竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 壬申の乱 佐和山の決戦

2014年03月02日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
壬申の乱 佐和山の決戦

 八日の朝、中軍将軍の蘇我果安は息長横河の戦場から逃げ延びて来た将と兵を集め、その兵員を調べた。五日の朝、一万六千で出陣した軍団は一万二千まで減り、多くの武器・甲冑が失われていた。結果、蘇我果安の兵団の性格は変わった。以前は美濃・伊勢討伐軍であったが、今、近江防衛軍のような姿になった。
 近江防衛軍となった、今、敵軍が東山道を使い大津宮へと向かう時、不破関の次の要所は彦根の佐和山である。果安はここに防衛線を築いた。近江国の淡海南岸は佐和山を抜け西南方面に出ると平野が広がり、防衛は困難になる。ここ、佐和山の隘路を高市皇子軍に突破させるわけにはいかない。

 この八日の時点で、蘇我果安は倭で反乱が起き、その鎮圧に手を焼いていること。また、伊賀国は大海人皇子の軍勢で制圧されていることを知った。今、この近江戦線への新たな援軍は早急には期待できないと思った。まず、ここで高市皇子軍を止める。その間に、倭の反乱が収まれば、伊賀国を倭と甲賀との二方面から攻める。そのためには今の近江朝廷には時間がいる。果安は覚悟を決め、陣を固めた。
 当時の佐和山の地は、佐和山を中心に俯瞰すると、西に淡海があり、北麓に筑摩(つくま)江、南麓に松原内湖が広がっていた。東山道はその東麓に鈴鹿の山並みと挟まれる形で走っている。つまり、大軍で東山道を移動するとき、この佐和山は天然の要害となる。
 蘇我果安は、この佐和山の東山道の街道筋に陣営を置いた。この地を死守する。そして、体制を整え、再度、高市皇子の兵を攻める。その果安軍の前線を率いる秦友足は、街道を挟む左右の山に兵を置き、陣地を構築した。今度は息長横河での戦いとは逆の立場になる。近江朝廷軍が防衛陣地を築き、高市皇子がそれを攻撃する。兵の数では近江軍は高市皇子の軍を遥かに越える。今、蘇我果安が率いる一万二千に山部王の八千、羽田公の二千を加えれば総勢二万二千、対する高市皇子は鈴鹿から伊吹の山々の峠で警備にあたっていた兵に坂田公の兵を加えても一万八千である。高市皇子は、武装が劣り、陣地防衛する近江軍より少ない兵で、その近江軍を攻撃する。高市皇子にとっての救いは勝ち戦の勢いに乗っての追撃戦であり、先の戦いで潰走した近江軍が残した武器で補強が進んでいた。また、時間の制約で蘇我果安の佐和山の陣屋はにわか作りであり、本格的な防衛陣地ではない。それに潰走の影響で武器も不足していた。

 九日朝、高市皇子は時を置くことなく村国連男依に攻撃を命じた。男依は和珥部臣君手を街道筋の主攻部隊長に、北近江を本貫とする胆香瓦臣安倍を鈴鹿の山並みからの助攻部隊長として配置した。高市皇子の軍にとって、この佐和山の攻防戦は農夫たち雑兵の戦いではなく、弓や太刀が得意な勇者たちの戦いとなる。
 その前夜、坂田公が率いる地場の豪族たちが小舟で浅川から佐和山の南麓に密かに侵入していた。そこには果安の兵はいなかった。坂田雷の勇者たちは勝手知る地の利を生かし、夜明け前の薄暗い闇の中、弁天山から佐和山の山頂へと辿り着き、さらに嶺筋を南下し、東山道の街道筋が見える位置まで進出した。まだ、果安の兵には見つかっていない。そこで干飯と水で飯を食いながら刻を待った。
 夜明け、胆香瓦安倍の部隊が、街道が見え隠れする鈴鹿の山並みの林の中を行く。林の中では矢は威力を発揮しない。勢い、遭遇戦の太刀での戦いとなる。獣を狩るように勇者とその小者との連携が生死を決める。北近江の勇者とその小者で編成された胆香瓦安倍の部隊は獣を狩るように果安の兵を狩った。
 次第に東の山手に陣取る果安の戦線が南に退く。街道筋の戦線と山手との戦線に段差が出来、そこが弱点となった。その陣形の段差に気付いた和珥部君手は東の山手から弓部隊を追撃させ、街道筋の防衛隊長秦友足が率いる陣目掛けて弓手に攻撃を命じた。
 早朝からの街道正面に陣取る和珥部君手との矢合わせで忙しい秦友足は新たな東の山手からの攻撃に苦戦した。近江軍を指揮する蘇我果安はここが辛抱のしどころとばかりに予備の手勢を投入し、街道筋の戦線と山手との戦線に生じた段差を埋めていった。
 近江朝廷の将軍果安が怒鳴り立てた。
「やい、者ども、ここが辛抱のしどころぞ、右手の山を押せ。今少し押せば、敵は包まれ、潰れる」
「それ、押し出せ」
 果安の督戦に前線の隊長秦友足は街道筋の弓部隊を部下に任せ、新たに果安から得た応援の勇者を率い、右手の林の中に飛び込んで行った。応援を得て優位な人数となった秦友足の部隊は胆香瓦安倍の勇者たちをじょじょに押し返した。それにつれ、山手の胆香瓦安倍の弓手もじりじりと北方へ引いて行った。
 手持ちの手勢を出し切った蘇我果安は街道筋の矢合わせの前線まで出てきて、兵を叱咤・激励した。
「敵の足は止まった、今ぞ、押せ」
「右の山手の逃げ出した弓手を射よ、勝負は今ぞ」
「やい、者ども、前に出るぞ」
 蘇我果安と秦友足は、街道筋の兵をじわりじわりと北へと押し出す。同時に果安は息長横河の戦いで手傷を負い後方に居る巨勢比等に使者を送った。
「山部王の手勢で後詰をされたし、吾等は前に出る」
「今日、高市皇子を潰し、仇を取る」
 伝令を受けた巨勢比等は後詰の依頼と確認のため、犬上川西岸に陣取る総軍将軍である山部王の本陣に駆けた。

 日が上がり、強い夏の日差しに淡海特有の風が吹く。いつもそうであるように風は南西から北東。街道筋を北へと流れる、その風に乗り、佐和山東麓の街道筋を南から北へと攻める蘇我果安の弓手の矢距離が伸びる。その差が戦いの前線を北へ北へと押しやる。
 劣勢な高市皇子と村国男依は、和珥部君手が率いる弓部隊の矢合わせの前線まで出てきて勇者たちを叱咤する。それでも、矢距離の差に押される。ただ、救いは兵の数に劣る山手の胆香瓦安倍の勇者たちは、やっとのことで踏みとどまり、一進一退の攻防を繰り広げていた。次第、刻の経過とともに戦線は街道筋だけが北に押し出た出ベソのような形となって来た。
 佐和山に潜む坂田公雷も、この戦況では飛び出すのを躊躇する。今、下手に飛び出せば、兵の数が少ない坂田公雷の兵は周囲を包まれ全滅する。坂田公雷の狙いは敵が浮足立った、その刹那を突撃・撃破する。少数精鋭の坂田公雷の部隊は、じりじりしながら、街道筋のその戦況の推移を見詰めていた。
 昼下がり、中軍に待機していた巨勢比等が騎馬兵を率いて、前線に出て来た。巨勢比等は蘇我果安を呼び寄せ、小声で話し掛けた、
「果安、羽田の奴らの様子がおかしい、奴らはこの前線に出て来ん」
「それで、大将の山部王が動けん」
「山部王は『兵を出し、裸になったとたんに羽田に裏切られたら、それで仕舞じゃ』と云う」
「比等、それも、そうじゃ。北近江の連中は、皆、敵じゃ。こうなっては、羽田も信用ならん」
「果安、それで我が巨勢一族をこぞって、ここに戻って来た。吾は騎馬で突進する。今、ここで高市皇子を潰さねば、逆に我らの兵が持たん」
「おお、巨勢臣。今、吾は敵を押している。突進すれば勝てる。比等、頼む。突進してくれ」
巨勢比等は敵陣を睨みつけ、果安に云う、
「ここで負ければ、大友王の朝廷は終わりじゃ。我が命を賭けてもそれはさせん。吾は突っ込む」

 果安は秦友足を呼び寄せ、太刀使いの勇者を掻き集めた。それらを巨勢比等の騎馬隊の後ろに控えさせた。そして、その体制が出来た途端、果安が前線の弓手の部隊を、ぐっと、押し出した。その勢いに押され高市皇子の弓手の部隊がわずかに退いた。
 その瞬間が勝負を分け、蘇我果安は勝つはずであった。
 高市皇子の弓手の部隊が退いた瞬間、それを見た巨勢比等の騎馬隊と秦友足が率いる抜刀の勇者たちが高市皇子を目指して、怒号を挙げ、駆けだして行った。およそ、弓部隊の後方から二町弱の距離を駆け抜ける。それで勝てるはずであった。巨勢比等と共に決死隊となった巨勢一族の騎馬隊と抜刀の勇者は敵陣に飛び込み、そして、戻って来る。それだけで皇子の弓部隊の陣形は崩れ、果安の弓手の餌食となる。確かにそのはずであった。
 対する高市皇子もまた鬼の形相の巨勢比等が率いる騎馬隊の突進をみて、負けると思った。手持ちの兵はこぞって、この佐和山に来ている。ここで負ければ、不破で踏み止まることも難しい。

 不思議が起きた。ここで負けるはずの高市皇子を大和の神が助けた。
 佐和山の夏、年に一度か二度、雷雲に伴って東北東からの二十メートルに近い突風が吹く。その偶然の突風が巨勢臣比等の突貫の最中に佐和山一帯を襲い、吹き抜けた
 万葉集の中に柿本朝臣人麻呂が詠う高市皇子の挽歌の一節につぎのようなものがある。

原文 不奉仕 立向之毛 露霜之 消者消倍久 去鳥乃 相競端尓 渡會乃 齊宮従 神風尓 伊吹或之 天雲乎 日之目毛不令見 常闇尓 覆賜而 定之
訓読 奉(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜の 消(け)なば消(け)ぬべく 行く鳥の 争(あらそ)ふはしに 渡会(わたらひ)の 斎(いつ)きの宮ゆ 神風(かむかぜ)に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇(とこやみ)に 覆(おほ)ひ賜ひて 定めてし
私訳 従わずに立ち向かって来た者は、露や霜が消えるなら解けて消えてしまうように、飛び行く鳥のように乱れ争うときに、度会で神祀りする神の宮(伊勢皇太神宮=大海人大王のこと)が起こした神風で賊軍を吹き惑わせ、天の雲で太陽の光も見せないまでに真っ暗に覆いなされた

 大海人皇子に従い、壬申の乱を戦った人々も、これは神佑で勝ったと思うほどの、偶然の出来事であった。
 巨勢比等の騎馬隊が駆ける最中、空は俄かにかき曇り東北東から猛烈な突風が吹き付けて来た。袋状になった佐和山の東山道の街道筋は、さらに突風が強まる。その猛烈な突風に巨勢比等が率いる騎馬隊の馬は怯え、足が止まった。そこを、突風を背に受け視界を保った高市皇子の弓手が射、その風に乗った矢が騎馬隊を襲った。巨勢比等の騎馬隊と秦友足が率いる抜刀の勇者たちは正面からの土埃を伴う突風に対抗するため走りを止め、思わず体を前に倒し、顔を伏せた。それが生死を分けた。
 その様子を見た坂田公雷の部隊が、土煙りと共に走り来る疾風に乗って佐和山から駆け下った。予想外の佐和山からの襲撃の怒声に蘇我果安は左手の丘を見上げた。果安の体が左手に向いた途端、坂田公雷の突貫の怒声に呼応するように鈴鹿の山手からも胆香瓦安倍の勇者たちもまた山を駆け下り、街道筋の果安の陣を襲った。さらに、高市皇子の陣営から出雲狛が騎馬兵を率いて街道筋の近江兵を目掛けて突っ込んで来た。
 押しに押して街道筋を出ベソのように突出していた、果安のその突出部が高市皇子の兵に呑まれ消えて行く。それを見た佐和山に陣取っていた果安の兵は松原内湖へと逃げ、山手の兵は鳥籠山から犬上川へと逃げた。そこには山部王の本陣がある。そこまで逃げれば、助かる。その思いで、近江朝廷軍の兵は逃げた。

 だが、その時、犬上川西岸の本陣は姿を消していた。
 最初に後軍将軍であり総軍将軍である山部王とその子石川王が逃げ、それを追うように羽田公一族が消えた。日本書紀はこの状況を次のように記す。

「山部王為蘇賀臣果安・巨勢臣比等見殺」
訓読 山部王は蘇賀臣果安と巨勢臣比等とを見殺しと為した

 確かに巨勢比等の騎馬隊の突貫の前、山部王の後詰八千の兵が前線へと動いていたら、巨勢比等と蘇我果安は突貫することなく兵力の差でゆるゆると高市皇子の兵を圧迫し続けていれば良かった。その圧迫が丸一日続けば、交代の兵を持たない高市皇子軍は自壊する。だが、歴史は、総軍将軍山部王も中近江の豪族羽田公矢国も共に巨勢比等や蘇我果安への救援について沈黙を保ち、何も語らない。
 壬申の乱の後、この総軍将軍を務めた山部王の子、石川王は、壬申の乱の折、近江朝廷が放った刺客に殺された吉備総領であった当摩公広嶋の後を継ぎ、新たに吉備総領と播磨国守を併せた新官職である吉備太宰と云う重職に就いた。勝軍将軍への報奨にも等しいこの大抜擢もまた、後の世の「見殺し」と称する疑惑の一因となった。

 本来なら近江朝廷軍はこの佐和山の戦いでは勝つはずであった、しかし、戦いの決定的な場面で大和の神々は高市皇子を祝福した。そして、この不思議が大和の人々に高市皇子は神々が祝福した御子として、後々までも記憶に残り、その高市皇子の葬送では柿本人麻呂がこの場面を下に壮大な挽歌を詠うこととなった。

 敗軍の将となった蘇我果安は、息長横河の戦いで手傷を負い、この佐和山の戦いでも矢を身に受けた巨勢比等を探しだし、やっとで馬に載せ、大津宮を目指して駆けた。敗軍の将の責任で、一刻も早く、佐和山で近江朝廷の正規軍全軍が壊滅した事を告げなければならない。あとは、野洲川の畔で甲賀や伊賀の住人である百済人を頼りに防衛戦線を敷くしか手はない。そのためにも、蘇我果安は大津宮を目指して駆けた。
 翌十日、歴史はその大津宮で美濃・伊勢討伐軍の壊滅の報告を終えた果安は自殺したと伝える。

 壬申の乱は、この佐和山の戦いで峠を越えた。
 その九日の夜、羽田公矢国と其子大人(うし)たち、羽田一族が高市皇子に投降して来た。皇子は羽田一族を許した。ただし、その本貫の里(八日市羽田)に戻ることなく、ただちに淡海北岸を南下して大津宮を攻撃することを命じ、その目付けに出雲狛を付けた。皇子は目付けとして付けた出雲狛に羽田公矢国に不穏なことがあれば、殺せと命じた。投降を許された羽田一族の勇者たちは、直ちに佐和山の松原内湖にある湊から琵琶湖の対岸にある高島の香取の湊に渡り、その高島の三尾城を攻め取り、淡海北岸を大津宮へと南下した。
 その間、高市皇子の軍団は羽田一族の案内で淡海南岸を南下し、十二日には野洲川北岸に進出した。翌十三日、高市皇子の軍団は野洲の鏡で野洲川の渡河に成功した。その野洲川の南岸で防衛線を引いていた近江朝廷の隊長社戸臣大口と土師連千嶋は、小競り合いの後、投降した。
 皇子はこの野洲に軍団を留め、野洲から甲賀を経由した伊賀への連絡を確保した。ここに東山道軍団と東海道軍団の連携がなった。一方、近江軍からすると倭では泊瀬川筋の伊勢街道、都袮越えの奈良街道、泉川筋の東海道からの攻撃に備える必要が生じた。必然、近江軍は倭での攻防戦をあきらめ、宇治川・逢坂山へと防衛線を縮小して行った。その戦況を見た甲賀や伊賀の里に住む百済人は壬申の乱の戦いの大勢が決まったと思った。そして、里の大人どもは抵抗することなく大海人皇子への忠誠を誓い、百済人の里の安堵を願った。

 十七日、高市皇子の軍団は淡海の南のくびれ、草津川に達した。そこで草津と唐崎との淡海を渡る連絡路を守る守備兵を追い払った。継いで、最重要拠点である栗東の鍛冶の里を接収した。幸いなことに製鉄設備も鍛冶たち里人も、乱が起きる前とそっくりそのまま、無事な姿で確保された。鍛冶の里は明日からでも製鉄の作業が再開出来る。
 琵琶湖を挟んだ対岸にある草津川とその湊の攻防戦を見た大津宮は、この日以降、略奪と逃亡により内部崩壊して行った。

 これより先、近江朝廷は最後の反撃の望みを山科の軍団を率いる犬養連五十君に託した。
 十日、犬養連五十君は山科の軍団を二手に分け、一手を平山の丘陵一帯に置き、倭からの大伴連吹負の襲撃に備えさせた。残る一手を率いた犬養五十君は泉川(現在の木津川)を遡り、伊賀の名張への逆襲を図った。
 十一日、犬養五十君の軍は泉川の狭隘地、笠置で星川臣麻呂が率いる里人により進軍を阻止された。星川麻呂の手の者は笠置から伊賀上野へと抜けようとする犬養五十君の軍を執拗に邪魔した。後備との交通を遮断されることを恐れた犬養五十君は伊賀名張への進出を断念した。ここに近江朝廷は最後の望みも断たれた。
 十五日、野洲川の防衛に失敗した近江朝廷は山科に戻った犬養五十君に逢坂山と瀬田の防衛を命じた。倭から近江朝廷の軍が戦線縮小をするにつれ、大海人皇子に集う倭の豪族たちはその支配地域を拡大していった。この時、既に難波大津は陥落し、大海人皇子軍が支配を確立していた。
 その後、二十二日の瀬田の攻防戦を経て、二十三日、近江朝廷の舎人頭物部連麻呂が「太政大臣大友王が自決した」と投降して来た。ここに三十日間に渡った壬申の乱は終結した。高市皇子は大津宮に警備の者を残し、兵をまとめ、美濃国野上へと凱旋して行った。野上には大海人皇子の本陣がある。

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