竹取翁と万葉集のお勉強

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竹取翁の歌のお勉強 娘女の参歌 その3

2009年05月22日 | 万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する
竹取翁の歌のお勉強 娘女の参歌 その3

三人目の娘子の歌  安貴王の答え
集歌3796 否藻諾藻 随欲 可赦 皃所見哉 我藻将依  (三)
訓読 否(いな)も諾(を)も欲しきまにまに赦(ゆる)すべき顔見ゆるかも我れも寄りなむ
私訳 「赦さない」と云ふのも、「赦す」と云うのも、貴方のお気持ちのままに。貴方が私を赦免してくれそうな様子がうかがえます。私も大和歌を寄せましょう。

三人目の娘女の歌の「可赦 皃所見哉」の「赦」の漢字が遊びです。この「赦」から天皇から直接に罰せられ不敬の罪で遠流された安貴王を想像しました。
この歌は、万葉集巻四より採歌されています。最初に歌を紹介して、後で説明します。

巻四より
安貴王謌一首并短謌
標訓 安貴王の歌一首并せて短歌
集歌534 遠嬬 此間不在者 玉桙之 道乎多遠見 思空 安莫國 嘆虚 不安物乎 水空徃 雲尓毛欲成 高飛 鳥尓毛欲成 明日去而 於妹言問 為吾 妹毛事無 為妹 吾毛事無久 今裳見如 副而毛欲得
訓読 遠妻(とほつま)の ここにしあらねば 玉桙の 道をた遠(とほ)み 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 苦しきものを み空往(ゆ)く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日去(い)きて 妹に言問(こととひ) 吾がために 妹も事なく 妹がため 吾も事なく 今も見るごと 副(たぐ)ひてもがも
私訳 遠くに住む妻はここにいないし、御門の玉鉾の立てる都大道も遠いので、思いを寄せるわが身は心も休まらず、嘆くわが日々も心苦しいのに、空を流れ往く雲のように、空高く飛ぶ鳥のように、明日出かけて行って恋人に言葉を掛け、私もために妻が無事であり、妻のために私が無事であるように、今ここで見るように一緒に貴女といたいものです。

反謌
集歌535 敷細乃 手枕不纒 間置而 年曽經来 不相念者
訓読 敷栲(しきたへ)の手枕(たまくら)纏(ま)かず間(あひだ)置(お)きて年ぞ経(へ)にける逢はなく念(おも)へば
私訳 閨の寝具で貴女と手枕を巻き交わすことなく、貴女と離ればなれで年が経ってしまった。逢わないことを思い出すと。
右、安貴王娶因幡八上釆女、係念極甚、愛情尤盛。於時勅断不敬之罪、退却本郷焉。于是王意悼怛聊作此謌也。
注訓 右は、安貴王、因幡の八上釆女を娶(ま)きて、係念(おもひ)極めて甚(はなはだ)しく、愛情尤(もっと)も盛りなりき。時に勅して不敬の罪を断(さだ)め、本郷(もとつくに)に退却(まか)らしむ。ここに王、意(こころ)を悼(いた)み怛(かなし)びていささかにこの歌を作れり。

 そして、この本国謹慎中の歌と思われるのが、次の集歌1555の歌です。当時の立秋ですから現在の八月下旬です。その季節に心と抱く腕が寒いのです。

安貴王謌一首
集歌1555 秋立而 幾日毛不有者 此宿流 朝開之風者 手本寒母
訓読 秋立ちて幾日(いくか)もあらねばこの寝(ね)ぬる朝明(あさけ)の風は手本(たもと)寒しも
私訳 秋になって幾日も立っていないが、こうして寝る朝明け方の風は手元が寒いことです。

竹取翁の歌の中で時代を代表する歌として取り上げられている歌が集歌534の歌ですが、なぜ、この歌が万葉集の中で重要なのかがはっきりしません。ここでは、なぜ、この歌が万葉集の中で重要なのかを探ってみたいと思います。
さて、作歌者である安貴王は、天智天皇の皇子である志貴皇子の孫で春日王の子であるとする説と、同じ天智天皇の皇子で川島皇子の孫であるとする説とがあります。桓武天皇の祖になる志貴皇子の孫とするほうが平安朝では受けがよく、奈良時代では律令の整備を行なった川島皇子の孫であるとする方が受けは良いでしょう。実際のところは、安貴王の子の市原王は川島皇子のひ孫になっていますから、川島皇子の孫が本当のところでしょうか。
歴史では、安貴王は万葉集の歌から養老二年(718)の元正天皇の美濃国行幸に同行していることと、神亀六年(729)三月に従五位下に、天平十七年(745)正月に従五位上に叙任していることが判るだけです。また、万葉集の歌から妻に鹿人大夫の娘の紀郎女がいて、愛人には因幡国の八上采女がいたようです。こうしてみますと、安貴王は歴史の上では有名人ではないようです。
参考に、次の集歌306の歌は時代的に養老二年(718)の元正天皇の美濃国行幸の折に、伊勢国を通過したときの歌と推定されています。

幸伊勢國之時安貴王作謌一首
標訓 伊勢國に幸しし時に、安貴王の作れる歌一首
集歌306 伊勢海之 奥津白浪 花尓欲得 裹而妹之 家裹為
訓読 伊勢の海の沖つ白波花にもが包みて妹が家づとにせむ
私訳 伊勢の海の沖に立つ白波は花であってほしい。包んで恋人へのみやげにしよう。

すこし雑学になりますが、安貴王が生きた時代に藤原氏の大物に京職の藤原麻呂がいて、その藤原麻呂の愛人の一人が稲葉国造気豆の娘の因幡国八上郡采女で、藤原浜成の母になります。この浜成の誕生が神亀元年(724)ですので、安貴王の愛人の因幡国の八上采女と藤原麻呂の愛人の因幡国八上郡采女が同一人物であった場合、非常に興味深いものがあります。
ここで、万葉集では女性との男女関係の表現で「娶」と「娉」との字の使い分けがあり、「娶」は男の家に居る女性、「娉」は女性に対する婚約や求婚の感覚があります。安貴王の愛人の因幡国の八上采女は万葉集の集歌535の左注で「娶」の字が使われていますから、安貴王の許に囲われていた女性の感覚があります。さて、この因幡国の八上采女は、藤原麻呂の愛人の因幡国八上郡采女と同一人物でしょうか。

少し、妄想をして見ます。
八上采女は因幡国の八上郡の稲葉国造気豆の娘で藤原麻呂の妻です。一方、万葉集では安貴王は因幡の八上釆女を娶取ったことになっています。そして、安貴王が因幡の八上釆女を娶取ったことで、何か事件が起きたようです。
さて、この因幡国の八上采女が宮中の采女司の膳司担当の相当な美人で、宮中の宴では評判の女性とします。この八上采女を最初に見初めたのが安貴王で、安貴王は八上采女を妻妾にすることを願い出て許され八上采女を手許に置いたと思われます。それが左注の「因幡八上釆女を娶きて」の「娶」の用字と思いますし、「不敬の罪」は「係念極めて甚しく、愛情尤も盛りなりき」に対してです。「娶」ではありません。一方、同時に藤原麻呂も同時に八上采女に恋をして、二人の間に交際があったのではないかと思います。
朝廷が藤原麻呂と八上采女との関係を知らずに安貴王に八上采女を下賜したと想像すると、八上采女は藤原麻呂の伝承では因幡国の八上郡の稲葉国造気豆の娘ですから良民の身分です。つまり、八上采女は夫を自由に択べる権利を持っています。八上采女が官奴ですと安貴王の許から逃げることは出来ませんが、良民の身分ですと戸籍に正式に載るまでは安貴王から逃げて藤原麻呂の許に行くことは可能でしょう。
逃げられた安貴王はどうするでしょうか、藤原麻呂にも怒鳴り込むでしょうが、朝廷にも苦情を申し立てるでしょう。さて、朝廷は、貴族と地方豪族の娘との三角関係で、その娘は身ごもって恋仲の男の許にいるとすると、どのように話をつけるのでしょうか。采女は古式の建前上、地方豪族からの朝廷への貢の女性ですから、朝廷には貢の女性の支配権があります。つまり、建前では朝廷としてその女性を下賜することは出来ます。一方、律令制の良民・賤民の建前では、豪族の娘は良民ですから夫を自由に択べる権利を持っています。ここに、古式の建前と新しい建前が矛盾します。なお、安貴王の八上采女と藤原麻呂の八上采女が同一人物ですと、女性は妊娠という事実で藤原麻呂を択んでいます。
さて、朝廷はこの三角関係の調停が厭になって、最後には女に逃げられた安貴王を地方に追いやったのではないでしょうか。それで不敬の罪ですが流刑ではない本国での謹慎です。
次の歌は、本国での謹慎が許され都に戻ってきて、神亀六年三月に従五位下の位を得て安貴王(阿紀王の表記)が大夫になったことを祝った歌と思われます。ただ、安貴王が不運なことに恋敵の藤原麻呂が長屋王の変で政権中枢に座りますから、橘諸兄の時代が来るまでは冷や飯を食べる位置にあったと思われます。

ある宴会での歌
市原王宴祷父安貴王謌一首
標訓 市原王の宴にして父安貴王を祷ふ歌一首
集歌988 春草者 後波落易 巌成 常磐尓座 貴吾君
訓読 春草は後(のち)は落(おち)易(かは)らふ巌(いはお)なす常盤(ときは)に坐(い)ませ貴(とふと)き吾が君
私訳 春の草は後には秋の枯れ草に変わっていきます。磐のように常盤にいてください、貴い私の大切な貴方。

湯原王打酒謌一首
集歌989 焼刀之 加度打放 大夫之 鞁豊御酒尓 吾酔尓家里
訓読 焼(やき)太刀(たち)の稜(かど)打ち放(は)ち大夫(ますらを)の寿(は)く豊御酒(とよみさけ)に吾れ酔(よ)ひにけり
私訳 焼いて鍛えた太刀の稜を鞘から打ち放ち舞い、大夫の寿を祝う立派な御酒に私は酔ってしまった。

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