竹取翁と万葉集のお勉強

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竹取翁の歌のお勉強 竹取翁と竹取物語

2009年04月15日 | 万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する
竹取翁の歌のお勉強 竹取翁と竹取物語

 万葉集の竹取翁の歌と竹取物語は、ともに竹取翁が登場して舞台回しの役割をしますが、内容はまったく違うものです。
 竹取翁の歌のお勉強の概略説明の最後に同じ「竹取翁」の関連として、竹取物語に関して私案を再掲します。以前に説明したように、竹取物語とは阿倍内親王へ橘諸兄によって献上された歌物語「竹取物語」が原本と思っています。私が想像する竹取物語の中心人物は次の通りです。

竹取物語
なよ竹のかくや姫        阿倍内親王(孝謙天皇)
竹とりのおきな         左大臣橘諸兄
いしつくりのみこ        草壁皇子
くらもちのみこ         高市皇子
右大臣あべのみむらじ      右大臣橘諸兄 一人二役
大納言大伴(おほとも)のみゆき  大納言大伴旅人
中納言いそのかみのまろたり   中納言石上乙麿
御門              安積皇子
内侍なかとみのふさこ      未詳
高野少将のおほくに       交野の百済王敬福
みむろといんべのあきた     斎宮頭忌部宿祢人成

推定した竹取物語の人物を説明しますと、最初に皇太子は大和歌の世界では「高輝らす日の皇子(たかきらすひのみこ)」と称します。聖武天皇の皇太子である阿倍内親王は、和風名称で「耀く姫の皇子(かくやくひめのみこ)」とも称せます。つまり、耀姫(かくやひめ)の皇子です。竹取物語でかくや姫が竹取翁を召し使う立場にあるのは、この仮託された人物の身分の背景があるからで、単なる美しい女性に由来するのではありません。
ご存知のように、竹取物語には各所に言葉の洒落が織り込まれています。では、同じように登場人物には言葉の洒落はないのでしょうか。私は、言葉の洒落の世界は有るとして、この洒落の感覚を楽しんでいます。
次に、大嘗祭や新嘗祭のような特別な儀式が無い時の忌部氏の本業は、宮中の御室門(みむろと)の開閉の管理と太占(ふとまに)の吉凶占いです。つまり、開閉と太占から、漢字の洒落で開太(あきた)になりますし、その氏の職務から竹取翁が「アキタ」を呼び付けて、「カクヤ姫」の名を占わせて命名を命じるのは自然な姿なのです。こうした時、当時、阿倍内親王が知っている宮中での忌部の人物の可能性は、斎宮頭の忌部宿祢人成が筆頭になります。
竹取翁ですが、橘朝臣諸兄は阿倍内親王にとって母方同族の叔父の立場です。また、七十歳を越えた老人には国から杖を贈り長寿を祝う中国の風習があり、左大臣の橘朝臣諸兄には斑竹御杖を授けられてはいませんが、その高齢と左大臣で現役を引退した丹比真人嶋に擬えての「竹取翁」です。さらに、阿倍内親王の母方の叔父の立場で賢き阿倍内親王を育てられたところから、「賢(かしこ)きを造る」人物です。漢字の表記では「賢木造」です。つまり、これをもう一度、和語で読み返すと「賢木(さかき)の造(くにつこ)」となります。これは竹取物語での最後の洒落の「あまたの士(つわもの)に富む山」からの「富士」と同じで、漢字表記でなければ判らない洒落です。「富士」の洒落の世界からは、竹取物語は漢字表記でなければ本来は成立しない物語です。
ただし、「賢木造」の橘朝臣諸兄は丹比真人嶋に擬えての「竹取翁」ですから、その分、混同が起きないように山へ「なよ竹」を取りに行かなければなりません。ここで、阿倍内親王の東宮学士である吉備真備から吉備津采女を思い浮かべ、吉備津采女から人麻呂を思い出してください。人麻呂が詠う悲恋の吉備津采女は「なよ竹の とをよる子」と表現される伝説の禁断の恋の美人です。「カクヤ姫」が阿倍内親王を示すものならば、当然、「なよ竹」から、人麻呂と吉備真備とを思い浮かべなければいけません。この吉備津采女の恋の相手は若き日の高市皇子と思われますし、「カクヤ姫」が難題の賭けに負けそうになった相手の「くらもちのみこ」は高市皇子のことですから、吉備津采女ゆかりの「なよ竹」と思われますが、それを「カクヤ姫」の形容に使ったとしても不敬にはならないでしょう。
竹取物語は、このような洒落の世界で構成されています。物語における「恥を捨てる、魂離(たまさ)かる、あへなし、あなたがへ、かひなし」の洒落は、宮中の女性用に解説の付いた直接的な表現と思われますので普段の人にも判り易くなっています。他方、男性貴族のような万葉集・漢語や故事を知る人にはもう少し教養ある洒落を用意してあるのも、竹取物語の洒落の世界です。優れた万葉集の「表記する歌」が使用する漢字に表音と表字で二つの意味を持つ、そんな世界に生まれたのが竹取物語です。
なお、竹取物語の背景となった高貴な阿倍内親王がいらっしゃるのは内裏の内南安殿の籠(こ)です。籠(こ)は、宝物を大切に保管する塗籠(ぬりこも)をも指します。間違えても籠(かご)ではありません。私は、竹取物語の時代設定を文武天皇から元正天皇の時代と思っていますから、ふざけた解説にあるように籠(こ)を籠(かご)と読み替えて耀姫を「籠の鳥」や性の象徴として扱ってはいけません。平安期以降の塗籠(ぬりこも)を夜御殿(よんのおとど)と称すようになる時代以降では、籠の「こ」と「かご」の大きな違いを知らないかもしれませんが。
 耀姫(カクヤヒメ)、賢木の造(サカキノクニツコ)、御室門(みむろと)忌部の開太(イムベノアキタ)の人物が推定できれば、残りの人物も同じ視線で人物が想像できます。
さて、「右大臣あべのみむらじ」は「右大臣阿倍御連」と漢字で表記ができますが、万葉集の世界では右大臣は橘諸兄を示します。そして、右大臣の橘諸兄は阿倍内親王にとって母方同族の叔父の立場ですので、阿倍内親王の御連枝です。
次に、「大納言大伴(おほとも)のみゆき」は「大納言大伴御幸」と漢字で表記ができます。万葉集において大納言で御幸に従い歌を詠ったのは大伴旅人だけです。
また、「中納言いそのかみのまろたり」の「中納言石上麿也」ですが、中納言は石上乙麿を意味します。なお、親戚や親子関係にある石上宅嗣は大納言、石上麻呂は左大臣ですので、中納言を優先すれば「中納言石上麿也」は石上乙麿です。此処までは元正・聖武天皇の重臣たちですから、阿倍内親王は名前に込められた洒落を十分に理解していると思います。
問題は、「いしつくりのみこ」と「くらもちのみこ」です。大切なのは、侍講による御進講のときに阿倍内親王がこの二人の名前の由来の説明を聞いて笑えなければいけません。
最初に「いしつくりのみこ」ですが、神話で石凝姥命(いしこりどめ)が石を凝り固めて作ったのは八咫鏡(やたのかがみ)の一つ手前の日像鏡(ひがたのかがみ)です。つまり、天皇の象徴である八咫鏡の一つ手前の日像の鏡は大嘗祭直前の日並皇子をイメージしますから、歴史では草壁皇子だけです。
次の「くらもちのみこ」は、筑紫にゆかりがあり、鞍にもゆかりがある皇子です。日本書紀の記事によると、壬申の乱の折に天武天皇は「因賜鞍馬、悉授軍事」とあるように鞍付きの馬を軍事権限の委譲のシンボルにして高市皇子に授けています。つまり、「くらもちのみこ」は「鞍持ちの皇子」で、天武・持統天皇の時代を仕切った高市皇子となります。「くらもち」を「庫持ち」とする解説もありますが、律令政治の時代に貴族・政治家に権力や財の象徴としての「庫」や「蔵」のイメージはないでしょう。大和国のすべてが自分の物であるとする人々に、「くら」を「庫」とするような商人的な蓄財の感覚はないと思います。必要なら召し上げれば良いのです。さらに「くらもちのみこ」を「車持皇子」として藤原不比等を想定する人もいるようですが、尊卑分脈が竹取物語より後に書かれていて、それ以前の文献では藤原不比等は車持与志古娘の子でなく、鏡王女の子となっていることは内緒です。平安時代以前の竹取物語を書いた本人もそれを読んだ時代の人も、藤原不比等と車持与志古娘とが関係するなんて知りません。
また、「高野少将のおほくに」は、河内国の交野に本拠を置き陸奥の国で黄金を発見し大和の国を豊かな国にした百済王敬福です。奈良時代に起きた「変」では常に公平中立を守り、近衛の軍を率いています。「おほくに」は、黄金を発見し豊かな国にした意味での「豊国」や「大国」の駄洒落の可能性もあります。
最後に、「御門」は聖武天皇と安積皇子の両方が考えられますが、安積皇子が長生してれば阿倍内親王は結婚できたでしょうし、御門は御狩りをしてます。それで安積皇子を想定しています。少し前の世代ですと、風流なら二品志貴皇子が筆頭ですが、阿倍内親王はご存知ではないと思い対象から外しています。
つまり、竹取物語の登場人物のほとんどが万葉集の世界に生きた人々です。万葉集の竹取翁の歌と物語「竹取物語」とが関係するか、しないか。さて、どうでしょう。

私が推定する竹取物語の作者は丹比国人で、原型は次の万葉集の大伴田主と石川女郎との相聞のようなものではなかったかと思っています。山上憶良が東宮侍講だったように、高貴な子女には侍講の人が控えていて漢文の文章を大和言葉で進講をしていたようです。その大和言葉での進講の内容を一字一音の万葉仮名に記録し、その記録したものを草書体・草仮名体で書写すると「平安時代の竹取物語」と区別することは出来ないでしょう。
さて、大伴田主と石川女郎との相聞和歌の「発声の読み下し文」を紹介します。これはあくまでも発声の読み下し文ですが、現代文ではありません。発声の読み下し文は推定の当時の読みです。歌自体の製作区分では藤原京時代の万葉集の和歌ですが、万葉仮名での読み下し文表記のときにこの製作年代を判定出来るのでしょうか。文学史では竹取物語の創作時期の推定から考えて、文学の専門家はこれが草書連綿書き表記でも区別できることになっているようです。

石川女郎贈大伴宿祢田主謌一首
遊士跡 吾者聞流乎 屋戸不借 吾乎還利 於曽能風流士
大伴田主字曰仲郎。容姿佳艶風流秀絶。見人聞者靡不歎息也。時有石川女郎。自成雙栖之感、恒悲獨守之難、意欲寄書未逢良信。爰作方便而似賎嫗己提堝子而到寝側、哽音蹄足叩戸諮曰、東隣貧女、将取火来矣。於是仲郎暗裏非識冒隠之形。慮外不堪拘接之計。任念取火、就跡歸去也。明後、女郎既恥自媒之可愧、復恨心契之弗果。因作斯謌以贈謔戯焉。
大伴宿祢田主報贈謌一首
遊士尓 吾者有家里 屋戸不借 令還吾曽 風流士者有
同石川女郎更贈大伴田主中郎謌一首
吾聞之 耳尓好似 葦若末乃 足痛吾勢 勤多扶倍思
右依中郎足疾、贈此謌問訊也。


石川女郎の大伴宿祢田主に贈れるうた一首

みやびをと吾は聞けるをやど貸さず われを還せりおそのみやびを

大伴田主は字を仲郎といへり。容姿きらきらしく風流すぐれたり。見る人聞くものの歎息せざるはなし。時に石川女郎といへるもの有り。自らともにすむのおもひを成して、つねにひとりもることの難きを悲しび、こころにふみを寄せむとおもひて未だよきたよりに逢はざりき。ここにたばかりをなして賎しきをうなに似せて己れなべを提げて寝のかたへに到りて、哽音蹄足して戸を叩きはかりて曰はく、「東の隣の貧しく女、まさに火を取らむとこれり」といへり。ここに仲郎、暗きうらにものにかくせるの形をしらず。おもひの外にまじはりの計りごとにあへず。念ひのまにまに火を取り、路に就きてかへりいなしめき。明けて後、女郎すでに自媒のはづべきをはぢ、また心のちぎりの果さざるを恨みき。よりてこのうたを作りてたはふれを贈りぬ。

大伴宿祢田主のこたへ贈れるうた一首

みやびをに吾はありけりやど貸さず 還ししわれぞみやびをにはある

同じ石川女郎の更に大伴田主中郎に贈れるうた一首

あが聞きし耳によく似る葦のうれの あしひくあが背つとめ給ふべし

右は中郎の足のやまひに依りて、このうたを贈りてとびらへり。

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