竹取翁と万葉集のお勉強

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平安貴族の万葉集の訓みを考える

2017年05月12日 | 初めて万葉集に親しむ
平安貴族の万葉集の訓みを考える

 最初に、ここからは、内容がさらに退屈になります。ただ、先に紹介した万葉集の歌の鑑賞方法を理解した上で、紹介する平安貴族の万葉集の訓みを見れば平安時代後期以降の貴族たちの万葉集の解釈の拠り所を推測することが可能ですし、それを受け継ぐ正統な万葉集の訓じの背景を理解出来ると思います。
 なお、同じ平安貴族の括りになりますが、紀貫之以前の平安貴族の万葉集の解釈は、平安時代最末期以降の貴族たちとは違い、先に紹介しました「万葉集の歌は漢語と万葉仮名と云う漢字で書かれた歌」と云う原則を理解して歌を解釈していたとの確証があります。この確証については弊著「原万葉集 奈弖之故と宇梅之難奈」で説明していますので、興味がありましたら参照を願います。

 ここまでの説明を通して「社会人のための万葉集」の鑑賞方法を提案しました。すると、賢明な社会人である貴女や貴方は「どうして、本来の万葉集の歌の特徴に注目して、今までは万葉集の歌を鑑賞しなかったのか」と、少し、疑問に持たれたと思います。
 実は、先に紹介した万葉集の鑑賞方法は、近年の日本語進化の研究の成果を下にしたもので、従来の万葉集研究の主体である国文学の古典研究者ではなく、これらは主に日本語の言語研究者側から提案されたものがベースとなっています。そのため、従来とは違った新しい(実際には紀貫之まで戻る)鑑賞方法なのです。
 従来の万葉集の鑑賞方法は、平安時代最末期の藤原俊成・定家親子や鎌倉時代の仙覚の訓読みの研究、所謂、万葉集の次点や新点をベースとして、今日に和歌道として伝わった正統な万葉集の訓みがベースとなっています。特に伝わる伝本で二十巻が揃った完本が仙覚系のものが中心であると云うことから、現在の万葉集の読み解きは仙覚系の「西本願寺本万葉集」を底本に昭和時代以降に整備されたものを下に、原歌とその読み解きを添え「校本万葉集」として成立しています。他方、ここで使う万葉集原歌と称しているものは、この「校本万葉集」の一つである『萬葉集』(おうふう)からその脚注を使って原歌を「西本願寺本万葉集底本」に戻した原歌表記だけを使用しています。つまり、「西本願寺本万葉集」の原歌を万葉集としています。
 校本万葉集のものを採用しない理由の一つとして、和歌道を正統とする校本万葉集の読み解きは、やはり、そこに始祖と時代の影響があると考えます。そして、その時代の第一人者である藤原俊成・定家親子は、強烈な和歌に対する美意識で和歌道を作り上げた人でもあり、その和歌に対する美意識が今日まで伝わる万葉集の訓読みに多大な影響を与えています。このような感想があるため本篇では現在に伝わる読み解きを参考にしても、採用はしません。また、原歌比較において、「西本願寺本万葉集」と「校本万葉集」では、その原歌が一致しないものが多く、本編では原歌から鑑賞すると云う特異な方法を採用しているために「校本万葉集」の読み解きの成果を直ちに「西本願寺本万葉集」へと展開することが出来ないことにもよります。
 このような説明をされると、社会人として万葉集を鑑賞する折りに、標準的な万葉集の読解史から村上天皇の「梨壺の五人」の古点を受け継ぐとされる平安時代後期から鎌倉初期の王朝和歌人たちが読み解いた万葉集の訓読みとはどのようなものなのかと、色々と興味が湧くと思います。
 こうした時、現在の万葉集の訓読みに多大な影響を与えた仙覚の新点以前となる鎌倉時代初期の建久四年(一一九三)に行われた歌会でその判者である藤原俊成が点けた勝負の判定とその判定を記録した覚え書きの書、所謂、『六百番歌合』に対して異議を申し立て、反論を陳べた歌論書があります。それが顕昭の記した『六百番陳状』です。この『六百番陳状』で、顕昭は万葉集の歌を多く引用し、藤原俊成の為した歌の判定に対して批判を加えています。そのため、平安時代最末期から鎌倉時代初期の万葉集の訓みを知るのには都合の良いものとなっています。そこで、この六百番陳状に載る万葉集の歌を紹介いたします。万葉集の訓みの分類では顕昭のものは時代区分では次点にグループ分けされますが、その内実では古点に近い位置と想像します。参考として、時代は仙覚の校本作業より前ですから、俊成や顕昭が使った万葉集テキストは『元暦校本万葉集』、または藤原定家系と思われる『広瀬本万葉集』と称されるものを使っていたと考えられます。
 さて、この顕昭は、歌学書を多数残す、平安時代最末期から鎌倉時代初期の歌学者を代表する人物で、藤原定家の御子左家に対抗する六条藤家歌学の大成者とされています。そこから、この六百番陳状に引用する万葉集歌の訓みはその時代を代表するものと考えられます。万葉集歌の紹介では、俊成の六百番歌合と顕昭の六百番陳状とを一続きのものとして、彼らが万葉集歌を引用したものの中で歌一首全体を引用したものを取り上げます。紹介する順は六百番歌合に載る三首から二首を取り出し先に置き、ついで六百番陳状に載る五十一首から二首を後とします。
 六百番歌合や六百番陳状に引用する万葉集の漢字交じり平仮名表記の歌に西本願寺本に従う原歌とそれに対応する試訓を添えます。六百番陳状は建久四年(一一九三)の作であり、「西本願寺本万葉集」は文永三年(一二六六)頃に仙覚が再校合を行ったものの写しとされていますから、資料としては約七〇年の差があります。六百番陳状と西本願寺本万葉集とには七〇年の時代の差はありますが、それでも訓みの比較を見て頂くと判ると思いますが、俊成や顕昭たちの万葉集の理解にはある特徴があります。その特徴の背景を藤原俊成が『六百番歌合』 春上の部 五番歌合の評論の中で次のように述べています。

「万葉集は優なる事を取るべきなりとぞ故人申し侍りし。是彼の集 聞きにくき歌も多かるが故なり。・・・中略・・・又彼集の時までは歌の病をさらず」
 また、戀七の部 七番歌合では、次のように論評しています。
「鯨とるらんこそ万葉集にぞあるやらんと覚え侍れど、・・・中略・・・、凡は歌は優艶ならん事をこそ」

 つまり、歌の評価や作歌では、その歌を詠うときの歌の詞自体や調べの優美さを重要視しています。ここから、現在の万葉集の歌の理解である「万葉集歌とは、漢語と万葉仮名と云う漢字だけで記されたもので、漢字が持つ表語文字の特性を生かした特徴を持つものである」と云う、その万葉集が持つ特殊性を尊重や理解をしていなかったことが推測されます。
 およそ、平安時代最末期から鎌倉時代初期の和歌人は、万葉集歌もまた常の「調べの歌」の範疇として扱っています。そのためか、顕昭の万葉集歌の訓みも、原歌を忠実に訓むより、歌の調べや当時の和歌での雅な語調を優先しているかのように感じられますし、歌番号四二九二の歌の比較にも見られるようにその訓じからは彼らが理解した歌意が万葉集本来のものと同じかは疑問を持たざるを得ません。ただし、顕昭が引用する「戀せじと御手洗河にせしみぞぎ神はうけずもなりにけるかな」の歌(伊勢物語第六五段の歌)を校本万葉集に見つけることができませんでしたから、万葉集の原本が伝わらない状況では訓みを比較するにおいて、その扱う平安末期の万葉集と現在の二十巻本万葉集とが同一かと云う問題はあります。
 なお、六百番歌合では俊成は顕昭の歌を「万葉調」として「歌の優艶」について評論しています。この「万葉調」の意味合いとして、顕昭が作る歌は平安貴族には「やや硬い、恐ろしい」と思われていたことからそのような「やや硬い、恐ろしい」ものと思って下さい。少し、理解しにくい感覚ですが、藤原俊成は「鯨(いさな)捕る」と云う万葉集に良く使われる句が「恐ろしい」言葉の代表の一つとして、その句を使った顕昭の歌を論難しています。
 彼らの時代、藤原定家が紀貫之の『古今和歌集』や『土佐日記』の原歌を添削・改訂したように、どのような立派な古典であってもその作品が文学的に優艶でなければ書写において原歌を添削して改訂することを当然と考えていたと思われます。つまり、万葉集本来の表記を知っていても、彼らが思う優艶と云う基準から、それを原歌の表記通りに訓じたかどうかは判らないのです。なお、学問として万葉集歌の奈良時代当時の正確な訓みは『宋本廣韻』などとの比較以外、確定できないのだから、ここでの比較は意味を為さないとの批判は、当然、有り得ると思います。ただ、比較と傾向と云う概念を下に推定や推論を行うことは可能と考えます。
 紹介する歌の訓みの比較を通じて、万葉集の鑑賞で「万葉集とは、漢語と万葉仮名と云う漢字だけで記されたもので、漢字が持つ表語文字の特性を生かした特徴を持つものである」と云う万葉集が持つ本源的な特徴に向き合うのなら、万葉集もまた調べの歌の範疇として扱う二条流などの流れを汲む現代の万葉学は、歌学史の参照になっても本格的な万葉集本来の漢字表記からの歌の鑑賞には使えないことが推認されます。つまり、万葉集の鑑賞で先達の解説を参照するとき、それが万葉集の歌を新古今調に読み解かれた万葉風の和歌の解説なのか、万葉集本来の和歌の解説なのかの区別を行うことが大切です。多くの万葉集は漢字が持つ表語文字の特性を利用する歌ですから、本格的な鑑賞では漢字だけで記した原歌表記を離れてその訓読みされた漢字交じり平仮名表記の歌だけをもって「調べの歌」として単独で存在することはできません。原歌表記が歌の読解では主体であって、訓読みされた翻訳歌は一般の人の古典作品への理解を補助する参考に過ぎません。

 紹介する藤原俊成と顕昭との万葉集歌の訓みは『六百番歌合』・『六百番陳状』(峯岸義秋校訂、岩波文庫)から転記し、鎌倉時代初期での訓みの比較を行う趣旨から万葉集の原歌は『萬葉集』(おうふう)から脚注を使って復元した西本願寺本万葉集歌を用い、その西本願寺本万葉集歌に対する試みの私訓を使用しています。『六百番歌合』と『六百番陳状』とで万葉集歌の和歌全句を引用するものは藤原俊成が三首、顕昭は五一首、都合五十四首ですが、ここでの目的と紙面の都合上、俊成の読みを二首、顕昭の読みを二首だけを紹介します。残りのものは弊ブログ「竹取翁と万葉集のお勉強」に「万葉雑記 資料編 六百番歌合と万葉集読解」のタイトルで載せていますので、参照をお願いいたします。

六百番歌合より 俊成の読み
歌番号二二六五
原歌 朝霞 鹿火屋之下尓 鳴蝦 聲谷聞者 吾将戀八方
俊成 朝霞かひやが下に鳴く蛙聲だに聞かば家戀ひんやは
私訓 朝霞(あさかすみ)鹿火屋(かひや)し下に鳴くかはづ声だに聞かば吾(われ)戀ひめやも

歌番号三八一八
原歌 朝霞 香火屋之下乃 鳴川津 之努比管有常 将告兒毛欲得
俊成 朝霞かひやが下に鳴く蛙忍びつゝありやと告げん子もがも
私訓 朝霞(あさかすみ)鹿火屋(かひや)し下の鳴くかはづ偲(しの)ひつつありと告げむ子もがも

六百番陳状より 顕昭の読み
歌番号八一五
原歌 武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎利都々 多努之岐乎倍米
顕昭 む月たち春のきたらばかくもこそ梅をかざして楽しきをつめ
私訓 正月(むつき)立ち春の来(き)たらば如(かく)しこそ梅を招(を)りつつ楽しきを経(へ)め


歌番号四一三七
原歌 牟都奇多都 波流能波自米尓 可久之都追 安比之恵美天婆 等枳自家米也母
顕昭 む月たつ春の初にかくしつつあひしゑみてはときじけめやも
私訓 正月(むつき)立つ春の初めにかくしつつ相(あひ)し笑(ゑ)みてば時じけめやも

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