令和新訓万葉集 全訳文原文付 全五巻 その一
万葉集 巻一から巻五まで
はじめに
本書は西本願寺本(影印本)の原文に手を加えることなく、そのままに読解を行った訳注本です。また、平成時代に行われた最新の読解の成果を取り入れた訓点本ですので、未訓じの歌、いわゆる、難訓歌はありません。すべての歌に訓点とその解釈が付けられている全訳注本です。
ここで万葉集注釈の歴史を簡単に紹介すると、昭和時代中期以降の万葉集の注釈ではおおむね西本願寺本を校合作業での基準となる底本に採用し、それを別系統で伝わる諸本により校合を行い、それにより成った校訂本の万葉集に対して注釈を行います。それ以前では細井本系に区分される江戸時代に発行された寛永版本を底本として諸本と校合・校訂を行ったものを校訂本の万葉集として注釈を行っています。このような歴史的な経緯がありますので、それぞれに注釈された万葉集の歌の原文が同じかどうかは確かではありません。そのため、もし、注釈された歌の解釈や世界感に違和感を持った時には、その注釈に使われた歌の原文を確認する必要があります。
また、万葉集のそれぞれの歌は、明治三四年(一九〇一)に刊行された『国歌大観』により歌番号と云う個別認識番号が与えられ、区別されるようになりました。紹介したように明治期の万葉集はおおむね寛永版本を底本とする慣習のため、『国歌大観』も原典として寛永版本万葉集を採用し、それに対して歌番号を与えています。いわゆる、国歌大観番号です。ところが、世に伝わる過程が違う寛永版本と西本願寺本では巻によって歌の記載順序が違い、また、全体を通して歌の表記が違うものがあります。このように使う底本によって内容が違いますが、現在の慣例では歌を認識する歌番号は国歌大観番号を使い、歌の記載順番などはその校訂に使った底本に従います。このため、西本願寺本を底本に使用した場合はその校訂本での記載の順番は西本願寺本に従いますので、国歌大観番号と校訂本との記載順を比べますと乱れが生じることになります。
紹介した万葉集の原文や歌番号に対する歴史的な背景から、本書で紹介する万葉集の歌は、最初に歌に付けられた題詞とその訓読文、さらに歌を認識する国歌大観番号を示して歌の区別を明らかにし、その後に原文を置き、次いでその読み下し文となる訓読、さらに現代語の意訳文となる私訳を載せます。また、必要に応じて注意書を載せます。原文に左注と称される漢文を持つ場合は左注とその訓読文となる注訓も載せます。なお、標題の所で()で囲まれたものは目次の為に便宜的に挿入したもので、原文にはないものです。
最後に重要なことですが、万葉集には書籍の目次に相当する目録と云うものが付けられていますが、本書の目次はキンドル電子出版の書式に沿ったもので万葉集の目録とは違うものです。そのため、本書の目次と万葉集の目録とは全くに違ったものになっています。
万葉集巻一
泊瀬朝倉宮御宇天皇代 太泊瀬稚武天皇
標訓 泊瀬(はせ)朝倉宮(あさくらのみや)に御宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと)の代(みよ)
太泊瀬(おほはつせ)稚武(わかたけの)天皇(むめらみこと)
天皇御製謌
標訓 天皇(すめらみこと)の御(かた)りて製(つく)らしし謌
集歌一
原文 籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑 名告沙根
虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師告名倍手 吾己曽座 我許者背齒 告目 家呼毛名雄母
訓読 籠(こ)もと 御籠(みこ)持ち 布(ふ)奇(くし)もと 美夫君(みふきみ)し持ち この岳(をか)に 菜採(つ)ます児 家聞かむ 名 宣(の)らさね
空見つ 大和の国は 押し靡びて 吾こそ居(を)れ 撓なら靡びて 吾こそ座(ま)せ 吾が乞(こ)はせし 宣(の)らめ 家をも名をも
私訳 貴女と夜を共にする塗籠(ぬりごめ)と 夜御殿(よんのおとど)を持ち 妻問いの贈物の布を掛けた奇(めずら)しい犬とを 貴女の夫となる私の主(あるじ)は持っています。この丘で 春菜を採むお嬢さん 貴女はどこの家のお嬢さんですか。名前を告げてください。そして、私の主人の求婚を受け入れてください。
仏教が広まるこの大和の国は 豪族を押し靡かせて私がこの国を支配し、歯向かう者を倒し靡かせて私がこの国を統率している。その大王である私が求めている。さあ、私の結婚の申し込みを受け入れて、告げなさい。貴女の家柄と貴女の本当の立派な名前も。
注意 標準解釈では、この歌は「掘串(ふくしも)」で代表される春菜摘みを題材にした寿歌との解釈に沿わすために、原文の「家吉閑」は「家告閑」、「名告沙根」は「名告紗根」、「師告名倍手」は「師吉名倍手」、「我許者背齒」は「我許背齒」と大幅に校訂を行い、原文を訂正することで予定した歌意へと誘導します。ここでは、集歌一の歌とは古事記に載る雄略天皇紀の若日下部王への妻問いの物語を踏まえた歌と解釈します。そのため、校訂後の標準解説とは全く違います。
参考資料 古事記 雄略天皇紀より 抜粋読下
読下 初め大后(おほきさき)の日下に坐します時に、日下の直(ただ)越(こ)への道より河内に幸行(いでま)しき。爾(ここ)に山の上(うへ)に登りて國の内を望めば、堅魚(かつを)を上げて舎屋(や)を作れる家有り。天皇(すめらみこと)の其の家を問わさしめて云はく「其の堅魚(かつを)を上げて作れる舎(や)は誰が家(いへ)ぞ」といへり。答えて白(もう)さく「志幾(しき)の大縣主(おほあがたぬし)の家そ」といへり。爾に天皇の詔(の)らさくに「奴(やつこ)や、己が家の天皇の御舎(みあから)に似せて造れり」といへり。即ち人を遣りて、其の家を燒かしめむ時に、其の大縣主の懼(お)じ畏(かしこ)みて稽首(ぬかつ)きて白さく「奴(やつこ)に有れば、奴(やつこ)隨(なが)ら覺(さと)らずて過ち作れるは甚(いと)畏(かし)こし。故、能美(のみ)の御幣物(みまいもの)を獻(たてまつ)らん(能美の二字は音を以ちてす)」といへり。布を白き犬に懸け、鈴を著(つ)けて、己が族(うがら)、名は腰佩(こしはき)と謂う人に犬の繩を取らしめて以ちて獻上(たてまつ)りき。故、其の火を著くるを止めしむ。
即ち其の若(わか)日下部(くさかべ)の王(おほきみ)の許に幸行(いでま)して、其の犬を賜い入れ詔(の)らさくに「是の物は、今日、道に得たる奇(くし)しき物ぞ。故、都麻杼比(つまとひ)(此の四字音を以ちてす)の物ぞ」と云いて賜い入れき。ここに若日下部の王、天皇に奏(もう)さしめしく「日に背きて幸行(いでま)す事、甚(いと)恐(かしこ)し。故、己(おのれ)、直(ただ)に參い上りて仕え奉(まつ)らん」といへり。是を以ちて宮に坐(ま)す時に、其の山の坂の上(ほとり)に行き立ちて歌いて曰く、
日下部の 此方(こち)の山と 畳薦(たたみこも)平群(へぐり)の山の 此方(こち)此方(ごち)の 山の峡(かひ)に立ち栄ゆる 葉広(はひろ)熊(くま)白檮(かし) 本(もと)には い茂(く)み竹生ひ 末辺(すえへ)には た繁(し)み竹生ひ い茂(く)み竹 い隠(く)みは寝ず た繁(し)竹 確(たし)には率(い)寝(ね)ず 後も隠(く)み寝む 其の思ひ妻 あはれ
即ち、此の歌を持たしめて使を返しき。
高市岡本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇
標訓 高市(たけち)岡本宮(おかもとのみや)に御宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと)の代(みよ)
息長足(おきながたらし)日廣額(ひひろぬかの)天皇(すめらみこと)
天皇登香具山望國之時御製謌
標訓 天皇(すめらみこと)の、香具山に登りて望國(くにみ)したまひし時の御(かた)りて製(つく)らしし歌
集歌二
原文 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者
私訓 大和には 群山(むらやま)あれど 取り装(よ)ろふ 天の香具山 騰(のぼ)り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ 海原(うなはら)は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
私訳 大和には多くの山々があるが、美しく装う天の香具山に登り立って国見をすると、国の平原には人々の暮らしの煙があちこちに立ち登り、穏やかな海原にはあちこちに鴎が飛び交う。立派な国です。雌雄の蜻蛉が交ふような山波に囲まれた大和の国は。
注意 古代では「海原」の意味は海水の海だけを示したものではありません。巻十四(東国の歌)に集歌三四九八の歌があり、この歌の「海原」は霞ケ浦のような湖沼帯や湿地帯を意味します。集歌二の歌の「海原」が内陸の湖沼帯や湿地帯を示すものですと歌の鴎は繁殖の時期のものですから季節は旧暦三月から五月です。つまり、詠われる世界は初夏の農作業前の国見神事の風景です。
天皇遊獦内野之時、中皇命使間人連老獻謌
標訓 天皇の宇智の野に遊獦(みかり)し時に、中(なかの)皇命(すめらみこと)の間人(はしひとの)連(むらじ)老(おゆ)を使(つか)はして獻(たてまつ)りしし謌
集歌三
原文 八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝獦尓 今立須良思 暮獦尓 今他田渚良之 御執 梓能弓之 奈加弭乃 音為奈里
私訓 八隅(やすみ)知(し)し 我が大王(おほきみ)の 朝(あした)には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし 御(み)執(と)らしの 梓弓し 中弭(なかはず)の 音(おと)すなり 朝猟(あさかり)に 今立たすらし 暮猟(ゆふかり)に 今立たすらし 御(み)執(と)らしし 梓の弓し 中弭(なかはず)の 音すなり
私訳 天下をあまねく統治なされる吾らの大王が、朝には手に取って撫でなされ、夕べには傍らに寄り立って、ご愛用になられる神事の梓の弓の、その中弭の音が聞こえる。朝狩りに今出立されるようです。夕狩りに今出立されるようです。ご愛用になられた梓の弓の、その中弭の音が聞こえる。
注意 原文の「御執 梓能弓之」は、標準解釈では「御執能 梓弓之」と文字位置と句切れが変更されています。また、標題「内野」は「宇智の野」を指し、現在の奈良県五条市宇智です。
反謌
集歌四
原文 玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
訓読 霊(たま)きはる宇智(うち)の大野に馬(むま)並(な)めに朝踏ますらむその草(くさ)深野(ふかの)
私訳 霊きはる(=生命の活力が改まる)、その言葉のひびきではないが、春の季節に宇智にある大野に馬を並べ立てて、貴方は早朝にその野を狩りで踏み渡るのでしょう。その草深い野原を。
幸讃岐國安益郡之時、軍王見山作謌
標訓 讃岐國の安益(やすの)郡(こほり)に幸(いでま)しし時に、軍(いくさの)王(おほきみ)の山を見て作れる謌
集歌五
原文 霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨居 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能浦之 海處女等之 焼塩乃 念曽所焼 吾下情
私訓 霞立つ 長き春日の 暮れしける 被(かづ)きも知らず 村肝(むらきも)の 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居(を)れば 玉たすき 懸(か)けのよろしく 遠つ神 吾(わ)が大王(おほきみ)の 行幸(いでまし)の 山越す風の ひとり居(を)る 吾が衣手に 朝夕(あさよひ)に 返らひぬれば 大夫(ますらを)と 念(おも)へる我れも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣(や)る 方法(たづき)を知らに 網の浦し 海(あま)処女(をとめ)らし 焼く塩の 思ひぞ焼くる 吾が下情(したこころ)
私訳 霞が立つ朧げな長い春の一日が暮れて逝った。気持ちを覆い隠すことも知らず、身に潜めた心が痛み、ぬえ鳥のようにひそかに泣いていると、美しい襷を懸けるように山容を彩る、遠くは神であり、今は吾らの大王がお出ましになられた、この山を越す風が、独りで座っている私の袖に、朝夕にひるがえすので、立派な男子と思っているこの私も、草を枕にするような苦しい旅の途中なので、愛しい貴女へ思いを送る方法も知らないので、網の入り江で漁師の娘女たちが焼く塩のように、恋心を焼く。そんな私の心の内です。
注意 原文の「獨居」の「居」は、標準解釈では「座」の誤記として「独りをるに」と訓じます。また、標題の「讃岐國安益郡」は現在の香川県高松市国分寺町から坂出市東部で、歌は綾川の河口部を示します。
万葉集 巻一から巻五まで
はじめに
本書は西本願寺本(影印本)の原文に手を加えることなく、そのままに読解を行った訳注本です。また、平成時代に行われた最新の読解の成果を取り入れた訓点本ですので、未訓じの歌、いわゆる、難訓歌はありません。すべての歌に訓点とその解釈が付けられている全訳注本です。
ここで万葉集注釈の歴史を簡単に紹介すると、昭和時代中期以降の万葉集の注釈ではおおむね西本願寺本を校合作業での基準となる底本に採用し、それを別系統で伝わる諸本により校合を行い、それにより成った校訂本の万葉集に対して注釈を行います。それ以前では細井本系に区分される江戸時代に発行された寛永版本を底本として諸本と校合・校訂を行ったものを校訂本の万葉集として注釈を行っています。このような歴史的な経緯がありますので、それぞれに注釈された万葉集の歌の原文が同じかどうかは確かではありません。そのため、もし、注釈された歌の解釈や世界感に違和感を持った時には、その注釈に使われた歌の原文を確認する必要があります。
また、万葉集のそれぞれの歌は、明治三四年(一九〇一)に刊行された『国歌大観』により歌番号と云う個別認識番号が与えられ、区別されるようになりました。紹介したように明治期の万葉集はおおむね寛永版本を底本とする慣習のため、『国歌大観』も原典として寛永版本万葉集を採用し、それに対して歌番号を与えています。いわゆる、国歌大観番号です。ところが、世に伝わる過程が違う寛永版本と西本願寺本では巻によって歌の記載順序が違い、また、全体を通して歌の表記が違うものがあります。このように使う底本によって内容が違いますが、現在の慣例では歌を認識する歌番号は国歌大観番号を使い、歌の記載順番などはその校訂に使った底本に従います。このため、西本願寺本を底本に使用した場合はその校訂本での記載の順番は西本願寺本に従いますので、国歌大観番号と校訂本との記載順を比べますと乱れが生じることになります。
紹介した万葉集の原文や歌番号に対する歴史的な背景から、本書で紹介する万葉集の歌は、最初に歌に付けられた題詞とその訓読文、さらに歌を認識する国歌大観番号を示して歌の区別を明らかにし、その後に原文を置き、次いでその読み下し文となる訓読、さらに現代語の意訳文となる私訳を載せます。また、必要に応じて注意書を載せます。原文に左注と称される漢文を持つ場合は左注とその訓読文となる注訓も載せます。なお、標題の所で()で囲まれたものは目次の為に便宜的に挿入したもので、原文にはないものです。
最後に重要なことですが、万葉集には書籍の目次に相当する目録と云うものが付けられていますが、本書の目次はキンドル電子出版の書式に沿ったもので万葉集の目録とは違うものです。そのため、本書の目次と万葉集の目録とは全くに違ったものになっています。
万葉集巻一
泊瀬朝倉宮御宇天皇代 太泊瀬稚武天皇
標訓 泊瀬(はせ)朝倉宮(あさくらのみや)に御宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと)の代(みよ)
太泊瀬(おほはつせ)稚武(わかたけの)天皇(むめらみこと)
天皇御製謌
標訓 天皇(すめらみこと)の御(かた)りて製(つく)らしし謌
集歌一
原文 籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑 名告沙根
虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師告名倍手 吾己曽座 我許者背齒 告目 家呼毛名雄母
訓読 籠(こ)もと 御籠(みこ)持ち 布(ふ)奇(くし)もと 美夫君(みふきみ)し持ち この岳(をか)に 菜採(つ)ます児 家聞かむ 名 宣(の)らさね
空見つ 大和の国は 押し靡びて 吾こそ居(を)れ 撓なら靡びて 吾こそ座(ま)せ 吾が乞(こ)はせし 宣(の)らめ 家をも名をも
私訳 貴女と夜を共にする塗籠(ぬりごめ)と 夜御殿(よんのおとど)を持ち 妻問いの贈物の布を掛けた奇(めずら)しい犬とを 貴女の夫となる私の主(あるじ)は持っています。この丘で 春菜を採むお嬢さん 貴女はどこの家のお嬢さんですか。名前を告げてください。そして、私の主人の求婚を受け入れてください。
仏教が広まるこの大和の国は 豪族を押し靡かせて私がこの国を支配し、歯向かう者を倒し靡かせて私がこの国を統率している。その大王である私が求めている。さあ、私の結婚の申し込みを受け入れて、告げなさい。貴女の家柄と貴女の本当の立派な名前も。
注意 標準解釈では、この歌は「掘串(ふくしも)」で代表される春菜摘みを題材にした寿歌との解釈に沿わすために、原文の「家吉閑」は「家告閑」、「名告沙根」は「名告紗根」、「師告名倍手」は「師吉名倍手」、「我許者背齒」は「我許背齒」と大幅に校訂を行い、原文を訂正することで予定した歌意へと誘導します。ここでは、集歌一の歌とは古事記に載る雄略天皇紀の若日下部王への妻問いの物語を踏まえた歌と解釈します。そのため、校訂後の標準解説とは全く違います。
参考資料 古事記 雄略天皇紀より 抜粋読下
読下 初め大后(おほきさき)の日下に坐します時に、日下の直(ただ)越(こ)への道より河内に幸行(いでま)しき。爾(ここ)に山の上(うへ)に登りて國の内を望めば、堅魚(かつを)を上げて舎屋(や)を作れる家有り。天皇(すめらみこと)の其の家を問わさしめて云はく「其の堅魚(かつを)を上げて作れる舎(や)は誰が家(いへ)ぞ」といへり。答えて白(もう)さく「志幾(しき)の大縣主(おほあがたぬし)の家そ」といへり。爾に天皇の詔(の)らさくに「奴(やつこ)や、己が家の天皇の御舎(みあから)に似せて造れり」といへり。即ち人を遣りて、其の家を燒かしめむ時に、其の大縣主の懼(お)じ畏(かしこ)みて稽首(ぬかつ)きて白さく「奴(やつこ)に有れば、奴(やつこ)隨(なが)ら覺(さと)らずて過ち作れるは甚(いと)畏(かし)こし。故、能美(のみ)の御幣物(みまいもの)を獻(たてまつ)らん(能美の二字は音を以ちてす)」といへり。布を白き犬に懸け、鈴を著(つ)けて、己が族(うがら)、名は腰佩(こしはき)と謂う人に犬の繩を取らしめて以ちて獻上(たてまつ)りき。故、其の火を著くるを止めしむ。
即ち其の若(わか)日下部(くさかべ)の王(おほきみ)の許に幸行(いでま)して、其の犬を賜い入れ詔(の)らさくに「是の物は、今日、道に得たる奇(くし)しき物ぞ。故、都麻杼比(つまとひ)(此の四字音を以ちてす)の物ぞ」と云いて賜い入れき。ここに若日下部の王、天皇に奏(もう)さしめしく「日に背きて幸行(いでま)す事、甚(いと)恐(かしこ)し。故、己(おのれ)、直(ただ)に參い上りて仕え奉(まつ)らん」といへり。是を以ちて宮に坐(ま)す時に、其の山の坂の上(ほとり)に行き立ちて歌いて曰く、
日下部の 此方(こち)の山と 畳薦(たたみこも)平群(へぐり)の山の 此方(こち)此方(ごち)の 山の峡(かひ)に立ち栄ゆる 葉広(はひろ)熊(くま)白檮(かし) 本(もと)には い茂(く)み竹生ひ 末辺(すえへ)には た繁(し)み竹生ひ い茂(く)み竹 い隠(く)みは寝ず た繁(し)竹 確(たし)には率(い)寝(ね)ず 後も隠(く)み寝む 其の思ひ妻 あはれ
即ち、此の歌を持たしめて使を返しき。
高市岡本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇
標訓 高市(たけち)岡本宮(おかもとのみや)に御宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと)の代(みよ)
息長足(おきながたらし)日廣額(ひひろぬかの)天皇(すめらみこと)
天皇登香具山望國之時御製謌
標訓 天皇(すめらみこと)の、香具山に登りて望國(くにみ)したまひし時の御(かた)りて製(つく)らしし歌
集歌二
原文 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者
私訓 大和には 群山(むらやま)あれど 取り装(よ)ろふ 天の香具山 騰(のぼ)り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ 海原(うなはら)は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
私訳 大和には多くの山々があるが、美しく装う天の香具山に登り立って国見をすると、国の平原には人々の暮らしの煙があちこちに立ち登り、穏やかな海原にはあちこちに鴎が飛び交う。立派な国です。雌雄の蜻蛉が交ふような山波に囲まれた大和の国は。
注意 古代では「海原」の意味は海水の海だけを示したものではありません。巻十四(東国の歌)に集歌三四九八の歌があり、この歌の「海原」は霞ケ浦のような湖沼帯や湿地帯を意味します。集歌二の歌の「海原」が内陸の湖沼帯や湿地帯を示すものですと歌の鴎は繁殖の時期のものですから季節は旧暦三月から五月です。つまり、詠われる世界は初夏の農作業前の国見神事の風景です。
天皇遊獦内野之時、中皇命使間人連老獻謌
標訓 天皇の宇智の野に遊獦(みかり)し時に、中(なかの)皇命(すめらみこと)の間人(はしひとの)連(むらじ)老(おゆ)を使(つか)はして獻(たてまつ)りしし謌
集歌三
原文 八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝獦尓 今立須良思 暮獦尓 今他田渚良之 御執 梓能弓之 奈加弭乃 音為奈里
私訓 八隅(やすみ)知(し)し 我が大王(おほきみ)の 朝(あした)には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし 御(み)執(と)らしの 梓弓し 中弭(なかはず)の 音(おと)すなり 朝猟(あさかり)に 今立たすらし 暮猟(ゆふかり)に 今立たすらし 御(み)執(と)らしし 梓の弓し 中弭(なかはず)の 音すなり
私訳 天下をあまねく統治なされる吾らの大王が、朝には手に取って撫でなされ、夕べには傍らに寄り立って、ご愛用になられる神事の梓の弓の、その中弭の音が聞こえる。朝狩りに今出立されるようです。夕狩りに今出立されるようです。ご愛用になられた梓の弓の、その中弭の音が聞こえる。
注意 原文の「御執 梓能弓之」は、標準解釈では「御執能 梓弓之」と文字位置と句切れが変更されています。また、標題「内野」は「宇智の野」を指し、現在の奈良県五条市宇智です。
反謌
集歌四
原文 玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
訓読 霊(たま)きはる宇智(うち)の大野に馬(むま)並(な)めに朝踏ますらむその草(くさ)深野(ふかの)
私訳 霊きはる(=生命の活力が改まる)、その言葉のひびきではないが、春の季節に宇智にある大野に馬を並べ立てて、貴方は早朝にその野を狩りで踏み渡るのでしょう。その草深い野原を。
幸讃岐國安益郡之時、軍王見山作謌
標訓 讃岐國の安益(やすの)郡(こほり)に幸(いでま)しし時に、軍(いくさの)王(おほきみ)の山を見て作れる謌
集歌五
原文 霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨居 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能浦之 海處女等之 焼塩乃 念曽所焼 吾下情
私訓 霞立つ 長き春日の 暮れしける 被(かづ)きも知らず 村肝(むらきも)の 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居(を)れば 玉たすき 懸(か)けのよろしく 遠つ神 吾(わ)が大王(おほきみ)の 行幸(いでまし)の 山越す風の ひとり居(を)る 吾が衣手に 朝夕(あさよひ)に 返らひぬれば 大夫(ますらを)と 念(おも)へる我れも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣(や)る 方法(たづき)を知らに 網の浦し 海(あま)処女(をとめ)らし 焼く塩の 思ひぞ焼くる 吾が下情(したこころ)
私訳 霞が立つ朧げな長い春の一日が暮れて逝った。気持ちを覆い隠すことも知らず、身に潜めた心が痛み、ぬえ鳥のようにひそかに泣いていると、美しい襷を懸けるように山容を彩る、遠くは神であり、今は吾らの大王がお出ましになられた、この山を越す風が、独りで座っている私の袖に、朝夕にひるがえすので、立派な男子と思っているこの私も、草を枕にするような苦しい旅の途中なので、愛しい貴女へ思いを送る方法も知らないので、網の入り江で漁師の娘女たちが焼く塩のように、恋心を焼く。そんな私の心の内です。
注意 原文の「獨居」の「居」は、標準解釈では「座」の誤記として「独りをるに」と訓じます。また、標題の「讃岐國安益郡」は現在の香川県高松市国分寺町から坂出市東部で、歌は綾川の河口部を示します。
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