竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

笠朝臣金村歌集を鑑賞する  神亀五年(728)の歌 幸于難波宮

2011年01月08日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
神亀五年(728)の歌 幸于難波宮
 続日本紀には、この神亀五年の難波宮への御幸の記事はありません。記録に残る御幸は神亀二年十月と神亀三年十月の播磨国印南野への御幸からの帰途に立ち寄ったものだけです。
 ただし、歴史の専門家が知っていて一般には決して説明しないことですが、日本後紀の本文に記載するように、日本紀と続日本紀とは一度は成立したものに対して桓武天皇の勅命で延暦十三年に続日本紀前編の奉呈後に改定作業が行われ、延暦十六年二月に再度の奉呈が行われています。つまり、桓武天皇にとって延暦十三年時点での正史は、その意にそぐわなかったようです。その上、桓武天皇の日本紀は日本書紀へと編纂・改名されたものだけが今日に伝わっていますので、日本書紀、続日本紀と万葉集の記事を比べたとき、どちらが正しいかの判定は難しいものがあります。
 ここで、歴史を改定しにくい外交記事としては、この神亀五年には渤海使が奈良の京を訪れていて、四月十六日(新暦五月二十九日)に渤海使が出発の拝謁をしていています。可能性としては、この渤海使を難波宮で送別したと思われます。ただし、これらの歌は左注で「笠朝臣金村之謌中出也」と紹介され、標では「幸于難波宮時作謌四首」とも紹介されていますが、歌自身のままの内容としては御幸に深く関係するものではありません。その点からすると実に不思議な歌群です。
 また、集歌953の歌からすると歌には秋の季節感がありますが、正史では神亀五年八月は皇太子が重篤な病で床に伏していることになっているために、秋に天皇の難波宮へのお出ましがあったとは思えません。さらに、万葉集にはこのときに詠われた歌ではないかとして、左大臣長屋王(懐風藻では君王)の長子である膳王の集歌954の歌が続きで紹介されていますが、これまた、その左注とは違い五年戊辰の御幸に深く関係するのかも不明です。
 ただ、五年戊辰に難波宮への御幸があり、その同行者として膳王の集歌954の歌がこの御幸で詠われたことを示したかったのでしょうか。万葉集特有の神亀五年の非常に難解な歌群です。ここでは、その万葉集特有の神亀五年の政治的意図をもって、膳王の皇位継承を切望する侍従の立場で訳してみました。
 参考に、もし、集歌953の歌の左注に示すように歌が車持千年のよるもので、その車持千年が宮中女官であるならば、歌には「大王」に対して元正太上「天皇」の意向が示されているとも考えることが出来ます。歴史として、この歌の詠われた直後に膳王は首王(聖武天皇)と藤原氏によるクーデタ(長屋王の変)で殺されています。

五年戊辰、幸于難波宮時作謌四首
標訓 五年戊辰に、難波宮に幸しし時に、作れる謌四首

集歌950 大王之 界賜跡 山守居 守云山尓 不入者不止
訓読 大王(おほきみ)の境ひ賜ふと山守(やまもり)据ゑ守(も)るといふ山に入らずは止まじ

私訳 大王が境をお定めになったと山守りを置いてその山を警護すると云う。その禁断の山に入らずにはいられない。


集歌951 見渡者 近物可良 石隠 加我欲布珠乎 不取不巳
訓読 見渡せば近きものから石(いは)隠(かく)りかがよふ珠を取らずはやまじ

私訳 見渡すと近くにあるのだから、巌陰に隠れている、その輝く珠を手に入れずにはいられない。


集歌952 韓衣 服楢乃里之 嶋待尓 玉乎師付牟 好人欲得
訓読 韓衣(からころも)服(き)楢(なら)の里の嶋松(しままつ)に玉をし付けむ好(よ)き人もがも

私訳 韓の衣を着ると云う服楢の里にある山斎(しま;池のある庭園)で待つ、その山斎の松に玉を付ける高貴な人がいてほしい。
呆訳 韓人の織る綾の衣を身に着けると云う平城京にある松林苑で待っています。松林苑で天下を冒(おお)う公を玉座に就ける高貴な人が居て欲しい。
注意 呆訳では「待つ」から「松」を導き、「木」と「公」に分解してみました。その「木」には大地を冒(おお)うと云う意味があります。また、松林苑は平城京における天皇が宴を催すような大規模な苑池を持つ禁苑とされています。


集歌953 竿牡鹿之 鳴奈流山乎 越将去 日谷八君 當不相将有
訓読 さ雄鹿(をしか)の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君がはた逢はざらむ

私訳 立派な角を持つ牡鹿が鳴いている山を越えて行こう。その山を越えて行くその日さえも、貴方にはまだ逢えないのでしょうか。
注意 詩経の小雅に載る「鹿鳴」の故事から、松林苑で君王が臣下に対し宴を張ることを暗示する。ここでの「君」は君王への就任を示す。

右、笠朝臣金村之謌中出也。或云、車持朝臣千年作也。
注訓 右は、笠朝臣金村の謌の中に出ず。或は云はく、車持朝臣千年の作なり。


参考歌
膳王謌一首
標訓 膳王(かしはでのおほきみ)の謌一首
集歌954 朝波 海邊尓安左里為 暮去者 倭部越 鴈四乏母
訓読 朝(あした)は海辺(うみへ)に漁(あさり)し夕(ゆふ)されば大和へ越ゆる雁し羨(とも)しも

私訳 朝には海辺で餌をあさり、夕べには大和へと峠を越えていく雁の姿に大和を思い我を忘れてしまう。

右、作謌之年不審。但、以謌類便載此次。
注訓 右は、作謌の年は審(つばら)かならず。但し、謌の類(たぐひ)を以つて便(すなは)ち此の次(しだい)に載す。


コメント   この記事についてブログを書く
« 笠朝臣金村歌集を鑑賞する ... | トップ | 笠朝臣金村歌集を鑑賞する ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集」カテゴリの最新記事