竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 石見国

2014年04月13日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
石見国

 朝廷を率いる左大臣高市皇子は悩んだ。
 大海人大王は「仏教で朝廷の統制を行う」と云う。すると、大和の国々に仏の御舎(みあから)たる官営の寺を建立する必要がある。大陸仕様の寺の建立と仏を用意するには、大勢の労力と大量の銅を必要とした。
 労力はよい。栗東の鍛冶の里の鉄を報酬として使えば、それぞれの里から農民や大工等の者どもを集めることが出来る。問題は大量の銅である。倭では柿本や高市のものどもが、筑紫では宗像が銅の製錬を行うが、いかんせん、製錬の素である銅鉱石を供給する鉱山の規模が小さい。人を掛け増産しようにも限度がある。現況の生産量では寺院の装飾や金銅仏の製作には、到底、足りない。

 そうした中、法外な話が筑紫大宰府から伝わって来た。
 朱雀三年(674)の初夏、筑紫大宰府の師、屋垣王からその知らせが来た。報告書には「長門の国に巨大な銅の鉱石の山があるらしい、ついては、専門の技師を派遣してほしい」とあった。豊前香春山と似た地質を持つ長門国大津郡から石見国美濃郡にかけた海岸一帯を旅した宗像韓鍛冶が、その鉱石の山を見つけたらしい。
 この時、仏教を横軸として大和を統一しようと計画し、寺院建立のため大量の銅を欲している大海人大王や左大臣高市皇子にとって、その知らせは法外なものであった。それに、宗像韓鍛冶を朋柄として配下に置く高市皇子は知っていた。大和では銅を鉱石から製錬すると副産物として銀も採れる。その銀は国際通貨である。大唐から先進の万物や人材を輸入する大和にとって、その国際通貨である銀は喉から手が出るほどに欲しい。
 大海人大王と高市皇子は決めた。倭の銅の鍛冶一族で、近江栗東で鉄を生産する大和の鍛冶の里を立ち上げた柿本人麻呂に、この仕事を任せる。もし、通報通りに満足する銅の鉱石があった場合、開発地域の全権を任す。その全権を以て人麻呂が、人も物資もすべてを動員して銅鉱山の開発と採掘を行う。銅の鋳造と製錬については、太宰師である屋垣王と人麻呂が相談の上、朝廷に報告し、その設置場所と経営の指示を受けることとした。
 通信の便の悪い遠隔地での鉱山開発と云う事業に対して、今の朝廷には、この一連の流れの実務をこなせる人物は人麻呂以外に居ない。そこに選択の余地は無かった。
 古く長門国の日本海に面する当島・大津郡一帯は日下部氏が、接する石見国の西海岸美濃郡小野郷一帯は小野氏が治めている。古代の風習として春日和迩一族に属する柿本臣比等は、同じ春日和迩一族の小野氏が宿る小野郷を活動の拠点とするであろう。
 左大臣高市皇子から、筑紫太宰の屋垣王、皇子の母の里の筑紫宗像氏と石見国美濃郡小野郷の小野氏に指示が出された。
「来る八月、倭より銅の鉱石の調査を目的に柿本臣比等を送る。次第は柿本臣比等に聞け」

 高市皇子は人麻呂を太政官府に呼んだ。人麻呂と巨勢媛との関係を良く知る皇子は自分からは、その命令を下さない。左大臣の立場とは云え、皇子には幼い時から良く知る人麻呂に「恋妻と分かれよ」と宣告するに等しい、その命令を自ら告げるのは辛い。
 その左大臣高市皇子を背に受け、太政官は人麻呂に命令した。
「大舎人柿本臣人麻呂、己に石見・長門国の銅の探査を命ず。出発は、この七月」
「まず、筑紫大宰府で師の屋垣王に会え。師が鉱山の様子を知らせる」
「朝廷に叶う嵩の銅の鉱山があれば、山を開き、荒金を筑紫娜の大津に送れ」
「石見・長門国の里人を差配出来るよう、己を国司守の身分に准え、大山中(正六位下相当)の位を降す」
 柿本人麻呂は石見の銅の噂を聞いていたが、己が出張るとは思ってもみなかった。行く者は四十を越えた大人が行くものと思っていた。
 左大臣高市皇子は、その驚く人麻呂に止めを刺した。
「逃げることは許されぬ。大和のため、行け」
 この言葉に小舎人時代から仕える人麻呂は逃げようがなくなった。行かざるを得ない。
 さらに高市皇子は云う、
「人麻呂、倭に還って来た折り、良き女子を主にやる。辛抱せい」
 確かに倭には身分高く、見目良き女子は多い。人麻呂が三十足らずで国司守に准える身分を頂けば、それは倭の男たる男と見做される大夫に等しい位となる。年と身分からして女子には不自由しないであろう。また、左大臣高市皇子がする、そうした男への娘の斡旋に、打診されたその娘の婚姻の可否を握る母親どもに否と云う者はいないであろう。だが、それで人麻呂とその娘とが和歌の心を通わすかと云うと、それは判らない。和歌の心の通いから云えば、巨勢媛ほどの女はいない。
 人麻呂と巨勢媛は泣いた。人が全国的に動き回る時代ではない。例え、国司守や介で倭の者が任地に赴くとしても、適齢の年代は四十前後が通例である。三十も行かない若い人麻呂が、責任者として赴くのは異例中の異例であった。さらに悪いことに、皇后菟野皇女は身辺で「話が出来る女」である巨勢媛を手離さない。そのため、宮中官女の巨勢媛は人麻呂の妻として同行が出来ない。二人がその時代が要求する有能な人材であるが為に、その二人の仲は引き裂かれた。
 貴族階級に婚姻届の制度や愛し合う男女を貞操と云う概念で拘束することの無い時代、若い男女の六年の別れは縁が切れるに等しい。まして、廿一歳の巨勢媛は子を産む年齢にある。これからの六年の年月は若い女子には重い。人麻呂は巨勢媛との縁が切れることを覚悟した。

世中常如雖念半手不忌猶戀在
訓読 世し中し常(つね)かくのみと思へどもはて忌みえずし猶(なほ)恋ひしあり
私訳 人の世の中とは「このようなもの」と覚悟はするが、それでも貴女への恋心を忌むことが出来ず、なお一層に貴女を愛しています。

媛の返しの歌、
遠有跡公衣戀流玉桙乃里人皆尓吾戀八方
訓読 遠くあれど公(きみ)しそ恋(こ)ふる玉桙(たまほこ)の里人(さとひと)皆に吾(われ)恋ひしやも
私訳 遠くにいらっしゃても立派な貴方に恋い焦がれます。官道に美しい桙を立てるような開けた里の男たちに私が恋することは決してありません。


 朱雀三年(674)八月、人麻呂は石見国の美濃郡小野郷(現在の島根県益田市)の戸田に居た。人麻呂に、従者と韓人との通訳を兼ねてあの綾部訳語陲叡が付き添っている。今度は、最初から六年以上の年月が予定される赴任のため、訳語陲叡は彼の家族と一族をも連れて来た。銅の鋳造と製錬については鉱山の有無や規模などの問題があり、まだ、方針が決まっていない。そのため、陲叡とその一族を頼りに、人麻呂は柿本鍛冶の一統をこの石見に連れては来なかった。あくまで、鉱山開発と採掘が目的である。
 人麻呂は戸田の浜から宗像韓鍛冶の案内で海岸線を西行し、ついに、有望な銅の鉱石の山を見つけた。場所は長門国当島郡の山田青長谷(現在の山口県萩市山田)と大津郡の日置(現在の山口県長門市日置)。それは、倭の銅の鍛冶の技術者で左大臣高市皇子に仕える柿本臣比等としてはうれしい発見であるが、巨勢媛の恋人人麻呂としては、悲しい発見であった。これで六年の長門国への赴任が確定した。発見した青長谷と日置の銅鉱石は、現地で採掘・選鉱され、長門国大津郡の油谷湾(山口県長門市油谷)で大船に載せ、筑紫の娜の大津、多田羅の浜(福岡県博多市東区)へと送られることとなった。

 山陰の冬には倭と違って雪が降り積もる。また、玄界灘が荒れ、大船の往来も途絶える。人麻呂は、ただ、巨勢媛を恋し、降り頻る淡雪を所在なく眺めるしかない。
 その鈍く低く覆う雲から降りくる雪をみて、呟いた。

零雪虚空可消雖戀相依無月經在
訓読 降る雪し空し消(け)ぬべく恋ふれども逢ふよし無(な)みし月ぞ経(へ)にける
私訳 降る雪が途中で空に消えるように、ひたすら貴女を慕っているのですが、このように空しく逢う機会が無いままに月日が経ってしまった。

 また、新しい春が来た。人麻呂はひたすら鉱山を開発し、鉱石を大宰府へ送る。変化は無い。ただ、ひたすら里の者どもを指揮し、鉱石を集め、選鉱し、大宰府に送る。それだけだ。京から遠い鄙の里では、それしかない。

 その変化の無い日々を送る人麻呂の身に事件が起きた。
 韓人である綾部訳語陲叡にとって、ここは父親の故郷の韓国の伽耶から近い。一方、倭は故郷からはるか遠い土地である。また、倭とは違い、ここでは土地を開き、一族は自立が出来る。倭では私奴に近い使用人にしかなれない渡来の綾部一族が、ここでは土地持ちとして自立する可能性がある。
陲叡は決心した、
「人麻呂が都へと帰って行っても、吾はこの小野郷の戸田に残る。そして、この地に吾等綾部の里を作る。吾等は倭の官人柿本臣の子孫を後ろ盾に、ここで生きて行く」
 その決心をした陲叡は、一族の将来のために朝廷で大山中(正六位下相当)の官位を持つ官人柿本臣人麻呂の胤を欲した。そして、小野郷に残り土着する決心をした、その日に、陲叡は娘を人麻呂の夜床に送り込んだ。娘もまた、憧れる「人麻呂の胤を貰え」との父の求めを喜んで受けた。その夜から、娘は、夜毎、人麻呂の膚を温めるようになった。その人麻呂は何か了承でもしているかのように、娘の求めに応じて抱き、胤を与えた。
 娘は判っていた。自分は人麻呂の恋人でも想い人でもない。ただ、父と一族の期待を受けて人麻呂の子を宿すのが使命の女だと。でも、今、人麻呂が飛鳥の都に去るまでは、この吾は、石見国随一の男、人麻呂を独占するただ一人の女なのだ、里の女子どもでは願っても不可能なことだとも誇った。そして、人麻呂はこの吾を、彼の性を処理する女ではなく一人の女として接し、優しく抱いてくれる。
それに、皆して行った打歌(うつた)の里(山口県阿武町宇田)での晩秋の菱の実採りで、和歌が詠えない吾に代わって人麻呂は歌を作り、それを一人の人として教えてくれた。娘が知るこの身を通り過ぎた他の男どもは、ただ、この体が目当てだけだった。そう、思うと、今の幸せに、人麻呂がくれた和歌が書かれた小板を、再び、胸にそっと押し当てた。

君為浮沼池菱採我染袖沾在哉
訓読 君しため浮沼(うきぬま)池し菱つむとわが染め袖し濡れしけるかも
私訳 貴方のために浮沼の池の菱を摘もうとすると、私が着る色染め袖が濡れてしまいました。

妹為菅賽採行吾山路惑此日暮
訓読 妹(いも)しため菅(すが)し実採りし行きし吾山路し迷ひこの日暮しつ
私訳 恋人の貴女ために菅の実を採ろうと、その山に行った私は実を見つけることが出来ずに山路に迷ってこの一日が暮れてしまった。


 朱雀五年(676)の春が来た。この年の夏に中上りと云う、地方を任された官吏の上京の決まりがある。中上りとは地方に赴任した役人が六年の任期の中間の年、三年目に上京して預かった仕事の申し立てを行うことを指す。
 その中上りで、やっと、人麻呂は飛鳥の都で恋妻巨勢媛に逢える。人麻呂は、伝手を頼り、媛に予告の歌を贈った。

雪己曽波春日消良心佐閇消失多列夜言母不徃来
訓読 雪こそば春日(はるひ)消(け)ゆらめ心さへ消(き)え失せたれや言(こと)も通はぬ
私訳 積もった雪は春の陽光に当たって解けて消えるように、貴女は私への想いも消え失せたのでしょうか。私を愛していると云う誓いの歌もこの春になっても遣って来ません。

 その石見国の人麻呂の許に、都から打てば響くような媛からの返しが来た。人麻呂は思った。吾と話が出来る女子は巨勢媛しかいない。

巨勢媛の返し、
松反四臂而有八羽三栗中上不来麻呂等言八子
訓読 松(まつ)返(かへ)りしひてあれやは三栗(みつくり)の中(なか)上(のぼ)り来(こ)ぬ麻呂といふ奴(やつこ)
私訳 松の緑葉は生え変わりますが、貴方は体が不自由になったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京して来ない麻呂という奴は。
貴方が便りを待っていた返事です。貴方が返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八歳の子より。

 この媛から来た「麻呂等言八子」と云う歌の句は、人麻呂と巨勢媛しか知らない愛の暗号である。媛が初潮を迎え、裳着の祝いをする直前に、媛は人麻呂に「然有社羊乃八歳叨」の句を持つ歌を贈った。それは、裳着の祝いの後、すぐ、背の君として妻問いを願う媛の歌であった。人麻呂は判る、媛は「三年も離れていても貴方は我が背」と暗示している。そして、人麻呂の帰りを待っていると云う。

 朱雀五年(676)の夏、石見国小野郷の神山(こうやま)(山口県萩市高山(こうやま))の丘に笹葉が茂り、風に靡く中、人麻呂は長門国大津から大船に乗り、中上りの上京をした。この時、人麻呂三十歳、巨勢媛二十三歳であった。

小竹之葉者三山毛清尓乱友吾者妹思別来礼婆
訓読 小竹(ささ)し葉は御山(みやま)も清(さ)やに乱(さや)げども吾は妹(いも)思(も)ふ別れ来(き)ぬれば
私訳 笹の葉は神の宿る山とともに清らかに風に揺られているが、揺れることなく私は恋人を思っています。別れて来たから。

 朝廷への報告を終え、そのまま、忍坂中媛の屋敷を尋ねた人麻呂は、今、巨勢媛と睦あっている。媛もまた、休みのため、午後に屋敷に戻ってきていた。人麻呂と媛は闇を待たずに籠り間に入った。そして、裳着の祝いに絡む「八子」と云う巨勢媛の暗示を解いた人麻呂は、あの初めての妻問いの時に戻って、何度も、媛に男の逞しさを与えた。媛は、今、この身が感じる男の逞しさに、人麻呂が十二分に歌の暗示を理解してくれたことが合わさり、膚の懐かしさとともに心が通う心地良さに陶酔した。
物語をするより先に籠り間に籠った二人が、その愛の嵐を楽しんだ後、夜床で物語をしている。
 人麻呂の胸の中で媛がねだった。、
「麻呂、朝妻の時と同じように今夜は泊りなされ」
「麻呂は我が背じゃ、な、よかろう、きっと、泊まりなされ」
「若茅、主人(ぬし)が宮へ行かぬ日は、吾はここに居る、元よりそのつもりじゃ」
「明日は休みじゃ、宮に戻るのは明後日の朝じゃ。では、今夜も、明日の夜も、ここじゃな、なあ、麻呂」
「ここは主人の家じゃ、若茅が泊めてくれるなら、ここに居る」
「麻呂は、我が背じゃ、ずっと、ずっと、ここに居れ」
 人麻呂は後朝の別れをしない。背の君として泊り、巨勢媛は人麻呂の妻として朝を共に迎える。その予告に媛は朝妻の里時代と同じように営みの後、隣に寝る人麻呂の腕に包まれた。人麻呂のたくましい肌と温かみが心地よい。そのやすらぎの中、愛の営みの甘い疲労と共に眠りに落ちた。

 翌朝の遅い朝餉の膳が片付けられた後、人麻呂は巨勢媛に石見国で創った歌物語を披露した。
 当時、長文の文学は無い。歌垣の歌競いが、唯一、それに相当するが、それは口唱で、文学ではない。人麻呂は大和の短か歌を数首継ぐことで歌物語としてストーリー性を持たせ、それを媛に披露した。人麻呂は巨勢媛であればこそ、これが判ると思っていた。そして、媛はその期待に応えてくれた。
「吾は麻呂が好きだが、吾はこんな硬い女歌は詠わぬ」
「でも、この恋人同士の旅の別れの気分は判る。あの時の、吾もこんな想いだった」
 そして、歌物語の歌の句に思い出さされたように、人麻呂に鎌を掛けた。
「ところで、麻呂は、もう良い御年じゃ、で、鄙の里で、お児は出来たか」
 人麻呂は巨勢媛の為に白を切り、その体を抱き寄せた。
「吾には、若茅しか、おらん。その吾に児が出来るはずもない」
「若茅と同じじゃ」
 媛は倭の官吏として鄙では貴人(うまひと)となる人麻呂が、その時代の風習として公務の旅先の官衙で遊女を馳走され、泊まる里で里女に貴人として胤を授けることは知っている。これは、児を作る女には入らない。児を産む家の子として、人麻呂の家に女を入れていないことに満足した。当然、人麻呂は訳語陲叡の娘の話はしない。
 歌好きの二人の興味は自然と人麻呂が創った歌物語りに戻る。人麻呂は胸の中の媛に大和歌を書いた小板を披露する。その媛は背に人麻呂の温もりを感じ、妻と云う実感からの安らぎと歌への知的好奇心が満たされる、その普段に無い幸福感に包まれた。

石見歌物語、
勿念跡君者雖言相時何時跡知而加吾不戀有牟
訓読 な思ひと君は言へども逢はむ時何時と知りてかわが恋ひずあらむ
私訳 そんなに思い込むなと貴方は云いますが、貴方と逢うのは今度は何時と数えながら私は貴方に恋をしているのではありません。いつも、貴方に逢いたいのです。もう、貴方は旅立つのですか。

直相者相不勝石川尓雲立渡礼見乍将偲
訓読 直(ただ)逢ひは逢はずに勝る石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
私訳 直接、貴方に逢うことは、会わずに手紙を貰うことより勝ります。逢えない私は、雲が想いを届けると云う、あの石川精舎の大伽藍の上に立ち昇る雲を見ながら貴方を恋しく偲びましょう。

天離夷之荒野尓君乎置而念乍有者生刀毛無
訓読 天離る夷し荒野に君を置きて思ひつつあれば生けりともなし
私訳 大和から遠く離れた荒びた田舎に貴方が行ってしまっていると思うと、私は恋しくて、そして、貴方の身が心配で生きている気持ちがしません。

旦今日ゞゞゞ吾待君者石水之貝尓交而有登不言八方
訓読 今日今日とわれ待つ君は石見し貝(かひ)に交りてありといはずやも
私訳 貴方に再びお目に懸かれるのは今朝か今朝かと恋しく思っているのに、その貴方は、なんと、人の噂では、まだ石見の国にいて、女を抱いているというではありませんか。

鴨山之磐根之巻有吾乎鴨不知等妹之待乍将有
訓読 鴨山し巌根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹し待ちつつあるらむ
私訳 丹比道の鴨習太(かもならいた)の神の杜(やしろ)のほとりで旅寝をする私を、そうとも知らないで私の愛しい貴女は私を待っているらしい。

荒浪尓縁来玉乎枕尓置吾此間有跡誰将告
訓読 荒波に寄りくる玉を枕に置き吾この間(ま)にありと誰か告げなむ
私訳 石見の荒波の中から手にいれた真珠を枕元に置き、私は貴女のすぐそばまで還ってきましたと、誰が貴女に告げるのでしょうか。


 人麻呂の胸の中で巨勢媛は、人麻呂の歌物語の返しに、宮中で、今、流行りの遊びを披露した。
 皇后菟野皇女の周囲では、額田王や鏡姫王を中心に宮中女官や官人・内舎人等が集い、歌垣での歌競いのような歌会をすると云う。歌会には、たまに、大和歌を好くする大海人大王も顔を見せることがあると云う。
 その歌会では男子と女子とに分かれ、一方が相手に短か歌を詠う。それを受けて相手は、それに適う短か歌を返す。それを相互に継ぎ、歌物語のように紡ぐ。男女での勝敗よりも、歌会に集う人々が歌垣の競い歌のように歌を繋ぐことに主眼がある。
 歌会の歌のテーマは、やはり、娉(よば)いと呼ばれる求婚歌か恋愛歌である。これは、歌会の歌も歌競い歌も変わらない。ただ、歌垣の歌競い歌との違いは、木簡に墨書し、詠いとともにその歌書きを披露する。この歌会に出る者は、大和歌に対するウイットや唐文字の素養が試される。
 媛は、その一例として、宮中のサロンでの歌会で巨勢媛と大伴宿祢安麿との競いを紹介した。

大伴安麿の詠い出しの娉い歌、
玉葛實不成樹尓波千磐破神曽著常云不成樹別尓
訓読 玉葛(たまかづら)実の成(な)らぬ木にはちはやぶる神ぞ着(つ)くといふならぬ樹ごとに
私訳 美しい藤蔓の花の実の成らない木には恐ろしい神が取り付いていると言いますよ。実の成らない木にはどれも。それと同じように、貴女を抱きたいと云う私の思いを成就させないと貴女に恐ろしい神が取り付きますよ。

巨勢媛の返し、
玉葛花耳開而不成有者誰戀尓有目吾孤悲念乎
訓読 玉葛(たまかづら)花のみ咲きて成らずあるは誰が恋にあらめ吾(わ)が恋ひ念(も)ふを
私訳 美しい藤蔓の花のような言葉の花だけがたくさんに咲くだけで、実際に恋の実を実らせなかったのは誰の恋心でしょうか。私は貴方への実らぬ恋心を想っていましたが。

大伴安麿の返しの返し、
神樹尓毛手者觸云乎打細丹人妻跡云者不觸物可聞
訓読 神樹(かむき)にも手は触(ふ)るといふを未必(うつたへ)に人妻といへば触れぬものかも
私訳 むやみに触ると神罰が下るという神の樹にも人は手で触れると云います。かならずしも、自分の想い通りにならない女性と云うだけで貴女を抱かないわけではありません。貴女には、もう、ちはやぶる神のような「あの人」が憑いていますから。

 人麻呂はもともと歌垣での歌競いの上手と云われた男子である。その人麻呂が、この歌会は面白いと思った。特に媛が説明する「恋」に「孤悲」、「打栲」に「打細」の表現が面白く、なるほどと思った。時代の流れは速い。人麻呂の留守の間にも、大和の文化は一気に進むようだ。そして、このような真仮名や漢字の使いようによっては、もっと、面白い歌が作れるのでは思った。
 一方、媛の披露する歌から「宮中のサロンでは、巨勢媛は人麻呂への一途の愛を貫く女子」と、知られていることを知った。それと同時に媛は「この人麻呂なら、そのように理解するだろう」として、この歌群を披露したのだろうとも思った。

 そのうちに日が陰り、虫の鳴き声と共に夕闇が迫って来た。媛は、大津宮の時代に人麻呂が媛に贈った歌を口ずさんだ、

淡海々沈白玉不知従戀者今益
訓読 淡海(あふみ)し海(み)沈(しづ)く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそ益(まさ)れ
私訳 淡海の海の底深くにあるような白玉のような白肌の貴女を知らないで恋をしていたときより、それを知った今はもっと恋しくなります。

「主人、この若茅は、まだ、あの石見の玉を、麻呂から見せていただいていません」
と云って胸に顔を伏せて来た。
 その夜、人麻呂は夜床に臥す媛の体に愛の歌物語の続きを与えた。白き膚に黒髪を漂わせた媛は、その愛の雫を敷き栲に濡らし、陰りとして染め上げた。媛の体は、素直に人麻呂の愛の歌物語の続きに応えた。


 巨勢媛との短い人麻呂の飛鳥の夏は終わった。今、人麻呂は石見国美濃郡小野郷の戸田にある屋敷に戻っている。
 その人麻呂が飛鳥へと留守をしていた間に、筑紫大宰府の師守が替わった。屋垣王に代わり、丹比公嶋が大宰師に就いた。この丹比公は難波では依羅の里周辺を支配し、丹波国宍禾郡家原の娘女を室に入れた関係から丹波高原にも影響力を持っている。また、栗東の鍛冶の里へ藻塩を供給しているのも、この丹比公配下の日下部の海人たちである。
 人麻呂は石見の小野郷と長門の大津から大宰府へ銅の鉱石を送る。その大宰府の丹比嶋から要請が来た。それは、娜の大津の西に位置する糸島にある銅の製錬と鋳造をする里人に技術の面倒をみて欲しいとのことであった。
 具体的には、石見や長門から大量に持ち込まれる銅の鉱石を、効率よく、銅の製品とするため、ばらばらの吹き炉を統一し、また、経済性を持たした木炭の消費管理を依頼するものであった。近江栗東の鍛冶の里での経験を買っての依頼である。やがて、人麻呂は大船に乗り筑紫の糸島へ通うようになった。そして、丹比嶋と人麻呂との間に深い縁が出来た。
 この技術指導の成果が次第に現れて来た。大宰府は飛鳥浄御原宮に大量な銅と銀の延板を送り込み、飛鳥の朝廷は鍛冶の里で生産された鉄鍬や鉄の延板を筑紫国や長門・石見国の開発支援の為に送る。そして、大宰府の丹比嶋は、筑紫の銅製錬と鋳造技術水準を誇るために、朱雀十一年になって大きな鐘を鋳造し、飛鳥浄御原宮に贈った。

 朱雀八年(679)夏、人麻呂は待ちに待った飛鳥浄御原宮への召喚命令を受けた。本来の任期は朱雀九年夏までである。それが、約一年の任期を残しての召喚であった。
 丹比公嶋が筑紫大宰師に就いてから、朝廷は次第に大量の銅と銀の地金を受け取るようになった。倭では宮や寺院の造営、さらに金銅仏を鋳造しても余裕が出来た。その余裕を見た左大臣高市皇子は大和国として初めての銀と銅の金属貨幣の発行を決めた。皇子は、その貨幣鋳造所を飛鳥浄御原宮の近傍、飛鳥池の官営工房に置いた。そして、令外の鋳銭司の長官に任命するため人麻呂を召喚した。
 日本の貨幣の歴史では、朱雀十二年(683)四月、朝廷は大和として初めての自国通貨である富本銀銭の流通を停止し、富本銅銭のみの流通を許可する詔を発布した。つまり、これ以前に富本銀銭と富本銅銭との流通は開始していた。ただ、正史にその開始の年の記述はない。およそ、それは飛鳥池の官営工房が本格化する朱雀十年三月前後のことと思われる。

 朱雀五年の中上がりの後、石見国小野郷に戻った人麻呂に子が出来た。母親は、あの綾部訳語陲叡の娘である。子が生まれたと云う幸せの中での飛鳥浄御原宮への召還命令である。陲叡も娘もその刻を覚悟はしていたが、本来の任期六年を期待していた陲叡親子にとって、予想外に早い。その覚悟での人麻呂との別れの時が来た。
 人麻呂が倭へと帰って行っても、この綾部訳語の陲叡親子は石見国小野郷の戸田に残り、人麻呂の形見の子を育てながら生きて行くことになる。その娘親子の為に、人麻呂は歌を残した、

青駒之足掻乎速雲居曽妹之富乎過而来計類
訓読 青(あを)駒(こま)し足掻(あが)きを速み雲居にぞ妹しあたりを過ぎて来にける
私訳 青馬の歩みが速い。その駒のように速く流れる空にある、人の気持ちの表れと云う、その雲が、私の愛しい恋人のいるあたりからやって来ました。

 朱雀八年(679)秋、人麻呂は石見国小野郷の戸田の里から飛鳥浄御原宮へと帰って行った。その人麻呂と陲叡の娘との子は江戸期まで続く柿本益田氏の祖となり、綾部氏は小野郷に生きる柿本一党の神主として小野郷戸田柿本神社を伝えた。さらにその綾部氏の枝は遠く坂東の地で武州川越柿本神社を起し、共に今に伝えている。

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