竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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明日香新益京物語 プロローグ と 深曽木(ふかそき)

2013年12月08日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
はじめに

 このブログは独特の歴史観の下、空想と妄想で『万葉集』を鑑賞しています。今回、その独特の歴史観を説明するために小話を創りました。このような背景がありますので、この小話は直接には『万葉集』を説明しませんが、想像する『万葉集』の歌が詠われ、編まれた時代を説明するものとして、扱って頂ければ幸いです。
 なお、小話と説明しましたが、時代は斉明天皇の世から元明天皇の世に渡ります。そのため、内容は長編となっています。当然、PVの数値などから評判が悪いと判断しますと、即、取り止めます。まずはしばらくの間、我慢の程をお願いします。

プロローグ

 古、明日香の里に日本書紀では新益京と紹介された王都があった。
 この新益京は日本最初の世界規模の王都であり、少なくとも五キロ四方以上の規模を誇った。つまり、その規模は平城京や平安京を確実に凌駕する。だが、その都は西暦694年から710年までのわずか十六年の間だけしか存在しなかった。そのため、平成の時代になって本格的な遺跡発掘によりその存在が証明されるまでは、第一級の歴史学者を始め、人々はそのような本格的な王都が存在したことすら知らなかった。
 当然、歴史学者は日本書紀に載る新益京の名は知っている。ただ、その新益京とは万葉集の歌に詠われる藤原宮と称する高市皇子の屋敷程度のものと考えた。学者は、その高市皇子の屋敷を万葉集の解釈から明日香の藤井が原に築かれたと推測した。藤井が原は、飛鳥時代、狼が住む真神の原とも呼ばれる香具山の西方、飛鳥川と八釣川とが織りなす湿地帯であった。その地形の制約から、歴史や万葉集の専門家は万葉歌で詠われた藤原宮、または日本書紀に載る新益京とは飛鳥浄御原宮の離宮程度の小規模な高市皇子の屋敷と考えた。
 考古学の発見から確かに日本書紀に紹介される新益京は存在した。だが、その規模は歴史の専門家の想像を遥かに超える古代最大の王都であった。それも万葉集に詠うように藤井が原の大湿地帯に築かれていた。しかし、歴史の専門家は、なぜか、古代史最大の王都である新益京の存在を語ることなく古代大和の歴史を説明する。彼らの大和の歴史は飛鳥浄御原宮時代から、いきなり、前期平城京時代へと移る。そのため、多くの万葉集の歌が詠われた古代最大の王都、新益京は抜け落ちた。また、大和盆地に広がる大湿地帯から、如何に、古代史最大の王都である新益京が築かれたかを語らない。大規模な王都は、文学者の想いとは違い、確かな科学技術の裏付けとと確固たる財政基盤があって、初めて実現する。日本史最初であり、かつ、空前絶後の古代史最大の王都建設には、我々の想像を超えた社会の大変化があったはずである。しかし、なぜか、歴史の専門家と云う人々は語ることを避ける。さらに、国文学では明治来の伝統からか、この新益京が存在しないことを前提として歴史を解釈し、万葉集などの作品を鑑賞する。また、日本語表記では重要な問題である真仮名や短歌のもととなった大和歌などは新益京時代に急速に整備されたが、文学者はその新益京時代を語ることをしない。あくまで、飛鳥浄御原宮時代と云い張る。
 ここでは歴史学者や文学者が示すそのような正統な大和の歴史を離れ、平城京をも凌駕した古代最大の王都である新益京が建設された時代を、その時代に生きた万葉集最大の歌人柿本人麻呂とともに物語したいと思う。
 なお、この物語で「大和」の言葉が使われるときは東北南部から北部九州までの日本を意味し、「倭」は奈良盆地に広がる地域を指すものと理解してほしい。


深曽木(ふかそき)

 白鳳十年(657)春、
 三笠山の麓、春日の里にある春日臣の屋敷で山辺に本貫を持つ春日和邇一族の大人どもが集まって、なにやら談合を行っている。
 その内に長老格の老人が話を切り出した。
「おい、そろそろ、高市皇子の深曽木の時期じゃのう」

 深曽木とは、高貴な身分の幼児の成長儀礼の内、五・六歳頃に三歳の髪置の儀礼の時から伸ばし始めた髪を一度整え、男児と女児とを分ける儀礼である。男児はこの頃から乳母から手を離れ、男子としての教育が始まる。

「そうだのう、もう、五歳になられるか。先の大王の難波宮の騒動の時の児じゃからのう」
「難波宮の騒動から、もう五年か。早いのう」

 この難波宮の騒動とは白鳳六年(653)に起きた軽大王(諱、孝徳天皇)と倭の豪族どもとの政治対立事件を云う。
 その騒動の時、半島不干渉派の軽大王と百済支援派の豪族どもが朝鮮半島の経営問題で衝突し、倭の豪族どもが先の皇后、宝皇女を担いで、軽大王の難波朝廷とは別の飛鳥朝廷を立てた。結局、倭の豪族どもからの支持基盤を失った難波朝廷は立ち枯れ、軽大王は失意の下、亡くなった。
 高市皇子の父親、大海人皇子は騒動の前に新羅伽耶との鉄の交易を学ぶため、叔父となる軽大王から命じられ海上交易を執る筑紫宗像に出向いていた。この時、皇子は土地の支配者、宗像県主宗像君徳善の娘、尼子娘を室に入れ、その尼子娘はすぐに児を孕んだ。その大海人皇子は、騒動の最中に母親である先の皇后、宝皇女と兄、葛城皇子に飛鳥に呼び戻された。呼び戻された皇子は妊娠中の尼子娘を連れて飛鳥に戻り、尼子娘は倭で男の児を産んだ。その児が高市皇子である。

「おい、話は高市皇子の深曽木じゃ。難波の物語は後からせい」
 春日の長老が今日の話題を云う。
「さて、皇子の深曽木じゃが、皇子の母親は額田姫王とは違い、筑紫の宗像の者。この倭に寄る辺がおらん。同じ市杵島媛を祀る一族として、吾ら春日一族から、誰か、皇子の供柄を出さんといかんだろうて」
 ある大人がそれに答える。
「親の大海人皇子は末の大兄で、まず、大王になる目はないが、知らん顔も出来んだろうなあ」
「高市皇子はその末の大兄の児で、母親の尼子娘は筑紫の宗像じゃ。なんぼ、大海人皇子の最初の男の児と云うても、やはり、高市皇子では先の楽しみはないのう。まだ、倭の額田姫王の御子、十市皇女の方が、女の分、末の楽しみがあるわい」
小野の長老がなだめる、
「そう云うな。高市皇子に先の楽しみが無いと云うて、同じ市杵島媛を祀る吾ら春日一族が知らん顔も出来んであろうが。それで、今日の談合じゃ。皇子に楽しみがあれば、皆に談合する前に、それぞれが勝手に皇子に供柄を出すであろうが」
「小野の長老の云うのも、もっともじゃ。確かに、先の楽しみが無いからの談合じゃなあ」
「で、小野の長老。長老の腹はなんぞ、披露してくれい」
「よし、云うぞ。柿本の児、比等が良かろうと思う。比等は、今年、確か十歳じゃ。高市皇子が五歳なら守りと遊びの供柄にちょうど良いであろうて」
「ううん、柿本か。そりゃ、いい案じゃ」
「そうじゃのう、柿本とは、妙案じゃ」
 己が一族の名を呼ばれなかった大人どもは、ほっとしつつ、即座に口々に賛同の声を挙げていた。一方、その時、春日一族では小族となる柿本一族の長、柿本鮪(しび)は広間の一番隅でいつものように他人事のように話の成り行きを聞いていたが、小野の長老がよりによって己が柿本を指名したことに、鮪はあわてた。
「おい、待て。我が子、比等か。なんぞ、この小さな柿本一族が高市皇子の守り役をせねばならん。他の大きな一族の者がおろうが。それに、そもそも、吾ら鍛冶を生業とする一族では、なんぼ、先が楽しみな皇子の守り役としても、割に合わん。同じ春日一族でも武士(つわもの)や政治(まつりこと)が得意な臣がおるではないか。それが、よりによって、この柿本の務めが高市皇子か」
「鮪よ、そう、云うな。主の柿本一族は倭の鍛冶一族であろうが。高市皇子の宗像も韓伽耶鍛冶の供柄を使う一族じゃ。ここは、同じ鍛冶一族として引き受けよ」
「それに、宗像韓鍛冶どもが宗像の母御尼子娘につれられ倭にきて、高市の里で鍛冶をしているではないか。今、己らと縁があるであろうが」
「おお、確かに縁はある。じゃが、同じ鍛冶一族なら、小野も同じであろうが」
小野の長老が柿本鮪をなだめながら答えた。
「鮪、主も知るように吾の小野だと年頃の児は娘じゃ。年頃の男子は主の処の比等だけじゃ。神の定めと思うて、受けよ」
 他の大人たちは高市皇子の守り役から逃げられ、ほっとして、小野の長老に加勢する、
「そうじゃ、鮪。児の年頃が合うのは、きっと、神の定めじゃ」
「くそ、仕方ない。この柿本が引き受けるわい。ただ、良き目が出ても文句は云うなよ」
「鮪、良い心がけじゃ。もしもじゃ、良き目が出たら、主の児、比等を吾らの長老としようぞ。昔、我が小野妹子が吾らの長老となったようにな」
「小野の長老。あまり、柿本に期待を持たすな。筑紫宗像の娘の子、高市皇子に良き目があるはずがないわ」
「櫟本、そこまで云うな。せっかく、柿本が高市皇子の守り役に比等を出すと約束したのじゃ」
「鮪。大海人皇子には、春日とこの小野から『高市皇子の深曽木には春日一族から柿本臣鮪の児、比等を守り役に馳走する』と申し上げる」
「後のう、柿本の苦労賃として、それそれが布二端(むら)を春日の長老に収めよ。吾ら、それを集めて柿本に渡す。よいか」
「苦労賃か、仕方ないのう。柿本は馬や小者などで物入りがあろうからのう」
春日の長老が念を押す、
「鮪。もう、苦情は云うなよ。吾らも柿本を支える」
「春日の長老と小野の長老が、そこまで考えての定めなら、もう、苦情は云わぬ」
「よし、今日の談合はこれで決まりじゃ。皆、御苦労であった」

 春日和邇一族の大人どもが守り役を押しつけ合うように、高市皇子は太皇太后天皇宝皇女(諱、斉明天皇)の御子、大海人皇子の長男とは云え、母親の尼子娘は筑紫の豪族宗像氏の娘である。倭の豪族から見れば貢ぎの女のような立場である。また、大海人皇子の実兄葛城皇子も、斉明天皇の補佐の立場ではあるが、大王位を継いでいるわけでもない。軽大王(諱、孝徳天皇)が崩御されてから三年に為るが、未だ、後継大王位は空位のままである。葛城皇子が倭の豪族どもの中で絶対的な支持を受けている訳でもない。その為、高市皇子の父、大海人皇子の立場もまた、不安定である。
 さらに倭の習いでは、例え、貢ぎの采女が大王の御子を産んでも、身分は諸王で大王位を継ぐ、大兄の称号(後の皇子や親王)は与えられない。この物語では高市皇子と称するが、母親の血筋からすれば本来なら高市王と称してもおかしくはない。その為、春日和邇一族の大人どもは高市皇子の将来を順当でもわずかばかりの領地を与えられる倭の諸王と想像している。しかし、その皇子に守り役を出せば、守り役本人とその一族は高市皇子と一蓮托生の関係となる。そして、一度、諸王相当の高市皇子と一蓮托生の関係ができれば、簡単に主人を乗り換える訳にもいかない。それで春日和邇一族の大人どもは高市皇子の守り役を嫌がった。

 倭、布留の里、柿本臣鮪の屋敷にその柿本臣鮪が帰ってきていた。
「やい、比等と訳語の陲叡を呼べ」
「臣、春日での談合からの御帰りで」
「見れば分かる。ぐずぐず云うな。早く、呼べ」
 日ごろの温厚な鮪とは違い、今日はひどく機嫌が悪い。
 しばらして、その鮪の長男比等とその比等の語学教授である訳語の綾部陲叡が、そろって屋敷の表の広間に顔を見せた。
「やい、比等と陲叡。己ら、この夏から鳥見山の高市皇子の屋敷に、毎日、ご機嫌伺いに行け。良いか、分かったか」
「父君、なんじゃ、急に。今日は、ひどく、機嫌が悪いのう。吾が、何か、悪しきことをしたか」
「それに、吾は、この里での野遊びに忙しい。川で魚や貝を採らねばならん。なんぞ、鳥見山まで毎日行かねばならん。それは出来んぞ」
「比等、ぐずぐず、云うな。己はこれから高市皇子の守り役を兼ねた遊び相手じゃ。毎日、高市皇子の屋敷に行って、遊んでやれい」
「吾が、あの鳥見山の皇子の相手か。で、皇子の年はなんぼぞ」
「五歳じゃ」
「小さいのう。その小さい皇子を連れて遊べばよいのじゃな」
「そうじゃ、遊びに連れて歩けば良いのじゃ。ただし、溺れたり、手がもげたりするようなことはさせるなよ。己は守り役じゃ。それと己の目付に訳語の陲叡を付ける」
さらに柿本鮪は、不機嫌なまま、どなるような口調で陲叡にも命じた。
「陲叡、これからはな、皇子と比等との遊びの目付じゃ。分かったか」
 聡い陲叡は事情が判った。柿本は春日一族の大人どもに高市皇子の守り役を押しつけられたと思った。その陲叡は、実に困った顔をして柿本鮪に無心をした。ひょっとすると、騎馬の士になれるかも知れんと思った。
「臣、吾は馬を持っておらんし、それに馬にも乗れん。ただ、馬を使わねば、鳥見山の高市皇子の屋敷に、毎日、通うのは無理じゃ」
「それぐらい、判っとるわい、陲叡。ぐたぐた、ぬかすな。己に馬とその世話役の小者の価を遣わす。すぐに、習え」
「え、臣。今来である綾部の吾が馬に乗っても良いのか。山辺の里者から『綾部が馬に乗っておる』と、苦情は来ぬのか」
「これは春日と小野の長老の定めじゃ。己が馬に乗っても、どこからも苦情は来ぬわ。それに大海人皇子の御子、高市皇子の守り役じゃ。他の大臣達からも、苦情は来ん」
陲叡はうれしさを隠すため「へへ」と平伏した。その平伏のまま、答えた。
「臣。有難き御沙汰。さっそく、馬を習いまする」
「比等、己も馬にきちんと乗って行け」
柿本比等も、父、柿本鮪と陲叡の遣り取りを聞いて、同じように無心をした。
「馬なら、乗れるわい。ただ、吾の馬をくれ、人の借り物では毎日は乗れん」
「くそ、えらい物入りじゃ。比等。己の馬を、宛がうてやるわい」
 いきなりの物入りに柿本鮪は、がっくりした。どう、考えても銅の鍛冶一族である柿本一族は、高市皇子の守り役を行っても将来の一族の希望が見えない。ただ、物入りだけが勘定された。
「もうよい、己ら、行け」

 父親の代に新羅伽耶から帰化してきた綾部一族の陲叡は喜んだ。今来の渡来人であり、織物に関わる職人系と目されている綾部と云う部民の立場では簡単には馬に乗れない。それに増して、唐や百済の語学を教授する訳語と云う職業の綾部陲叡は武人では無い。つまり、馬に乗る特別の理由もない。
 当時、倭では騎馬の士は、ある種、社会のステータスである。それが、今、陲叡はその馬に乗れる立場となった。また、肝心の馬も貰える。さらに、大海人皇子の長男の高市皇子の守り役を行うことは、場合により、私奴のような使用人の立場から抜け出せるという、将来の希望が持てる。主人の柿本鮪にとっては、嬉しくもない物入りだけであるが、訳語の陲叡には盆と正月が一度に来たような運の良さである。
 一方、柿本比等にとっては、迷惑な話である。勝手気ままに野遊びしていた立場から、貴人の子の守り役である。ほぼ、一生、高市皇子の家来となることが決まったようなものである。専用の馬を貰えるのはうれしいが、やはり、銅の鍛冶一族である柿本一族の長男として、将来、朝廷に出仕するのではなく、里で一族の長として気ままの方が良い。

 白鳳十年(657)初夏、高市皇子は大海人皇子の手により深曽木の儀礼を行った。高市皇子はこれから母方のものや壬生である高市県主の女達の手を離れ、大海人皇子の指示の下、男たちの手によって王族の男児として養育が行われることになる。

 鳥見山の麓の高市皇子の屋敷で、皇子と柿本比等と付き添いの陲叡の対面が行われていた。高市皇子には既に大海人皇子から書首根麻呂と村国連男依とが付けられている。皇子の養育において、書首根麻呂は学問を担当し、村国連男依は武門を担当する。そして、柿本比等は皇子の遊び相手であり、野遊びでの用心棒のような役割を分担することになる。
「己が柿本臣比等か、吾が高市じゃ。母君から話を聞いた」
「母君が、これから柿本臣比等が付き添っていたら里遊びをしても良いと云うた。吾は今までこの屋敷から出たことがない」
「さあ、吾を里遊びに連れて行ってくれ。さあ、早く。吾は、すぐにでも、この屋敷を出て、外で遊びたいのじゃ」
 皇子は外遊びに急いていたが、柿本比等は教えられたように挨拶をした。
「皇子、吾が柿本臣比等で、こなたが訳語の陲叡です。お見知り置きください」
「さて、皇子。これから吾らを比等と陲叡と呼び下され。そうでないと、野遊びは出来ん」
「よう分かった。比等、陲叡、と呼べば良いのじゃな」
「さあ、比等。野遊びじゃ」
「皇子、今日は駄目じゃ。皇子と吾が、もっと知らねば外へは出られん。それに、皇子は馬に乗れるのか」
「吾は馬を持っておる。父がくれた。じゃが、馬には乗れん」
「そうか、皇子。今日はな、庭で吾と一緒に吾の馬に乗れ。それが慣れたら野遊びじゃ」
「馬に乗せてくれるのか、乳母は小さいからまだ駄目じゃと云うておったが、ほんとに良いのか」
「皇子は男じゃ、吾と一緒なら乗れる」
「男依、吾は比等と一緒に馬に乗って良いか」
「皇子、比等と一緒に乗りなされ」
 村国男依は柿本比等が馬に乗って高市皇子の屋敷にやって来たとき、その乗馬の技をみていた。まだ、十歳だが、日頃、馬に乗り慣れているのか馬を十分に乗りこなしている。それに、比等の乗る馬は武人の乗る馬とは違い、子供が乗る馬として荷馬が与えられており、おとなしい。
 庭で、最初に比等が己の馬に乗り、その懐に高市皇子を抱き挙げ、馬を歩かせた。しばらして、比等は皇子に手綱を握らせた。皇子は大人の肩車よりも高い目線で馬を歩かせるが、ひどく怖がりもせず、次第に慣れていった。乗ったり、降りたり、馬に触ったりして、その日は終えた。
「比等、明日もきっと来い。吾は比等が好きじゃ。きっと、明日も来るのだぞ」
「皇子、吾は明日も必ず参ります。約束は違えませぬ」

 夏の盛り、懐に皇子を抱えた比等が馬に乗り、後ろに同じく馬に乗った陲叡を従えて、阿部から忍坂の里を行く姿がよく見られるようになった。
 時には、小川の石の裏に手を入れ、魚を捕まえる。また、淵で泳ぐ練習をする。山ではヤマモモやスイバを口に入れ、竹や木々の若芽や野草を採る。野では比等の後ろを皇子がガキ大将に従うかのように追い、遊ぶ。屋敷内とは違い、野遊びでは主従が入れ替わったかのようだ。
 秋から冬の狩りの季節は、村国男依が皇子に狩りを教えた。男依は小者に皇子を背負わせ山を駆け廻り、勢子と犬とで猪や鹿を追い立てる。その人の差配を皇子に見せる。男依の教える狩りは、皇子が実際に獲物を弓で獲ることより、皇子に狩りでの人の扱いや人と同じ程の大きな獣を殺す姿を見せることに主眼がある。それが、戦を指導する王の姿に繋がる。さすがに年若い比等や訳語の陲叡にはこれは教えられない。

 皇子が七歳になった頃から日常的に書根麻呂が学問を教え始めた。そして、同時に村国男依が弓や太刀を教え始めた。比等はその授業の邪魔にならぬように三日に一度程度に皇子の屋敷に通うようになった。その間、比等もまた、己の学問と鍛冶一族の習いを学んだ。



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