竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 皇子の御子たち

2014年05月11日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
皇子の御子たち

 朱雀四年(675)、二十一歳となった高市皇子は、裳着を終えた十五歳の御名部皇女を室に入れた。同時に、まだ十三歳ではあるが草壁皇子に一つ年上の阿閉皇女を室とすることが予定された。
 御名部皇女は蘇我姪媛が産んだ葛城大王の御子で、鵜野皇后の従妹となる。また、阿閉皇女は御名部皇女の一つ下の妹である。その娶る妻の高貴な血筋から、人々は大海人大王の後は高市皇子か、草壁皇子かのどちらかに絞られたと想像した。
 朱雀六年(677)、皇太后天皇倭姫王が崩御された。それを受け、皇后鵜野皇女が天皇に即位された。その年の十一月二十三日に、皇后天皇鵜野皇女は天皇を継ぐ大礼を取り行った。この年、四十六歳になられた大海人大王は滋養保健のため、その房中術を伝える中臣家の娘、中臣氷上娘を室に加えられた。

 朱雀六年は大王には忙しい年となった。草壁皇子は十五歳となり、袴着の儀礼を行い、男となられた。草壁皇子の母親、鵜野皇后は皇子の袴着での添い臥に蘇我(そがの)媼子(おほなこ)を充てた。この時、媼子は二十一歳。先の壬申の乱のため、近江朝廷に味方した夫と縁が切れ、飛鳥の里に帰っていた。その媼子を草壁皇子の添い臥として宮内に呼び寄せた。
 媼子はねんごろに草壁皇子を男にした後、飛鳥の里へ帰っていった。皇子はその媼子との交わりを想い出し、媼子へ大和歌を詠った。その時の歌が万葉集に次のように残っている。

大名兒彼方野邊尓苅草乃束之間毛吾忘目八
訓読 大名児(おほなご)を彼方(をちかた)野辺(のへ)に刈る草(かや)の束(つか)し間(あひだ)も吾(われ)忘れめや
私訳 大名児よ。新嘗祭の準備で忙しく遠くの野辺で束草を刈るように、ここのところ逢えないが束の間も私は貴女を忘れることがあるでしょうか。

 その媼子はこの添い臥で身籠り、女の子を産んだ。皇后鵜野皇女は草壁皇子の最初に生まれた女の子の意味合いを下に長娥子の名を授けた。そして、媼子を慈しみ、宮中に置いた。当時の風習で、添い臥は性の交わりに経験ある母方の一族の女から選ばれる。普通、性に経験豊かな女には夫や恋人がいる。このため、父親の特定が困難な古代、添い臥の子は草壁皇子の御子とは見做されない。ただ、落し胤である可能性は尊重する。

 翌朱雀七年(678)、前年の草壁皇子の袴着の儀礼を受け、大海人大王は草壁皇子を皇太子に指名した。その実を天下に示すため、葛城大王の御子、阿閉皇女が草壁皇子の室に入った。この婚姻で、人々は大海人大王の次の大王は草壁皇子に定まったと確信した。
 朱雀九年(680)、草壁皇子の妃、阿閉皇女は氷高皇女を産まれた。
 同じ年、十七歳になった大津皇子が裳着を終えた山辺皇女を娶られた。山辺皇女は蘇我赤兄の娘、常陸娘を母とする葛城大王の御子である。血筋としては同じ蘇我の血を引く高市皇子の室、御名部皇女や草壁皇子の室、阿閉皇女と同等であるが、壬申の乱で外祖父の蘇我赤兄が子孫と共に身を没官され遠の配流に遭っている分、立場は弱い。それに大津皇子の母親、大田皇女は既にこの世になく、大田皇女の実家である蘇我石川は昔、倭の百済派の手によって滅ぼされている。朝廷での政治的後ろ盾は大津皇子の姉である大来皇女を斎王の名目で伊勢国へと迎えた伊勢王だけである。ただ、建て前では大来皇女と伊勢王の間には夫婦の関係はない。あくまで、斎王大来皇女に神主である伊勢王が仕える形を取る。

 この頃、中臣史(後、藤原不比等)が舎人として宮中に出仕した。
 本来、大王の内室や神事采女の管理は内臣が執り、内臣は中臣弥気の家系が代々、継ぐ。その内臣の職務を中臣大嶋と大海人大王が皇子であった時代から皇子の内室を執務していた県犬養連大伴との二人で執っていた。しかし、今、中臣大嶋は神祇官の職務に帝紀の編纂の職務が新たに加わり、忙しくなった。それに、大嶋は妃や夫人に加え宮中での神婚神事に携わる神事采女たち、それら、女どもの扱いが苦手であった。それで、甥の中臣史が二十一歳になったのを機会に、内舎人中臣史に内臣の職務を引き渡していった。都合良く、その中臣史はそのような女たちの扱いに才能があった。
 宮中に出仕した中臣史は、皇后天皇鵜野皇女と中臣大嶋の勧めで、あの蘇我媼子の入り婿となった。その蘇我媼子は中臣史との間に武智麻呂、房前と相次いで産んだあと、房前の出産直後、産褥で亡くなった。結果、中臣史は蘇我から石川へと改姓した石川媼子の家産と長娥子、武智麻呂、房前の三人の子供たちを引き継いだ。奈良時代以降、大和の歴史を左右する藤原家の源がここに誕生した。

 朱雀十二年(683)、草壁皇子の妃、阿閉皇女は軽皇子(諱、文武天皇)を産んだ。
 翌朱雀十三年、高市皇子の御名部皇女が長屋皇子を産んだ。ちょうど、三努王の御子である諸兄王を産んだばかりの県犬養連三千代がこの長屋皇子の乳母となった。そこから、御名部皇女の母親、姪媛と縁が出来た。この縁で、阿閉皇女が朱鳥元年に吉備皇女を産んだ時、同じく、佐為王を産んだばかりの三千代が、今度は吉備皇女の乳母となった。奇しくも草壁皇子の御子と高市皇子の御子との乳母を務めた三千代は、宮中に深い縁が出来た。
 先のことであるが朱鳥九年(694)になって三千代の夫である三努王が大宰師として筑紫大宰府へと下って行った。この時、倭に残された三千代は三努王と縁が切れた。そして、一人身となった三千代は宮中女官として阿閉皇女の傍で仕えることとなった。その朱鳥九年に宮中女官となった時、三千代は二十四歳。まだ、女盛りである。その内、共に宮内に勤める三千代と中臣史とに縁が出来た。そして、三千代は刀自のような立場で石川媼子の家産を継いだ中臣史の妻となった。
 ここに阿閉皇女や御名部皇女の御子の乳母を務めた三千代と宮内の庶務を行う中臣史が結びついた。やがて、この二人は妃や夫人を通じ大和の朝廷に大きな影響を与えるようになる。

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