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万葉雑記 番外雑話 万葉時代の国内海上交通、再びフェイクニュースに挑む

2021年05月08日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 番外雑話 万葉時代の国内海上交通、再びフェイクニュースに挑む

 今回もまた備忘録のようなものとなっています。前回に「万葉時代の海上交通、フェイクニュースに挑む」と云うテーマで、非常に恣意的で個人的感想からの与太話、酔論を展開しました。今回は、そこからの発展で飛鳥・奈良時代の国内海上交通、特に東海道 太平洋航路について遊びたいと思いますが、例によって万葉集の歌の鑑賞には直接には関係しません。ただし、万葉時代には東は常陸国、西は肥後国に亘る交通網が整備され、官人が京と地方との往来をしています。その時代の社会基盤を支えた海上交通や船舶を知ることは、多少、意義はあると考えます。
 前回は遣唐使船や対新羅戦争での軍船から海上ルートや船舶について与太話を行いました。今回は、極力、律令時代の制度や規定を下に法螺で与太な話を行います。そのため、大宝律令や延喜式に載る規定、続日本紀に載る記事を参照すると方法論を取りますから、従来の最初から「なになにであるべき」、「なになにであったはず」論から導き出されている帰結・通説とは大きく異なることになります。そこが弊ブログの与太話であり、酔論です。
 なお、近江朝の百済の役の時、大和朝廷は約3万2千人以上の兵員を朝鮮海峡を越えて半島に送り込む能力を保有しています。万葉時代とは、そのような遠洋航海能力と造船能力を保有していた事実を前提としています。加えて忘れてはいけないのは、東大寺の金剛の大仏と余りで作られた吉野金峯山寺の銅の鳥居の材料となる500トン以上の銅が、その時に長門国から運搬されています。

 さて、現代も万葉時代も、税に関わる役人は非常に「スマート」です。庸調物の運搬に対する制度規定では、人の運搬については延喜式の主計寮上に運脚の旅程日数がありますが、別に人以外の運搬方法については主稅寮上に「諸國運漕雜物功賃」として駄馬と船舶による運賃規定があります。

主計寮上:運脚による旅程規定、例として上總國【行程上三十日、下十五日。】
主稅寮上:駄馬による運賃規定、例として上總國【(駄別稻)百束。】

 養老律令や延喜式を調べても運脚が運ぶ標準貨物重量は不明ですが、駄馬についてはその「諸國運漕雜物功賃」の末文に「凡一駄荷率、絹七十疋、絁五十疋、絲三百絇、綿三百屯、調布卅三十端,庸布四十段,商布五十段,銅一百斤,鐵卅三十廷,鍬七十口」と基準重量と換算を規定し、これにより、基準重量は約67~70kg/駄となります。この駄馬による運賃には馬の維持費に加え馬子などの経費も含まれています。ところが、運脚とは違い上京時は良いとしても、帰郷時の規定がありませんから、諸國運漕雜物功賃には帰りの費用もすべて含まれていることになります。ただし、荷を運搬せずに駄馬などによる運搬隊を引率し、納品台帳となる調庸帳を携える役人たちは官人旅費規定から食料の日当支給を受けたと考えます。注意として、諸國運漕雜物功賃では馬と馬子の比率は規定されていませんから、馬子一人で馬二匹以上を扱うこともあったと思います。
駄馬によらない、一般に解説される運脚による運搬費用ついて、その運搬人夫である運脚は、国衙の目(さかん)より上の役人と郡衙の郡司少領より上の役人との二人以上の役人に引率され、それぞれの国のキャラバン隊を組み、最大運脚10人に1人の割合で調理専任担当者(火頭)を伴い、上京時には一人当たり米二升/日と塩二勺/日を支給され、帰京時にはその半分の食料日当を支給されます。ただし、京での滞在期間中の食料日当は支給されません。なお、律令の1升は現代の0.4升ですので、上京時には現在換算8合/日-人の米が支給される規定となっています。加えて、和銅五年(712)の詔では全国の郡衙に対し銭と舂米との交易を行うことと、同時に運脚キャラバン隊は食料支給に見合う銭を携えて国衙を出発することを命令しています。
 当時の人の移動を制限する規定から、関所を通過するときに運搬責任者である役人の「綱領」はキャラバン隊全員の身元を証明する「本國歴名」を提示する必要があります。このため、常に集団行動が求められますし、それに加え、運脚に選抜された地方農民では地方から京までの道が不案内で、慣れた道先案内がいなければ迷うことなく道中することは困難です。
 ここで、当時の役人が「スマート」な理由として以下の政策判断があります。
 一日の移動距離の基準は養老令 公式令 行程条では「凡行程、馬日七十里、步五十里、車三十里」と規定し、駄馬は70里/日、運脚は50里/日を移動する割合で日当を計算し支給します。当時の律令の一里は0.54kmですから、それぞれ38kmと27kmです。これらの規定から最も安い運搬方法として役人は駄馬による運搬方法を選び、この駄馬による庸調物の運搬運賃で費用を支払っています。つまり、運脚は駄馬運搬に比べて高価となるため、限定的な採用です。従来の運脚が調庸物を運搬したとする解説や理解からしますと、奈良時代の役人は昭和時代の文部省や大蔵省の役人より税金の使い方や制度設計では「スマート」だったのです。
 従来、庸調物の運搬を担う運脚は食料や経費は自前とのフェイクニュースがありましたが、大宝律令、養老律令、延喜式、続日本紀などにのる規定や詔勅からすると、公平・適切に規定に従い運賃は支払われています。もし、運脚などの費用は自前が建前なら、役人は運搬やその輸送ルートを決める必要はありませんし、責任回避を考えるなら、単に納入物量と期日を定めるだけで十分です。他方、運賃や日当を払うのなら、標準移動距離、基準運搬重量、規定の移動ルートなどを定め、公平な賃金支払い計算を行う必要があります。現在、中国と台湾ではこれらの原文資料がデジタルデータとして整理、公表していますから、昭和時代のようなフェイクニュースを垂れ流すことは出来なくなっています。

規定①;凡諸國調庸專當者、差目以上并郡司少領已上強幹于事者、每年相換。
規定②:凡調庸及中男作物、送京差正丁充運腳、餘出腳直以資。腳夫預具所須之數、告知應出之人、依限檢領、准程量宜、設置路次。起上道日、迄于納官、給一人日米二升、鹽二勺。還日減半。剰者迴充來年所出物數、別簿申送。
規定③:凡諸使食法、官人日米二升、鹽二勺、酒一升。番上日米二升、鹽二勺、酒八合。傔從日米一升五合、鹽一勺五撮。國司巡行食料准此。
規定④:凡行程、馬日七十里、步五十里、車三十里。

 中央の役人が「スマート」に最も経済的な経費規定を組みますと、地域によっては駄馬で運搬した時に支給される経費だけでは時に人力運搬(運脚)をしますと経費倒れになることもあります。もともと役人は運脚による運搬の方が高いから駄馬による運搬を選択しているのですから、当たり前と云えば当たり前です。それらを反映して神護景雲二年に地方民から泣きつかれた東海道巡察使は、駄馬を所有していないと認められる場合は諸國運漕雜物功賃の規定ではなく、運脚の規定も使うことを認めて欲しいと上進し、それを認めて貰っています。

神護景雲二年(768)の記事:東海道巡察使式部大輔従五位下紀朝臣広名等又同前言。運舂米者、元来差徭、人別給糧。而今徭分輸馬、独給牽丁之糧。窮弊百姓無馬可輸。望請、依旧運人別給糧。

 延喜式の規定だけを眺めますと、庸調物の運搬は諸國運漕雜物功賃の規定から、基本は陸上輸送の駄馬に従い、特例として海上運賃規定を載せる一部の地域は海上輸送を行ったと理解します。ただ、実際は神護景雲二年の記事が示すように、延喜式の規定は運搬費用支払いの基準運賃規定であって、実際の運搬方法までを厳密に指定するものではありません。朝廷は規定の期日と費用以内で、損害無く、運搬されるなら、実際の運搬方法はどれでも良いと考えていたようです。単なる合理的な支払い基準を定めただけの立場だったようです。ただし、運搬中に荷物に損害が出たら処罰と弁済を求めますから、国司たちは運搬方法を選択するときに運搬費用と運搬時の事故率とを十分に吟味する必要があります。つまり、海上輸送は安いけど、事故が発生すると荷物全部が全損になるでしょうし、駄馬だと海上輸送よりも高いけど、事故の発生は駄馬毎なら荷物の損害は限定的です。
 しかしながら、昭和時代に庸調物の運搬は自己負担の運脚による運搬だったと云うフェイクニュースを流したため、その派生により庸調物の運搬は特別な運搬手段を持たない一般の農民たちは徒歩で京まで運搬したとの二次的なフェイクニュースを流します。資料掲示順番は前後しますが、神護景雲二年(768)の記事からすると、下総国の井上・浮嶋・河曲の三つの馬駅の間、武蔵国の乗潴・豊嶋の二つの馬駅の間には陸路と水路の二つの交通手段があったことが判ります。諸國運漕雜物功賃の規定からすれば下総国や武蔵国に水上交通は予定されていませんが、実際は水上交通で物資の運搬が行われています。神護景雲二年の記事から遡って霊亀元年(715)の記事を眺めますと、「海路漕庸、輙委惷民(海路漕庸を惷民に輙委する)」の「海路」の指すものは諸國運漕雜物功賃に規定される諸国からの指定航路だけではありません。広く国内全域での水上運搬を指す可能性があります。これに関連して、天平勝宝八歳(756)の記事に天平八年(729)五月の太政官符を引用し、水上運搬時の事故弁償規定を明確にしています。霊亀元年(715)の記事からすると国司から事故弁償を徴収することになっていますが、天平八年の通達によると、運搬方法を承認した国司が50%、直接の運搬責任者である国衙の差目より上の役人と群衙の郡司少領より上の役人;「綱領」が30%、運搬人夫たち:「運夫」が20%を分担して弁償することになります。ただ、天平八年の通達と霊亀元年の詔からすると「運夫」とは「惷民」を指すと考えると、この「惷民」の正体は海上輸送請負人(含む難波大津から平城京までの運搬)と解釈できます。
 さらに、賦役令集解などの解釈・解説からすると、舂米のような汎用品で重荷は絹布などの軽貨に等価交換して京まで運搬し、京の公設市場などで、再度、絹布などの軽貨から舂米に交換して納品することを認めています。このため、天平勝宝八歳の記事で「山陽・南海諸国舂米」とありますが、実際に舂米を本国から京まで運んだのか、軽貨に交換後に運んだのかは確定しません。平安時代には本来の海上輸送の目的地である京都の與等津(淀津)より下流の山崎付近に私設の倉庫や市場が置かれ交易がおこなわれており、調度して既定の数量と物品を與等津の官設施設に搬入しています。

霊亀元年(715)の記事:詔曰、凡諸国運輸調庸、各有期限。今国司等、怠緩違期。遂妨耕農、運送之民、仍致労擾。非是国郡之善政、撫養之要道也。自今以後、如有此類、以重論之。又海路漕庸、輙委惷民、或已漂失、或多湿損。是由国司不順先制之所致也。自今以後、不悛改者、節級科罪。所損之物、即徴国司。

天平勝宝八歳(756)の記事:太政官処分、山陽・南海諸国舂米、自今以後、取海路遭送。若有漂損、依天平八年(729)五月符、以五分論。三分徴綱、二分徴運夫。但美作・紀伊二国、不在此限。

神護景雲二年(768)の記事:又下総国井上・浮嶋・河曲三駅、武蔵国乗潴・豊嶋二駅、承山海両路、使命繁多、乞准中路、置馬十疋。

賦役令集解 封戸条の条項:運舂米国者米送、遠国者販売軽貨送給耳
賦役令集解 調庸物条の条項:不得雑勾隨便糴輸

 平安時代では新たな制度により庸調物の運搬だけでなく、朝廷が出舉正稅や公廨雜稻から得た収入を原資に地方で購入した交易雜器や交易雜物なども京まで運搬します。相摸國、武藏國、安房國、上總國、下總國、常陸國の関東六国の交易雜物で、延喜式に規定する主要物だけを集計しても、絁:200疋;4駄、商布:55,350段;1,107駄、布:8,590端;286.3駄、庸布:700段;17.5駄、木綿:940斤;9.4駄、紫草:13,300斤;133駄で、合計1,557.2駄=10.39トンの貨物量となります。
 従来の運脚が人力でこれらの貨物を背負い、関東から京まで運搬したとしますと、人間が30kg/人の割合で運搬したとしても、関東六国だけでも最低3,463人の運脚、346人の火頭、692人の役人、都合、4,501人のキャラバン隊を必要とします。毎年、秋にこれほどの人間が関東から京までを往復したのでしょうか。例として箱根越えをしたのでしょうか。また、京では九州を除いた全国からの物資が集まりますから、万単位の運脚が集合した記録はあるのでしょうか。また、どこに宿泊/野営したのでしょう。本来なら律令と運脚を研究する研究者はこれに答え、解説する義務があります。
 さらに、諸國運漕雜物功賃の規定では、運搬は、原則、駄馬ですから、交易雜物に限っても関東六国で延1,600匹が運搬に従事する必要があります。上總國や下總國の運脚の日当支給の公式旅程が往復45日で、これに一日の旅程規定が駄馬は70里、運脚は50里ですから、駄馬の往復旅程は単純計算で公式旅程33日となります。京への搬入時期を9月から11月の3か月と考えますと、駄馬による運搬は最大2回転です。天候不順や京での検収遅延のリスクに延納の罰則規定からすると、国司や運搬責任者となる「綱領」は駄馬による運搬を1回転で計画するでしょう。つまり、やっぱり、駄馬は1,600匹以上が必要となります。さて、これだけの荷馬と馬子を一度に準備できたでしょうか。昭和時代の研究者は、準備が出来たと考えますが、さて、その根拠はどこにあるのでしょうか。交易雜物の制度が正式に始まる前の神護景雲二年にあっても、地域では駄馬が不足しており、それを人力で補っている実態に合わせて運賃適用規定の見直しの要請が出ています。つまり、まったく、駄馬は足りないのです。それで同じく神護景雲二年の記事で示すように、下総国井上・浮嶋・河曲三駅と武蔵国乗潴・豊嶋二駅に、新たに駅馬十疋ずつを公費で購入・配置して欲しいとの要望が出て来るのです。
 現代の研究者は昔の大日本帝国陸軍参謀ではだめなのです。作戦の対象となる目標を把握し、その目標達成するための作戦工程とそれぞれの数字を抽出し、手持ちの人員、装置、用具などを勘案して合理的に方法論を組み立てる必要があります。都合が悪くなると精神力や忠心などの要素を組み込んで、達成可能な作文とすることは許されないのです。関東六国に限っても10トンほどの主に高級絹製品や特殊な木綿製品となる貨物を、水濡れや汚れなどの運搬事故を起こすことなく関東から京まで、それを運搬する方法論を説明する必要があります。食料が運脚の自前と主張するなら往復期間中の食料も同時に必要量とその運搬方法も説明する必要があります。律令政府は、食料は道中の郡衙や駅で支給し、調理用具はキャラバン隊10人に1人の割合で火頭が担うと方法と規定を定めています。さて、昭和・平成の研究者は、どのように答えたのでしょうか。
 延喜式の輸送ルートと運賃規定から、日本海側は出羽国から若狭国までの海上輸送ルートがあり、九州大宰府、瀬戸内海沿岸諸国から京都の與等津(淀津)までの海上輸送ルートがあります。東海道は遠江国から難波大津を経由して京都の與等津(淀津)までの海上輸送ルートがあります。ここまでは延喜式の主税寮に示す諸國運漕雜物功賃などから読み取れます。主税寮に示す運賃規定の範囲であれば、遠江国より以東の諸国は遠江国の国府(大之浦:現在の磐田市福田付近)の湊から海上輸送ルートを使っても正規ルートとして問題はありません。
 ここで一つの疑問として、関東方面諸国は遠江国の湊に行くには箱根を越えた後に、由井の薩埵峠を越え、富士川と大井川を渡る必要があります。一方、万葉集からすると由井の薩埵峠の先、田子の浦の沖合を国司一行が航行する歌がありますし、上古では伊豆国御嶋(静岡県三島市)の狩野川河口付近に大和朝廷配下の古代造船基地がありました。ここで、凡なる感覚からは相摸國小田原付近から伊豆国御嶋へ行くのに伊豆半島を周回する海上ルートと御殿場を抜ける陸上ルートとを比較すると、まず、御殿場を抜ける陸上ルートを選択したと思います。つまり、難波大津から遠江国の国府までの太平洋航路が伊豆国御嶋まで伸びていますと、関東六国に甲斐国と伊豆国にとって便利な話になりますし、非常に経済合理性があります。ただし、現代と違うのは、万葉時代から平安時代初期、富士山は非常に活発な活動を行っており、朝廷が物資集積地に伊豆国御嶋を指定するには大きなリスクはあります。噴火により足柄道が閉鎖される、富士五湖が生まれるなどの事件はこの時代です。朝廷としては伊豆国御嶋を正式な海上輸送基地とはしないが、富士山の活動状況をよく判っている国司以下の自己責任ならOKのような感じでしょうか。
 ここまでの弊ブログの理解が正しいと養老律令の規定から非常に重要な話題が生まれます。軍防令の条項からすると、太宰府の対新羅の防人や東北の対蝦夷の防人は「津」からは食料は朝廷が支給します。規定からすると私糧を持参ですから内陸国の防人は「津」までの行動食料は私糧ですが、一方、沿海国の防人はすべて朝廷の負担です。非常に内陸国には不公平な規定です。ただし、天平時代の駿河国の正税帳に載る帰郷する防人への食糧支給記録からすると、内陸国も沿海国も区別することなく朝廷は公平にそれぞれの国府までの食料は支給しています。

軍防令 齎私糧條:凡防人向防、各齎私糧。自津發日、隨給公糧。

 海上交通の参考情報として、江戸時代の江戸・大阪間の純航海日数は平均で12日だそうです。ただ、面白いことに江戸初期は自己目的の人や荷物を運搬する自前の輸送船による海上輸送で、その分、荷物が少ないので「小早」と称される船足が早い小型船を使用したそうです。その後、請負で貨物輸送する廻船業者が現れ、次第に船が大型化し、その船足が遅いことに加え積載や寄港地の関係で航海日数が延びたそうです。飛鳥・奈良時代ですと対新羅戦争などで使われた船長24m級の軍船に似た快速船が戦争の無い期間の別用途として投入されたのではないでしょうか。ちなみに律令体制での官船などの更新・減価償却期間は20年と定められていますから、戦争や紛争が終結しても破棄されない軍船は多数あったと考えます。

延喜式 主税寮:凡渡船經廿年以上者、聽買替。

 次に示すように万葉集で田口益人が上野國司に任命された時、三保の松原と田子の浦の景色を眺めた歌を詠っていますが、田子の浦の景色は夜に通過した時のものです。國司が任地へ向かう旅では夜間に馬で難所の薩埵峠を強行することは無いでしょう。つまり、月明かりの中をそれなりの大きさを持った長距離航海船で夜間航行しているのです。難波大津から遠江国の国府までの大船による太平洋航路が有るなら、それを延長して伊豆国御嶋へと向かっていると考えるのが自然です。

田口益人大夫任上野國司時至駿河浄見埼作謌二首
標訓 田口益人(ますひと)大夫(まえつきみ)の上野國(かみつけのくに)の司(つかさ)に任(ま)けらえし時に、駿河の浄見埼(きよみのさき)(現在の三保の松原)に至りて作れる謌二首
集歌296
原文 廬原乃 浄見乃埼乃 見穂之浦乃 寛見乍 物念毛奈信
訓読 廬原(あしはら)の清見(きよみ)の崎の三保し浦の寛(ゆた)けき見つつ物念(おも)ひもなし
私訳 廬原の清見の崎にある三保の浦が広々と豊かな様を眺めるいると、旅路の不安はない。

集歌297
原文 晝見騰 不飽田兒浦 大王之 命恐 夜見鶴鴨
訓読 昼見れど飽かぬ田児(たご)浦(うら)大王(おほきみ)し御言(みこと)恐(かしこ)み夜見つるかも
私訳 昼に見ても見飽きることのない田児の浦よ。大王の御命令を畏まって承って、その田児の浦を夜に拝見します。

 おまけとして、遠州灘の浜松市付近の風向は5月中旬から6月上旬と8月下旬から10月末までは高い確率で東風が吹き、伊豆国御嶋から伊勢国・紀伊国への航行では順風となります。一方、6月中旬から7月中旬と11月から5月中旬までは高い確率で西風が吹き、紀伊国・伊勢国から伊豆国御嶋への航行では順風になります。気象データからすると航行と逆風となる季節にあっても10%程度の確立で求める風が吹きますから、最大1週間程度の風待ちをすれば求める風を得ることが出来ます。
 万葉集の歌で上野國へと向かう国司 田口益人が夜間に遠州灘を抜けたのは伊勢国で風待ちをし、順風を得たので途中の避難港となる遠江国の国府の湊に寄ることなく伊豆国御嶋へ直接に向かったためと考えられます。伊勢湾横断や遠州灘航行の風待ち港となる三重県鳥羽港から静岡県沼津港までが210kmで、江戸時代の帆船が順風時に5~6ノット=約10km/時の速度とすると、鳥羽港付近で風待ちをしていて早朝に出航すると、ちょうど、夜間に由井の沖合を抜けることになります。
 もう少し、太平洋航路を考察しますと、熊野灘を越える紀伊国加太湊から伊勢国鳥羽湊までが320kmで、帆船順風時の航海時間が約32時間;1昼夜半となります。加太湊を払暁に出航すると翌日の朝に尾鷲湾を見て午後に鳥羽湊への入港です。次に伊勢国鳥羽湊から伊豆国御嶋湊までが210kmで、帆船順風時の航海時間が約21時間;1昼夜となります。鳥羽湊を朝に出航すると夕刻に遠江国の国府の湊を見て翌日の夜明けに御嶋湊への入港です。天候によっては日中の間に串本や尾鷲湾や遠江国の国府の湊への避難はできますし、逆航路では熊野灘では串本や田辺湾を避難地と出来ます。
 弊ブログの恣意的な酔論からしますと、万葉時代、難波大津から伊豆国御嶋への太平洋航路はあり、百済の役などで使用された兵員40人乗りクラスの一本マストの軍船(船長24m、船幅4.2m)と同様な船が官途目的で頻繁に使われていたと考えます。

 おまけとして、近々の出版で「海から読み解く日本古代史」(近江俊秀、朝日新聞出版)を参考にしますと、書類として古代の海上輸送ルートの記録がないとします。確かに防人の太宰府から関東諸国への帰郷の時に途中で食料を支給した正税帳の記録から周防国を経由して駿河国へは海路を使ったと推定されますが、確定はされていません。逆に陸上ルートと推定されている東国の運脚や防人が実際にどのような人数で、また、そのルートを使い移動したかの記録は有りません。ただし、朝廷が支払う経費の経済性を考えると海上輸送ルートを使用するのがもっとも合理的な帰結となります。
 しかしながら運脚や防人たちは自弁だったというフェイクニュースが学説として存在する限り、水掛け論となります。自弁論者は、一般の困窮しているはずの農民が主体となる運脚や防人が高価な遠洋航海の船を手配することに現実性がないと指摘するはずです。現実的にも運賃を朝廷が負担し、国司たちが関与して初めて高価ですが単位当たりの運賃の安い遠洋航海の船を手配できることになります。
 なお、近江俊秀氏はその著書で延喜式の諸國運漕雜物功賃の規定を運搬方法に対する換算基準ではなく、そのままに運搬方法と料金が固定されたものと解釈している関係上、得られた結論がちぐはぐになっています。氏は規定に「自國漕與等津船賃,石別一束二把,挾杪廿三束,水手廿束。自餘准播磨國。但挾杪、水手各漕米十石」とあれば、船は十石船サイズと考えています。しかし、延喜式は単に支払い換算表と考えれば、公共事業の積算要綱と同じで、五十石船を使った時の五十石の重量の貨物の運搬に対し、船の損料は50石x1束2把=稲60束、人件費として挾杪は50石x23束=1150束、水手は50石x20束=1000束が支払われますが、船の傭員として、最低、挾杪は5人、水手は5人が乗る必要があると理解できます。十石船を五隻準備した場合での総支払い運賃は同じですし、挾杪も水手もそれぞれ5人で同じですし、中途半端なサイズの船でも換算で経費の算出と、最低傭員の算出は可能となります。ただ、現実的には五十石船一隻の挾杪5人は船長1人と高級船員4人に細分され給与は違いますから、輸送業者の実際の総経費は五十石船の方が安くなります。
 また、船賃計算による支払いであっても、実際は道中が運脚、駄馬、船、牛車による複合的な運搬だった可能性があります。平安時代、伏見の與等津まで船を使用しても、そこから先の京の市中の役所倉庫までは牛車による運搬ですし、同じ船でも大宰府からの場合は大船を使い瀬戸内航路で難波大津に向かい、そこで淀川用の小舟に載せ替えて與等津へ運搬しますから複合船運賃です。ちなみに、江戸時代には伏見(與等津)・大阪間を三十石船(船長17m、船幅2.5m、積載量約4.5トン)が連絡しており、旅客専用船では船頭・船員が4人、乗客定員28人が幕府の定める安全規定です。なお、荷物を稲や舂米のような重荷を想定し運賃と荷物の経済価値とを比較する人もいますが、稲は災害や戦争時などの緊急事態以外は域外移動禁止ですし、舂米は商布などの軽荷に交易して運搬し、京で再度、交易して舂米に替える手段は法制度化されています。輸送は地域特産物が中心だったことを忘れてはいけません。
 弊ブログはこのように諸國運漕雜物功賃の規定を標準運賃支払い基準と解釈します。なお、「挾杪」の言葉の意味するものは後年の船頭ではなく、操船技能を持つ特殊作業員、「水手」は操船技術などを要さない一般作業員を意味すると考えますから、同じ延喜式の規定書を読みますが、解釈により理解内容は大きく異なります。
 毎度のことですが、弊ブログはこのような立場ですので、そのため実に与太話ですし、酔論となります。

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