竹取翁と万葉集のお勉強

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竹取翁の歌のお勉強 娘女の参歌 その9

2009年05月25日 | 万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する
竹取翁の歌のお勉強 娘女の参歌 その9

九人目の娘子の歌  作者未詳の答え(貴族階級)
集歌3802 春之野乃 下草靡 我藻依 丹穂氷因将 友之随意  (九)
訓読 春の野の下草靡き我れも寄りにほひ寄りなむ友のまにまに
私訳 春の野の下草が靡き寄るように私も靡き従って染まりましょう。心を同じくする人々と共に。

万葉集の春の歌で、風に春草が靡き朋と野に遊ぶ歌はありそうですが、実はこの歌だけです。集歌0948の歌の景色は九人目の娘女が詠う世界と同じと思っています。九人目の娘女は、世の風潮に対して貴族の人々にも異議を唱えさせています。
歌は読み人知れずの歌で、万葉集巻六から採歌されています。このように、九人の娘女の詠う歌は、万葉集巻一から巻九までそれぞれ一首づつ各階層の人々の歌が採歌されています。これも、一種の遊びなのでしょうか。

巻六より
四年丁卯春正月、勅諸王諸臣子等、散禁於授刀寮時、作謌一首并短謌
標訓 四年丁卯の春正月、諸王諸臣子等に勅して、授刀寮(じゅたうりょう)に散禁(さんきん)せしめし時に、作れる歌一首并せて短歌
集歌0948 真葛延 春日之山者 打靡 春去徃跡 山上丹 霞田名引 高圓尓 鴬鳴沼 物部乃 八十友能壮者 折木四哭之 来継比日 如此續 常丹有脊者 友名目而 遊物尾 馬名目而 徃益里乎 待難丹 吾為春乎 决巻毛 綾尓恐 言巻毛 湯々敷有跡 豫 兼而知者 千鳥鳴 其佐保川丹 石二生 菅根取而 之努布草 解除而益乎 徃水丹 潔而益乎 天皇之 御命恐 百礒城之 大宮人之 玉桙之 道毛不出 戀比日
訓読 真葛(まふぢ)延(は)ふ 春日の山は うち靡く 春さりゆくと 山の上(うへ)に 霞たなびく 高円(たかまと)に 鴬鳴きぬ 物部(もののふ)の 八十伴の壮(を)は 雁が音(ね)の 来継ぐこの頃 かく継ぎて 常にありせば 友並(な)めて 遊ばむものを 馬並(な)めて 往(ゆ)かまし里を 待ちかてに 吾がする春を かけまくも あやに恐(かしこ)し 云(い)はまくも ゆゆしくあらむと あらかじめ かねて知りせば 千鳥鳴く その佐保川(さほかは)に 石(いは)に生(お)ふる 菅の根採りて 偲(しの)ふ草 祓(いは)へてましを 往(ゆ)く水に 潔身(みそき)てましを 天皇(すめろき)の 御命(みこと)恐(かしこ)み ももしきの 大宮人の 玉桙(たまほこ)の 道にも出でず 恋ふるこの頃
私訳 美しい藤の這う春日山は、草葉が打ち靡く春めいて行くと山の上に霞が棚引き高円山に鶯が鳴く。武士の多くの勇ましい男たちは雁の鳴き声が友と鳴き続くように冬から春に継いでくるこのころ、このように友との仲が続いて常にあるならば、友と連れ立って風景を楽しむものを、馬を並べて往くべき里の春の訪れを待ちかねていた、私が楽しむ春を、口に出すのも恐れ多く、言葉にするのも憚られるようなことになると最初から分かっていたなら、千鳥が鳴くその佐保川の岩に生える菅の根を採って、それを憂さを忘れると云う偲ぶ草としてお祓いをしておくものを、流れる水に禊をしておくものを、天皇のご命令を謹んで承ってももしきの大宮人たちは御門の玉鉾を掲げる官道にも出ずに、春山を恋しがるこの頃よ。

反謌一首
集歌0949 梅柳 過良久惜 佐保乃内尓 遊事乎 宮動々尓
訓読 梅柳(うめやなぎ)過ぐらく惜しみ佐保(さほ)の内(うち)に遊びしことを宮もとどろに
私訳 梅や柳の美しい季節が過ぎるのが惜しい、佐保の野で風景を楽しむことだったのに、宮中もとどろくように雷鳴がなるような事件になった
右、神龜四年正月、數王子及諸臣子等集於春日野、而作打毬之樂。其日、忽天陰雨雷電。此時、宮中無侍従及侍衛。勅行刑罰、皆散禁於授刀寮、而妄不得出道路。于時悒憤即作斯謌。作者未詳。
注訓 右は、神亀四年の正月に数(あまた)の王子及び諸臣子等の春日野に集い、打毬(うちまり)の楽(たのしみ)を作(な)す。その日、忽(たちまち)に天は陰り雨ふりて雷電す。この時に、宮中に侍従及び侍衛無し。勅(みことのり)して刑罰を行ひ、皆を授刀寮(じゅたうりょう)に散ずるを禁じ、妄(みだ)りに道路に出るを得ず。時に悒憤(おぼほ)しく、即ちこの歌を作れり。作者は未だ詳らかならず。

この神亀四年(727)正月の事件の日付は不明ですが、この年の正月晦日が新暦の三月一日に当たります。大宮人がこぞって野に遊ぶ雰囲気ですと、事件があったのは正月十五日の若菜摘みのときでしょうか。そして、二月十二日の祈年祭の後、散会することを許されずに授刀寮に留め置かれたのでしょう。その年の二月十二日は新暦三月十三日ですから、梅から桜への時期で野遊びには相応しい時期です。罰を決めたのは、役職柄から推測して式部卿の藤原宇合と思われます。
さて、この歌は禁足の罰を受けた人が詠った歌ではなくて、外から事件の人々を見ている人の歌です。それが、長歌の「大宮人の 玉桙の 道にも出でず 恋ふるこの頃」の一節です。そして、歌人は佐保川の流れを見ながら授刀寮で禁則を受けた若い官人たちの心情を想像して詠っているのです。
集歌0949の歌の左注の「時に悒憤しく、即ちこの歌を作れり。」は、歌が創られてからだいぶ後にこの左注を書いたのですから、長歌の内容からすると少し変です。禁則を受けた若い官人たちは「悒憤しく」でしょうが、歌を作った人は「同情と少しのからかい」です。たぶん、左注を書いた人は、歌の作者本人ともっと当時の詳しい事情を知っているのでしょう。
少し穿って、これが中納言の大伴旅人が罰を決めた式部卿の藤原宇合に対して、歌で以って「もう勘弁してやったらどうか」と詠っているのですと、神亀六年二月の「長屋王の変」の予行演習のような出来事になります。事件の処罰を決めたのが藤原宇合とすると、彼の理論で神亀四年に若い官人たちを本来の罰せられるべき当番の人達だけでなく、一律に野遊びをした人達を罰しています。その後の神亀六年には、藤原宇合の都合で長屋王を殺しています。ことの本質では、共に理不尽です。それなら、「時に悒憤しく、即ちこの歌を作れり。」ですし、大宮人全員で抗議する必要があります。

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