竹取翁と万葉集のお勉強

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竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その9

2009年04月24日 | 万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する
竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その9

原文 刺部重部 波累服
訓読 刺(さ)さへ重(かさ)なへ 浪累(し)き
私訳 打ち寄せ重なり浪が折り敷くように繰り返し

 少し困っています。ここに示す竹取翁の長歌の一節「刺さへ重なへ 浪累き」から、大伴宿祢駿河麿の集歌0409の歌を導き出しました。そして、この解釈は間違いないと確信しています。ただ、この確信には、万葉集の歌の順番と歌の標が古来から変わっていないことが重要になり、古来からの「不違一字」であるはずとの前提です。もし、万葉集での夫々の巻々や巻の中での順番が、当初と現在で違うのですと、確信が単なる妄想に成り下がります。
 導き出した集歌0409の歌の説明をしますと、

大伴宿祢駿河麿謌一首
集歌0409 一日尓波 千重浪敷尓 雖念 奈何其玉之 手二巻難寸
訓読 一日(ひとひ)には千重(ちへ)浪しきに思へどもなにその玉の手に纏(ま)き難(か)たき
私訳 一日の内に千度も浪が折り敷くように繰り返しあの方のことを思うけど、どうして玉のような貴女の手に、その御方を抱き留めることが難しいのでしょう。

 この私訳は普段の解釈とは少し違うかもしれません。それは、原文の「奈何其玉之手二巻難寸」の「なにそのたまのてにまきかたき」の読みに対して、「なにその玉の手に、纏き難たき」と訓読みしているからです。中西進先生の読みは「なにその玉の、手に纏き難たき」です。この微妙に訓読みが違い、結果「玉のような美しい手」と「自分の手」との違いが生じて、手の持主が違います。
 私のこの解釈は、集歌0409の歌が集歌410の大伴坂上郎女に対しての歌と解釈しているためです。普段の解釈は、集歌0409の歌は集歌407の歌の前に位置するとの解釈です。それで、「なにその玉の、手に纏き難たき」です。

大伴宿祢駿河麿娉同坂上家之二嬢謌一首
標訓 大伴宿祢駿河麿の同じ坂上家の二嬢(おとをとめ)を娉(つまど)へる歌一首
集歌407 春霞 春日里之 殖子水葱 苗有跡云師 柄者指尓家牟
訓読 春霞(はるがすみ)春日(かすが)の里の植(うゑ)子(こ)水葱(なぎ)苗(なへ)なりと言ひし枝(え)はさしにけむ
私訳 春霞の立つ春日の里に植えた小さな水葱はまだ苗といっていましたが、今はもう枝は育ちました。
呆訳 今年、春霞が立つ季節に春日の私の屋敷に貴女の幼い娘を妻に頂きましたが、水葱の苗のようで、供して夫婦事をするにはまだ早いと心配されていましたが、その早苗が枝を伸ばすように貴女の娘は、もう十分に女です。

つまり、集歌0409の歌は集歌407の歌の標にある「二嬢を娉へる」前の心情としています。それに対して、私は集歌0409の歌は順番どおりに次の集歌410の歌に関わると解釈しています。
ここで、大伴駿河麿と大伴坂上郎女とは歴史ではその生年は不明ですが、その生年を検討してみたいと思います。まず、大伴駿河麿は、彼の天平十五年(743)の従五位下への昇任の記事と宝亀三年(772)の陸奥按察使への就任の折の勅命の言葉の「年老い身衰えて」から推定して、和銅元年(708)年頃の誕生と思われます。一方、坂上郎女は、最初、穂積皇子の妃として嫁ぎますが霊亀元年(715)に死別しています。次に、藤原麻呂と関係があったようですが、程なくに縁が切れ、大伴宿奈麻呂との間に坂上大嬢と二嬢とをもうけています。そして、この宿奈麻呂は神亀四年(727)頃以前に亡くなったと推定されています。この辺りから、坂上郎女は文武元年(697)より少し後の誕生と思われます。駿河麿は坂上郎女に対し十歳くらいの年下でしょうか。
私の推定で、これらの歌が詠われたのは神亀五年(728)春から初夏頃です。駿河麿が二十二歳、坂上郎女が三十歳、そして、坂上郎女の相手の橘の某は三十九歳位でしょうか。

大伴宿祢駿河麿謌一首
集歌0409 一日尓波 千重浪敷尓 雖念 奈何其玉之 手二巻難寸
訓読 一日(ひとひ)には千重(ちへ)浪しきに思へどもなにその玉の手に纏(ま)き難(か)たき
私訳 一日の内に千度も浪が折り敷くように繰り返しあの方のことを思うけど、どうして玉のような貴女の手に、その御方を抱き留めることが難しいのでしょう。

大伴坂上郎女橘謌一首
標読 大伴坂上郎女の橘の歌一首
集歌410 橘乎 屋前尓殖生 立而居而 後雖悔 驗将有八方
訓読 橘を屋前(やど)に植ゑ生(お)ほし立ちて居(ゐ)て後(のち)に悔(く)ゆとも験(しるし)あらめやも
私訳 橘を家に植えて、それを育て上げた後にそれを悔いても形として表に現れることはありません
呆訳 橘の公の私への愛を受け止めて、その愛情を私の心の中で育てた後になにがあっても、私の心に悔いがあったとしても貴方を責めたり表立って騒ぎ立てることはありません。

和謌一首
標読 和(こた)へたる歌一首
集歌411 吾妹兒之 屋前之橘 甚近 殖而師故二 不成者不止
訓読 吾妹子の屋前(やど)の橘いと近く植ゑてし故(ゆへ)に成らずは止まじ
私訳 私の愛しい貴女の家に橘をとてもすぐそばに植えたのですから、実を成らさせずにはおきません。
呆訳 私の愛しい貴女が私の貴女を愛する思いを深く受け止めてくれたのですから、その愛の実を成らせずにはおきません。

私の感覚では、駿河麿は若き恋の目撃者です。大人の男女の秘めた恋の目撃者です。坂上郎女は、激しい恋の前に過去の男性遍歴と歳を恐れています。恋心を示された男性の立場と身分を考えると、抱いてもらえるのはほんのわずかな間であることを覚悟しているようです。その覚悟を示すのが集歌410の歌の「後に悔ゆとも験あらめやも」です、愛した男に棄てられてもそれを表に現すことなど決してしない覚悟です。坂上郎女がここまでの覚悟に辿り着くまでを、若き恋の目撃者は集歌0409の歌で詠ったのだと思います。集歌411の歌の標は、坂上郎女の恋の相手の名前を示してはいません。ただ、坂上郎女の覚悟を十部に理解して、だらか、貴女を抱くと答えています。

万葉集の中で、この二首だけは本当の秘めたラブレターでしょう。他の相聞の恋歌は、宴会で公表する恋歌です。このラブレターは、母の手文庫から娘に、そして若き恋の目撃者である娘の夫に伝わったのでしょう。それで、秘めたラブレターの相手は名なしの「橘の某」の「和へたる歌一首」です。
参考までに、神亀五年頃に人物としての「橘」は県犬養橘宿禰三千代を指しますが、もう一人、男性では葛城王諸兄がいます。この葛城王諸兄は天平八年以降は橘諸兄と云い万葉集編纂の中心人物ですが、集歌411の歌は「橘の某」を示唆するだけです。

私は、万葉集の中で詠み手が確認できる本当のラブレターであることと、坂上郎女と「橘の某」の秘めた恋の目撃に歴史的価値があると思います。それで、丹比国人が紹介したかったのでしょう。その捧呈される万葉集の歌々を見て自分の昔のラブレターを発見した「橘の某」は、どう思ったのでしょうか。ちょっと、興味があります。

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