竹取翁と万葉集のお勉強

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竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その22

2009年05月08日 | 万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する
竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その22

原文 海神之 殿盖丹
訓読 海若(わたつみ)の 殿(あらか)の盖(うへ)に(22)
私訳 海神の宮殿の上に

歌の言葉を万葉集の歌に求めて見ました。「わたつみ」の「海神」を「海若」と同じ読みの漢字に変え、殿は「との」でなく「あらか」と読んでいます。集歌1740の歌は、民間の伝承の歌謡を採歌して長歌として形を整えたものですが、後の浦嶋太郎の物語につながる重要な歌です。
なお、この歌は集歌1760の歌の左注から推測して高橋連虫麻呂歌集の採歌ですから、高橋連虫麻呂の手によるものと思っています。

(読み人知れず)
詠水江浦嶋子一首并短謌
標訓 水江(みずのえ)の浦嶋の子を詠める一首并せて短歌
集歌1740 春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 得乎良布見者 古之 事曽所念 水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日 家尓毛不来而 海界乎 過而榜行尓 海若 神之女尓 邂尓 伊許藝多 相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至 海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而 耆不為 死不為而 永世尓 有家留物乎 世間之 愚人乃 吾妹兒尓 告而語久 須臾者 家歸而 父母尓 事毛告良比 如明日 吾者来南登 言家礼婆 妹之答久 常世邊 復變来而 如今 将相跡奈良婆 此篋 開勿勤常 曽己良久尓 堅目師事乎 墨吉尓 還来而 家見跡 宅毛見金手 里見跡 里毛見金手 恠常 所許尓念久 従家出而 三歳之間尓 垣毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手歯 如本 家者将有登 玉篋 小披尓 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者 立走 叨袖振 反側 足受利四管 頓 情消失奴 若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴 由奈由奈波 氣左倍絶而 後遂 壽死祁流 水江之 浦嶋子之 家地見
訓読 春の日の 霞(かす)める時に 墨吉(すみのへ)の 岸に出で居(い)て 釣船の とをらふ見れば 古(いにしへ)の 事ぞ思ほゆる 水江(みづのへ)の 浦島(うらしま)の子が 堅魚(かつを)釣り 鯛釣り矜(ほこ)り 七日(なぬか)まで 家にも来ずて 海境(うなさか)を 過ぎて漕ぎ行くに 海若(わたつみ)の 神の女(をとめ)に たまさかに い漕ぎ向ひ 相(あひ)眺(あとら)ひ 言(こと)成しかば かき結び 常世(とこよ)に至り 海若(わたつみ)の 神の宮(みや)の 内の重(へ)の 妙なる殿(あらか)に 携(たづさ)はり ふたり入り居(ゐ)て 老(おひ)もせず 死にもせずして 永き世に ありけるものを 世間(よのなか)の 愚人(おろかひと)の 吾妹子に 告(つ)げて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も告(の)らひ 明日(あす)のごと 吾は来(き)なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺(とこよへ)に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この篋(くしげ) 開くなゆめと そこらくに 堅(かた)めし言(こと)を 墨吉(すみのへ)に 還り来(きた)りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて 恠(あや)しみと そこに思はく 家ゆ出でて 三歳(みとせ)の間(ほど)に 垣もなく 家滅(う)せめやと この箱を 開きて見てば もとの如(ごと) 家はあらむと 玉篋(たまくしげ) 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺(とこよへ)に 棚引(たなび)きぬれば 立ち走り 叫び袖振り 反(こひ)側(まろ)び 足ずりしつつ たちまちに 情(こころ)消失(かう)せぬ 若くありし 膚も皺(しわ)みぬ 黒(ぐろ)かりし 髪も白(しろ)けぬ ゆなゆなは 気(き)さへ絶えて 後(のち)つひに 命死にける 水江(みづのへ)の 浦島の子が 家地(いへところ)見ゆ
私訳 春の日の霞んでいる時に、住吉の岸に出て佇み、釣舟が波に揺れているのを見ると、遠い昔のことが偲ばれる。水江の浦の島子が、鰹を釣り、鯛を釣って皆にその腕を誇り、七日間も家に帰らず、海の境を越えて漕いで行くと、海神の神の娘に偶然行き遭って、互いに求め合い、愛し合う約束が出来たので、夫婦の契りを結び、常世に至り、海神の宮殿の奥深くの立派な御殿に、手を取り合って二人で入って暮した――そうして老いもせず、死にもせず、永遠に生きていられたというのに、人の世の愚か者が妻に告げて言うことには、すこしだけ家に帰って、父と母に事情を告げて、明日にでも帰って来ようと云うので、妻が言うことには、この常世の国の方にまた帰って来て、今のように夫婦で暮そうと言うのなら、この箱をあけていけません、きっと。と、そんなにも堅くした約束を、島子は住吉に帰って来て、家はどこかと見るけれども家は見つからず、里はどこかと見るけれども里は見当たらず、不思議がって、そこで思案することには、家を出て三年の間に、垣根も無く家が消え失せてしまうとはと、この箱を開けてみれば、昔のように家はあるだろうと、玉の箱を少し開けると、白い雲が箱から出て来て、常世の国の方まで棚引いて行ったので、立ち走り、叫びながら袖を振り、転げ回り、地団駄を踏みながら、すぐに気を失ってしまった。島子の若かった肌も皺ができ、黒かった髪の毛も白くなった。後々は息さえ絶え絶えになり、挙句の果て死んでしまったという。その水江の浦の島子の家のあったところを見たよ。

反謌
集歌1741 常世邊 可住物乎 劔刀 己之行柄 於曽也是君
訓読 常世辺(とこのへ)に住むべきものを剣太刀(つるぎたち)汝(な)が心から鈍(おそ)やこの君
私訳 常世の国に住むべきはずを、鋭い剣太刀とは違いお前は心根から鈍い奴、ほんにこの人は。

雑談ですが、日本書紀には雄略天皇二十二年七月の記録として、丹波国の瑞江の浦の嶋子の話題があります。普段の浦嶋太郎の解説ではこちらの浦の嶋子の物語を本家とするようです。
さて、後に丹後国とされる丹後半島にある丹波国竹野郡は、伝承では草壁皇子の養育担当したとされる日下部一族の発祥の地です。そして、この「瑞江の浦の嶋子」が日下部一族の祖に当たり、浦の嶋子を祭る神社が丹後半島の西と東にあります。西は、現在の京都府京丹後市網野町となる丹波国竹野郡網野の水江にある網野神社です。東は、京都府与謝郡伊根町となる丹波国余社郡管川にある宇良神社です。この両神社の伝承から見てみますと、竹野郡網野の水江一帯が日下部一族の発祥の地と思われます。
関西における日下部一族の本拠は、集歌1740の歌の舞台となった現在の大阪市である河内住吉です。この辺りから、水江の浦の島子伝説は、日下部一族の伝承であった可能性が高いと思います。
もう少し雑談をすると、この新羅系渡来人とされる日下部一族は古代の海運業を営む部族だったようです。それで、日本海の丹後半島、関門海峡、大阪湾の古代海運の三拠点に一族は根を張っています。孝徳天皇の時代に穴門国から改元の元となった白雉をもたらしたのは穴門国司の草壁連醜経で、草壁は日下部とも記しますので同族です。

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