返したことを己の屋敷の者もみている。それを思い出したし、「まずい」とも思った。「これは、確かにまずい」と思った大津皇子は白を切ろうとした。そして同じ答えをただ繰り返した。
「いや、朝まで詩歌の宴を楽しんだ。屋敷に戻ったのは朝じゃ」
「大津。宴を開いた新羅の道教僧、行心は詩歌の宴は人定(にんじょう)の終(23時頃)には終えたと云う。また、己の舎人礪杵道作は皇子に従い、夜明け、屋敷に戻ったと云う」
「大津、再度聞く。夜を馳走にならなんだか」
 大津皇子は、もう、黙り込むしか出来なくなった。全ての調べは終わっていると思った。
 高市皇子は云う。
「大王の殯りの宮を穢す、礼無き罪は大罪じゃ。大罪の罰は死ぬる罰か、遠の配流じゃ」
「己が大王への大罪を犯したのなら免謝は無く、妻女もまた縁座の罪となる。しかし、皇女の身分の者に死ぬる罰や遠の配流の罰を与えることは出来ん」
 配流の罪人は身を没官され官奴となる。そして開拓農民か、官衙の奴となる。縁座の若き女であれば官衙で宴に侍り、また、客人の夜床を温める遊女に落とす。当然、皇女の身分の者にそのような扱いは出来ない。通常、処罰を下す前に既に縁が切れた形を取る。
「さて、大津。いかがする」
 高市皇子や伊勢王を始めとして大王家の主だった人々は大津皇子が妻女を放ち、己一人で罰を受けると思った。そうであれば、死ぬる罰を免じ、遠の配流でことは収まる。それが、人々の期待であり、高市皇子の腹案であった。一方、大津皇子は妃の山辺皇女を抱えていれば、全ての罰を許されると思った。
 結局、有力な後見人もなく自由奔放に育った大津皇子は少年時代から望む物、全てが与えられ、全ての己の意が叶えられてきた、その育ちが最後まで顔を出した。配下の大舎人の名を挙げ、夜はその者の用意であったと云い、妃の山辺皇女は今でも己の正妻であると云い張った。大津皇子が足掻けば足掻くほど、誰もの救いは無くなった。

 十月三日、大津皇子はその死で大王の殯宮を穢した罪を贖った。そして、妃の山辺皇女もまた大津皇子の正妻として縁座の罪の下、大津皇子に殉する形で死を賜った。大津皇子とその妃、山辺皇女は、倭の古風により磐余の自宅で亡くなった。ただ、倭の礼を知らないものどもは大津皇子の死から己が知る百済や大唐の公開処刑に擬え、悲劇の主人公として皇子にそれに似合う漢詩を詠わせ、皇女には男の許へ通う街娼婦かのように衢を裸足で走らせた。まず、倭の高貴な身分の人々ではありえない風景である。倭では罪を受けた高貴な身分の人は自宅の居間で自死する。それが決まりであり、朝廷はそのように実行する。
 一方、誄の最中に大津皇子と詩歌の宴を張り、夜伽を馳走した新羅人の道教僧、行心は、僧侶のため死罪に出来ず、子、隆観たちと共に飛騨国への遠い配流とされた。十一月になって、全国の国造や祝部たちの前で実弟、大津皇子が礼無き失態を犯したことから、大津皇子の姉大来皇女にも穢れは及んだとして斎王を解かれた。そして、伊勢一宮から飛鳥浄御原宮へと呼び戻された。

 この年、朱雀十五年を改め、朱鳥元年(686)と改元した。
 皇后天皇鵜野皇女と左大臣高市皇子は、漢・宋の例に倣い大海人大王の喪の期間を三年とされた。その間に飛鳥では大王の稜が大内(明日香村野口)に築かれた。
 一方、神祀りを執り行う伊勢王と中臣大嶋は、左大臣高市皇子の命を受け、大和の神祀りの束ねであった大王の新しい葬送を考えた。中華では皇帝は稜と廟とに祀られる。そこで、大和でも廟があっても良いのではないかと考えた。その考えの下、左大臣高市皇子、伊勢王や中臣大嶋たちは、大和の新しい大王の神祀りと神送りの儀礼を整えることにした。
 古来、倭の葬送の誄は血と叫びの葬送儀礼である。倭の大王であれば古風の誄でも良いが、世界に立つ大和の大王の葬送は、新羅や大唐の人々にも理解でき、荘厳であることが必要と考えた。そして、清々しく、荘厳であることを根本として、大王位就任の天降り神事を参考に、大王の葬送とは地上に神降りした大王を神として天へと送り返す儀礼であると定めた。そして、大王の御霊は天つ国から大和を包まれているとした。
 その中で伊勢王は大海人大王に殉死出来なかった思いを胸に隠居し、伊勢で大王の御霊の神祀りをすると云う。その心情と決意に高市皇子は合意した。ただ、伊勢王個人による大王の御霊の神祀りではなく、大和としての大王の御霊の神祀りとするようにと願った。つまり、伊勢一宮である都波岐神社ではなく、伊勢の新たな清々しい土地に大王の御霊を神祀る廟を建てるように指示した。その高市皇子の指示に従い伊勢王は場所を探した。そして、皇子に報告した。五十鈴川の辺、度会に良き場所がある。この地には渡来人も居ないし、寺も無い。また、相応しき盤座もある。朝廷は、その度会に大王の御霊の廟を建てることに決めた。
 朱鳥三年(688)九月廿日、大王の御霊を祀る皇太神宮が度会に完成した。伊勢国造と太政官の立場から引退した伊勢王は皇太神宮の神主として、大王の御霊を皇太神として祀った。その皇太神が祝う祈年祭の神祀りに、伊勢国鈴鹿郡から度会郡に移った伊勢王の傍らに、あの大来皇女が妻として寄り添っていた。ただ、縁座の罪の穢れで斎王を解かれた大来皇女は、その皇太神の下で祝う祈年祭の神祀りには参加出来ない。大来皇女は自ら望んで伊勢王の隠れ妻となり、飛鳥からこの度会に下った。鈴鹿一宮での神事とは違い、皇太神宮での神降りの秘事の神事では神の寄代には巫女がなり、その神降りは采女代が采女を率いて執り行う。神主はその神祀り全体を差配した。そして、これが平安時代まで慣例となった。

 皇太神宮の神祀りに祭主の代理として中臣大嶋と忌部首が飛鳥浄御原宮から派遣された。そして、神主伊勢王の差配により、全国の祝部を集めて、大王の神祀りが行われた。古来の呪術の色濃い神寿詞に代わり、新たな神祀りの形となる祝詞が奏上され、中臣大嶋たちにより装束、拝礼、祝詞、宣など、細かな式次第が祝部たちに授けられた。
 勅使中臣大嶋は宣を読み聞かせ、神主伊勢王は祝詞を奏上した。

「天皇(すめら)が御命(おほみこと)を以て、度会の宇治の五十鈴川の上(ほとり)の下津石根に称辞(たたへこと)竟(を)へ奉る皇太神(すめおほかみ)の大前に申さく。常も進(たてまつ)る二月の祈年(としごい)の大幣帛(おほみてぐら)を、神主伊勢王を使として、捧げ持たしめて進(たてまつ)り給ふ御命(みこと)を、申し給はくと申す」
「高天の原に留り坐す皇睦(すめむつ)漏伎(かむろぎ)の命、漏彌(かむろみ)の命以て、天つ社と國つ社と称辞(たたへこと)竟(を)へ奉る皇等(すめかみたち)の前に白さく、今年二月に御年(みとし)初め賜はむとして、皇御孫(すめみま)の命(みこと)の宇豆の幣帛(みてぐら)を、朝日の豊逆(とよさか)登りに称辞竟へ奉らくと宣る」

 祝部たちは、古来、受け継がれてきた盤座とは違う、この神の御社と新しい祈年祭での神祀りの形が気に入った。これから造る里での神の御社とは、己の屋敷と等しいものになるし、荘厳な儀礼は己の権威を高めるものになる。そして、里で祝部たちの権威が高まれば高まるほど、大王の皇太神宮の権威は高まり、ひいては朝廷の権威も高まる。
 また、高市皇子は、皇太神宮の建立に当たって、神祀りの御社の清々しさを保つためと大海人大王の昇天を確かにするため、二十年に一度の朔旦冬至を二十推、経ると地上の王は天に帰ると云う黄帝仙登于天の教えから定められた仙人道教での祭祀の規定に準えて、二十年毎に神の御社を建て替えることを定めと為された。


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