竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 エピローグ 引き手山の妻と依羅の里の女

2014年08月03日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
エピローグ 引き手山の妻と依羅の里の女


 人麻呂には心の通う恋妻の巨勢媛がいた。
 しかし、人麻呂とその巨勢媛との間に児は生まれなかった。人麻呂は柿本朝臣と云う朝廷から択ばれた朝臣の姓を頂く氏族の氏上である。その氏上には氏を継ぐ児をなす義務がある。その義務の中、人麻呂は家に児を産む女を入れた。
 話を進める上で、その正妻となるこの女は引手の山で葬られたため、綽名として引き手山の妻と呼ぶことにする。

 朱鳥三年(688)、巨勢媛は三十五歳となった。当時としては母子の体の安全を考え、児を産むべきではない年齢である。その時、巨勢媛は人麻呂が正妻として児を産む女を家に入れることを認めた。
 翌朱鳥四年(689)、人麻呂は同じ春日和邇一族の櫟本朝臣の娘子を正妻として家に迎えた。この時、人麻呂四十三歳、引き手山の妻は十五歳。引き手山の妻は裳着の祝いをして、すぐの婚姻であった。櫟本の娘子は春日和邇一族の中でも最大の出世をした人麻呂の児を産むために択ばれた女である。その引き手山の妻は、一族の期待に応え、朱鳥八年(693)に柿本建石を、そして、大長三年(700)に柿本浜名を産んだ。後、柿本建石は市守を成し、その市守は従五位上主計頭まで進み、柿本の家を世に伝えた。

 大宝二年(702)秋八月、その引き手山の妻は、まだ二歳にも満たない浜名と九歳の建石を残し、産褥で死んだ。この時、人麻呂五十六歳。
 人麻呂はその妻の遺体を布留の里、国見山の西麓(天理市滝本町大親寺付近)で火葬にした。そして、まだ、夏の余韻が残る暑い西日の中、引き手山の妻の遺灰は国見山の南西斜面、仏教浄土の西方を望む丘で散骨された。
 万葉集には人麻呂が若くして死んだ引き手山の妻に贈った挽歌が載る。

去年見而之秋乃月夜者雖照相見之妹者弥年放
訓読 去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせれど相見し妹はいや年(とし)放(さか)る
私訳 去年に見たような、今年の秋の月は夜を同じように照らすけれど、去年の月を二人で見た貴女は、時間とともに想いから離れていくようです。

衾道乎引手乃山尓妹乎置而山侄往者生跡毛無
試訓 衾(ふすま)道(ぢ)を引手の山に妹を置きて山(やま)姪(めひ)行けば生けりともなし
試訳 白妙の布で遺体を隠した葬送の列が行く道の引手の山に貴女を一人置いて、山道を姪たちが帰って行くと自分は生きている実感がありません。


 人麻呂は、大和(696-697)から大長(678-700)年間ごろ、左大臣丹比真人嶋の要請で、技官としては最上位官職である小錦上(正五位上)中務省大輔の身分のまま、河内国丹比郡依羅の里(松原市河内天美付近)に河内国鋳銭司を建設していた。この縁で、丹比氏が治める依羅の里の娘を肌温めの女として傍に置いた。柿本浜名の生まれ年とほぼ同じ頃、依羅の娘子に女の児が生まれた。人麻呂歌集には、そのよちよち歩きとなった娘の姿をみて詠った歌がある。

吾妹兒之赤裳泥塗而殖之田乎苅将蔵倉無之濱
訓読 吾妹児(わぎもこ)し赤(あか)裳(も)ひづちて殖ゑし田を刈りて蔵(おさ)めむ倉無し浜
私訳 私の愛しい娘児が赤い裳裾を引きずり泥で汚して種を播いた田で穂を刈って蔵に納めましょう。難波大蔵のその倉無の浜で。

 人麻呂が長門国司守として赴任している間も、この依羅の娘子と女の児は、河内国鋳銭司の技術を指導する柿本鍛冶たちにより、氏長、人麻呂の児とその母親して大切にされた。
 人麻呂の石見国での海難死の後、この親子は大和新庄の柿本の里に遷り、人麻呂を偲ぶ為に柿本神社を建てた。そして、石見国益田小野郷から朝廷に送られて来た人麻呂の遺髪を櫟本の柿本一族の本家とこの新庄とで分け、祀った。この由来で、柿本人麻呂の遺髪は布留の里にある櫟本の柿本家本宗が祀る柿本寺(廃寺)、大和新庄の柿本一族の柿本寺。さらに石見国益田小野郷戸田で綾部訳語が祀る柿本神社の三か所にある。


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