竹取翁と万葉集のお勉強

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石川女郎(石川女郎贈大伴宿祢田主)

2009年10月22日 | 万葉集 雑記
石川女郎(石川女郎贈大伴宿祢田主)

 石川女郎(石川女郎贈大伴宿祢田主)について、見てみたいと思います。

石川女郎贈大伴宿祢田主謌一首 即佐保大納言大伴卿第二子 母曰巨勢朝臣也
標訓 石川女郎の大伴宿祢田主に贈れる歌一首 即ち佐保大納言大伴卿の第二子、母を巨勢朝臣といふ
集歌126 遊士跡 吾者聞流乎 屋戸不借 吾乎還利 於曽能風流士
訓読 遊士(みやびを)と吾は聞けるを屋戸(やと)貸さず吾を還せりおその風流士(みやびを)
私訳 風流なお方と私は聞いていましたが、夜遅く忍んで訪ねていった私に、一夜、貴方と泊まる寝屋をも貸すこともしないで、そのまま何もしないで私をお返しになるとは。女の気持ちも知らない鈍感な風流人ですね。

大伴田主字曰仲郎、容姿佳艶風流秀絶。見人聞者靡不歎息也。時有石川女郎、自成雙栖之感、恒悲獨守之難、意欲寄書未逢良信。爰作方便而似賎嫗己提堝子而到寝側、哽音蹄足叩戸諮曰、東隣貧女、将取火来矣。於是仲郎暗裏非識冒隠之形。慮外不堪拘接之計。任念取火、就跡歸去也。明後、女郎既恥自媒之可愧、復恨心契之弗果。因作斯謌以贈諺戯焉。
注訓 大伴田主は字を仲郎といへり。容姿佳艶しく風流秀絶れたり。見る人聞く者の歎息せざるはなし。時に石川女郎といへるもの有り。自ら雙栖の感を成して、恒に獨守の難きを悲しび、意に書を寄せむと欲ひて未だ良信に逢はざりき。ここに方便を作して賎しき嫗に似せて己れ堝子を提げて寝の側に到りて、哽音蹄足して戸を叩き諮りて曰はく、「東の隣の貧しく女、将に火を取らむと来れり」といへり。ここに仲郎暗き裏に冒隠の形を識らず。慮の外に拘接の計りごとに堪へず。念ひのまにまに火を取り、路に就きて歸り去なしめき。明けて後、女郎すでに自媒の愧づべきを恥ぢ、また心の契の果さざるを恨みき。因りてこの謌を作りて謔戯を贈りぬ。

大伴宿祢田主報贈一首
標訓 大伴宿祢田主の報(こた)へ贈れる一首
集歌127 遊士尓 吾者有家里 屋戸不借 令還吾曽 風流士者有
訓読 遊士(みやびを)に吾はありけり屋戸(やと)貸さず還しし吾(わ)れぞ風流士(みやびを)にはある
私訳 風流人ですよ、私は。神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との話にあるように、女から男の許を娉うのは悪(あし)ことですよ。だから、女の身で訪ねてきた貴女に一夜の寝屋をも貸さず、貴女に何もしないでそのまま還した私は風流人なのですよ。だから、今、貴女とこうしているではないですか。

同石川女郎更贈大伴田主中郎謌一首
標訓 同じ石川女郎の更に大伴田主中郎に贈れる歌一首
集歌128 吾聞之 耳尓好似 葦若末乃 足痛吾勢 勤多扶倍思
訓読 吾(わ)が聞きし耳に好(よ)く似る葦(あし)末(うれ)の足(あし)痛(う)む吾が背(せ)勤(つと)め給(た)ふべし
私訳 私が聞くと発音がよく似た葦(あし)の末(うれ)と足(あし)を痛(う)れう私の愛しい人よ。神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との話にあるように、女から男の許を娉うのは悪(あし)ことであるならば、今こうしているように、風流人の貴方は私の許へもっと頻繁に訪ねて来て、貴方のあの逞しい葦の芽によく似たもので私を何度も何度も愛してください。
右、依中郎足疾、贈此謌問訊也
注訓 右は、中郎の足の疾(やまひ)に依りて、此の歌を贈りて問訊(とぶら)へり。

 最初に、集歌126の左注は漢文で記されていますから、「大伴田主字曰仲郎」の漢語としての綽名である「仲郎」の意味の取り方には二つの解釈があります。一つは、中国の漢魏九品制での官僚制度における「仲郎」は八品官で貴人に仕え雑事を行う人を意味しますから、官に仕えていた場合は大和朝廷での大舎人に相当します。官に仕えていない場合は、中国の字(あざ)の付け方での「長男・次男・三男・四男」を示す「伯・仲・叔・季」の漢字を、綽名に取り入れたとして二男を意味すると考えることも出来ます。なお、集歌128の歌の標では「大伴田主中郎」の表記ですから、諱と字とを同時に表記したのではなく、死没したときの諱と官位を表記したと解釈することができるのではないでしょうか。
 こうしますと、これらの歌が詠われたのは大伴田主が大舎人に相当する二十一から二十五歳の間と考えることが出来ます。そして、集歌126の歌の標では大伴田主は大伴安麻呂の二男と明記していますから、大伴安麻呂の長男旅人(664生まれ)と三男宿奈麿(675生まれ)との間の誕生となります。つまり、歌が詠われたのは天武十四年(685)から文武四年(700)の間のある年になります。もし、田主が宿奈麿の年齢に接近していた場合に、二人を区分するために田主を大舎人の中国官位名称に相当する中郎で呼び、かつ、次男の意味を持たした可能性があるのではないでしょうか。
 ただし、注意しないといけないのは、集歌126の歌の標の「即佐保大納言大伴卿第二子 母曰巨勢朝臣也」の文章は、後年の書き入れですので真実かどうかは不明ですし、大伴田主は万葉集のこの歌以外には、すべての歴史に現れない人物です。さらに、言葉のなぞなぞ遊びで、足の具合が悪い田の主を山田の案山子と云いますが、古代では「山田の曾富騰(そほと)」と云います。そして、同音ですが夜這いに関わる言葉に蕃登(ほと)と云う言葉がありますから、歌と序の文の関係から見て洒落と風流士で「大伴田主」と名前を付けている可能性は否定できません。つまり、これら全文が宮中で楽しまれた虚構の歌物語かもしれません。また、大伴田主は、万葉集のこの歌から系図や容姿等の記事が造られています。万葉集の編者の丹比国人は、非常に洒落気がある人ですので、注意が必要ではないでしょうか。
 さて、肝心の石川女郎ですが、持統天皇の時代に宮中に出仕する「女郎」の称号を有する人物と推定されますし、漢文の序に「方便を作して賎しき嫗に似せて」とありますから、持統天皇の時代に四十歳を超えた女性でしょうか。すると、天智天皇時代に少納言小花下蘇我安麻呂の娘と推定されます。その兄妹になる石川石足は天智六年(667)の生まれですから、石川女郎が姉ですと持統年間後半には四十歳を超えた女性に該当します。父親の蘇我安麻呂は、壬申の乱の年には既に少納言小花下であったと思われますので四十歳は越えているでしょうから、石川石足が生まれた天智六年に既に安麻呂に子がいても不思議ではありません。
 なお、洞院公定等により鎌倉時代頃に出来た系図研究書の尊卑分脈は、当時の文献を丹念に調べ上げた古今最高の系図研究書ですが、それは正伝の系図の正本ではなく、研究書であることが認識の上で重要です。つまり、もし、尊卑分脈で大伴田主について万葉集の記事と一致していても、それはそのままでは採用が出来ません。なぜなら、尊卑分脈で示すその人物像が、万葉集が参照先の可能性があるからです。このような理由から、尊卑分脈の系図を使用する場合、他に二つ以上の対照資料がないと危険な面があります。

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