竹取翁と万葉集のお勉強

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竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その23

2009年05月09日 | 万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する
竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その23

原文 飛翔 為軽如来 腰細丹 取餝氷
訓読 飛び翔ける すがるのごとき 腰細(こしほそ)に 取り装ほひ(23)
私訳 飛び回るするが蜂のような腰細の娘が身なりを取り装い

歌の言葉と同じものを万葉集に求めました。先の集歌1740の浦嶋子の歌が畿内の河内地方の日下部一族ものに対して、これは関東の房総地方の安房忌部一族ものです。
なお、この歌は集歌1760の歌の左注から推測して高橋連虫麻呂歌集の採歌ですから、高橋連虫麻呂の手によるものと思っています。

(読み人知れず)
詠上総末珠名娘子一首并短謌
標訓 上総(かみつふさ)の末(すゑ)の珠名娘子を詠める一首并せて短歌
集歌1738 水長鳥 安房尓継有 梓弓 末乃珠名者 胸別之 廣吾妹 腰細之 須軽娘子之 其姿之 端正尓 如花 咲而立者 玉桙乃 道徃人者 己行 道者不去而 不召尓 門至奴 指並 隣之君者 預 己妻離而 不乞尓 鎰左倍奉 人皆乃 如是迷有者 容艶 縁而曽妹者 多波礼弖有家留
訓読 御長鳥(みながとり) 安房(あほ)に継ぎたる 梓弓(あずさゆみ) 周淮(すゑ)の珠名(たまな)は 胸別(むねわ)けの 広き吾妹(わぎも) 腰細(こしほそ)の すがる娘子(をとめ)の その姿(かほ)の 端正(きらきら)しきに 花のごと 咲(ゑ)みて立てれば 玉桙(たまほこ)の 道往(ゆ)く人は 己(おの)が行く 道は去(い)かずて 召(よ)ばなくに 門(かど)に至りぬ さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻(おのつま)離(か)れて 乞(こ)はなくに 鍵(かぎ)さへ奉(まつ)る 人皆(みな)の かく迷(まと)へれば 容(かほ)艶(よ)き 縁(より)てぞ妹は 戯(た)はれてありける
私訳 天の岩戸の大切な長鳴き鳥の忌部の阿波の安房に云い伝わり、弓の弦を継ぐ梓弓の末弭(すえはず)の周淮の郡に住む珠名は、乳房が豊かに左右に分かれ大きな胸の愛しい娘、腰が細くすがる蜂のような娘の、その顔の美しく花のような笑顔で立っていると、玉鉾を立てる官道を行く人は行くべき道を行かないで呼びもしないのに家の門まで来てしまう。家が立ち並ぶ隣の家のお方は、あらかじめ自分の妻と離縁して頼みもしないのに鍵まで渡す。多くの人がこのように心を惑えるので、美貌の理由から娘は、心が浮かれていたことよ。

反謌
集歌1739 金門尓之 人乃来立者 夜中母 身者田菜不知 出曽相来
訓読 金門(かなと)にし人の来(き)立(た)てば夜中(よなか)にも身はたな知らず出(い)でてぞ逢ひける
私訳 家の立派な門に人がやって来て立つと、夜中でも自分の都合を考えないで出て行って尋ねてきた人に逢ったことだ。

 原文の「多波礼弖有家留」の読みの「たはれてありける」の解釈で、歌のイメージが大きく違います。「戯れてありける」と訓読みして「男女が戯れる」の意味での行動ととると、非常に性的な開放感を歌に見つけ、珠名が美貌にかまけて不特定多数の男性と関係があるように解釈できます。同じ「戯れてありける」の解釈でも「心の持ちよう」と考えると、珠名が美貌やスタイルで男性にちやほやされて、気持ちが浮き浮きしているようにも解釈できます。
ここでは、江戸明治時代の儒教からの解釈でなく、自分の美貌で気持ちが浮き浮きしている当たり前の若い女性の気持ちの解釈をしています。そうしたとき、反歌の解釈は大きく違います。戯れ女か、美貌を鼻に懸けない心根の優しい女かの違いは大きいのです。
蛇足ですが、原文の「水長鳥」を「しながとり」と読むと水鳥のカイツブリを意味しますので、ここでは「みながとり」と読んで「御長鳥」と訓読みしてます。つまり、忌部に関わる天照大神の天の岩戸の長鳴き鳥を指すものとしてます。

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