竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その16

2009年05月02日 | 万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する
竹取翁の歌のお勉強 長歌のもじり歌 その16

原文 我丹所来為 彼方之 二綾裏沓
訓読 我れに来なせと 彼方(をちかた)の 挿鞋(ふたあやうらくつ)(16)
私訳 私の許に来なさいと恋人を誘う、彼方に居る皇太子

歌の「二綾裏沓」を裏まで綾で作られた沓と解釈しますと、これを挿鞋(そうかい)と云い、天子の履物になります。つまり、二綾裏沓は天子を示すものと解釈しても良いでしょう。
そこで、天子かそれに順ずる人で「彼方」の言葉を捜すと集歌110の日並皇子尊の御歌に辿りつきます。

日並皇子尊贈賜石川女郎御謌一首 女郎字曰大名兒也
標訓 日並皇子尊の石川女郎に贈り賜へる御歌一首 女郎は字を大名兒といへり
集歌0110 大名兒 彼方野邊尓 苅草乃 束之間毛 吾忘目八
訓読 大名児(おほなこ)を彼方(をちかた)野辺(のへ)に刈る草(かや)の束(つか)の間(あひだ)も吾(わ)れ忘れめや
意訳 大名児を遠くの野辺で刈る草の束ほどの束の間も私は貴女を忘れることが出来ないでしょう

 ここで、「苅草乃束之間毛」は「刈る草(かや)の束の間も」と訓読みしますが、この景色を「束草(あつかくさ)を刈る」と解釈しますと、天武八年十二月の嘉き稲を国を挙げて祝った新嘗祭のような祭りの準備の風景になります。すると、歌にもう少し解釈の膨らみが出てきます。

訓読 大名児(おほなこ)を彼方(をちかた)野辺(のへ)に刈る草(かや)の束(つか)の間(あひだ)も吾(わ)れ忘れめや
私訳 大名児よ。新嘗祭の準備で忙しく遠くの野辺で束草を刈るように、ここのところ逢えないが束の間も私は貴女を忘れることがあるでしょうか。

 こうした時、草壁皇子の一番の愛人は石川女郎大名兒となるのですが、当時は石川氏は蘇我氏の姓も使用していました。場合により、石川女郎の大名兒(おほなこ)は蘇我女郎の大名兒でもあります。時代として、持統天皇の時代の石川一族の大物は石川安麻呂で、娘の蘇我媼子(そがのおうなこ)は藤原不比等の正妻ですので、石川女郎の大名兒と蘇我媼子はまったく同じ時代の同じ年齢層の人物です。
 突飛な想像ですが、ひょっとして、石川女郎大名兒は天武八年五月に草壁皇子が皇太子に指名された後に、鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の要請で別れて、藤原不比等の許に嫁いだのかもしれません。この頃に草壁皇子は阿倍皇女を正妻に迎え、天武十一年に軽皇子が誕生しています。皇太子に指名された後の草壁皇子の正妻の婚儀ですから、手続きや儀式から考えて天武八年の中頃から九年の早い時期に阿倍皇女との婚姻が決まったのではないでしょうか。そうでないと、軽皇子は親の知らない婚前交渉の結果になってしまいます。
飛躍して、藤原四兄弟の内で兄の武智麻呂は別な女性の子で、藤原房前からが蘇我媼子の子かもしれません。そうしたとき、藤原房前の生まれ年から草壁皇子の落胤の噂の可能性が出てきます。そうです、ちょうど、藤原不比等の天智天皇御落胤の噂の写しです。
なお、「蘇我媼子」の名の表記は平安期の名前でしょうから、飛鳥・奈良時代とすると死後の贈名の雰囲気があります。調べると、蘇我媼子を蘇我娼子(そがのまさこ)と記すものもあるようですが、漢字で「媼」と「娼」では「老女・年上の女」と「唄い女・接客する女」との意味の違いがあります。常識的には、鎌倉時代ごろから不比等の母親を鏡女王から車持与志古娘へ変えたように、「娼子」もまた意図的な悪意の誤記と推測します。

 なお、若い女性の本名を高々と詠う姿は、日並皇子尊の草壁皇子に許された特権です。臣下による代作ではありえませんから、この歌は草壁皇子の御歌です。つまり、大津皇子や聖武天皇の御歌は誤解による紛れや代作がほとんどですから、この歌は数少ない皇太子級の人物の御歌の和歌となります。

コメント   この記事についてブログを書く
« 竹取翁の歌のお勉強 長歌の... | トップ | 竹取翁の歌のお勉強 長歌の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

万葉集 竹取翁の歌を鑑賞する」カテゴリの最新記事