反謌
集歌六
原文 山越乃 風乎時自見 寐不落 家在妹乎 懸而小竹櫃
訓読 山越(やまこし)の風を時じみ寝(ね)もおちず家なる妹を懸(か)けに偲(しの)ひつ
私訳 山を越して吹き来る風が絶え間ない。物思いに寝ることも出来ず、家に残る愛しい貴女に篠竹が風になびくように我が心をなびかせ、恋心を懸けて思い浮かべています。
左注 右、檢日本書紀 無幸於讃岐國。亦軍王未詳也。但、山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮云々。一書云、 是時宮前在二樹木。此之二樹斑鳩比米二鳥大集。時勅多挂稲穂而養之。乃作歌云々。若疑従此便幸之歟。
注訓 右は、日本書紀を檢(かむが)ふるに讃岐國に幸(いでま)すこと無し。亦、軍王は未だ詳(つまび)らかならず。但し、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「記に曰はく『天皇十一年己亥の冬十二月己巳の朔の壬午、伊豫の温湯(ゆ)の宮に幸(いでま)す、云々』といへり。一書(あるふみ)に云はく『是の時に、宮の前に二つの樹木在り。此の二つの樹に斑鳩(いかるが)・比米(ひめ)二つの鳥大(さは)に集まれり。時に、勅(みことのり)して多くの稲穂を挂けてこれを養ひたまふ。乃ち作れる歌云々』」といへり。若(けだ)し、疑ふらくは此より便(すなは)ち幸(いでま)ししか。
注意 原文の「寐不落」は、標準解釈では「夜」の字を足し「寐夜不落」として「寐夜(ぬるよ)落ちず」と訓じます。
明日香川原宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇
標訓 明日香(あすか)川原宮(かわはらのみや)に御宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと)の代(みよ)
天豊(あめとよ)財重(たからいかし)日足姫(ひたらしひめの)天皇(すめらみこと)
額田王謌 未詳
標訓 額田(ぬかだの)王(おほきみ)の歌 未だ詳(つまびら)かならず
集歌七
原文 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念
訓読 秋し野の御草(みくさ)刈り葺(ふ)き宿(やど)れりし宇治の京(みやこ)の仮(かり)廬(いほ)しそ念(も)ゆ
私訳 秋の野の草を刈り屋根を葺いて住まわれていた、その石垣を積んで作られたと云う宇治の大宮の故事が偲ばれます。
左注 右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌。但、紀曰、五年春、正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむ)がふるに曰はく「一(ある)書(ふみ)に戊申の年に比良の宮に幸(いでま)しし大御歌」といへり。但し、紀に曰はく「五年の春、正月己卯朔辛巳に、天皇、紀温湯(ゆ)に至る。三月戊寅朔、天皇の吉野の宮に幸(いでま)して肆宴(とよのほあかり)す。庚辰の日に、天皇の近江の平浦に幸(いでま)す」といへり。
注意 「比良宮」は滋賀県大津市志賀町付近、「紀温湯」は和歌山県の白浜温泉、「近江平浦」の「平」は「比良」で大津市志賀町付近の湖岸を指します。
後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇、後即位後岡本宮
標訓 後の岡本宮に御宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと)の代(みよ)
天豊財重日足姫天皇、後に後岡本宮に即位
額田王謌
標訓 額田(ぬかだの)王(おほきみ)の謌
集歌八
原文 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
訓読 熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
私訳 熟田津で朝鮮に出兵するための対策を立てて実行してきたが、全ての出陣への準備が願い通りに整ったし、この遅い月の月明かりを頼って出港の準備をしていたら潮も願い通りになった。さあ、今から出港しよう。
左注 右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酋十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸于伊豫湯宮。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔丙寅、御船西征始就于海路。庚戌、御船、泊于伊豫熟田津石湯行宮。天皇、御覧昔日猶存之物、當時忽起感愛之情。所以因製謌詠為之哀傷也。即此謌者天皇御製焉。但、額田王謌者別有四首。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむが)みて曰はく「飛鳥岡本宮の御宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと)の元年己丑、九年丁酋の十二月己巳の朔の壬午、天皇(すめらみこと)大后(おほきさき)、伊豫の湯の宮に幸(いでま)す。後岡本宮の馭宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと)の七年辛酉の春正月丁酉の朔の丙寅、御船の西に征(ゆ)き始めて海路に就く。庚戌、御船、伊豫の熟田津の石湯(いはゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ。天皇、昔日(むかし)より猶存(のこ)れる物を御覧(みそなは)して、當時(そのかみ)忽ち感愛(かなしみ)の情(こころ)を起こす。所以に因りて謌を製(つく)りて哀傷(かなしみ)を詠ふ」といへり。即ち此の謌は天皇の御(かた)りて製(つく)らせしなり。但し、額田王の謌は別に四首有り。
注意 「伊豫湯宮」と「伊豫熟田津石湯行宮」は、現在の愛媛県松山市道後温泉説と行宮として松山市堀江説があります。
幸于紀温泉之時、額田王作謌
標訓 紀温泉(きのゆ)に幸(いでま)しし時に、額田王の作れる歌
集歌九
原文 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし御備(おそな)え副(そ)えき吾(あ)が背子し致(いた)ちししけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
私訳 一点の穢れなき白栲の布を奉幣に副えました。吾らがお慕いする君が、梓弓が立てる音の中、その奉幣をいたしました。大和の橿原宮の元宮であります、この熊野速玉大社を建てられた大王(=神武天皇)よ。
注意 難訓とされた上二句は五文字と七文字の一字一音万葉仮名表記ですから奈良時代に発音された漢字の字音に従って訓じると難訓にはなりません。また、「紀温泉」は和歌山県の白浜温泉を指します。
中皇命、徃于紀温泉之時御謌
標訓 中(なかつ)皇命(すめらみこと)の、紀温泉(きのゆ)より徃へりましし時の御(かた)りしし歌
集歌一〇
原文 君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名
訓読 君し代も吾が代もそ知るや磐代(いはしろ)の岡し草根(くさね)をいざ結びてな
私訳 貴方の生きた時代も、私が生きる時代をも、きっと、全てを知っているのか、その神が宿る磐代よ。その磐代の岡に生える草を、さあ、旅の無事を祈って結びましょう。
集歌六
原文 山越乃 風乎時自見 寐不落 家在妹乎 懸而小竹櫃
訓読 山越(やまこし)の風を時じみ寝(ね)もおちず家なる妹を懸(か)けに偲(しの)ひつ
私訳 山を越して吹き来る風が絶え間ない。物思いに寝ることも出来ず、家に残る愛しい貴女に篠竹が風になびくように我が心をなびかせ、恋心を懸けて思い浮かべています。
左注 右、檢日本書紀 無幸於讃岐國。亦軍王未詳也。但、山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮云々。一書云、 是時宮前在二樹木。此之二樹斑鳩比米二鳥大集。時勅多挂稲穂而養之。乃作歌云々。若疑従此便幸之歟。
注訓 右は、日本書紀を檢(かむが)ふるに讃岐國に幸(いでま)すこと無し。亦、軍王は未だ詳(つまび)らかならず。但し、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「記に曰はく『天皇十一年己亥の冬十二月己巳の朔の壬午、伊豫の温湯(ゆ)の宮に幸(いでま)す、云々』といへり。一書(あるふみ)に云はく『是の時に、宮の前に二つの樹木在り。此の二つの樹に斑鳩(いかるが)・比米(ひめ)二つの鳥大(さは)に集まれり。時に、勅(みことのり)して多くの稲穂を挂けてこれを養ひたまふ。乃ち作れる歌云々』」といへり。若(けだ)し、疑ふらくは此より便(すなは)ち幸(いでま)ししか。
注意 原文の「寐不落」は、標準解釈では「夜」の字を足し「寐夜不落」として「寐夜(ぬるよ)落ちず」と訓じます。
明日香川原宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇
標訓 明日香(あすか)川原宮(かわはらのみや)に御宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと)の代(みよ)
天豊(あめとよ)財重(たからいかし)日足姫(ひたらしひめの)天皇(すめらみこと)
額田王謌 未詳
標訓 額田(ぬかだの)王(おほきみ)の歌 未だ詳(つまびら)かならず
集歌七
原文 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念
訓読 秋し野の御草(みくさ)刈り葺(ふ)き宿(やど)れりし宇治の京(みやこ)の仮(かり)廬(いほ)しそ念(も)ゆ
私訳 秋の野の草を刈り屋根を葺いて住まわれていた、その石垣を積んで作られたと云う宇治の大宮の故事が偲ばれます。
左注 右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌。但、紀曰、五年春、正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむ)がふるに曰はく「一(ある)書(ふみ)に戊申の年に比良の宮に幸(いでま)しし大御歌」といへり。但し、紀に曰はく「五年の春、正月己卯朔辛巳に、天皇、紀温湯(ゆ)に至る。三月戊寅朔、天皇の吉野の宮に幸(いでま)して肆宴(とよのほあかり)す。庚辰の日に、天皇の近江の平浦に幸(いでま)す」といへり。
注意 「比良宮」は滋賀県大津市志賀町付近、「紀温湯」は和歌山県の白浜温泉、「近江平浦」の「平」は「比良」で大津市志賀町付近の湖岸を指します。
後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇、後即位後岡本宮
標訓 後の岡本宮に御宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと)の代(みよ)
天豊財重日足姫天皇、後に後岡本宮に即位
額田王謌
標訓 額田(ぬかだの)王(おほきみ)の謌
集歌八
原文 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
訓読 熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
私訳 熟田津で朝鮮に出兵するための対策を立てて実行してきたが、全ての出陣への準備が願い通りに整ったし、この遅い月の月明かりを頼って出港の準備をしていたら潮も願い通りになった。さあ、今から出港しよう。
左注 右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酋十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸于伊豫湯宮。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔丙寅、御船西征始就于海路。庚戌、御船、泊于伊豫熟田津石湯行宮。天皇、御覧昔日猶存之物、當時忽起感愛之情。所以因製謌詠為之哀傷也。即此謌者天皇御製焉。但、額田王謌者別有四首。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむが)みて曰はく「飛鳥岡本宮の御宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと)の元年己丑、九年丁酋の十二月己巳の朔の壬午、天皇(すめらみこと)大后(おほきさき)、伊豫の湯の宮に幸(いでま)す。後岡本宮の馭宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと)の七年辛酉の春正月丁酉の朔の丙寅、御船の西に征(ゆ)き始めて海路に就く。庚戌、御船、伊豫の熟田津の石湯(いはゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ。天皇、昔日(むかし)より猶存(のこ)れる物を御覧(みそなは)して、當時(そのかみ)忽ち感愛(かなしみ)の情(こころ)を起こす。所以に因りて謌を製(つく)りて哀傷(かなしみ)を詠ふ」といへり。即ち此の謌は天皇の御(かた)りて製(つく)らせしなり。但し、額田王の謌は別に四首有り。
注意 「伊豫湯宮」と「伊豫熟田津石湯行宮」は、現在の愛媛県松山市道後温泉説と行宮として松山市堀江説があります。
幸于紀温泉之時、額田王作謌
標訓 紀温泉(きのゆ)に幸(いでま)しし時に、額田王の作れる歌
集歌九
原文 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし御備(おそな)え副(そ)えき吾(あ)が背子し致(いた)ちししけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
私訳 一点の穢れなき白栲の布を奉幣に副えました。吾らがお慕いする君が、梓弓が立てる音の中、その奉幣をいたしました。大和の橿原宮の元宮であります、この熊野速玉大社を建てられた大王(=神武天皇)よ。
注意 難訓とされた上二句は五文字と七文字の一字一音万葉仮名表記ですから奈良時代に発音された漢字の字音に従って訓じると難訓にはなりません。また、「紀温泉」は和歌山県の白浜温泉を指します。
中皇命、徃于紀温泉之時御謌
標訓 中(なかつ)皇命(すめらみこと)の、紀温泉(きのゆ)より徃へりましし時の御(かた)りしし歌
集歌一〇
原文 君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名
訓読 君し代も吾が代もそ知るや磐代(いはしろ)の岡し草根(くさね)をいざ結びてな
私訳 貴方の生きた時代も、私が生きる時代をも、きっと、全てを知っているのか、その神が宿る磐代よ。その磐代の岡に生える草を、さあ、旅の無事を祈って結びましょう。
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