竹取翁と万葉集のお勉強

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表記と朗詠とのギャップを楽しむ歌

2017年05月07日 | 初めて万葉集に親しむ
表記と朗詠とのギャップを楽しむ歌

 万葉集には、歌が漢語と万葉仮名と云う漢字とで表現された歌であることを作歌者が特別に意識して作った歌があります。特別に意識したある種の歌では、漢字が持つ表語文字性と発音での漢語と日本語との言葉の違いを巧みに使い、歌を詠います。その一例を巻十六に載る長忌寸意吉麻呂の歌八首の中から三首を紹介します。

集歌三八二四
原歌 刺名倍尓 湯和可世子等 櫟津乃 桧橋従来許武 狐尓安牟佐武
訓読 さし鍋に湯沸かせこども櫟津(いちひつ)の桧橋(ひばし)より来こむ狐(きつね)に浴(あ)むさむ
私訳 さし鍋に湯を沸かせ、勢子たち。櫟津の桧橋から来る狐に湯を浴びせかけてやろう。

集歌三八二五
原歌 食薦敷 蔓菁煮将来 梁尓 行騰懸而 息此公
訓読 食薦(すこも)敷(し)き青菜(あをな)煮持ち来(こ)む梁(うつはり)に行縢(むかばき)懸(か)けて息(おき)しこの君
私訳 食事の食薦を敷いて、少しだけ青菜を煮て持って来い。あそこで梁に行縢を懸けて寝ている奴に。

集歌三八二七
原歌 一二之 目耳不有 五六 三四佐倍有来 雙六乃佐叡
訓読 一二(ひとふた)の目のみにあらず五六(いろく)三四(みし)さへありける双六の采(さえ)
別訓 人(ひと)、二の目のみにあらず、弥勒(みろく)見しさへありける双六の采
私訳 一、二と出目を見るのは人の二つの目だけではない。五、六、三、四と深く瞑想の境地にある弥勒菩薩も興味一杯で見たであろう双六のサイコロの出目の冴えよ

 集歌三八二四の歌の「湯和可世子等」の訓みは「湯沸かせこども」ですから、原歌の「和可世子等」の訓み「わかせこども」からの意味は、そのあたりにたむろする小物の召使いに湯を沸かせとの指示を意味します。ところが、漢字表記には「世子」が見え、それは一族の家を継ぐ頭領の長男を意味します。律令時代、蔭位制度や氏上制度では家を継ぐ「世子」は優遇されていました。これを踏まえての「世子」と「子等(こども)」です。ここに、朗詠と表記のギャップがありますし、ある種のねたみと悪口です。
 次に集歌三八二五の歌の「息此公」の漢字表記では「寝ている、このお方」を意味しますが、口唱では「おきしこの君」ですから「起きている、このお方」や「行騰を梁に掛けて置いた、このお方」とも意味が取れます。歌に言葉遊びがあるならば表記では寝ているが、朗詠からは起きている方が面白いでしょう。これも漢字表記からの面白みで、翻訳した漢字交じり平仮名歌である訓読み万葉集では見ることのできない世界です。
 さらに三首目の集歌三八二七の歌は、サイコロの出目である一から六までの数字を使った巧みな語呂遊びの歌です。長忌寸意吉麻呂が詠うこれらの歌は宴会での即興和歌ですが、歌には朗詠での発声と墨書での表記とのギャップを楽しむと云う技巧が尽くされています。これは万葉集の歌が漢語と漢字だけで表現されているからの面白みです。
 また、万葉集巻十六では次のような朗詠での発声と墨書での表記とのギャップを楽しむ歌群があります。これらは悪口を詠う歌ですから、表面上の墨書での表記では悪口にならないことが大切です。朗詠での発声で、初めて、悪口と判る仕組みになっています。これも万葉集の歌が漢語と万葉仮名と云う漢字とで表現された歌であるから出来る遊びです。ただし、これらの歌は歌に付けられた標題により歌に隠された笑いがあることに気付かされます。非常に判り易いものとなっています。

池田朝臣、嗤大神朝臣奥守謌一首 (池田朝臣名忘失也)
標訓 池田朝臣の、大神朝臣奥守を嗤ひたる謌一首 (池田朝臣の名を忘れ失すなり)
集歌三八四〇
原歌 寺々之 女餓鬼申久 大神乃 男餓鬼被給而 其子将播
表歌
訓読 寺々の女餓鬼(めがき)申(もを)さく大神(おほみわ)の男餓鬼(をがき)給(たは)りてその子(し)を播(ま)かむ
私訳 寺々に祀る女餓鬼の仏が申すことには、大神寺にある男餓鬼の仏を頂いて、その有難い仏を世の中に広めたいものです。
裏歌
訓読 寺々の女餓鬼(めがき)申(もを)さく大神(おほみわ)の男餓鬼(をがき)戯(たは)りてその子(こ)を捲(ま)かむ
私訳 あちらこちらの寺々で、噂話が好きでたまらない女たちが語るには、大神氏の女に餓えた男が女に戯れて、その女子を抱いたそうな。

大神朝臣奥守報嗤謌一首
標訓 大神朝臣奥守の報(こた)へて嗤(わら)ひたる謌一首
集歌三八四一
原歌 佛造 真朱不足者 水渟 池田乃阿曽我 鼻上乎穿礼
表歌
訓読 仏造る真朱(まそ)足らずは水渟(た)まる池田の崖(あそ)が鼻の上(うへ)を穿(ほ)れ
私訳 仏を造る真っ赤な真朱が足りないのなら、水が溜まる池田の崖のその先の上を掘れ。
裏歌
訓読 仏造る真朱(まそ)足らずは水渟(た)まる池田の朝臣(あそ)が鼻の上(うへ)を穿(ほ)れ
私訳 仏を造る真っ赤な真朱が足りないのなら、鼻水が溜まる池田の朝臣のその赤鼻の上を掘れ。

 これを踏まえて、万葉集ではもう少し遊んだ歌があります。それが次の歌です。本編では可能な限り短歌だけで歌の鑑賞方法を説明したいのですが、紹介する大伴池主が詠う歌は短歌に付けられた前置漢文を読むことで池主がなにを戯れたのかが判るものとなっています。そのため前置漢文を置き去りにすることは出来ません。やや煩雑ですが、ご容赦願います。

越前國掾大伴宿祢池主来贈戯謌四首
標訓 越前國の掾大伴宿祢池主の来贈(おこ)せる戯(たはぶ)れの謌四首
(前置漢文)
漢文 忽辱恩賜、驚欣已深。心中含咲、獨座稍開、表裏不同、相違何異。推量所由、率尓作策歟。明知加言、豈有他意乎。凡貿易本物、其罪不軽。正贓倍贓、宣惣并満。今、勒風雲發遣微使。早速返報、不須延廻
勝寶元年十一月十二日、物所貿易下吏、謹訴、貿易人断官司 廳下
別曰。可怜之意、不能點止。聊述四詠、准擬睡覺

標訓 忽ちに恩賜(おんし)を辱(かたじけな)くし、驚欣(きやうきん)已(すで)に深し。心の中に咲(ゑみ)を含み、獨り座りて稍(ようや)く開けば、表裏同じからず、相ひ違い何ぞ異れる。所由(ゆゑよし)を推し量るに、率(いささか)に策を作(な)せるか。明かに知りて言を加ふること、豈、他(あだ)し意(こころ)有らめや。凡そ本物と貿易(まうやく)するは、其の罪軽からず。正贓(しやうさう)倍贓(へいさう)、宣しく惣(そう)と満(みつ)とを并せむ。今、風雲を勒(ろく)して微(わず)かに使ひを發遣(つかは)す。早速(すみやか)に返報(かへりごと)して、延廻(のぶ)るべからず。
勝寶元年十一月十二日、物の貿易(まうやく)せらえし下吏(げり)、謹みて貿易の人を断る官司の廳下に訴(うつた)ふ。
別(こと)に曰す。可怜(かれい)の意(こころ)、點止(もだる)ることを能はず。聊(いささ)かに四詠を述べて、睡覺(すいかく)に准擬(なぞ)ふ。

標訳 早速に御物(=書簡)を頂き身を縮める思いで、深く驚喜しました。心の内に喜びを持ち、独り部屋に座って、早速、御物を開くと、表と裏とは(=表の意味と裏の意味)同じではありません、その相違は、どうして、違っているのでしょうか。その理由を推し量ると、何らかの秘策を為されたのでしょうか。その秘策をはっきりと知って言葉を加えることに、本意に相違することがあるのでしょうか。およそ、本物と紛い物とを替えることは、その罪は軽くはありません。不法に財を成す罪に複数の犯罪を為す罪を付加するように、よろしく、惣(=一般に、表の意味)に満(=内実、隠された意味)を併せます。今、風雲に乗せて賤しくも使いを送ります。早々に御返事なされて、遅滞はしないで下さい。
勝寶元年十一月十二日に、御物を紛い物とに替えた下吏、謹んで、本物を紛い物に替えた人を裁判する官司のもとに申し出ます。
追伸して、申し上げます。面白がる気持ちを、黙っていることが出来なくて、ささやかな四首の和歌を詠い、眠気覚ましの品となぞらえます。

 この前置漢文に示す「宣惣并満」の言葉の解釈が、一般に紹介される解釈と違います。本編の解釈は以下に示すように戯れに一つの短歌に表の意味と隠れた意味を持つとしての言葉遊びです。付けられている漢文章からしますと、最初に家持が作って池主に贈ったと推定しています。その返書がこれと考えています。ただ、最初に家持から池主へ贈った歌は万葉集には載りません。

集歌四一二八
原歌 久佐麻久良 多比能於伎奈等 於母保之天 波里曽多麻敝流 奴波牟物能毛賀
表歌
訓読 草枕旅の翁(おきな)と思ほして針ぞ賜へる縫はむものもが
私訳 草を枕とする苦しい旅を行く老人と思われて、針を下さった。何か、縫うものがあればよいのだが。
裏歌
試訓 草枕旅の置き女(な)と思ほして榛(はり)ぞ賜へる寝(ぬ)はむ者もが
試訳 草を枕とする苦しい旅を行く宿に置く遊女と思われて、榛染めした新しい衣を頂いた。私と共寝をしたい人なのでしょう。

集歌四一二九
原歌 芳理夫久路 等利安宜麻敝尓 於吉可邊佐倍波 於能等母於能夜 宇良毛都藝多利
表歌
訓読 針袋(はりふくろ)取り上げ前に置き反さへばおのともおのや裏も継ぎたり
私訳 針の入った袋を取り出し前に置いて裏反してみると、なんとまあ、中まで縫ってある。
裏歌
試訓 針袋取り上げ前に置き返さへば己友(おのとも)己(おの)や心(うら)も継ぎたり
試訳 針の入った袋を取り出し、前に置いてお礼をすれば友と自分との気持ちも継ぎます。

集歌四一三〇
原歌 波利夫久路 應婢都々氣奈我良 佐刀其等邇 天良佐比安流氣騰 比等毛登賀米授
表歌
訓読 針袋(はりふくろ)帯(お)び続(つつ)けながら里ごとに照(てら)さひ歩けど人も咎(とが)めず
私訳 針の入った袋を身に付けて、里ごとに針を輝かせ自慢して歩き回わるが、誰も気に留めない。
裏歌
試訓 針(はり)袋(ぶくろ)叫(を)び続(つつ)けながら里ごとに衒(てら)さひ歩けど人も問(と)がめず
試訳 針の入った袋、売り声を叫びながら里ごとに売り歩くが、誰も呼び止めてくれない。

集歌四一三一
原歌 等里我奈久 安豆麻乎佐之天 布佐倍之尓 由可牟登於毛倍騰 与之母佐祢奈之
表歌
訓読 鶏(とり)が鳴く東(あづま)を指して塞(ふさ)へしに行かむと思へど由(よし)も実(さね)なし
私訳 鶏が鳴く東を目指して、針で布の穴を塞ぎに行こうと思うが、まったく、機会がありません。
裏歌
試訓 鶏(とり)が鳴く吾妻(あづま)を指して相応(ふさ)へしに行かむと思へど由(よし)も実(さね)なし
試訳 鶏が鳴く東(あずま)、その言葉のひびきではないが、貴方の吾が妻に成ることを目指して、似つかわしい人(=娘女)に成ろうと思うが、手だても、その実りもない。
右謌之返報謌者、脱漏不得探求也
注訓 右の謌の返報の謌は、脱漏して探り求むるを得ず。

 前置漢文に「獨座稍開、表裏不同、相違何異。推量所由、率尓作策歟」とあり、また「宣惣并満」とありますから、短歌に表向きの意味での読解と裏に隠された意味での読解との二つの読解が必要なことが判ります。ただ、このような短歌の解釈は、ある種、掛詞による和歌創作と云うものに通じますから、これは正統な古典文学では困ります。万葉集の時代、一字一音の万葉仮名だけで短歌が表現されているのは最大許容しても、その歌に歌を複線的に解釈するような高度な掛詞や縁語の技法があってはいけないのです。それは古今和歌集の歌の特徴として紹介されるものであって、古今和歌集の歌が万葉集の歌を模倣し、洗練されたものと云うようなことは学問的にあってはいけないのです。
 さらに正統な伝統では歌に付けられた前置漢文から短歌を鑑賞するような態度はとりません。短歌は短歌一首として鑑賞するものであって、前置漢文や長歌などと共に総合的に鑑賞することは伝統の和歌道ではありません。このような背景から正規の教育を受けたお方では、ここで紹介したような前置漢文から掛詞技法を推定する鑑賞方法は思いの外のことと思います。そのため、紹介したものは本編独自です。一般的な釈注書や解説書では別の姿を示し解説します。一例として万葉集研究では有名な高岡市万葉歴史館のものを紹介します。単純に前置漢文とは関係なく表層だけの鑑賞です。

高岡市万葉歴史館web万葉集「読んでみよう越中万葉」より
集歌四一三〇
読下 針袋(はりふくろ)帯(お)び続(つつ)けながら里ごとに照(てら)さひ歩けど人も咎(とが)めず
解釈 針袋を腰に下げたままで、里ごとに見せびらかして歩き回ったが、誰も変だと思ってくれません。

 追記して、ここでは「表記と朗詠とのギャップ」と云うテーマで歌に遊びました。万葉集には他にも漢字表現で遊ぶ「戯訓」と云う漢字文字遊びもあります。「山上復有山」と表記して「出」とし、「如是二々知三」の「二々」は「四」だから「し」、そこから「如是二々知三」は「かくしらさむ」と読みます。このように色々な漢字表現で遊ぶ「戯訓」があります。およそ、頓智・なぞなぞ、当時の生活からのものなど、理屈では訓じることが難しいものもあります。これらの「戯訓」についてはネット検索で確認してください。これについては興味の対象外のため深く調べていませんので、他に譲ります。


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