竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集の歌物語を楽しむ

2017年05月10日 | 初めて万葉集に親しむ
万葉集の歌物語を楽しむ

 万葉集中で歌物語性を持つものの多くは、前置漢文の序と称される、漢文の序文を持ちます。漢字だけで記述された万葉集の歌自体を鑑賞するのも大変ですが、漢文の文章を理解するのはもっと大変だと思います。そこで、漢文の現代語訳については中西進氏の『万葉集 全訳注原歌付』(講談社文庫)などの現代語訳を参照してください。ただし、漢文の序文を解釈するのは大変だからとして、昭和期以前のようにそれは無かったものと見なして和歌だけを鑑賞することだけはしないで下さい。当然ですが、前置漢文の序を持つ和歌は、それらの漢文や和歌が一体となって初めて作品としての意味を持つからです。特に歌物語性を持つものは、漢文の序文に歌物語の舞台設定などの解説が述べられている場合がありますので、注意して漢文の現代語訳を楽しんで下さい。

 先に紹介しましたように、『万葉集釋注』(集英社文庫)を書かれた伊藤博氏は、その発刊に際して「釋注一」で「万葉集の従来の注釈書は、語釈を中心に一首ごとに注解を加えるのを習いとしている。しかし、万葉歌には、前後の歌とともに味わうことによって、はじめて真価を発揮する場合が少なくない。」と述べられています。この指摘から、先段ではある種の相聞歌を数首の歌群として楽しむことを提案しました。ここでは先段で少し紹介しましたが、社会人が万葉集の歌を親しむ時にさらなる知的な楽しみとして万葉集の歌を歌物語のように楽しむことへの可能性を紹介いたします。
 旧来、万葉集の鑑賞では伊藤博氏が指摘するように万葉集の歌もまた一首ごと単独に鑑賞することを基本としているため、歌群と云う概念で万葉集の歌を鑑賞することは例外です。ところが、先に紹介しましたよう相聞歌などでは歌垣歌のような感覚で歌群として万葉集の歌々を鑑賞できる可能性を示しました。この歌垣歌のような歌群は男女の相聞歌や相聞二首の問答として万葉集に載せられていますが、この姿を少し進めますと、一人の作歌者による相聞歌に似せた歌々を一つの歌群として次々に展開していくと、それはある種の歌物語になるのではないでしょうか。
 そうした時、万葉集の中で一番判りやすい歌物語的な歌群は大伴旅人が詠う「遊松浦河」の歌です。この歌群は最初に前置漢文の序文で物語の全景を紹介し、その全景に沿う形で物語を数首の和歌で詠います。この遊松浦河の歌は漢文で示す世界と和歌歌群が示す世界が相対していますので、最初に漢文和訳を参照していただければ、この歌物語の進行が掴み易いと思います。ただ、この遊松浦河の歌は山上憶良が大唐から持ち帰った『遊仙窟』から刺激を受け、それを参考に大和文化を下にして歌物語を試作した雰囲気があります。ある種、試行錯誤の段階です。
 遊仙窟は中国での遊郭文化を背景に下官と称する男と十娘と云う若き未亡人との一夜の出来事を題材に物語を展開します。一方、遊松浦河の歌では下官と称する男と松浦河の辺に住む乙女との一時の出会いを題材に和歌を展開します。物語の大きな違いとして、当時の日本には本格的な遊郭と云う施設や遊郭遊びの文化が無かったため、男と女の出会いの場を歌舞音曲の下に食事を取り、そして夜を共にする寝室を持つ堂舍(遊郭)ではなく、野での出会いとしています。そのため、物語の展開が屋内か、屋外かの違いに表れて来ます。
 なお、従来からの訓読み万葉集の歌を一首ごとに鑑賞することを基本とする立場では、この遊松浦河の歌は山上憶良や大伴旅人など複数の人々が寄せた歌の集まりとし、それぞれの歌を個々に鑑賞します。さらに訓読み万葉集を研究するにおいて、おのおのの研究者の立場により、歌の発起者(=歌の取り纏めをした人)を山上憶良とする説や大伴旅人とする説など複数の説が唱えられています。それらの説の中でも主流は集歌八六一の歌の標題の「後人追和之謌三首 帥老」の文章を「後に唱和した歌を大伴旅人が寄せた」と解釈して、この歌群の発起を山上憶良とする説が有力です。このような訓読み万葉集を研究する立場では前置漢文の序文と和歌歌群とを別々なものとして扱うのが伝統的な鑑賞方法ですし、序文と和歌とを切り離すことで歌の発起者を山上憶良等とする説の拠り所が成り立ちます。当然、漢文や和歌を一体として鑑賞すると、この作品は遊仙窟から刺激を受けて成った大伴旅人の作品であることは動かしようのないものとなります。

遊松浦河序
序訓 松浦(まつら)河(かは)に遊(あそ)ぶの序
漢文 余以暫徃松浦之縣逍遥 聊臨玉嶋之潭遊覧 忽値釣魚女子等也 花容無雙 光儀無匹 開柳葉於眉中發桃花於頬上 意氣凌雲 風流絶世 僕問曰 誰郷誰家兒等 若疑神仙者乎 娘等皆咲答曰 兒等者漁夫之舎兒 草菴之微者 無郷無家 何足稱云 唯性便水 復心樂山 或臨洛浦而徒羨王魚 乍臥巫峡以空望烟霞 今以邂逅相遇貴客 不勝感應輙陳歎曲 而今而後豈可非偕老哉 下官對曰 唯々 敬奉芳命 于時日落山西 驪馬将去 遂申懐抱 因贈朗詠曰

訓読 余(われ)暫(たまたま)松浦の縣(あがた)に徃きて逍遥し、聊(いささ)かに玉嶋の潭(ふち)に臨みて遊覧せしに、忽ちに魚を釣る女子(をとめ)らに値(あ)ひき。花のごとき容(かほ)雙(ならぶ)は無く、光(て)れる儀(すがた)匹(たぐひ)は無し。柳の葉を眉の中に開き、桃の花を頬の上に發(ひら)く。意氣雲を凌ぎ、風流世に絶(すぐ)れたり。僕問ひて曰はく「誰が郷、誰が家の兒らそ。若疑(けだし)神仙ならむか」といふ。娘ら皆咲みて答へて曰はく「兒らは漁夫の舎の兒、草菴の微(いや)しき者にして、郷(さと)も無く家も無し。何そ稱(な)を云ふに足らむ。唯(ただ)性(さが)水を便(つて)とし、復、心に山を樂しぶのみなり。或るは洛浦に臨みて、徒らに王魚(さかな)を羨み、 乍(ある)は巫峡(ふかふ)に臥して空しく烟霞(えんか)を望む。今(いま)邂逅(たまさか)に貴客(うまひと)に相遇(あ)ひ、感應に勝(あ)へずして、輙(すなわ)ち歎曲(くわんきょく)を陳(の)ぶ。而(また)今(いま)而後(よりのち)、豈偕老(かいろう)にあらざすべけむ」といふ。下官對へて曰はく「唯々(をを)、敬みて芳命を奉(うけたまは)る」と。時に日山の西に落ち、驪馬(りば)去(い)なむとす。遂に懐抱(くわいほう)を申(の)べ、因りて朗詠を贈りて曰はく、

私訳 私は、たまたま、松浦の地方に行きそぞろ歩きをし、少しばかり玉島の淵に立って遊覧した時に、ちょうど魚を釣る少女たちに出会った。少女の花のような容貌は他と比べるものがなく、輝くような容姿も匹敵する者はいない。柳の葉を眉の中に見せ、桃の花を頬の上に披く。気分は雲を遥かに超え、風流は世に比べるものがない。僕は少女に問うて云うには「どこの里の、どこの家の少女ですか。もしかしたら神仙ですか」といった。少女たちは皆微笑んで答えて云うには「私たちは漁師の家の子供で、草生す家の身分低き者で、名の有る里もありませんし、屋敷もありません。どうして、自分の名を告げることが出来ましょう。ただ、生まれながらにして水に親しみ、また、気持ちは山を楽しむだけです。時には、洛浦のほとりに立って、ただ、美しい魚を羨み、またある時には、巫峡に伏して空しく烟霞を眺める。今、たまたま、立派な人に出会って感動にたえず、そこで、ねんごろに気持ちを伝えました。今後は、どうして、偕老の契(=夫婦になること)を結ばずにいられるでしょうか」と云った。私は「ああ、つつしんで貴女の想いを承りましょう」といった。時に、日は西の山に落ち、私と私を乗せる馬は帰らなければならない。そこで、心の内の想いを述べ、その想いに従って歌を詠い贈って云うには、

集歌八五三
原歌 阿佐里流須 阿末能古等母等 比得波伊倍騰 美流尓之良延奴 有麻必等能古等
訓読 漁(あさり)るす海人(あま)の子どもと人は云へど見るに知らえぬ貴人(うまひと)の子と
私訳 「漁をする漁師の子供」と貴女は私に告げるけれど、貴女に逢うと判ります。身分ある人の子であると。

答詩曰
標訓 答へたる詩に曰はく
集歌八五四
原歌 多麻之末能 許能可波加美尓 伊返波阿礼騰 吉美乎夜佐之美 阿良波佐受阿利吉
訓読 玉島(たましま)のこの川上(かはかみ)に家(いへ)はあれど君を恥(やさ)しみ顕(あらは)さずありき
私訳 玉島のこの川の上流に私の家はありますが、高貴な貴方に対して私の身分を恥じて、それを申し上げませんでした。

蓬客等更贈謌三首
標訓 蓬客(ほうかく)等(たち)の更(また)贈れる謌三首
集歌八五五
原歌 麻都良河波 可波能世比可利 阿由都流等 多々勢流伊毛河 毛能須蘇奴例奴
訓読 松浦川(まつらかは)川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ
私訳 松浦川、その川の瀬で光る鮎を釣ろうとして、瀬にお立ちの愛しい貴女の裳の裾が濡れるでしょう。

集歌八五六
原歌 麻都良奈流 多麻之麻河波尓 阿由都流等 多々世流古良何 伊弊遅斯良受毛
訓読 松浦(まつら)なる玉島川(たましまかは)に鮎釣ると立たせる子らが家道(いへぢ)知らずも
私訳 松浦にある玉島川で鮎を釣ると川瀬にお立ちになっている貴女の、その家への道を私は知りません。
注意 女性が男性に家や名前を教えることは、その男性との共寝を受け入れたことを意味します。

集歌八五七
原歌 等富都比等 末都良能加波尓 和可由都流 伊毛我多毛等乎 和礼許曽末加米
訓読 遠人(とほつひと)松浦(まつら)の川に若鮎釣る妹が手本(たもと)を吾(わ)れこそ巻(ま)かめ
私訳 遠くからの人を待つ、その言葉のひびきのような松浦の川に若鮎を釣る愛しい貴女の腕を、私は絡み巻いて貴女をどうしても抱き締めたい。

娘等更報謌三首
標訓 娘等の更(また)報(こた)へたる謌三首
集歌八五八
原歌 和可由都流 麻都良能可波能 可波奈美能 奈美邇之母波婆 和礼故飛米夜母
訓読 若鮎(わかゆ)釣る松浦(まつら)の川の川浪(かはなみ)の並(なみ)にし思(も)はば吾(わ)れ恋ひめやも
私訳 若鮎を釣る松浦川の川浪の、その言葉のひびきのように、並の出来事と思うのでしたら、私はこれほど貴方を恋い慕うでしょうか。

集歌八五九
原歌 波流佐礼婆 和伎覇能佐刀能 加波度尓波 阿由故佐婆斯留 吉美麻知我弖尓
訓読 春されば吾家(わがへ)の里の川門(かはと)には鮎子(あゆこ)さ走る君待ちがてに
私訳 春がやって来れば私の家のある里の川の狭まった場所には子鮎が走り回る。まるで貴方を待ちわびる私の心のように。

集歌八六〇
原歌 麻都良我波 奈々勢能與騰波 与等武等毛 和礼波与騰麻受 吉美遠志麻多武
訓読 松浦川(まつらかは)七瀬の淀は淀むとも吾(わ)れは淀(よど)まず君をし待たむ
私訳 松浦川の多くの瀬の淀の、その水が淀むとしても、私は心を淀ます(=逡巡する)ことなく貴方の訪れだけ(=貴方に抱かれること)を待っています。

後人追和之謌三首  帥老
標訓 後の人の追ひて和(こた)へたる謌三首  帥(そち)の老(をひ)
集歌八六一
原歌 麻都良河波 河波能世波夜美 久礼奈為能 母能須蘇奴例弖 阿由可都流良哉
訓読 松浦川(まつらかは)川の瀬早み紅(くれなゐ)の裳の裾濡れて鮎か釣るらむや
私訳 松浦川の川の瀬の流れが早く、その瀬に立つ乙女の紅の裳の裾は、あの時と同じように濡れて鮎を釣るのでしょうか。

集歌八六二
原歌 比等未奈能 美良武麻都良能 多麻志末乎 美受弖夜和礼波 故飛都々遠良武
訓読 人(ひと)皆(みな)の見らむ松浦(まつら)の玉島(たましま)を見ずてや吾(わ)れは恋ひつつ居(を)らむ
私訳 人が皆眺めているはずの、その松浦にある玉島を眺めることなく、私は大宰府でただ、貴女を思い焦がれています。

集歌八六三
原歌 麻都良河波 多麻斯麻能有良尓 和可由都流 伊毛良遠美良牟 比等能等母斯佐
訓読 松浦川(まつらかは)玉島(たましま)の浦に若鮎(わかゆ)釣る妹らを見らむ人の羨(とも)しさ
私訳 松浦川の玉島の浦で、今も若鮎を釣る愛しい貴女を見つめている(=抱いている)でしょう、その人がうらやましい。

 この歌群の展開は『遊仙窟』から刺激を受けて成ったために複雑です。集歌八五三の歌から集歌八六〇の歌までは創作された伝説の戀物語を和歌として展開しています。そして、集歌八六一の歌から集歌八六三の歌は、その伝説の物語を聞いた「帥老」が物語への感想を述べる形としています。つまり、歌には架空の遠い昔と作歌者の今がある訳です。このように複雑な構造をしていますから、歌を群として鑑賞する世代でなければ理解できない歌群となります。まず、紫式部や藤原道長の時代までは理解出来ても、鎌倉時代以降の人々には難しい世界ではないでしょうか。その影響が和歌道を通じて昭和時代まで続いたと考えます。
 この作品は日本の物語の創成期に位置するものですから、それほどには複雑な物語での展開はありません。従いまして、ここまでの紹介を受け、前置漢文からもう一度読み直していただければ、本編で云わんとするところが容易に理解していただけると思います。
 
 もう少し。
 先段で紹介した「久米禅師、娉石川郎女時謌五首」もある種の歌物語の世界ですが、万葉集にはさらに男女の相聞歌群の形態を取りながら実態は諧謔の歌物語と考えられる歌群があります。それが、次の石川女郎と大伴田主との相聞歌です。一見、男女の相聞問答歌のように思えますが、集歌一二六の歌から集歌一二九の歌までを連続した相聞歌群として鑑賞すると、大伴宿奈麻呂が宮中のサロンで披露した男女の恋愛をテーマにした歌物語であることが判ります。それを集歌一二七の歌に付けられた前置漢文の序文が、これらの相聞歌群が男性歌人の手によるものであることを雄弁に語っています。およそ、万葉集に載る歌物語的な作品では、大伴旅人が詠う遊松浦河の歌と同じく相聞歌群に対して前置漢文の序文を示すことで、設定する歌物語の世界をその歌を鑑賞する人達に示しています。
 ただし、この相聞歌の序文は、遊松浦河の序文とは違い、物語の場を設定するだけで、物語の進行は和歌から楽しむことになります。その物語の進行から最後には男女がどのような関係になったのかを、想像して下さい。そこが社会人として万葉集歌の中に歌物語を鑑賞する時の楽しみでもあります。

石川女郎贈大伴宿祢田主謌一首 即佐保大納言大伴卿第二子 母曰巨勢朝臣也
標訓 石川女郎の大伴宿祢田主に贈れる歌一首
補筆 即ち佐保大納言大伴卿の第二子、母を巨勢朝臣といふ
集歌一二六
原歌 遊士跡 吾者聞流乎 屋戸不借 吾乎還利 於曽能風流士
訓読 遊士(みやびを)と吾は聞けるを屋戸(やと)貸さず吾を還せりおその風流士(みやびを)
私訳 風流なお方と私は聞いていましたが、夜遅く忍んで訪ねていった私に、一夜、貴方と泊まる寝屋をも貸すこともしないで、そのまま何もしないで私をお返しになるとは。女の気持ちも知らない鈍感な風流人ですね。

漢文 大伴田主字曰仲郎、容姿佳艶風流秀絶。見人聞者靡不歎息也。時有石川女郎、自成雙栖之感、恒悲獨守之難、意欲寄書未逢良信。爰作方便而似賎嫗己提堝子而到寝側、哽音蹄足叩戸諮曰、東隣貧女、将取火来矣。於是仲郎暗裏非識冒隠之形。慮外不堪拘接之計。任念取火、就跡歸去也。明後、女郎既恥自媒之可愧、復恨心契之弗果。因作斯謌以贈諺戯焉。

注訓 大伴田主は字(あざな)を仲郎(なかちこ)といへり。容姿佳艶にして風流秀(こと)に絶(すぐ)れたり。見る人聞く者の歎息せざるはなし。時に石川女郎といへるもの有り。自(おのづか)ら雙栖(そうせい)の感を成して、恒(つね)に獨守の難きを悲しび、意に書を寄せむと欲(おも)ひて未だ良信(よきたより)に逢はざりき。ここに方便を作(な)して賎しき嫗に似せて己(おの)れ堝子(なへ)を提げて寝(ねや)の側(かたへ)に到りて、哽音(こうおん)蹄足(ていそく)して戸を叩き諮(たはか)りて曰はく「東の隣の貧しく女(をみな)、将に火を取らむと来れり」といへり。ここに仲郎暗き裏(うち)に冒隠(ものかくせる)の形(かたち)を識らず。慮(おもひ)の外に拘接(まじはり)の計りごとに堪(あ)へず。念(おも)ひのまにまに火を取り、路に就きて歸り去(い)なしめき。明けて後、女郎(をみな)すでに自媒(じばい)の愧(は)づべきを恥ぢ、また心の契(ちぎり)の果さざるを恨みき。因りてこの謌を作りて諺戯(たはふれ)を贈りぬ。

私訳 大伴田主は呼び名を仲郎といった。容姿は美しく艶やかで風流は特別秀でていた。彼を見る人、噂を聞く人で、感嘆しない人はいない。ある時に石川女郎と云う女性がいた。自分から田主と同棲したい気持ちを起こし、常に一人身で居ることの辛さを悲しみ、気持ちを文に託そうとしても未だに良い機会がなかった。ここで、方便として賤しい嫗に風体を似せて自ら鍋を提げ、田主の寝屋の側に出かけて行って、皺柄声とたどたどしい足音をさせ戸を叩いて偽って云うには「東の隣の貧しい女です、火を貰いに来ました」といった。ここに仲郎は暗闇の中に隠した女の姿に気が付かない。思いも寄らない、その女が田主との男女の交わりを願うことに気付かなかった。云われるままに火を取り、同じ道を帰らせた。夜が明けた後で、女郎は、すでに自分から男に抱かれようとした想いを恥じ、また、願った男女の契の想いを果たせなかったことを恨んだ。そこで、この歌を作って、戯れて田主に贈った。

大伴宿祢田主報贈一首
標訓 大伴宿祢田主の報(こた)へ贈れる一首
集歌一二七
原歌 遊士尓 吾者有家里 屋戸不借 令還吾曽 風流士者有
訓読 遊士(みやびを)に吾はありけり屋戸(やと)貸さず還しし吾(われ)ぞ風流士(みやびを)にはある
私訳 風流人ですよ、私は。神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との話にあるように、女から男の許を尋ねるのは悪(あし)ことですよ。だから、女の身で訪ねてきた貴女に一夜の寝屋をも貸さず、貴女に何もしないでそのまま還した私は風流人なのですよ。だから、今、貴女とこうしているではないですか。
注意 原歌の「遊士」の「遊」には、あちらこちらを訪ね歩くと云う意味合いもありますし、楽しむと云う意味もあります。そうした時、大伴田主がどこでこの歌を詠ったのかという問題が起きます。さて、田主の自宅でしょうか、それとも石川女郎の耳元でしょうか。

同石川女郎更贈大伴田主中郎謌一首
標訓 同じ石川女郎の更に大伴田主中郎に贈れる歌一首
集歌一二八
原歌 吾聞之 耳尓好似 葦若未乃 足痛吾勢 勤多扶倍思
訓読 吾(わ)が聞きし耳に好(よ)く似る葦(あし)若未(うれ)の足(あし)痛(う)む吾が背(せ)勤(つと)め給(た)ふべし
私訳 私が聞くと発音がよく似た葦(あし)の末(うれ)と足(あし)を痛(う)れう、その足を痛める私の愛しい人よ。神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との話にあるように、女から男の許を娉うのは悪(あし)ことであるならば、今こうしているように、風流人の貴方は私の許へもっと頻繁に訪ねて来て、貴方のあの逞しい葦の芽によく似たもので私を何度も何度も愛してください。
右、依中郎足疾、贈此謌問訊也
注訓 右は、中郎の足の疾(やまひ)に依りて、此の歌を贈りて問訊(とぶら)へり。
注意 原歌の「勤多扶倍思」の漢字の選字が、妻問ひをテーマとするような男女の関係では意味深長であることを感じて下さい。ここでは、集歌一二七の歌が石川女郎の耳元で詠われたとの想定でこの歌を訳しています。ちなみに「扶」と云う用字において『説文解字』では「扶、佐也」と解説します。つまり、寝台の中で女への補助です。

大伴皇子宮侍石川女郎贈大伴宿祢宿奈麻呂謌一首
女郎字曰山田郎女也。
宿奈麻呂宿祢者、大納言兼大将軍卿之第三子也
標訓 大伴皇子の宮の侍(まかたち)石川(いしかわ)女郎(いらつめ)の大伴宿祢宿奈麻呂に贈れる歌一首
追訓 女郎は字(あざな)を山田の郎女(いらつめ)といへり。
補筆 宿奈麻呂宿祢は大納言兼大将軍卿の第三子なり。
集歌一二九
原歌 古之 嫗尓為而也 如此許 戀尓将沈 如手童兒
訓読 古(ふ)りにし嫗(おふな)にしてや如(か)くばかり恋に沈まむ手(た)童(わらは)の如(ごと)
私訳 私はもう年老いた婆ですが、この石川女郎と大伴田主との恋の物語のように昔の恋の思い出に心を沈みこませています。まるで、一途な子供みたいに。
一云、戀乎太尓 忍金手武 多和良波乃如
一(ある)は云はく、
訓読 恋をだに忍びかねてむ手(た)童(わらは)の如
私訳 恋の思い出に耐えるのが辛い。まるで、感情をコントロール出来ない子供のように。

 この集歌一二六の歌から集歌一二八の歌までの石川女郎と大伴田主との相聞歌群は、集歌一二九の歌の標題に示すように大伴宿奈麻呂が宮中のサロンで披露した当時の人々が思う男女の間での「風流」と云うものをテーマにした戯れの歌物語です。ただ、物語を披露したちょうどその時に、近江朝の時代 大友皇子の宮殿では「石川女郎」と呼ばれ、今は身分が卿格となり「山田石川郎女」と呼ばれる女性がその藤原宮の宮中のサロンに居て、まるで自分の身の過去の出来事のように物語が詠われたため、座の雰囲気を保つために歌物語の感想を述べたのが集歌一二九の歌と思って下さい。そのため、歌物語との関連を持たすために今は存在しない二十年ほど前の「大伴皇子宮侍石川女郎」と云う身分と肩書をわざわざ使って、感想の歌を大伴宿奈麻呂に贈ったと云う体を取ります。なお、後年に加えられた「追訓」と「補筆」の漢文を保留して鑑賞する必要があります。
 さて、この歌の序文で設定している場面は貴族の生活ではありません。鄙の庶民の生活を想定しています。本来は貴族階級に属し多くの召使いを使うはずの石川女郎や大伴田主が、召使いも置かず共に独居で隣り合う一軒家にそれぞれが生活していると云う設定です。ただし、鄙の庶民の生活の設定ですが、木戸を持ち複数の部屋を持つ立派な家にそれぞれが独りで暮らしていると云う矛盾した情景があります。つまり、虚構なのです。虚構であるが故に独居しているような女も男も漢語と漢字で和歌を詠えますし、その和歌を女の手から男の許へと届ける召使の存在も現れて来るのです。漢文章が示すこの特別な舞台の設定を理解しないと、これらの相聞歌群が創作の歌物語の世界であると云うことに疎くなります。
 また、集歌一二八の歌に作為と諧謔があるとすると、歌の主人公の「田主」が人名でなければ古語では「案山子」を意味しますし、四句目の「足痛吾勢」とは「片足立ちの貴方(=案山子)」を比喩する可能性があります。大伴一族宗家の二男坊である大伴宿奈麻呂が歌の序文で「大伴田主字曰仲郎」と示せば、宮中のサロンの人々は「仲郎=二男って、貴方じゃないの。で、どうして、二男の名が田主なの」と興味津々で歌物語の世界に引き込まれたと思います。この歌物語の鑑賞では、当時の男女の関係で何が風流で何が風流ではないのかが問題ですし、女性が「吾勢=私の愛しい人」と相手を呼ぶ集歌一二八の言葉遊びの歌が内実において女の恨み歌になっているか、甘い戀歌かどうかを鑑賞することが重要です。
 宮中サロンの鑑賞者はそれらを咀嚼し、この歌物語を堪能したと想像します。それで、そのサロンのメンバーの一人である、もう老女の年齢となった山田郎女(可能性で蘇我媼子)が集歌一二九の歌でもって「昔は私も愛する殿御に抱かれたのでした」と思い出を語ったと云うわけです。

 少し、説明の背景を紹介します。
 言葉では漢字表記の「葦」の文字を「あし」と「よし」と、二つに読みます。これは葦の「あし」の発音が「悪し」に通じるからであって、それを避けるために読み替えて「よし」と読みます。この前提で、言葉遊びで「葦」と「足」が示されるのなら「悪し」の言葉も思い浮かぶと思います。そのとき、男女の恋愛で風流と云う言葉を持ちだしてきた時に「悪き事」は何かと云うと、神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との目合(まぐあひ)で、最初の目合での伊邪那美命から伊邪那岐命に声を掛けたことが挙げられます。この神話で示すように、日本では女性から男性の許に「目合」を目的で訪ねることは「悪き事」となっています。つまり、この伝統・慣習からしますと、田主の云う風流士問答で「夜、尋ねてきた女に何もせずに帰し、改めて女の気持ちを汲み、男からその女の許を訪ねること、つまり、このように妻問って抱く」と云うのが風流士の心得となります。この背景において、集歌一二七の歌は共寝する石川女郎の耳元で詠ったものと云うことになります。これが当時の人たちが思う男女の間での「風流」への答えです。
 当然、歌を一首毎に鑑賞する立場では歌の解釈は変わります。歌物語ではなく実際の相聞歌として解釈し、そこから明治から昭和の歌人はこの石川女郎を実在の人物として戀多き女性と解釈します。そして、斎藤茂吉氏や宮武外骨氏などの第一級の和歌を嗜む教養人は、さらに進めて、石川女郎を罵倒すべき売春婦と評価します。また、万葉集における歌物語の存在の可能性を理解できないと、平安時代後期以降に「即佐保大納言大伴卿第二子 母曰巨勢朝臣也」なる補筆を加えることになり、蔭位の資格を持つ旅人や宿奈麻呂に公卿補任などに載らない「田主」と云う新しい兄弟を創ります。
 この歌物語を鑑賞するにおいて、さらに補足として女性の敬称について説明します。歌に現れる「女郎」や「朗女」と云う言葉は宮中参内が可能な女性への敬称です。万葉集ではその「女郎」は四位・五位格の貴族の娘、またはそれに準ずる官位・役職を持つ女官への敬称となります。また、「朗女」は三位以上の臣民階級の公卿の娘、または三位以上の格を有する官位・役職を持つ女官への敬称となります。従いまして、集歌一二九の歌の「女郎字曰山田郎女也」と云う解説から、蘇我山田媼子(おほなこ)=石川山田媼子=正二位右大臣藤原不比等の正妻媼子と云う可能性が想定できるものとなります。万葉集は厳密に律令政治が行われていた時代の作品ですので、敬称を見ることでこのような酔論を行うことが出来ます。
 さて、紹介しましたように相聞歌が歌群として展開していきますと、それはある種の歌物語になると云う視線から、社会人が楽しむ、もう一つの万葉集の歌の鑑賞法を提案しました。ここで紹介した二つの歌物語は、内容から一話完結の短編歌物語とも分類できます。そうした時、現在の小説に短編と長編があるように万葉集に長編の歌物語がないのかと云うと、実は長編の歌物語ではないかと思われる歌群があります。それが、弊ブログ「竹取翁と万葉集のお勉強」の中で取り上げている「山上憶良 日本挽歌を鑑賞する」や「竹取翁の歌を鑑賞する」で紹介する歌群です。これらの歌群を弊ブログでは長編の歌物語と推定していますが、長編小説のようにその内容は非常に膨大で本一冊に相当するほどに長いものです。ここでは紙面の関係からも紹介ができませんが、別著から参照していただければ幸いです。


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