竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 現御神(あきつみかみ)

2014年06月01日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
現御神(あきつみかみ)

 朱鳥四年(689)正月、三年の喪が明け、草壁皇子は大王に即位された。そして、皇后天皇鵜野皇女を尊び、皇太后天皇鵜野皇女とされた。高市皇子は左大臣のまま、草壁大王を支えることを選んだ。
 その高市皇子は伊勢王と中臣大嶋を呼び、草壁大王の大嘗祭の仕儀について指示をした。
「伊勢王と大嶋、主達は大海人大王の大嘗祭を覚えておるか」
 大嶋が答えた。
「君、今でも目に浮かぶほどしっかり覚えております」
「そうか、では、主達に命ずる。草壁大王の大嘗祭は生まれながらに大王になると定められた現御神たる皇子が大王として大嘗祭を行う形とせよ。また、伊勢皇太神宮の神祀りと劣らぬほどに、清々しく荘厳に儀礼を整えよ。そして、天下の祝部どもを集え」
「伊勢王と大嶋、すぐにかかれ。この四月に大嘗の悠紀・主基の郷を卜で選定するように手配を致せ」

 命を受けた伊勢王と中臣大嶋は談合した。
 大嘗の神祀りの骨格は古来の儀礼を守る。これは変えない。高市皇子の意に叶うよう、宮中の官人や祝部どもが集う場は、新しい大和の神祀りの仕儀を整えることにした。仕儀は、おおまかに、大王の禊、神供供納、大嘗宮への集いと儀礼を行い、後、古式に従い卯日の大嘗の秘儀を悠紀殿・主基殿で執り行う。その後、里の神事では直会となる辰日の節会を宮中で行う。特に辰日の節会は大王家の神祀りとして大嘗の秘儀を畢えた大王が初めて諸々の臣下の前に姿を見せる儀礼となる。
 卯日の大嘗の秘儀は大海人大王の大嘗と同じく、その根本は寄代に神降りした天神の女神と地祇の女神を褌親(たぶさおや)と見なす、ある種の産土神事である。伊勢王と中臣大嶋はその秘儀の根本理念を世界の第一級国となった大和の国に相応しい形に思想化した。
 根本理念では、大王は生まれながらに大王と定められた現御神(あきつみかみ)である。現御神は天の神の国から大和を治めるために天降りされたのである。統治する民が幸福になると現御神は天の神の国に神上がりして御帰りになる。そして、次の現御神が、再び、天の神の国から大和を治めるために天降りされる。その天降りされた現御神は天神の女神と地祇の女神とを褌親として、天(あま)つ国と地(くに)つ国との、共に産土の一員となる。それを民に知らせるのが大嘗祭である。
 その神事には神聖な儀礼である証として、天つ御井の水を使う。御井の水は神仙道教の天地水三官大帝の内の水官洞陰大帝が教え諭すように、霊力により天つ国の御井と地つ国の御井は繋がる。それは祈念により神聖な御井として地上の神聖な場所に顕れる。
 天つ国の産土となった後の現御神は、倭の古風と同じ三日夜餅の思想の下、天神の女神や地祇の女神と共食することで女神の国の一員と認められる。その共食に供える食べ物は、神仙道教の思想に基づき、黒は玄武、天上を表し、白は白虎、地上を表す。その思想を下に食べ物や黒酒・白酒の御酒を整える。そして、天神の女神と地祇の女神とに神降りを願う為、それぞれ悠紀殿・主基殿の二殿が必要になる。
 このように大海人大王や高市皇子たちが創り上げた神道は神仙道教の強い影響の下、古風の風習や決まり事を理論化、儀礼化したものである。この根本理念の下、伊勢王や中臣大嶋たちは大嘗の神祀りの仕儀・次第を整えた。

 そうした中、中臣大嶋が柿本人麻呂を宮中神祇官の役宅に呼び出した。
 大嶋は「今、神祀りで宣べる神寿詞は大唐や百済の漢文調の強い匂いがする。それを大和のものにしたい」と考えた。そこで大和歌の上手で歌心のある柿本人麻呂の力を借りようと思った。
 その大嶋が人麻呂に相談した。
「柿本朝臣、相談がある。実は大嘗の神祀りの神寿詞についてじゃ」
 まず、大嶋は人麻呂に新しい大嘗祭の根本理念と仕儀次第を事細かに説明した。
「中臣朝臣、よう判った。実に新しき大和の神祀りじゃ。これを行えば、きっと、清々しく荘厳であろう」
「柿本朝臣、相談事は理念の披露ではない。神寿詞についてじゃ」
「今、風日の神祀りなどの神寿詞は大王の宣の形を取る。それで良いか、どうか、悩んでおる。柿本朝臣、主はどう思う」
 そう云うと、先の伊勢皇太神宮での祈年祭の神寿詞を披露した。

祝詞の一節、
「高天の原に留り坐す皇睦(すめむつ)漏伎(かむろぎ)の命、漏彌(かむろみ)の命以て、天つ社と國つ社と称辞(たたへこと)竟(を)へ奉(まつ)る皇等(すめかみたち)の前に白さく、今年二月に御年(みとし)初め賜はむとして、皇御孫(すめみま)の命の宇豆の幣帛(みてぐら)を、朝日の豊逆(とよさか)登りに称辞竟へ奉らくと宣る」

 人麻呂が感想を述べた。
「確かに、宣の形は共に祝うと云う風情はないのう。如何にも授け与えるようじゃ」
「吾もそう思う。吾等、大和の大王は民と共にあると云うのが高市皇子の望みじゃ。主、良い案はないか」
「そうよのう、・・・、では、こうではどうじゃ」
 人麻呂は大嶋が案の形で示した大嘗の祝詞に手を入れ、それを下に改良案を示し、再び、大嶋と人麻呂とが案を練った。そして、大嘗の神祀りの神寿詞が出来た。この神寿詞には大嘗祭の根本理念を詠いこんだことや民と共に祝う姿を重んじたために、多くの祝詞の中で中臣寿詞だけが異彩を放つことになった。

中臣寿詞の一節、
「献る悠紀・主基の黒木・白木の大御酒(おほみき)を、大倭根子天皇が天つ御膳(みけ)の長御膳(ながみけ)の遠御膳(とほみけ)と、汁にも實にも、赤丹の穂にも聞こし食して、豊の明りに明り御坐(おほま)しまして、天つの寿詞(よごと)を、天つ社・國つ社と稱辭(たたへこと)定め奉る皇等(すめがみたち)も、千秋(ちあき)の五百秋(いほあき)の相嘗(あひにへ)に相宇豆の比奉(ひまつ)り、堅磐(かきは)に常磐(ときは)に斎ひ奉りて、伊賀志(いかし)御世に榮えしめ奉り、朱鳥四年より始めて、天地月日と共に照し明らし御坐(おほま)しまさむ事に、本末傾けず茂槍の中執り持ちて仕へ奉る、中臣の祭主祇伯中臣朝臣大嶋、寿詞(よごと)を稱辭(たたへこと)定め奉らくと申す」

 その年の四月、不幸が大和の国を襲った。
 元来、病弱な草壁皇子が大嘗祭を待つことなく亡くなられた。左大臣高市皇子は、草壁皇子の母親、皇太后天皇菟野皇女の心を想い、草壁皇子の葬送の儀礼を定め行った。
 倭の古風では大嘗祭を畢えない大王は、神婚儀礼を行っていないため神威を受けていない大王である。つまり、正式な大王ではない。このため、全国の国造や祝部どもとしても、大王としての誄を奉げることが出来ない。そこで左大臣高市皇子は草壁皇子の葬送の儀礼を、新しい大和の葬送の儀礼で行えと、神祇伯中臣大嶋に命じた。大嶋は漢・宋の皇帝の葬礼に準え、儀礼を整えた。
 魏の文帝の葬送の儀礼で陳王曹植は次のような誄を奉げた。

陳王曹植の誄の一節、
「天震地駭、崩山隕霜、陽精薄景、五緯錯行、哀殊喪考、思慕過唐、擗踴郊野、仰想穹蒼・・・」
訓読
天は震え地は駭(おどろ)き、山は崩れ霜は隕(お)つ。陽精は薄景し、五緯は錯行す。哀しみは殊(ことさら)に考(ちち)を喪い、思慕は唐を過ぐ。郊野に擗踴し、蒼穹を仰ぎて想う。・・・

 葬送の儀礼を掌る神祇伯中臣朝臣大嶋は柿本朝臣人麻呂に「草壁皇子は生まれながらに大王と定められた現御神であった。その現御神が天つ国に戻られた」との精神で、皇子の葬送の儀礼で大和の新しい誄を陳べることを命令した。
 柿本人麻呂はその勅命に従い、大和の新しい誄である挽歌を草壁皇子に奉げた。

挽歌の一節、
わご王 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴からむと 望月の 満しけむと 天の下 四方の人の 大船の 思ひ憑みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしませか 由縁もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座し 御殿を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬる

私訳
吾等の王である皇子様は天下を治めなされると、春に花が咲くように貴くあられるだろう、満月のように人々の心を満たされるだろうと、皇子が御統治なされる国のすべての人は、大船のように思い信頼して、大嘗祭を行う天つ水を天を仰いで待っていると、どのように思われたのか、理由もないのに、真弓の丘に御建てになられた宮殿を天つ国まで高くお知らせになられて、毎朝に皇子のお言葉を賜ることのない日月が沢山になった

 本来なら新たに定められ、準備が進んでいた御井に湧く天つ水で大嘗祭を行うはずの草壁皇子は、仏教法会の後、この新しい神葬祭の儀礼で送られた。高市皇子の招聘を受けた全国の国造や祝部どもは古風の血と叫びの誄ではなく、この新しい厳かな神葬祭に郡司や里長として連なった。そのため、衣装は誄を奉げる古風な荒栲の衣ではなく、正装の官服であった。

 朱鳥四年八月、朝廷は神祗官の下に政府首脳を集め、日嗣について談合した。
 その会議は思いがけず紛糾した。
「草壁皇子亡き後、高市皇子が大王に就く」
 実力と吉野の盟約の順序からも、これには、誰も異論はない。ただ、祭祀を執る天皇位で揉めた。多くの者は、皇太后天皇菟野皇女の後は、高市大王の皇后となる御名部皇女が襲うものと考えた。そこに、高市皇子は異議を唱えた。高市皇子は「草壁皇子は大王位を継いだ日嗣の皇子である。従って、阿閉皇女は既に皇后であられる」と主張した。倭の習いでは先の皇后を尊び皇太后とし祭祀を委ねる。従って、大海人大王の皇后菟野皇女が皇太后天皇として祭祀を執る。これには誰もが異存はない。問題は高市皇子の正妻は御名部皇女であり、阿閉皇女の実の姉である。血筋や長幼の順からすると御名部皇女が皇后となられ、次の時代の祭祀を執られるのが筋であった。そこを、高市皇子は「草壁皇子は大王位を継いだ日嗣の皇子」と主張した。そのため、神祀りでの草壁皇子の立場の解釈に紛糾した。
 結果、会議は朝廷の主導者であり、次の大王が決まっている高市皇子の主張を取り入れ、草壁皇子を確かな日嗣とし、妃である阿閉皇女は皇后と為した。そのため、草壁皇子の御子、氷高姫王と吉備姫王は氷高皇女と吉備皇女、軽王は軽皇子と定めた。また、皇太后天皇菟野皇女は、改めて、太皇太后天皇菟野皇女と成られた。天皇位は、今後、太皇太后鵜野皇女から皇太后阿閉皇女へと継がれることになる。この主張が入れられたことで、高市皇子は大王への就任を承知した。

 朱鳥五年(690)正月、高市皇子は大王に就いた。そして、その年、播磨、因幡を悠紀、主基の郷に選定し、十一月、大嘗祭を執り行った。その大嘗祭は、草壁皇子の為に整えられた新しい大和の仕儀次第で行われた。そして、そこで中臣寿詞が唱えられた。これから後、この高市大王の大嘗祭の儀礼が大和の慣例となった。
 その正月、飛鳥浄御原宮の大極殿で高市大王を寿ぐ儀礼が行われた。その後、場所を変え、改めて天皇位を継ぐ太皇太后天皇鵜野皇女が祭事を行う西宮で肆宴が行われている。柿本朝臣人麻呂は小錦中(正五位下相当)の身分の殿上人として列席し、巨勢媛は天皇鵜野皇女の付き人として連なっている。後の長屋大王の時代まで、大和の国は祀りを掌る女性の天皇と政事を執る男性の大王とが、朝(祀り)と昼(政治)とに分かれ、国を治めていた。いま、天皇は太皇太后鵜野皇女で、大王は高市皇子である。
 宮中西宮の肆宴で、先の草壁皇子の葬送では朝廷を代表して挽歌を奉げ、今や大和歌の第一人者と称される人麻呂がこの宴の主催者である天皇鵜野皇女を寿ぎ、肆宴の口切となる寿歌を献上した。公の姿の人麻呂は技官系官僚に相応しく、いかにも謹厳で、詠う歌も口調は良いが歌風は堅い。

寿歌の長が歌
葦原 水穂國者 神在随 事擧不為國 雖然 辞擧叙吾為 言幸 真福座跡 恙無 福座者 荒礒浪 有毛見登 百重波 千重浪尓敷 言上為吾

訓読 葦原し 瑞穂し国は 神ながら 事(こと)挙げせぬ国 しかれども辞(こと)挙げぞ吾がする 言(こと)幸(さき)く ま幸(さき)くませと 障(つつ)みなく 幸くいまさば 荒礒(ありそ)波(なみ) ありても見むと 百重(ももへ)波(なみ) 千重(ちへ)波(なみ)しきに 言(こと)上(あ)げす吾

私訳 天皇が治める葦原の瑞穂の国は、地上の神が天皇の許可なくて勝手に人民に意志を伝えない国。それでも、地上の神にお願いを私はします。神との誓いが守られ、幸福につつまれ災いがなく、幸せであるならば、荒い磯に波が打ち寄せるのをみるように百の波、千の波のように何度でも繰り返し、神との誓いを申し挙げる。私は。

寿歌の短か歌
志貴嶋倭國者事霊之所佐國叙真福在与具
訓読 磯城島し大和し国は事霊(ことたま)し助くる国ぞま幸(さき)くありこそ
私訳 志の貴い天皇が治める磯城島の大和の国は、地上の神々が天皇をお助けする国です。だから、人々が幸せであるのです。

 謹厳な人麻呂の寿歌で新たな大王の就任と新年を寿ぐ肆宴は拓いた。やがて、時が進むにつけ、座は打ち解けて来た。そのなか、豊穣を予祝すると云う雪が降って来た。温かい飛鳥では稀事である。しだいに、人々の目が降り積もる雪に向けられた時、人麻呂は新田部皇子を通じてこの席では客になる高市大王に新たな寿歌を歌った。

寿歌の長が歌
八隅知之 吾大王 高輝 日之皇子 茂座 大殿於 久方 天傳来 白雪仕物 往来乍 益乃常世

訓読 やすみしし わご大王(おほきみ) 高(たか)輝(き)らす 日し皇子 しきいます 大殿(おほとの)上し 久方し 天伝ひくる 白雪(ゆき)じもの 往き通ひつつ いや常世まで

私訳 地上をあまねく承知される我が大王の天高く輝やかす日の皇子が統治なされる大極殿の上に、遥か彼方の天空から伝いくる白雪のように、大極殿に行き通いましょう。末永く永遠に。

寿歌の短か歌
矢釣山木立不見落乱雪驟朝楽毛
訓読 矢釣山木立し見えず降りまがふ雪しさわける朝(あした)楽(たの)しも
私訳 矢釣山の木立も見えないほど降り乱れる雪が降り積る、その翌朝も風流なものでしょう。

 宴に同席する天皇鵜野皇女の侍女であり、人麻呂の恋人である巨勢媛は思った。
「麻呂の歌は格調高いが、いかにも堅い。これでは打ち解けた座が、また、かしこまる」
 そうと思うと、媛は「主人(ぬし)太皇太后天皇鵜野皇女の御(かた)らししを短か歌にし、お返しします」と告げ、皇太后の為り代わりとして詠い出した。

返しの短か歌
春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山
訓読 春過ぎて夏来(き)るらしし白栲の衣(ころも)乾(ほ)したり天し香来山(かくやま)
私訳 もう、寒さ厳しい初春が終わって夏の御田植祭がやってくるようです。白栲の衣を干しているような白一面の天の香具山よ

 巨勢媛は人々の目の前に広がる豊穣を予祝する白一面の世界を詠った。その歌の世界は、同じく寿ぎの歌ではあるが、白く雪の積もる姿を初夏の豊穣を願う御田植祭で着る白栲を準備する風景と見做した。
 豊穣を予祝する矢釣山の雪景色を、人麻呂は格調高く、天皇への寿歌として詠う。対する、誰もが知る人麻呂の恋人巨勢媛は、その先の天の香具山の雪景色を想像逞しく初夏の豊穣を願う御田植祭の景色として比喩で軽やかに返した。恋人同士だが、その朝廷での立場に合わせるかのように歌風は違う。宴に参加する人々は、どよめき、やんやの喝采を贈った。

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